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紫式部に近づきたい 結婚(3)紫式部と宣孝

藤原宣孝の御嶽詣ーー『枕草子』

平安文学ファンの人々にとって、藤原宣孝といえば、紫式部の夫、そして、紫、白、山吹色、派手な装束で御嶽詣みたけもうでをした人。

御嶽詣とは、修験道の霊地である吉野の金峯山きんぷせんに詣でることです。参詣の前には、御嶽みたけ精進そうじといって、50日から100日間、部屋に籠もって仏道修行をします。精進を怠ると蔵王権現から厳しく罰せられると恐れられていました。(参考『国史大事典』御嶽精進の項)

また、『枕草子』によると、どんなに身分が高くても、わざと粗末な身なりで参詣していたようですが・・・。

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右衛門佐宣孝という人は、「つまらないことだ。ただ清浄な着物を着て参詣すれば、何の問題があろうか。まさか『粗末な身なりで参詣せよ』とは、御嶽の蔵王権現は決しておっしゃらないはずだ」と言って、三月の末に、紫のとても濃い指貫に白い狩襖かりあを、山吹色の驚くほど派手な色の衣 などを着て、息子の隆光の主殿亮とのものすけである人には、青色の狩襖、紅の衣、まだら模様を摺り出してある水干という袴を着せて、連れ立って参詣したのを、御嶽から帰る人も、今これから参詣する人も、珍しく奇妙なこととして、「昔からこの山でこんな装束を着た人を、全く見たことがなかった」と、あきれ返ったが、宣孝が四月のはじめに御嶽から帰って、六月十日のころに、筑前の守が辞任した後任として任官したことで、「なるほど、言った言葉に間違いはなかった」と人々がうわさした。

右衛門佐宣孝といひたる人は、「あぢきなき事なり。ただ清き衣(きぬ)を着て詣でむに、なでふ事かあらむ。かならずよも『あやしうて詣でよ』と御嶽さらにのたまはじ」とて、三月つごもりに、紫のいと濃き指貫白きあを、山吹のいみじうおどろおどろしきなど着て、隆光が主殿亮なるには、青色の襖、紅のきぬ、摺りもどろかしたる水干すいかんといふ袴を着せて、うちつづき詣でたりけるを、帰る人も今詣づるも、めづらしうあやしき事に、「すべて昔よりこの山にかかる姿の人見えざりつ」と、あさましがりを、四月ついたちに帰りて、六月十日のほどに、筑前守の辞せしになりたりしこそ、「げに言ひけるにたがはずも」と聞えしか。

『枕草子』あはれなるもの(部分)

宣孝が筑前守に任じられたのは990年8月のこと、とすれば、『枕草子』がいう御嶽詣は、同年3月末のことです。

フアッションにこだわりがあるのか、地味な格好は嫌いなのか、とにかく剛胆で型破りな、ユニークな人のようです。現代にも、あまりいないかも。

結婚(1)結婚(2)で紹介した紫式部とのエピソードも、『枕草子』の記事を読むと、なるほどそういう人かもね、と妙に納得。

中途半端にそれっぽい振る舞いをしたのは誰

紫式部集のはじめのあたりに、方違えのため紫式部の家に泊まった客が、夜中に「なまおぼおぼしきこと」をしたので、その人に歌を送ったと、紫式部集にあります。紫式部の姉が生きていたころですから、証拠はありませんが、宣孝の御嶽詣よりも前のできごとでしょうか。

(四・五)

ーー我が家に方違かたたがえのため訪れた人が、夜中になんとなくそれらしき振る舞いをして、帰ってしまった翌朝、こちらから朝顔の花をおくって

おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする 朝顔の花
▼よくわからないわ。昨夜と同じ顔なのか、そうではないのか。夜明け前の薄暗いころ、そらとぼけてお帰りになった。朝顔の花ならぬ、朝の顔は。

ーー返事、誰の筆跡かわからなかったのだろうか

いづれぞと いろわくほどに あさがほの あるかなきかに なるぞわびしき
▽姉妹のどちらが文をくださったのだろうかと思案するうちに、せっかく届けていただいた朝顔の花が、すぐにしぼんでしまうのは、なんとも物足りない気持ちです。
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四番の「おぼつかな」の歌の詞書を原文で書くと「方違へにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありて、帰りにけるつとめて、あさがほの花をやるとて」。

「なまおぼおぼし」の「なまー」は接頭語で、中途半端なこと(たとえば生煮えのように)、「おぼおぼし」は、もとの意味が〈おぼろ〉ですから、はっきりしないことを言います。

どのような「なまおぼおぼしきこと」があったのか、想像してしまいますね。方違えを利用して、知り合いの家に泊まり、姫君と契りを結ぶ、という展開は、『源氏物語』帚木・空蝉の巻をはじめ、物語によくあるパターン。
紫式部集は「なまー」だから、その手前、寝所に顔をみせたということでしょうか?

翌朝、紫式部のほうから、いったいどなただったのかしら、と朝顔の花をつけて、手紙を送っています。送ったということは、誰が「なまおぼおぼしきこと」をしたのか、ほぼ分かっていたはずですよね。紫式部ずいぶん活発です。

五番の「いづれぞと」の歌、姉か妹かどちらが手紙を送ってきたのかと、とぼけた返事です。これまでご紹介したやりとりから想像すると、どうもこの歌を詠んだのは宣孝のような気がします(証拠はないけど)。

紫式部と宣孝の曾祖父は、藤原定方

藤原定方は子女がとても多く、紫式部に関わりのある人を抜き出して系図にすると、紫式部の曾祖母も祖母も定方の娘(もちろん別の人)です。昔は一夫多妻でしたから年の離れた姉妹がいました。

紫式部と宣孝は遠い親戚ということになりますね。

さて、藤原定方は、百人一首の「名にしおはば あふさか山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな*」の歌で有名な「三条右大臣」。

*「恋しい人に逢うという逢坂山に生えて、名前に〈〉ようとあるのだから、さねかづらよ、そのつるを繰るように、世間の人に知られないように来る方法を教えてほしい」。

「逢坂山」と「逢ふ」(=二人が共寝するという意味)、「さねかづら」と「」が掛詞、「さねかづら」は蔓がのびるのでそれを「繰る」が縁語、そして「繰る」と「来る」が掛詞と技巧的な歌。でも、声に出して読むと、音がとてもなめらかで、その点でも評価が高い歌です。

逢坂山のさねかづら

「逢坂山かねよ」という鰻の店の庭で撮影しました(2019年4月) 蔓が太いですね。
これは「逢坂山かねよ」のきんし丼

紫式部のもう一人の曾祖父は「中納言兼輔」

百人一首つながりですが、紫式部のもう一人の曾祖父は、「みかのはらわきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらん**」の歌で有名な中納言兼輔です。

**みかの原を分けて流れるいづみ川のように、いつ見・・・たといって、あの人がこんなに恋しいのだろうか。

「みかのはら~いづみ川」までが、「いつみき」の序詞。みかの原は奈良時代に恭仁京があった場所です。

2024年1月14日記

■これまでに紹介した歌
女ともだち(1) 紫式部集 1、2、6、7番
女ともだち(2) 紫式部集 8、9、10、11、12番
女ともだち(3) 紫式部集 15、16、17、18、19、39番
結婚(1)    紫式部集 28、29、30、31番
結婚(2)    紫式部集 32、33、34、35、36、37番


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