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旅する百人一首~55番 滝の音は絶えて久しく

滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ 大納言公任

滝の音は、途絶えてから長い時間がたってしまったけれど、名古曽の滝のすばらしい評判は、今も変わらず、世に広がっているなあ
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大覚寺は、もとは嵯峨天皇(在位809~823年)の離宮でした。日本最古の庭池「大沢池」も、離宮を造営するときに造られたそうです。その後、嵯峨離宮は876年に寺に改められ、大覚寺と呼ばれます。

今でも、この池に舟を浮かべ、中秋の名月を愛でた嵯峨天皇の昔をしのんで、「観月の夕べ」の催しがおこなわれています。

大沢池の菊ケ島(左)と庭湖石(右)

大沢池のほとりで上の写真を撮影した場所から、180度ぐるりと体の向きを変えて、北の方を眺めると、藤原公任が和歌に詠んだ、名古曽なこその滝の跡があります。

大覚寺 ホームページより転載
案内板

上の案内板にある、『今昔物語集』の記事はこちら。
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今は昔、百済の川成と云ふ絵師ありけり。世に並び無き者にてありける。滝殿の石もこの川成が立てたるなりけり。同じき御堂の壁の絵もこの川成が書きたるなり。(下略)【今昔物語集巻24-5】
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‥ということは、滝殿(お堂)の庭に、滝があったのでしょうかね。
百済川成は、平安時代初期に活躍し、853年に亡くなりました。

復元された、名古曽の滝の跡

名こそ流れてなほ聞こえけれ

藤原公任がこの地を訪れたときには、すでに滝は流れていませんでしたが、有名な名古曽の滝の跡を見て、〈滝の音が聞こえなくなってしまってから、ずいぶん年月がたつけれど、今もすばらしい場所であることに、変わりは無い〉と詠んでいます。

この歌の下句を解説しますね。
まず、第四句は、"名古曽"の滝と"なこそ"が掛詞です。そして、"なこそ"の「こそ」は係助詞で、結びは「けれ」。過去の助動詞「けり」の已然形ですが、和歌や会話文によく使われる、気づきの「けり」の用法で、〈今まで意識してなかったけど、前からずっとそうだったんだなあ〉という気持ちを表しています。(私は、「古文こそ楽しかりけれ」と思ってほしいですっ)

語句の意味を整理すると、
・「名」は良い評判、名声〈文脈によって、悪い評判のこともある〉
・「名を流す」は、評判を世に広める
・「名に聞こゆ」は、評判が世間に伝わっている。有名である
・「なほ」は、文脈にあわせて〈もとのまま〉〈それでもやはり〉〈さらに・そのうえ〉のように訳すことができます。現代語の「なお」にも近いけれど、別の言葉に置き換えると、意味がよりはっきりしますね。この歌では、以前と変わらず〈もとのまま〉という意味を採用。

道長、公任、行成たちがピクニック

藤原公任がこの歌を詠んだのは、長保元(999)年9月12日、藤原道長たちとピクニックにでかけたときのことだと、藤原行成が日記『権記』に書いています。

内容を①~③に分け、日記の雰囲気を残しながら現代語訳すると、

①早朝、中将[源成信]と牛車に同乗して、左大臣[藤原道長]の邸に参上。左大臣はピクニックにお出かけになる。昨日、左右の衛門督[藤原誠信、藤原公任]、源三相公[源時中]、ならびに私[藤原行成]、右中丞[源道方]とともに約束して、このことがあった。
②それぞれ、おやつやお弁当を用意した。まず、大覚寺滝殿栖霞観に到着する。つぎに大臣[道長]が馬に乗る。同行の我々もそれに従う。大堰川のほとりに着く。式部権大輔[大江匡衡]が、大臣[道長]の命によって、和歌の題を言上する。言うには、「処々に紅葉を尋ぬ」と。その後、道長さまの邸の馬場に帰って、和歌を読む。
③はじめに滝殿に着いた時に、右衛門督[公任]が詠んでいうには、「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」と。

①早朝、中将と同車して左府に詣づ。左府、野望す。一昨、左右金吾、源三相公、幷びに予、右中丞と相約して、此の事有り。
②各、餌袋・破子を調ふ。先づ大覚寺滝殿、栖霞観に到る。次いで丞相、騎馬す。以下、之に従ふ。大堰河の畔に到る。式部権大輔、丞相の命に依りて、和歌の題を上る。云はく、「処々に紅葉を尋ぬ」と。次いで相府の馬場に帰り、和歌を読む。
③初め滝殿に到るに、右金吾、詠みて云はく、「滝の音の絶えて久しく成りぬれど名こそ流れて猶ほ聞こえけれ」と。

書き下し文は、『権記』ビギナーズ・クラシックス日本の古典 倉本一宏編 角川文庫による。

コースをたどってみましょう

行成は、朝早く自分の邸(三条第)をでて、道長さまの邸(土御門邸)に行き、牛車で嵯峨野の大覚寺の滝殿、栖霞観[現在の清涼寺]に行く。そこで馬に乗り換えて、大堰川[現在の、嵐山の渡月橋のあたり]へ。その後、道長の邸に戻って和歌の会。

その行程をGoogleマップに書き込んでみました。

土御門邸で集合。嵯峨へ

現在の京都御所の東の端にある、土御門弟の跡地と案内板

京の町中から大覚寺へ行く道は、「千代の古道ふるみち」と和歌に詠まれています。もっとも古い例は『後撰集』の在原行平の歌。むかし、嵯峨天皇が嵯峨の離宮に通った道をたどって、光孝天皇が芹川(嵯峨を流れる小川。現在の瀬戸川)に行幸した時のことを詠んでいます。

ーー仁和のみかど、嵯峨の御時のためしにて、せり川に行幸したまひける日
嵯峨の山 みゆき絶えにし せり川の 千代のふるみち 跡はありけり(雑一・一〇七五) 
▶嵯峨の離宮への行幸は途絶えてしまったけれど、せり川の流れが変わらないように、むかし帝が通っていた道の跡はまだあったのだなあ

平安時代の貴族にとって、嵯峨野は、嵯峨天皇のころの昔をしのぶ場所でもあったのですね。

千代の古道には、いくつかのルートがあったようですが、さて、藤原道長の一行はどの道を通ったのでしょうか。

京都市埋蔵文化財研究所 千代の古道2
↑ この地図を頼りに、こんど歩いてみよう!

大覚寺 滝殿

大覚寺の大沢池。大覚寺にも立ち寄ったのかな?

栖霞観(清涼寺)

清涼寺は、嵯峨天皇の皇子の源融の別荘でした。

本堂

本堂の中に、発掘された、平安初期の瓦が陳列されていました。じっと見ていると、よだれがでました(垂涎)。

本堂の裏の渡殿を通って、お庭を見ることもできます。

阿弥陀堂の前に、案内板がありました。

大堰川へ

仁王門をでて、川に向かいます。くるっと振り向いて写真を一枚。

JR嵯峨線(山陰本線)の線路を通り過ぎると、人、人、人。え、人力車の数も増えた?(2024年6月22日現在)。川のそばまで迂回ルートがあればいいのになぁ。

と思いながら歩いていると、着いた、渡月橋。桂川の中でも、このあたりを大堰川といったようです。

川岸を西に少し進みます。目的地は「京都・嵐山 ご清遊の宿らんざん」。でも、泊まるわけではなくて(ごめんよ)、建物の西側にある案内板を見に行きます。

『源氏物語』で、須磨・明石から帰京した光源氏は、嵯峨野に御堂を建てますが、そのモデルになったのが、栖霞観(棲霞観とも)。そして、明石の上が姫君とともに上京して最初に過ごしたのが、大堰川のほとりの邸でした。

999年

藤原行成が「滝の音は」の歌を詠んだ、999年は出来事の多い年でした。6月14日に内裏焼亡、帝は一条院に遷ります。定子を内裏に呼び戻したから火事になったのだと、言う人たちもいたようです。そして、11月1日、道長の長女、彰子が12歳で入内、11月7日に女御となります。同じく11月7日、定子が、一条天皇の第一皇子、敦康親王を出産。

嵯峨野へのピクニックは、つかの間の息抜きだったようです。



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