見出し画像

『光る君へ』を歩いてみた~二条大路コース

平安時代の邸宅のサイズ

 かれこれ40年ほど前、平泉の中尊寺に行く途中に立ち寄った毛越寺で、『あ、これが、平安時代の貴族の邸宅の広さだ』と実感しました。
 そのころ私は大学院生で、ずっと平安時代の和歌を研究していたけれど、和歌を詠んだ人々、歌人たちに和歌を詠む場をあたえた人々が、どんな所に住んでいたのか、意識して考えたことがありませんでした。敷地がこんなに広いとは。そういえば、庭の池に舟を浮かべて、楽を演奏させる場面がいろいろな文学作品に書かれていた! 

毛越寺もうつうじ 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58
ホームページに「境内には平安時代の堂塔伽藍を偲ばせる、礎石等の遺構が多数残っています」とある。現在の毛越寺の写真をみると、きれいに整備されているが、40年前は、広い場所に建物の礎石があちらこちらに残っているだけ、いわゆるすっぴんの状態でした(それも好き)。
毛越寺公式ホームページ

京都歴史マニアックツアー2024

 いきなり思い出話から書きはじめてしまいましたが、2024年4月25日に、平安時代の貴族の邸宅の跡を歩く《京都歴史マニアックツアー》を行いました。実際に歩いてみて再確認したこと、貴族の邸宅はやっぱり広い

 市街地を、ただただ妄想しながら歩く、こんなオタクの楽しみ、ひとりで行くしかないやん、と思っていたのですが、大河ドラマ『光る君へ』のおかげか、貴族の邸宅があったところを歩いてみたいと、月1回の古典講座のメンバーからリクエストをもらいました。というわけで、喜び勇んでレッツゴー!

 同じ平安時代の京都でも、在原業平、菅原道真、藤原基経たちの時代の『応天の門』(灰原 薬/バンチコミックス)を歩くのと、『光る君へ』を歩くのと、『平家物語』を歩くのとでは、コースが違ってきます。(『応天の門』ツアーも『平家物語』ツアーも、みんなやってみたい)

これが、ツアーの前半、二条大路コースの私家版地図です。平安京オーバーレイマップをお供に歩きます。

薄紫色は現在の‘通り’とその名称。一部のみ記した。■は石碑のある場所

①JR二条駅 ②大学寮跡

スタートは①JR二条駅。二条城の方に進むと、②大学寮跡の案内板がありました。紫式部(まひろ)の弟、惟規くんが学んでいる大学寮はこのあたり。▶惟規について、こちらに書きました

③神泉苑

二条城の南側に沿って歩いていくと、「平安京跡 神泉苑 西端線」の石碑。

かなり歩いたところに、こんどは「平安京跡 神泉苑 東端線」の石碑。

神泉苑は「東西2町、南北4町」。つまり、西端線と東端線の石碑までの距離が2町ですね。(1町=約120メートル)

しんせん-えん【神泉苑】
平安京大内裏造営の際に設けられた天皇の遊覧用庭園。のち、空海が善女竜王をまつってから雨乞いの修法の場ともなった。現在、京都市中京区に苑池の一部が残る。

デジタル大辞泉

現在の神泉苑にも立ち寄りました。「現存する部分は,かつての苑地北東の一部であり,旧規の6%ほどにすぎない」(世界大百科事典)とあります。え、これで6%! ツツジがきれいでした。

④二条大路と二条通り

地下鉄二条城前駅の連絡通路には、地下鉄工事にともなう発掘作業で出土した遺物が展示されています。もとの神泉苑にあった船着き場の遺跡もどーんと置いてありました。

地下鉄の6番出口から地上にあがり、二条城を左、ANAクラウンブラザホテル、ホテル ザ ミツイ キョウトを右に見ながらすすむと、前方に二条通りの看板。(2つのホテルは、堀河院の上に建っている)

現在の二条通りは狭い道ですが、平安京の二条大路は、大内裏の正面を通るメインロード。二条大路の両側は一等地で、藤原氏の邸宅が建ち並んでいました。

歴史マニアック(妄想)ツアーで、今回わかったこと。ルートを探すポイントは、平安京の大路、小路と現在の”通り”の違いを確かめる。道の名前も、位置も、幅もけっこう違います。

もう一度、私家版地図

⑤陽成院は『源氏物語』二条院候補地

『源氏物語』で源氏の君は、若紫(のちの紫の上)を里邸である二条院に連れてきて、西の対に住まわせました。『源氏物語』では邸の印象が、若紫の視点で、このように書かれています。

源氏の君が東の対にいらっしゃったので、その間に廂のそばまで出て、庭の木立や池の方をのぞき見なさったところ、霜で枯れた庭の植え込みが、絵に描いたようにきれいで、見たことがない四位、五位の宮人たちが入り混じって、ひっきりなしに邸に出入りしているので、ほんとうに素晴らしいところだわとお思いになる。

東の対に渡りたまへるに、たち出でて、庭の木立、池の方などのぞきたまへば、霜枯れの前栽、絵に描けるようにおもしろくて、見も知らぬ四位五位こきまぜに、隙なう出で入りつつ、げにをかしき所かなと思す。(若紫巻)

原文は小学館新編古典文学全集『源氏物語』による

二条院候補地(陽成院)の看板は、現在の夷川通りにある公園に立っています。陽成院は東西1町南北2町の邸なので、当時はこの道はなく、私たちは今、陽成院のど真ん中にいます。

⑥町尻殿は藤原道兼の邸

そのまま東に進んで、道兼の邸、町尻殿に向かいます。『光る君へ』の道兼、最近は、吹っ切れてとてもいい感じですね。「道兼、道兼」と歩いていきました。

頼りになる平安京オーバーレイマップの画面をみると、現在いるのは、町尻殿の北西のあたり。このまま東にすすむと、北側にあるのが、『小右記』にいろいろ書き残している、藤原実資の邸小野宮ですが、小野宮までは行かずに、町尻殿に沿って北に曲がります。

⑦町尻殿の東南の角

町尻殿の東側をそのまますすむと、藤原定子さまの里邸、二条宮(二条第)があります。

二条宮(二条第)の悲劇

『光る君へ』では、藤原道隆が逝去(第17回)、これから中関白家は衰退していきます。実資も『小右記』(長徳2年正月16日の条)に書いているので、本当にあったことのようですが、伊周、隆家の兄弟が、女性がらみの勘違いから花山院に矢を射かけるという事件を起こし、ともに流罪が決定。折しも懐妊した定子が滞在していた二条宮を、検非違使が取り囲みます。

この世に存在する、すべての検非違使が、この邸の四方を取り囲んだ。どいつもこいつも、口にするのさえおぞましいような放免どもが群がっているようすに、小路、大路の四、五町ほどの間はだれも行き来しない。

世の中にある検非違使のかぎり、この殿の四方にうち囲みたり。おのおのえもいはぬやうなる者立ち込みたるけしき、道大路の四五町ばかりのほどは行き来もせず。(『栄花物語』巻五 浦々の別れ)

原文は小学館新編古典文学全集による

検非違使の下部の放免は粗暴な者が多く、制止も聞かずに邸に乱入しました。恐ろしや恐ろしや。このあたりにも、検非違使が集まったのかな?

現在の押小路通と釜座通が交差するあたりから東を見る

⑧道隆、道兼、道長が育った、東三条殿

二条宮に沿って西に曲がると、東三条殿址の石碑があります。

東三条殿は藤原兼家の邸、道隆、道兼、道長の兄弟が育った邸です。兼家の死後、道隆もここに住みました。

東三条殿はほかの邸宅の2倍サイズ(陽成院と同じ)。南北に2町あるので、現在の押小路通りは、当時はありませんでした。この石碑は、邸の真ん中あたりにあるので、我ら、邸に侵入してる、まずい。

とかなんとかいっているうちに、11時45分。ランチの予約が12時なので、いそいで新町通りを下ります。

⑨高松殿

源高明の娘、明子さんの邸です。『光る君へ』で、道長がしばしば訪れていますね。

よし、間に合った。ではランチをいただきます。後半の一条大路コースは、またこんど。▶一条大路コースはこちら

三井ガーデンホテル京都新町別邸(中京区六角町361)



この記事が参加している募集

#古典がすき

4,104件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?