才能に満ち溢れた人生
才能のある人生を過ごしてみたかった。
子供の頃からそう思い続けていた。
足が速い同級生を見て。
運動神経抜群の同級生を見て。
顔がかっこいい同級生を見て。
学級委員や生徒会長などを務め、クラスや学校の顔となる同級生を見て。
そんな何かしらの才能がある同級生たちが羨ましかった。
僕には何一つ才能のない人生だった。
足が遅く、運動会は嫌いだった。
運動音痴で、体育の授業が嫌だった。
顔がブサイクで、バレンタインの日が嫌いだった。
目立つのが苦手で、生徒会をやっていた同級生を妬みの目で見ていた。
こんな風に、才能のない人生というものは人生がつまらない。そして、「隣の芝生は青く見える」ではないが、周りの才能に満ち溢れた人たちを僻み、どんどん自分が嫌になっていく。
人生で勝ち組なれるか負け組になるかは生まれたときに決まっており、人それぞれが持つ才能次第だと20年間近く思っていた。
しかし、生まれて20年近く経った今、それは間違っているということが分かった。
人生がつまらないのは才能がないからではない。他人を妬むのは才能がないからではない。
人生がつまらないのは自己肯定感が低いからだ。自己肯定感が低いから他人を妬むのだ。
では、なぜ自己肯定感が低いのか。
それは、才能がないからではない。才能がないと思い込んでいたからだ。
才能がひとつもない人なんていない。
目立つ才能と目立たない才能があるだけだ。
僕にも才能はいくつかある。
ただ、僕の才能が小学校や中学校では目立たなかっただけである。
クラスの中には宿題を忘れる子もいた。
でも、僕は学生時代宿題を忘れたことはない。
これは「宿題を忘れない」という才能があったからだ。
クラスのやんちゃな生徒たちは授業中はしゃぎすぎて、先生に怒られることもあった。
でも、僕は学生時代先生に怒られたことがない。
これは「先生に怒られない」という才能が力を発揮した。
僕には才能はいっぱいあるが、そのすべてが学生時代に目立たなかっただけだ。
だから、才能というのは誰にでもある。
学生時代に目立つ才能が「運動神経抜群」とかだけの話である。
僕はこのことについ最近気がついた。
それからは自分にどんな才能があるかを考えることが日課となった。
友達に誘われればどこにいても首を縦に振ることができる才能。
やりたいと思えば結果を気にせずチャレンジできる才能。
この日課を始めてから、僕には多くの才能があることに気づいた。
そして、何よりも自己肯定感が上がり、人生が楽しくなった。
だから、日々の人生に肩身を狭く感じ、他人の人生が青く見える人は、自分が持つ才能を多く見つけて欲しい。
みんなが誰でもできること以外なら才能と呼んでいい。
例えば、僕は車を運転しているが、クラクションを鳴らせない。
だから、信号が青に変わっても発進しない前の車にクラクションを鳴らせる人は「クラクションを鳴らせる」才能がある。
こんな風に探していくと、誰でも才能を見つけることができる。
そして、それは楽しい人生への幕開けだ。
あれ、なんか、胡散臭いカウンセラーみたくなってきているな。
まあ、とりあえず才能なんて誰にでもあるよっていう話でした。
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