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あの3月11日、そして12日と13日

2011年3月11日、東京にいた。ちょうど仕事は有休を取っていて、午前中は世田谷線に乗って松陰神社にお参りに行った。これからたくさん勉強しなければならなかったので、学業成就の願いを込めつつ。
微妙に曇っていたけれど、そこそこ暖かいような肌寒いような天候だったと記憶している。

お昼からは友人と待ち合わせをしていた。渋谷で会って2人でとある事務所に挨拶へ行き、NPO設立の相談なんぞをした(この計画は震災が起こったために立ち消えになってしまった、なにせエンタメ関連の話だったので)。

その用事が済み、さてこのあと何すんべと話をしていたときにグラッと来た。R246沿いを歩いていたのに足元が大きく揺れるし、並走する首都高でも車が全部停まってる上にわんわんと揺れている。

思わず走った。なにしろ自分のすぐ横にはどでかいビルがあるし、そのビルがミシミシ言って揺れていやがる。ガラスとか落ちてくるかもしれないじゃんね。
低い建物をめざして走ったらハンバーガーショップの目の前に出ることができ、そのときには揺れは収まっていた。

何の情報もないので「震源どこやったん」「いやーこれは近いだろうね、直下型かな」的な話を友人としていた。
しかしここまで揺れたら電車とか止まるんじゃね、ということまで予測し、ひとまず落ち着くためにハンバーガーショップでコーヒーでも飲むかという話になる。

コーヒーを飲んでいるとき、最初の余震が来た。でけえ。
いよいよ本当に電車とか止まるね、などと話していたら窓の外の渋谷駅から人がわらわら出てきて新宿方面へと行列を作り始めた。

ああ電車止まったわ。

ハンバーガーショップを出たのはいいが、近隣の店は全部閉まってしまっていた。たしかマルイも109も急遽閉館していた気がする。
まず新宿まで歩こうということになる。まあ渋谷から新宿なんてよう歩かん割に大した距離ちゃうし歩けるはず、と軽口をたたく。

そしてさっきの人の列に自分たちも加わった。

NHKの近くを通り「おーいNHKなんか情報ないんかー」などとまたも軽口をたたく。なにしろ携帯電話があんまり当てにならない状況だったし、さっきの地震がどういう種類のものでどこが震源だったかもわからん。

「疲れたな」「どっか飲食店開いてたら入って水分とっとこう」と示し合わせをし、横目で閉店してない飲食店探しをしながらひたすら歩く。
スターバックスが開いていた。

ネ申。

同じことを考えている人がたくさんいるだけでなく東京にはそもそも人が多いせいか、案の定スタバは満員だった。しかし命からがら飲み物を買った自分たちを、スタバの従業員さんは地べたに座らせてくれた。ネ申。

コンビニ前のヤンキーみたいに座り込みながら、わずかな電波を拾って地震の情報を仕入れる。震源は東北の近くらしい、なんか津波が来て大変なことになっている、……。
われわれが軽口をたたいている間に、なんだか国家規模の緊急時が訪れてしまっていたようだ、とようやく気付く。

新宿のバスターミナル前に公衆電話が沢山あることを知っていたので、そこを目指す。こういうとき携帯は通じなくても、たしか公衆電話は無料でかけられるはずなので。

公衆電話前も行列。数分並んでいたら自分の番がやってきたので、兄の携帯に電話をした。電車やバスが使えなくとも、兄は車を持っているので頼れるかもしれない。
何度かかけたら、兄の電話に奇跡的につながった。

「電車もバスもなくて動けん 助けてくれえ」
「今どこ」
「新宿のバスターミナル」
「郊外の駅までなら車で迎えに行けそうだからとりあえずどっかの電車が動くまで待っとって」

多摩地区某市まで歩くということも考えたが、兄が迎えに来るなら夜中になるまで新宿で待っていてもいい。なにしろここは明るいし人がたくさんいる。
日が陰ってきて寒くなり「さみい」と泣き言を言ったら友人がマフラーを貸してくれた。ありがとう。

近隣のコンビニも開けてくれていたが、商品は既にあまりなく、奇跡的に売れ残っていたランチパックを買って友人と分けて食べた。何味だったかは覚えていない。あ、そのコンビニでトイレを借りられたのも有難かった。

そうして数時間待ったが、20時を過ぎるとさすがに空腹になってきた。兄からメールで連絡があり、これからは義姉(以降姉)のPHSで連絡を取ったら確実とのことだ。姉はPHSを使っていて、携帯が軒並み仮死状態のなか余裕で通話もメールもできるのだという。
まじであの時のウィルコムは最強だった。

とりあえず連絡手段を確保したので、友人とまた開いている飲食店探しをする。
甲州街道を少し西側に歩くと、個人経営の洋食屋さんがなんと開いていた。どうやらものすごい穴場だったらしく、びっくりなことに席に座ってご飯を食べることができた。

あのカレードリアの味と店主さんのおもてなしを私は一生忘れんと思う。

「迎えの連絡を待ってるんです」と話をしたら、店主さん「電車もそろそろ動きそうだしお店で待ってていいですよ」と。ありがたやー!

22時過ぎ頃に、大江戸線と西武新宿線が立て続けに動いたらしいという情報を得る。姉のPHSにメールをしたら折り返し兄から電話が来て「西武でN駅まで来い」とのこと。
店主さんに丁重にお礼を言い、お店を出て西武新宿駅まで一目散に向かった。友人もこれで帰れるとのことで、よかったよかった。

N駅に着いたら兄が車で待っていた。もう今日はアレだし兄の家で寝よう、ということになり兄の家に帰る。
兄ん家の柴犬に元気に吠えられ、なんとなくホッとした。いつもなら「うるせーな!」と言い返してやるんだが。

TVをつけたら今度は「原発がやばい」というショッキングなニュースが。日本大丈夫かな、これは大丈夫じゃねえな、という話をしつつ、風呂に入ったりお茶を飲んだりする。
その間にも余震が何度も来て、TVからひっきりなしに緊急地震速報が聞こえてくる。

終夜こんな感じだろうな、と思いながらリビングのロフトで寝ようとしたら姉が帰ってきた。職場から歩いてきたらしい。ほえー。
余震は何度も来るけどもう寝るしかない、と思って堪忍して寝た。

翌朝。

たしか土曜日で、とてもいい天気だった。携帯の充電器を持っていなかったので、ドコモショップに行って「充電させてもらえませんか」と出川さんになる。
あの頃は携帯の充電って3日とか余裕で持ったんだよ。

携帯を充電してもらっている間、最寄り駅前のちょっと古くておしゃれな喫茶店(カフェではない)で姉にコーヒーをご馳走になった。
「こういう時は甘いものが効く」と言われ、ケーキセットをおごってくれた。このときようやく昨日の午後から続いていた緊張感が弛んで、なんかホロっと涙が出そうになる。

その日は本当に謎のテンションのまま1日を過ごした感覚があって、喫茶店から兄の家に戻ってからも「風呂に入りてえ……風呂……」と何度もお湯に浸かっていた。

なんだか帰るのが嫌で、日曜までの間ずっと兄と姉の家で過ごした。
しばらく精神的に参ってしまい、仕事にもちょっと支障が出たなあ。
今思えばたくさんの神に助けられ、悉く運が良すぎる展開で兄に拾ってもらって帰れたにもかかわらず、である。

もう13年経つのだけど、さすがにあの3日間はよくよく覚えていて、この文章も1時間とかからずに書き終えてしまった。
目立った身の危険にさらされたわけではないにもかかわらず「生きるしかない……生きるしか」って思ったんだよなあ。

で、迎えを待っていたとき、周囲の見ず知らずの人たちの存在そのものにかなり心を救われたなということを記憶している。
そこにいるだけで「助け合っている」という気持ちになれた、みたいな。

あのスターバックスとコンビニと洋食屋さんは、お礼の意味を込めてまた訪問したい。さすがに場所もしっかり思い出せるので。


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