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ショートショート「ヨシダは死にました」ほか

あらすじ

「ヨシダは死にました」
何でもそつなくこなす契約社員のヨシダくんが、ある日突然いなくなった。上司の名瀬が訪ねても、アパートはすっかりもぬけの殻で──。

ジメジメした梅雨の日。親友に無理やり予約された、失恋専用の美容室。重い足取りで辿り着いた先は、いたって普通の美容室だった。
でも、だんだんハサミが入り、髪が軽くなると、ちょっとずつ心も軽くなっていく。ふしぎ。ふと、親友はずっとショートカットだったと思い出す──。

声優のセカンドキャリア。腐れ縁の恋バナ。仕事に向き合うこと。働くこと。新しい家族のカタチ。

ひとつの物語は、ほんの少しだけ別の物語に関わっていく。消えたヨシダからはじまる7つのショートショート。


ヨシダは死にました。

「ヨシダはいねぇのか、ヨシダを出せコラ!」
「ヨシダは、死にました」
「…………!」 

人が、言葉を失った瞬間にはじめて出会った。

どこにでも、物申したい人はいる。
不満を解消したいわけじゃない。怒ってるわけじゃない。何かを得たいわけじゃない。ずっと、言い続けたい。そんな人。

コールセンターに長く勤めていると、いやでも人間の嫌な面を見る。たとえどんなに素晴らしい商品でも、会社でも、サービスでも、必ず一定数言い続けたいひとに遭遇する。

だって、完璧はないんだもの。

ホコリはどこにでも存在するし、叩けば出る。どんなものだって見方を変えたらダメなところはあるし、弱い側面はつくれてしまう。
反撃不可の相手にぶつける乱暴な言葉。電話は、そんな負の感情を増幅する装置だ。

保険会社のカスタマーセンター。業界では中堅に位置するクライアントで、利用者向けの対応に積極的に投資する会社さん。ありがたい。センターの環境も整備されてる。

離職率が高いコールセンター業界で、メンバーからも評価がいい。
だから、働くうちにみんな親しくなる。 

決裁権のあるクライアントの担当者(山﨑さん)
マネージャーのわたしと管理者数名。
シフト勤務の電話対応するオペレーターたち。 

よくある中規模のコールセンターだ。でも、カスタマーセンターでは珍しいくらいクレームが少ない部署。しっかり投資してる分、お客さん含めて高い質が担保されているのかも。

それでも、やっぱり言い続けたい人はいるのだ。キムラさん(仮名)もそのひとりだった。 

「すんごいこと、言いますね」
「だって、このままだと終わりなさそうだからさ。みんなしんどそうだったし」
「ありがとうございます。でも、キムラさんが口ごもりの、はじめて聞きましたよ」 

言葉にならない、長い沈黙。(あとで音声ログをチェックしたらそんなでもなかった。体感は信用できない)開いた口が塞がらない想像をしながら、あれ? 閉口だっけ真逆じゃんと余計なことを考える。

キムラさんは半月に一度くらい掛けてくる、所謂クレーマーだった。商品にかかるご意見からはじまり、相槌を打つたびにどんどん話が飛んでいく。

日本の未来。政治。近所のスーパー。昔旅先で詐欺にあったこと。生まれた場所。健康の話題。本当なのか嘘なのかわからないけれど、キムラさんの人生の概要はだいたいわかってしまう。

カスタマーセンターは電話を切れない。もちろん暴言やあまりにも対応が難しい案件は、こちらから失礼することもある。しかし、基本的にはお話を伺う。傾聴。お耳を傾ける。

その中には貴重なご意見もあれば、ふとなぜこんな話を聞いてるんだろうというものもある。キムラさんは、だいたい後者にあたる。

「ヨシダはいねぇのか! ヨシダを出せ!」
「あいにくヨシダは席を外しておりまして」
「ヨシダは本日お休みをいただいております」
「ヨシダは不在です」
「ヨシダはいません」
「ヨシダは、」
「わたくしがお話を伺います」
「いらん! ヨシダを出せ!」 

エスカレートしたキムラさんは連日電話を掛けてきていた。長ければ数時間、ヨシダを呼び出す。なんとか理解してもらおうと案内しても聞き入れてもらえず、

「もういい! また掛ける!」 

ガチャリ。そんな繰り返しの日々が続いていた。

「正直しんどいです……」
「だよねぇ。どうしようかな」 

対策はいろいろ思いつくけれど、強行策の前にできればなんとかわかってもらいたい。でも、メンバーもそろそろ限界。これは、厳しいかな。
そんな折、しびれを切らした山﨑さんが電話に出たのだった。 

「し、死んだのか……?」
「はい。ですので私がお話聞きます」
「そうか……」 

ガチャリ。 

そう、話は三ヶ月前に遡る。

+ 

ヨシダこと吉田くんは、とても優秀なオペレーターだった。
若くて、新卒で一年働いたあと会社をやめて契約社員として入社。そこそこの私立大学を出てなんとかこの会社にすべりこんだわたしからしたら、学歴もやめた大企業もバンコクびっくりショーだった。逆立ちしても入れないところだった。あと、逆立ちもできない。

A4の整った人生まとめ用紙をながめながら、こんなひともいるんだなぁと目から落ちすぎたウロコを拾うようにポチポチと入社処理をした。 

入社後も、要領よく仕事を覚えていく吉田くん。

「ここまでは大丈夫です。ここがちょっと、わかってなくて。もう一度教えていただけますか?」

そこは、自分でもマニュアルがわかりにくいなぁいつかそのうち直したいなぁと棚上げしてたところだ。思わず「だよね!」と口に出てしまった。
それまでちゃっかり上司感を出していたのに、急なタメ語に面食らったのか、 

「なんか、すみません」

なんて、うかつに謝らせてしまった。こちらこそ、なんかごめん。

吉田くんは優秀なんだけど、どこかでちょっと線を引いてるというか、少し離れた距離感をつくっていた。そういう人は、いる。いろんなステージの人が働いているので、深追いはタブーだ。ちゃんと距離をとる。

半年ほど電話を取り、すっかりひとり立ちできた頃、吉田くんはキムラさんの電話をとった。 

要注意人物。

電話の仕事をしていると、どうしても避けられないのがクレーム対応だった。

 +

いまのコミュニケーションは受け手側に立っている。メールもLINEも、出てはなくなる群雄割拠のSNSたちも、受け手がいつどのくらい何を受け取るか選べる。

でも、電話は違う。掛ける側が優位だ。話を聞くまで用件がわからないし、一方的に時間を奪うツールである。
だから、お客様という優位性を使って何か言いたい人にとっては、満足度が高いのかもしれない。悪意の顧客体験。すべてがそうではないけれど、どんなコールセンターにも一定層そんな人がいるのは事実だ。

負の感情増幅装置。
何かを、言い続けたい人。

そんな中でときどき、話術やスキルやシステムを越えたところでなぜか解決してしまうパターンがある。それは、結局のところ人と人が話をするからかもしれない。水が合う、というやつだろうか。

はじめてキムラさんの電話を取った吉田くんは、最後には爆笑しながら電話を終えた。 

一同驚愕。やはり、バンコクびっくりショーだった。

「あ、いちおう伝えるとカスタマーセンターだから爆笑はちょっと、ね」
「あ、すみません。気をつけます」 

ログにはしっかりと商品へのご意見と、キムラさんのちょっとしたクセ、それと話をまとめるタイミングのメモが添えられていた。

+ 

でも、ある日、突然に。吉田くんは出勤してこなかった。携帯も緊急連絡先もつながらない。

「大丈夫かな。事故に遭ったりしたのかも」

上長に速やかに報告。勤怠優良。成績優秀。原因不明。連絡不通である。心配が募る。

「一日様子を見て、連絡なければ人事につないで自宅を訪問してみて。二人で行ってね」
「わかりました」 

やっぱり連絡がつかなくて、次の日。

「天明奇天烈、摩訶不思議。原因不明、連絡不通なんです」
「出前迅速、落書無用みたいに言うね」 

久しぶりに会った同期の人事と連れ立って、登録されている住所を訪ねる。
こざっぱりとした吉田くんらしい外観のアパート。呼び鈴を鳴らすも応答なし。電話しても、中から音はしない。 

「まいったな」

訪問した事実と連絡がほしい旨を書いた書類をポストに残した。 

しかし、珍しいことじゃない。ときどき、こんなふうにいなくなる人はいる。なにか理由があったのかもしれないし、なんとなくかもしれない。真相は藪の中だ。闇の中だっけ?
どっちにしろわからないことには変わりない。考えてもしかたない。 

そうして、吉田くんは、いなくなった。

 +

それから、しばらくして。

「名瀬さん、ちょっと助けてもらえますか?」

死んだ(ことになった)吉田くんから、LINEが来たのは日曜日。

予定のない休日をダラダラ消化しながら、朝からの雨を言い訳に家に籠もる。でも、さすがにやばいという正体不明の焦りが湧き上がり、手持ち無沙汰のままなんとなく部屋を掃除していたときだった。 

「えっ、嘘。大丈夫? どこにいるの?」

いま、隣の駅のスタバの前にいるらしい。

「とにかくすぐ行くから待ってて!」と、急ぎ返信して、急いで身支度して、急いでこころを整える。急に忙しい。雨は上がっていた。

+ 

いや、これは、スタバじゃないな。

くさっ。

久しぶりに見た吉田くんは、申し訳なさそうに小さく手を振っていた。肩にリュックを掲げ、なんか大きいコートを着て、全体的にボサボサだ。ボサボサが服着て立っている。バーバパパにいたな、こんなの。オシャレなオープンテラスとの対比がすごい。

「わたしの家、歩いていけるとこだから。シャワー使う?」
「ありがたいです」 

帰り際コンビニに寄って、食べ物とお菓子と歯みがきやらなんやらを買う。吉田くんは文字通り一文無しだった。ご覧の通りの風来坊を地で行く吉田くん。ぜんぶおごった。

「ご迷惑かけてすみません。仕事も急にいなくなって。怒ってますよね」
「怒ってるというか、びっくりしたのと、心配したかな」 

怒りというより寂しいだったが、今は仕事の話なので黙っておく。アスファルトの濡れた匂いがした。

+ 

「飲む?」
「いただきます」 

シャワーを浴びてこざっぱりした吉田くんは、三ヶ月前と変わらないように見える。なんとなく、ビールがちょうどいい気がした。

 「めっちゃストックありますね」
「ほっとけ」

冷蔵庫を覗き込む吉田くんは相変わらずの無表情、かと思ったら笑っている。乾杯して、狭いテーブルを挟んで座った。掃除、しといてよかった。

久しぶりのビールは、饒舌にさせたみたい。表情にでないと思ってたのに、見たことない顔してる。アルコールが回るのも早い。 

「自分で言うのもあれですけど、ぼくいい大学出てるじゃないですか」
「あれだね」
「んで、けっこういい会社入ったんです」
「けっこうだね」
「仕事も楽しかったしやりがいも感じてたんですけど、ある日クライアント先から帰る途中に、ふと、なんでこれやってんだろう?って思っちゃって」 

わかるな。わたしなんか、毎日そう思ってるもの。

「そしたら、その〝なんで?〟がちょっとずつ、実家の天井のシミみたいに消えずに増えていって。あ、天井のシミって実際変わらないのに増えてる気がしません?」
「わかるような。わからないような」
「歩いてると気に留めないのに、一回よぎっちゃうと右足からだっけ?左足だっけ?上げるの?下げるの?って考えちゃって、立ち止まっちゃうような気持ちに似てます」
「それは、ちょっとわかる」
「センターの仕事も好きだったんですけど、ある日、ふと、なんでこの話聞いてるんだっけ?って思っちゃって」
「……そっか」
「んで、北へ、行きました」
「北へ」
「はい」
「なんで北なの?」
「人は迷ったら北に行くって、山﨑さんが言ってたんで」
「あいつか」 

めちゃくちゃ言いそう。山﨑さん、思いきりよく無責任を繰り出すタイプだもの。

「それで、どうだった?」
「寒かったです」
「でしょうね」
「そのうちお金もなくなっちゃって、公園のベンチに座ってぼーっとしてたら、なんか急に帰ろうって思って」
「……ないの?」
「何がですか?」
「なんかこう、ガラッと人生観変わったエピソードとか、北で出会った温かい人情とか、決意めいたものが生まれた瞬間とか、そういうの」
「ないですね」
「ないですか」
「あっ」
「なになに?」
「青森のゆで太郎は、練馬より旨かったです」
「しょうもない」
「ですね」 

ふたりして、クスクス笑いをビールで流し込む。

「こういうの、大学のときにやると思うんですけど。周回遅れの自分探し」
「いいんじゃない」 

北へ行って、くさくなって帰ってきた吉田くん。何も変わらないまま帰ってきた吉田くん。

でも、大概そういうものなのかもしれない。

 「知ってます?木村さん、昔有名なベンチャー企業の社長だったんですよ」
「えっ、まじで?」
「ほんとはいけないんですけど、ググったらまじでした」
「知らなかった」
「Forbesとかに載ってて」
「すごっ」
「社会的にも意義のある仕事だったけど、がんばりすぎていつの間にか一人になっちゃったんですって。思い返すと、子供の入学とか卒業とかなんにも思い出せないし、気がついたら奥様も子供も出ていって、会社は大きくなったのに一緒に立ち上げた仲間はいなくなって、ある日自分の仕事の意味みたいなものを見つけられなくなって、株式とかぜんぶ譲り渡して引退したんですって」
「……そうなんだ」 

クレーマーのキムラさんは、わたしにとっては日報の一行で、仕事で、記号だった。でも、吉田くんはちゃんと木村さんと向き合っていた。同じように電話していたはずなのに、全然違う。

「ヨシダを出せ!」

キムラさんの声が聞こえた気がした。

「あの時、誰かに話を聞いてもらってブレーキをかけてもらえたら、全然違う生き方になってたかもしれないって。なんか、刺さっちゃいますよね」 

ほんとだよ。じわぁと汗をかきはじめたビールの缶を見つめながら、顔が火照ってきたのを感じる。なんとなく言葉がない。

ぐいっとビールを煽った吉田くんは意を決した顔をしていた。 

「それで、ですね……」
「なに? どうしたの?」 

吉田くんが言いよどむ。ここまで来たら、もう言えないことなんてないだろう。なんだろう。

「三ヶ月留守にしてたら、家が無くなってて。ほんと申し訳ないんですけど……。しばらく泊めてくれませんか?」

当面の生活費を稼がなければならない吉田くんは、センターに復帰して働くことになった。

「ほんとにいいんですか?」
「まあ、契約期間も残ってるし、たぶん大丈夫だよ。山﨑さんも許してくれたし」 

迷惑かけたことを謝りたいとセンターを訪ねた吉田くんの第一声「自分探しをミスりました」がすこぶる効いた。当事者として責任を感じたのかもしれない。「何かあったら必ず連絡すること」が条件。
あと、めちゃくちゃ怒ったことにしといてね、と山﨑さんは笑って言った。

「あらためて、よろしくお願いします」

面々にあいさつして回る吉田くんの顔は、なんとなく豊かになった気がする。

「名瀬さんも、いろいろありがとうございました。あらためて、よろしくお願いします」
「うん。よろしくね」 

読めないと思っていた表情にも、ちょっとずつ変化がわかる。受け取る側の精度の問題だったのかもしれない。

 「あっ、吉田くん」
「なんですか?」
「きみ、死んだことになってるから」
「えっ?」 

+ 

何年か前に携帯電話のCMで「電話でなら話せることがある」とかやっていた。ちょっと違うかもだけど、そんな感じのやつ。

電話は、負の感情増幅装置。

だけど、声や言葉以上に伝えたり、受け取ったりもできるのかもしれない。
やっぱり、人と人がつながる装置だから。 

「お待たせいたしました。カスタマーセンターのヨシダでございます」
「…………ヨシダ、生きてたのか……!」
「えっ、あ、はい。生きてます」
「そうか。吉田、よかったな」 

ガチャリ。

それ以来、木村さんからの電話はなかった。

 +

数年経って。この春、吉田くんは退職した。
働きながら資格を取ったコーチングの会社を立ち上げるらしい。よくわからないけど、人に向き合う吉田くんなら向いている気がしてる。 

あと、来年、わたしは吉田になる。


失恋美容室

「失恋美容室って、知ってる?」

付き合ってちょうど一年、わたしの気持ちとは裏腹に「飽きた」のたった三文字で振られた。
なんで?って聞いたら、「重い」と言われた。また三文字。それ以上は、何を聞いても返ってこなかった。無回答。三文字打つ手間も、もはやもらえなかった。

しかもこのタイミングで梅雨入り。
窓の外も心もじめじめで、なんにもやる気おきない。予定のない休日が、なんの意味もなく過ぎていく。ようするに、ダラダラしてるだけ。

あまりにジメジメうじうじしてたら「今のあんたにぴったりじゃん!行っておいでよ!」と、幼なじみに半ば強引に予約を入れられてしまい、しぶしぶ電車を乗り継いで髪を切りに来ている。

失恋したら髪を切る、なんてよくある話。
だけど、専用の美容室があるなんて知らなかった。

はぁ……。着いちゃった。ここか。
外観は、よくある白くておしゃれな美容室だけど。

「いらっしゃいませ〜」
「あの、友人の紹介で11時に予約した…、」
「はーい。えーっと、あ、那美さんのご紹介ですね。ご来店ありがとうございます。こちらどうぞ〜」

ここまで、全然ふつう。

「今日はどうされます?」
「あの……ここって失恋したときの美容室なんですか?」
「……ああ!なんか、いつからかそんな感じに覚えてもらってるのよ」

もともとはショートカットが売りの美容室だったんだけどね、と笑う。片方の口元が上がる感じの笑顔がすごく可愛い。ここの店長さんだった。

「よく当たる宝くじ売り場ってあるじゃない?当たる当たるってみんなが買いに行くから、結果やっぱり当たりやすくなるっていうあれ。あんな感じに噂が噂を呼んで〜ってところかな」
「そうなんですね」
「よし、じゃあ今日はバッサリいっちゃう感じ?」

はい!となんか元気に答えて、雑誌をめくりながらイメージを決める。
ふだんスタイリングは〜?とか、美容の話とか、休みの日何してますか〜?とか、めちゃくちゃふつうの美容室なんだけど、なんか話しやすくてたのしい。

たのしいんだけど……、ふと鏡を見たらリズムよく鳴るハサミに合わせて毛束が落ちていく。

ああ、なんであんな人好きになったんだろう。わたしが好きになる人は、だいたいあんな人ばかりだ。

「髪、すごく綺麗ですねぇ〜!うらやましいくらい」
「……恋人が、いや元か。髪にすごく気を遣う人で。同じシャンプーとか使ってたから」
「……そうなんですねぇ〜」
「髪の半分、いや10分の1でも、わたしのこと気にかけてくれたらよかったんですけどね」

あ、やばい。なんで?なんで?なんで?が止まらなくなる。さっきまであんなにたのしかったのに、泣きそう。情緒さんどこ。揺れてる場合じゃないの。

「もう少しかかるから、ちょっと休憩〜!温かいもの、飲まれますか?ハーブティーとか、オーガニックのそれっぽいの揃えてるの。ハチミツ入りもありますよ〜!」

ハチミツ入りのハーブティーはおいしかった。両手で抱えたカップがあたたかくて、ギリギリ涙は帰っていった。

「ささ、仕上げしていきますね〜」
「よろしくお願いします」

またリズミカルに鳴るハサミと落ちていく毛束。だんだん肩が軽くなる。もう、大丈夫な気がする。

「那美は、よく来るんですか?」
「そうね、常連さん。この間は一年ちょっと前だったかな」
「……そうなんだ」
「那美さん、いい子よねぇ。とっても一途だし、真っすぐで。うん、完成!確認お願いしま〜す!」

そういえば、那美はずっとショートだ。
いつも話を聞いてもらってばかりで、那美のことって聞いたことなかったな。

「どう?もう少し短くしておく?」
「いえ、大丈夫です」

前の大きい鏡、後ろを写す鏡。ぜんぶに写るわたしは、とっても軽い。なんだかやっぱり、これでほんとに大丈夫な気がした。

「うん、ばっちり〜!」

「あんな噂の美容室だから、次回予約はお願いしてないの。万が一また何かあったら、ご来店お待ちしております〜」
「ありがとうございます」

いたずらっぽく笑う店長さんは、やっぱり素敵な笑顔で見送ってくれた。

扉を出ると、久しぶりに雨が上がっている。

「髪切った〜」
「お、あそこよかったでしょ?」
「うん、めっちゃよかった」
「ふむふむ。だろうだろう」
「ねぇ、元気でたからなんかおいしいものたべにいこ。焼肉とか」

あれから、わたしも那美もロングまでのばしている。おかげさまで店長さんのお世話にはなっていない。

万が一は来ていないけれど、今度結婚の報告しにいこうと思う。那美とふたりで。


つくるをつくる私たちは

鼓動がはやい。
呼吸が乱れている。
自覚してる。

音を吸収する素材がはられた壁。なのに、心臓の音がうるさい。
なんで?これ、聞こえてるんじゃない?迷惑じゃない?
そんなわけないのに、焦る。そうだ。汗を握りしめていた手でスマホを確認する。ちゃんとサイレントになっていた。さっきも確認したもん。何回も。力が入るほど、すべって落としそうになる。やばい。

大丈夫。大丈夫。
落ち着け。落ち着け。

意識して呼吸を深くする。
足に力を込めて、膝を見つめる。
ゆっくりと息を吐く。

「じゃあ、よろしくお願いしまーす!はい!3…2…、、」

ディレクターの指とともに赤いランプが付く。顔を上げた先、四角い窓ガラスの奥。

そこには「なりたかった私」がいて、でも、座っているのは私じゃない。

小さい頃、アニメに出てくるヒロインが大好きだった。日曜日の朝にやっている、キラキラふわふわの女の子。少し大きくなってから、声優という人がいるのを知って、猛烈に憧れた。いいなぁ。やってみたい。なりたい。そんなキラキラに、とにかく夢中になった。

憧れのまま突っ走り、高校在学中にオーディションを受けた。受かった。たぶん、才能みたいなものがあったんだと思う。その時はそう思っていたし、疑わなかった。
卒業してすぐに養成所に入った。特待生みたいな扱いが気恥ずかしく、でも心地よかった。がんばって、がんばって、がんばって、声優以外にも求められるものはなんでもやった。海にもプールにも遊びに行ったことないのに、水着は着慣れていった。

瑞波とは、その時に出会った。
誰よりも声の鍛錬をしていて、もちろん私だって負けないくらいにがんばっていたけど、でも私たちにくるのはラジオだのイベントだのグラビアだの、声以外の仕事がほとんどだった。

「なりたかった私」に近づけば近づくほどに、やりたくないことも近寄ってくる。キラキラは遠ざかっていく、そんな気がした。毎日ニコニコお疲れ様でーす!な笑顔が貼り付いて、もうなんにも疑問に思わなくて、ある日たまたま帰り道に本屋に寄って雑誌をパラパラしていたら、小さい切り抜きの中で笑顔の自分がニッコリとこちらを見た。

えっ。誰、これ?

そしたら涙が止まらなくなって、足に力が入らなくなって、ごはんがおいしくなくなった。消費されることに耐えきれなくなった。もう、無理だった。少しして、わがままをいってやめた。

最後に会ったとき、瑞波はなんて言ったっけ?事務所に挨拶に行って、その時すれ違ったはずなのに、思い出せない。

レギュラーでもらっていたナレーションの仕事。どこかの街の魅力を紹介する番組。
小さいけど、ていねいにつくられているのが好きな現場だった。実は……、と事情を伝えて、決められた後輩に番組を引き継ぐ。

いつものディレクター。ぬぼーっと背の高い坂口さんは、見た目大食いチャンピオンみたいなのに胃が弱いらしく、いつもペットボトルの温かいお茶を飲んでいた。
そのときも、待ち合いのブースでお茶を飲みながら雑談していたら「実は独立して会社をつくるんだけど、こない?」と誘ってくれた。

「私、まじでなんにもできないですよ……?」
「大丈夫大丈夫、猫の手も借りたいくらいだから」

たまたまの縁。ありがたく転がり込んだ先はPRや企画をする会社で、まじのまじに猫の手だった。大戦争くらいに猫が欲しい。それでも足りない。

不規則とか急なスケジュールとか、忙しさには慣れてるつもりだった。けれど、自分で自分を忙しさに投げ込んでいくような、やればやるほど時間が足りない毎日は信じられないくらい大変で、でも忙しさがなんでも忘れさせてくれた。

経験ゼロから必死で食らいついていくうちに、(とりあえず買った)スーツは、ワンピになり、ブラウスになり、Tシャツになり、爪は短く髪はアップ、コンタクトはメガネ、ヒールはスニーカーになった。
当時の私は、ほとんど走っていたと思う。
歩いた記憶がない。

立ち上げからしばらく、会社も実績をつくりたくて、依頼されるものはなんでもやっていた。坂口さんは人当たりもよくて「坂口さんとこなら〜」の依頼も多かった。

最初の頃は、私に名前や声で気がついてくれる人もいてドキドキしていたけれど、そう、世の中の消費は速い。すぐに忘れられたし、私も忙しすぎて気にならなくなった。
エンタメのお客さんと近いところにいた経験とか、とりあえずニコニコしてるとか、わかんないところはすみませんもう一回お願いします!と粘るとか、今までの私の強みはなんでも使う。

終電が始発になり、睡眠が仮眠になり、シャワーは隣の雑居ビルの漫喫になり、帰らない家の家賃の意味を考えるようになった。雑用もなにもかもやれることをやるおかげで、入口から納品までだいたいの仕事がわかるようになった。予算が取れなければ、手弁当で私がナレーションを入れた。忙しさに希釈されて、憧れも夢も誰かわからない笑顔も逃げた自分も全部、ぐるぐる混ざって薄なって溶けていく。そんな毎日だった。

「正直助かってる。ありがたい。でも、ナレーションはこれで最後にしよう」

ある日、馴染みのスタジオでナレーションを録りおわったときだ。坂口さんがお茶を飲みながら、唐突に、でも目を見て言った。

「えっ、ダメでした?」
「いや、そうじゃなくて。うーん、うまく言えないんだけど……。それ、北田さんの仕事じゃないから」

私の仕事じゃない。たしかにそうだけど、面と向かって言われると鼻の奥がツーンとしてくる。自分からやめたのに、なんてわがままなんだろう。
でも、声を、口から出す言葉を認められるということが、これが仕事になるとうれしいということは、まだ全然引きずられているってことだ。表現は、呪いみたいなものなのかもしれない。

「予算がないなら、その分の仕事になる。今更だけど、それがあたり前なんだよね。今のやり方じゃいつか無理がくるし、北田さん、割り切れなくなると思う」

そうかもしれない。心のどこかで、私はしがみついている。いたんだと思う。声は筋肉だ。やめればやめるほど、戻すのにはその倍以上の時間がかかる。わかってる。

その日を境に、私はこっそり続けていたトレーニングを一切やめた。

数日後、坂口さんはみんなを集めて、いつもみたいにでっかい手でマグカップを手にしながら、会社を小さくすることを伝えた。お茶は、もう冷えていたのかもしれない。

「できるだけ、納得できる仕事をしたいと思う。なにかを創りたくて会社をつくったのだけど、今更だけど今の形じゃない。お金を作るのと、何かを創るのは、やっぱり違うよね」

みんなそれぞれ働き方が限界に近いのはわかってたから、異論は出なかった。でも、何人かはその場で退職について確認していた。

「いま、なにをつくってる?を大切にしたい。いろいろと足掻いてみるけど、それでダメなら、ごめん」

ダメなら、ごめん。坂口さんが言うと、ふしぎと無責任には聞こえなかった。むしろもっと強い、背筋が伸びるようなことばだった。

みんなで今受けてる仕事を片付けてから、会社は拠点を都内から少し郊外に移した。
それからまじのまじで、平社員の私から見てもわかるくらい会社は傾いたし、ほんとにギリギリのギリで今月を乗り切る!みたいなことが続いた。実際に何人かは去った。

でも、地域に根ざした活動とか、やっと、少しずつだけど納得できる仕事の数は増えていった。

「決まったよ!」

大手の広告代理店とかもこぞって狙っていた大型案件。確実に今までで一番大きな仕事で、受注は奇跡だった。その領域に関係する活動が評価されたのだと思う。すぐに、社員総出で(ちゃんと寝ていっぱい食べて無理なく)全力で取り組んだ。細かいところを詰めて企画が通るまで、たくさんぶつかった。

特に、拠点を移した後に中途で入ってきた宮田さんとは、直接やり取りする領域だったからかなりケンカしまくった。
宮田さんは人のいいおじさんという風体なのに、大手から「家が近い」って理由で転職してきたおかしな人で、めちゃくちゃ仕事ができるし、いつもニコニコしてて、でも芯ではすごく頑固だった。だから、ぶつかりがいがすごかった。

「プロモ動画のナレーション、誰がいいっすかね?」
「うーん……。あ!みずみーは?どう?水嶋みずは」
「あー、いいっすね。あの透き通った声の感じとかぴったり感ある」
「アイドル売りしてるときはよくいるタイプって感じでパッとしなかったけど、ここ数年すっごい好きなんだよねぇ〜」
「ミヤさん、めっちゃファンですよね」
「うん。最初に娘がハマって、それから妻も俺も大ファンよ」

瑞波。

久しぶりに聞いた名前に反応しないようにしたけど、一瞬。その一瞬はやっぱりバレていて、坂口さんがこっそりこっちを見ていた。

私はゆっくり息を吐いて、首を小さく振る。

大丈夫。
それは、私の仕事じゃない。

キャスティングは宮田さんの領域だ。そして、宮田さんの感度は正しい。客観的に見て、今、この企画にぴったりなのは瑞波だと思う。間違いない。

「案件規模もイケると思うし、企画の文脈にも合いそうだよね。あとはスケジュールかなぁ」
「ダメ元で、いっちゃいますか!」

スケジュールかぁ。たしかにそれはちょっとあるかも。規模が大きい分、こちらも融通しにくいし。そんな心配をよそに、打診してすぐに二つ返事で快諾。瑞波に決まった。

坂口さんはあれ以来、何も言わなかった。

「よろしくお願いします」

久しぶりに会った(といっても顔合わせで私は端っこにいただけだ)瑞波は相変わらず凛としていて、でもすっと立つ姿はなんか大人だった。
チラッとこちらを見た気がするけど、たぶん気のせい。覚えてないか、どちらかというと思い出したくないはずだし。

ひと通り挨拶が終わり、彼女はブースに入る。
もろもろチェックが進む。チェックチェック、テストテスト。彼女はあちら側で、私はこっち。クライアント側として、完成したナレーションのチェックと、そのまんまの意味で顔見せをする。

しかもチェックは宮田さんが中心だし、顔見せに坂口さんは社長として来ていて、私はまるっとおまけ。隅に座って、ただただ見守ることが役割だった。だけど。

ドク……ドク……ドク……。

心臓が速い。飛び出してくるんじゃないかってくらい、鼓動がうるさい。憧れなのか、嫉妬なのか、かなしいのか。よくわかんない。来ないほうがよかったのかもしれない。

向こう側の、「なりたかった私」の姿は、思い出のやわらかいところをズブズブと刺しまくる。

でも、大丈夫。
それは、今、私の仕事じゃない。

私の仕事は、ここに来る前にほぼ終わっているんだ。あとは見守るだけ。赤いランプが付く。映像とキューに合わせて、原稿が読まれていく。

圧巻だった。

「みずみーって、こんなだったっけ?すごいな」

思わず、宮田さんが立ち上がる。ガラス越しにも集中が見える。没入。声の密度、抑揚、音。息を吸うタイミングまで、こちらが伝えたいものが、いや原稿で書かれている世界を越えて、想像以上の言葉が流れていく。すごかった。

「……OKです」

私を含めた全員が息を忘れていて、思い出したように呼吸を再開する。息を呑むって、ほんとなんだな。その後、宮田さんしか気がつかない、ほんの少しのニュアンスのバリエーションと、言い回しの直しを念の為録って終わった。でも、おそらく最初のテイクがほぼ使われるだろう。

「お疲れ様でしたー」

その後、打ち上げというほどじゃないけど、軽食が出てそのまま簡単な懇親会になった。
坂口さんはクライアントだの旧友のスタジオマンだの挨拶回りになだれ込んでいく。昔、皮で遊んだ葉っぱの船みたいだ。苦い顔でどんどん流れていくさまを見送る。社長、がんばってください。

瑞波は次の現場があるらしく、マネージャーさんとていねいにお詫びしてからすぐ帰ってしまい、話す機会がなかった。
私も一通り挨拶をしたらやることがなくなってしまい、手持ち無沙汰に外の空気を吸いに自販機まで歩いていたら、ポケットでスマホが震えた。

[ゆり、かっこよくなったね。]

瑞波だった。数年前、最後に[ごめんね]と送ったっきりの、既読されたメッセージの下に新しいメッセージですと表示される。数年を飛び越えて届いたみたいでふしぎだ。

あのときと、さっきの姿が両方浮かんできて、なんて返そうか迷っていると、見透かしたようにまたメッセージがきた。

[これ、原稿つくったのゆりだよね?]
[企画書見せてもらって名前見かけて、絶対そうだと思った!]
[だから、負けないようにしなきゃって思ったんだけど……。どうかな?よかった?]

[うん。よかった。すごかったよ。]
[おかげで今までで一番の仕事になると思う。]

[ありがとう。]

[うん。こちらこそ。]

[またね。]

[うん。また。]

スマホを握りしめて、気持ちが抑えきれずにブンブンと頷いて、しゃがみこんで少しだけ泣いた。

「はい、どうぞ」

難破船のごとく避難してきた坂口さんに温かいほうじ茶を手渡す。
「ありがとう。もう大変」とひらひら手を振りながら、応接用のソファに倒れるように座り込む。人気者は大変だ。わたしも横に座り込み、コーヒーに口をつけた。まだ十分温かい。

「坂口さん」
「ん?」
「私って、いま、なにか創れてますか?」
「うん。……だって、それが僕たちの仕事だもん」
「ですよね」

坂口さんはやさしく言って、ペットボトルのキャップをひねる。わたしも、もう一口コーヒーを飲んで、でかかった言葉を飲み込む。だって、また泣いちゃいそうだったから。

「なりたかった私」にはなれなかった。
でも、今、この人と。
たしかになにかを創っている。

一番の仕事だって、最高の出来だって、数年したら忘れられるのかもしれない。消費されて、誰の記憶にも残らないのかもしれない。それでも。

「さて。次、なにやりましょうか」
「そうだなぁ」

つくるをつくる私たちは、なにかを創りたくて、作り続けるんだ。きっと。

いま、なにをつくってる?と繰り返しながら。


炭火焼き10年ものをロックで

「なにそれ、傑作じゃん」
「だよなぁ! 最高の馴れ初めだよな」 

笑いながらジョッキを空ける目が、ちょっとだけ眩しそうに細くなる。お、これはちょっとマジだったんだな。何か言いたいことがあるときの目だ。はいはい〜、ご愁傷様。
職場の同僚が結婚するとかで、もう何度目かの貧乏くじ飲み。相変わらず、わかりやすいやつ。

 +

いわゆる、腐れ縁というやつだった。大学時代、熱中していたバンド活動。入っていた軽音サークルは他大学のやつも入り交じっていた。真剣なやつもいい加減なやつも、音楽なんてできないやつもいた。

ようするになんでもありの「いたいやつは、いていい場所」。大人になって、ああ、あの場所はけっこう貴重なとこだったんだなぁと思う。

こいつとも、よく対バンしたり、企画したり。お互い真剣な側で、思い出すと恥ずかしくなるような話も、一晩中できた。情熱は人を狂わせる。

そこからはまったくふつうで、時期が来たらパッタリとみんなそれぞれ「ふつう」のレールに戻っていった。単位、就活、就職。地縛霊みたいな先輩は、いつの間にか後輩になった。その後は知らない。

そして、腐れ縁は続き、就職した先の保険会社で、ばったりと再会する。

「あ!」
「あれ?」
「おう!」
「おー!」 

はじめて社会に出た布の服とひのきの棒しかないわたしたちは、不安を架け橋にすっかり意気投合し直した。
仕事の愚痴、熱意、空回り。恥ずかしいはタイプを変えて、度合いは据え置き。変わらないバカ話。職場から駅の途中、この炭火焼き自慢の焼き鳥屋を見つけてから、もう十年になる。

 +

はじめの頃は、休みを合わせてフェスに繰り出したり、旅行に行ったり、青春の延長線を謳歌しようと躍起になっていたけれど、いつの間にかやらなくなった。

たぶん、気がついてしまったんだと思う。

たのしむよりも、過ぎた時間を追い求めるみたいで、なんか不格好だし。全力って、翌日込みの8割以下になったし。
結局、お互い溜まりに溜まったとか、ふとしたときに、都合よく炭火焼き片手にガス抜きするのが丁度よくなってしまった。
いつまでも、学生気分は続かない。抜けちゃうのだ。

いつも通り、このあとはお決まりコース。
ビールが焼酎ロックになり、頃合いでカラオケでも行こうぜ〜となり、始発まで好きな歌を好き放題唄う。誰の空気も読まないし、お互いの歌もたいして聞いてない。でかい声出して、すっきり。

かつて無敵だった時間を共有した者だけがつくれる、気持ちいい風を魂に吹かす時間、ってやつだ。 

「はぁ〜、名瀬ちゃんかわいかったなぁ……」
「社外の人だっけ?」
「そ、委託先のマネージャーさん。立場的にも、微妙に手ぇ出しにくくて」
「そんなこといって、結局また何もしてないんでしょ?」
「まあ、そうなんだけどね」 

へいお待ち〜、と馴染みのアルバイトくんが焼酎ロックを運んでくる。はい、ビールおわり。 

「なーんか、大人になっちゃったなぁ。学生のときなら、立場だのなんだの気にしなかったのに」
「そう? お前けっこう気にするタイプだと思ってたけど」
「毎週ジャンプ読んでたら、いつの間にか大人になったわ。スーツ着て仕事行くなんて、できると思わなかった」
「未だにネクタイ結ぶの下手くそだけどね」
「中原はけっこう、きっちりしてるよな? 学生時代からは想像できんわ。開いてる穴多すぎて、着てる意味ある?みたいなシャツ着てたのに……」
「ほっとけ」
「いや、えらいよ」
「こういうの求める人もいるんだって。ちゃんとした、の範囲の方がやりやすいことも多いからさ」
「そういうもん、だよな。うむ、知ってる」
「たいして気にならないなら、気を遣っておいて損はないでしょ」 

ははーん、これはけっこう重症だな。歯切れも悪いし、言いたいことあれば吐いちまえばラクなのに。いつまで経っても、煙しか吐かん。なんとなくペースも早まる。
あかん、こっちも釣られて酔っぱらいそうだ。 

「ヤマはさぁ、けっこうちやほやの距離にいてラクしてる感あるじゃん? 可愛い後輩のモモカちゃんも、美人でかっこいいユリ先輩も、好き好きいってれば人避けになるし、他人と近い部分を共有するの苦手だよね」
「……おう。うん、まあ、そうかもしんない」 

ちょっとトイレ、と立つ背中が大きい。態度は元からだが、物理的にである。年月には勝てない。ま、人のこと言えないけど。
はあ、何言ってんだろ。これじゃ学生時代と変わらないじゃんか。

大人になった。自分の可能性も、人生も、だいたい予測範囲だ。不慮の事故とか、そういうのが起きるのも含めて。予測範囲から、出そうもない。出たくない。言い訳とか、うまくやり過ごすやり方ばかり上手くなった気がしたのに。結局、わたしも一緒。

踏み込まないのが、ラクだから。
お気に入りのワンピースが、また一着、炭火の匂いになる。はぁ……。ちぇっ。 

入り口のテレビではアイドルだか声優だかの女の子が唄っている。誰だっけ?みずみー、だっけ?
全方位にふりまいていく笑顔が、無自覚に若さを切り売りしてるみたい。男ウケ?オタク受け?大変なんだろうなぁ。にこやかな顔の先、勝手に闇を見る。知らんけど。

まあ、わたしだって主義主張こだわりもポイッと捨てちゃってさ。言いたいことも言うべきことも言葉未満で飲み干してるんだから、みんなそれぞれ似たようなもんなのかもしれない。

みんな違って、みんなつらい。彼女も夜、ぐいっとビール飲み干したりするんだろうか。するとしても、見せられないだろうなぁ。不自由な酒。

はぁ……、悪酔いしてきたな。よくない。

+ 

「じゃ〜ん! おまたせさん!」

席に戻ったヤマは、おかわりの焼酎ロックを両手に持ってきた。そのままひとつを薦めてくる。

「うまっ」
「だろ? これ、俺の地元の酒。今週の店長セレクトにあった」
「いいわ、これ」 

ガツンとくるのにすっと引く、鼻を抜ける香りも好みだ。うまい。くいっとグラスを煽ったヤマは、意を決して口を開いた。

「あのさ、その、」
「なんだよ、吐いてラクになっちまいな」
「おう」
「なんでも聞いてしんぜよう、われが」
「うむ」 

「俺、仕事辞めるわ」

えっ。

「うちの部門、人材育成のチームあるやん? あれ、けっこう性に合ってて、立ち返ってみたら人を育てる仕事がしたくなった」
「そう、なんだ」
「おう。だから、いったん博多の実家に帰って、地元で試験受けて、学校の先生になるわ」 

やばい不意打ちだ。完全に予想外の角度からきた。顔が熱いのがわかる。自分が、恥ずかしい。

「本部長まで話は通ってて、来期前に時期とか仕事を調整する。後任もけっこう頼りになるやつだから、ぶっちゃけあまりやることないけど」

笑いながら、ヤマは言った。こっちは泣きそうなのに。なんだか、ほんと泣きそうだ。泣いてやろうかな。やっぱり背中、大きかったのかも。

同じ場所で、ずっとぐだぐだしていられると思ってたのに、ちゃんと進んでいく。わたしには、結局、言えない言葉ばっかりたまっていく。言えなかった、ばっかりが残る。

人生って、置いてけぼり。はあ……。

「それで、その、あれだ」
「……なんだよ?」
「けっこう旨い酒あるけん。来ん?一緒に」


積もらない雪

「もう、いい加減にしてよ!」とは、もちろん口に出さず、心で叫び散らして、でも、わたしはにこやかな顔を保って、答える。

「ゴメンな、うめちゃん。ここなんだけんどさぁ……」
「あ、はい。確認してみますね」

ああんもう、めんどい。

+ 

コールセンターはお客様の電話をとる。それはそれは、いろんな種類がある。企業の中に顧客接点として常時設置することもあれば、災害やイベントのたびに短い期間でつくられるものもある。

短いお仕事の場合は、場所とか設備を用意するのが大変。だから、うちみたいな会社がコールセンター専用のスペースを持っていて、期間限定で運用する。このセンターもそのひとつ。

ほんとうにいろんな企業や団体がいろんなお仕事をしていて、担当するたびに何かしらに詳しくなる。プロを装うプロって感じだ。それっぽさ大事。じゃないと、仕事のスピードについていけない。

「はぁ〜〜〜……」 

目に見えるくらいのため息を、冷たい微糖缶コーヒーで流し込む。動画なら字幕あり、きっとメイリオフォント72の特大ものだ。

「あらまぁ、けっこうやられてるねぇ。今どこの事業所だっけ?」

たまたま休憩がかぶったのは、新卒のときに研修担当でついてくれたやさしい先輩だった。

「給付金の案内ダイヤルです。名瀬さん?あれ、名瀬さんでいいんでしたっけ?」
「ははは、大丈夫大丈夫。ビジネスネームでそのままだから」

最近結婚した先輩は笑いながら、愚痴りたくてわかりやすく空中に飛ばしたため息をやっぱりやさしくキャッチしてくれた。新卒のときに出会ったときと変わらない感じに癒される。

「そっかぁ、あそこかぁ。あれ、短期間だし要件もコロコロ変わるから大変だよね。雪田さん?」
「そう! えっ、なんでわかるんですか?」
「前の受注のとき、立ち上げでヘルプにいってたの。研修資材のもと、作ったのわたしだよ」

急な立ち上げだったにもかかわらず、引き継ぎ資料も業務フローもしっかりしてるなぁと思ったら、あれは名瀬さんの仕業だったのか。なんだか妙に納得してしまった。先輩はゆるやかに見えて、仕事はきっちり。そういうところ、憧れなんだよなぁ。

「んもう、大変ですよ。『ゴメンな、うめちゃん。ここなんだけんどぉ……』って、雪田さん、一から十までぜ〜んぶ聞いてくるんだもん」
「そうだった、そうだった。でもさ、わからないことわからないって言ってくれるほうが、助かるじゃない?」
「いやぁ、そうですけど。限度がありますよ。ぶっちゃけ知らんし。渡してる資料と同じことしかわからんしって。ある程度『そうだからそう』で飲み込んでもよくないですか? 数ヶ月だけの仕事なんですし」
「ははは、やられてるねぇ」
「もちろん言いませんよ。でも、ある程度ほら、『そういうもの』って部分あるじゃないですか。おかげで細かいとこ、ぜんぶクライアントに聞かなくちゃならないし、業務量どーんと倍ですよ」

ほんと毎日毎日メールを書いては送っている。質問と回答の変換器だよ、まったく。回答する前に追加の質問を送って、回答有無を管理表にまとめて……。それぜんぶが業務のクオリティにつながるかというと……正直微妙な気がするし。

「でもあそこのクライアントさん、内容が内容だけにちゃんと返ってくるでしょ?」
「来ますよ。来ますけど、こう、やっぱりカチカチの文章なんですよ。そしたらみんなに展開用に言い換えしたり、咀嚼しなきゃじゃないですか。もっとこう、いい感じにわかる感で流しちゃっても、トークも応対も対して変わらないっすよ。はぁ」
「まあ、一度向き合ってみるのもいいかもね」 

向き合うったって、もう毎日毎日残業残業なんですけど。頭に思い浮かべるだけで漢字の圧がすごい。毎日毎日残業残業。カクカクしてる文字ばっか。

「がんばってねぇ〜!」とひらひら手を振りながら、名瀬さんは業務に戻っていった。がんばれって、今あまり使わないな。
でも、名瀬さんが言ってくれるの全然うれしいな、と単純なわたしはやる気がでる。にくい。

まあ、もうちょいやってみよっかな。

+ 

案内ダイヤルは当初の予定よりも延長になり、予測よりもだいぶ忙しくなった。人も増やすことになり、新人さんがどんどん入ってくる。

自社で雇用している契約社員さんにヘルプをお願いすることもあれば、協力会社に依頼して人材派遣をしてもらうこともある。
今回は急な延長だったから、派遣会社からたくさん入ってもらった。

雪田さんといえば、電話のスキルもいまひとつなんだけど、忙しさもあって雇用期間を延長することになった。このセンターが終わるまで、付き合いが続きそうだ。憂鬱。 

「……以上で研修終了です。あとは電話に出ていただきながら、不明点があったらその都度確認してくださいね。なにか確認したいことある人いますか?」
「……」 

まあ、聞きづらいよね。でも、質問がないと不安になるんだよね。ちゃんと伝わっているだろうか。理解度はどのくらいだろうか。ほんとは時間をかけて研修したいけど、それじゃあ間に合わない。ある程度、がここにもある。割り切らなくては。

「あの、」
「あ、はい。どうぞ」
「なんか、質問じゃないんですけど。こういう仕事、けっこういろいろやらせてもらってるんですけど、なんていうかめちゃめちゃわかりやすかったというか……。ここの研修、すごいっすね。仕事、大丈夫そうな気がします」

周りの面々も、うんうんと頷いている。
えっ、嘘?そんなに? 

「ありがとうございます。わからないことあったら、またなんでも聞いてくださいね。よろしくお願いします」

うわぁ……。うれしい反面、これってやっぱり雪田さんのおかげだよな。はぁ……。

「わかんねぇことをわかんねぇって聞くの、あたりまえじゃないんかい?」

人懐っこいあの顔が、にくい。

「ゴメンな、うめちゃん。お客さん納得してくんなくってさ……」
「全然! 大丈夫ですよ! 電話、代わりますね」

そろそろここの業務も終わりに近づいたある日、雪田さんが取った電話がクレームになった。どんなにていねいに案内しても、なるときはなる。

そもそもこのダイヤルは、給付金。電話をかけてくる人の感情度は高い。雪田さんのトークスキルを考えると、ここまでノークレームで来られたのが珍しいくらいだ。

申し訳なさそうに拝み倒す雪田さんに「大丈夫!」とハンドサインを送り、電話に出る。

「……という仕組みなので、まことに申し訳ないのですが……」
「……。あんたの言いたいことはわかった。申請の流れとか、そのへんの事情もよくわかったよ。怒っちゃって、悪かったな」 

いつもなら説明できる範囲も限られてるから、とにかく謝り倒して終わらせようとするんだけど。もしやもしやこれも雪田さんのおかげかもしれない。いろいろ調べていたから、久しぶりに手応えある案内ができた気がする。

「とんでもございません。大変な中、お時間頂戴して申し訳ございませんでした」
「でもな、すまん。それとは別に、あんたに言っときたいんだけど。なんだあんた。俺の話、聞いてたか? わかってなかったのは俺のほうで、悪かったんだけどさ。少なくとも、雪田さんはちゃんと話、聞いてくれたのに」
「あの……」
「ごめんな、今日はちょっと気が立ってっから。うん。まあ、あんたが悪いんじゃねぇんだ。すまねぇ、また落ち着いてから電話するわ。ありがとな」

ガチャ。ツーツーツー。
あれ?
雪田さんは「雪田さん」で、わたしは「あんた」。

 にくい。というか、なんか恥ずかしい。
後ろを振り返ると、雪田さんがすりすりと、まだ拝み倒していた。

+ 

センター最後の日。
もうほとんど電話も鳴らなくて、暇な一日だ。電話が少なくなるに連れて、人もどんどん減っていった。中規模くらいのセンターは、わたしみたいな管理者含めて十数人になった。

毎回、このおしまいの時期はしんみりする。忙しい仕事だと、なおさらだ。 

「お疲れ様でした〜!」

ほんとにありがとうございます、と一人ひとりに挨拶して締め作業に入る。残ってくれた人、だいたい親しくなってるから、やっぱりさみしい。なんだか取り残されたような気分になる。

最後に挨拶したのは、雪田さんだった。

 「ゴメンな、うめちゃん。いろいろあんがとな。全然仕事できなくて迷惑かけちまったけど、働けてよかったよ」 
「そんな、とんでもないです」 

雪田さんのおかげで〜って、いろいろお礼言いたいのに、言葉が出ない。スクリプトあったらいいのにな。わたしは、わたしの言葉で話すのが苦手だ。
たくさんの言葉が巡りに巡って、飛び出したのはこんな質問だった。

 「雪田さん、なんでこの仕事をされたんですか?」
「お、なんだぁ。藪からに」
「いや、なんとなく。気になっちゃって」

雪田さんは、けっこうなお年だ。ぶっちゃけもうこういう業態で働く人のメインどころじゃない。まあ、歳はあんまり関係ないんだけど、やっぱりこういう仕事はやりたくなさそうだったり仕方なくだったりする人も多い。

 「ん〜。俺さ、十年前、漁師だったの」

 え? 漁師? 

 「そ、漁師。でもよ、震災で船なくなっちまって、昔なじみもみんないなくなっちまうし、住むとこねぇしよ。東京の娘んとこに世話になってたんさ」
「……そうだったんですね」
「正直さ、もう働かなくたっていいし、娘んとこもさ。よくしてくれんだけど、なんかふと、役に立ちてぇなって思ったわけ」

 役に立ちてぇな、さらりと口に出た雪田さんの言葉が重い。割り切る。ある程度。いい感じに流していいじゃん。自分の言葉が、自分に返ってくる。わたしは責任者失格だ。にくい。

 「いまさ、困ってる人、いっぱいいたろ? そんでここはさ、困ってる人になんかしてあげられるとこなんよな? よくわかんなかったんだけど、義理の息子のやつが派遣会社? ってのに勤めてて、なんかそんなのねぇかって聞いて。そんで、ここ来たの。んなら、ちゃんとわかっておきたいって思ってな。だからいろいろ聞いちまって。ゴメンな、うめちゃん。大変だったろ」
「……そんなこと、ないです」

ふいに飛んできたパンチ。受け流すにはやさしすぎる手だ。頬が熱い。

 「ははは、すまんすまん。俺、魚ぁとってさ。卸してさ。ときどき『うまいねぇ』とか言ってもらうの。人生だいたい、そういうシンプル? な輪んなかにいたわけ。人間やっぱりありがとうって言われるのが、一番うれしいもんだろ。でも、東京はむずかしいなぁ。なぁ? うめちゃん」

お決まりの挨拶しか出てこなくて「またどこかでご一緒できたら」なんて言ったら、「実はさ、俺、故郷帰るんよ。なんもないかも知んねぇけど、やっぱり育った場所だからかなぁ」ってはにかんでいた。

会社に年賀書くからさ、御中だっけか? とカラカラ笑いながら、すごく自然に「またな。どっかでな」と言って、雪田さんは去っていった。

最後まで、全然かなわなかった。

 +

「はぁ〜〜〜……!」と、特大フォント游ゴシック72くらいの伸びをしてたら、名瀬さんが休憩スペースに入ってきた。

「お、なんかいいことあった?」
「いや、まあ……。あ、名瀬さん。あの研修資料、雪田さんの質問ベースに作ったんですね」
「そうそう。ね。わからないって宝物だよ。いい資料だったでしょう?」
「ふっふっふ、あれ、めちゃめちゃバージョンアップして、いまやうめスペシャルとしてめちゃめちゃ活用されちゃってるのです!」
「お、すごいじゃん。ため息たくさん、ついたかいあったね」 

アドバイスありがとうございました、というと「いやいや、うめちゃんの実力だよ」なんて、また手をひらひら振りながら名瀬さんは仕事に戻っていった。その背中がにくい。

向き合うって、なんだろ。わかんないや。割り切る。ある程度。いい感じに流して。きっとこれからも、そんなふうに仕事、しなくちゃならないときが来る。

わたしはきっと未熟で、なんでも気がつくのが遅くて、でもわからないは宝物だ。

向き合うってそういうことなのかもしれない。

「よっし」

そろそろ年賀状の季節だなぁなんて思いながら、雪が積もる港の景色を思い浮かべる。休憩も終わりだ。
また、次の仕事が待っている。

ゆっくり飲み干したブラックの缶コーヒーが、まだじんわりと温かかった。 


誰かの仕事を

年末になると、よしおさん(仮名)のことを思い出す。白髪混じりの油っぽいぺったんこの髪。スーツケースを引きながら、ボーダーの丈夫なビニールバッグを肩に提げ、もう片手にはビニール袋。ニカッと片目をつぶって笑う。そんな姿。

そう、いわゆるホームレスだ。

当時、ぼくは人材雇用や企業からのアウトソーシングを受注する会社に勤めていた。業務の巻き取り。効率化して、手順を整え、人を入れる。困りごとや手間がかかるところには、だいたいこういう仕事がある。

しかし、圧倒的に買い手市場で、慢性的に人手不足だった。どこもかしこも人が足りない。足りないから、今度は人を入れる仕事が増える。誰かの穴埋め、代打の数珠つなぎ。夜寝ると、チェーンのない自転車を延々漕いで坂を登る夢をよく見ていた。

ちょうどそのあたり、会社は雇用の源泉確保と、社会的意義も込めて、就労支援をしている団体と連携して人を雇用する試みをはじめた。思うところはたくさんあったけど、まあ別にって感じ。外面っぽい感は否めないし。でも、意味がないとは言えないし。

ふつうだと、住所がなかったり身元がはっきりしない場合に雇用はむずかしい。そのあたりを団体が保障して、会社は働く先を用意する。就業のトレーニングをして(ここは特別じゃなくて、いつも通りの研修するだけ)働いてもらう。一定期間問題なければ、契約社員として直接雇用を結ぶ。そんな感じ。ぼくは直接携わってなかったけれど、後方支援の事務作業を受け持っていた。

意義があっても、仕事になるかは別だ。正直、そういう人は急にいなくなってしまうことがとても多い。まあ、別に通常の入社でも、連絡が取れなくなったり消えてしまうことはある。自社雇用なら、結局のところ必要な手続きを経て処理される。決まった手続き通り。でも、複数の会社や団体が関わると処理がめんどうだし、そういうことが続くと現場からの風当たりも強くなる。あたり前だ。あてが外れ続ければ、あてにされなくなるのだ。

いくつかの団体と連携していたけれど、ぼくがやり取りしていた団体の担当は並木さん(仮名)といって、平たく言えばすごく苦手だった。

[お世話になっております。年始の件ですが〜、]

文言は丁寧だけど、とにかく書類にうるさい。メールを打つ指も、心なしか重くなる。だって、細かいところを何度も確認してくるし、そんなのちょっと汲んでよ……みたいな直しもいちいち返してくる。まあ、いろんな申請に必要なんだろうし、ミスはミスだけど、こっちだって兼任でやってるんよ?ふつうに担当の仕事もあるし。なんて思ってしまう。めんどくささが勝ってしまう。もちろん相手には関係ない事情だし、態度には出さないけれど。

「ちょっとごめん。ほんと悪いんだけど、年末に並木さんのところ視察にいってきてくれない?」

上司の名瀬さんに呼び出され、そんな指示を受けたのが12月のはじめ。正直めちゃくちゃ気乗りしない。寒いし、並木さんに会うの億劫だし、地味に遠いし。そんなの結局のところ会社のアピールでしょって気がするし。たまたまぼくが今担当しているクライアントが年末年始がお休み、そこで白羽の矢ってだけだろうし。でも、断る理由も見つからない。

「わかりました」
「ありがとう!助かるよ。せっかくだしいろいろ見てきてね」

そこから毎日、憂鬱の積み重ねだった。幸か不幸か、特にイレギュラーな仕事も入らず、予定通り電車を乗り継いで郊外の駅に向かった。

「遠いところをありがとうございます」

12/31。完全に年の瀬。片づけ忘れてるのか、クリスマスイルミネーションがそのままのロータリー。

駅で出迎えてくれた並木さんは、メールの印象とは全然違ってやわらかい人だった。名刺交換を済ませる。カジュアルなジャケットにこざっぱりしたスーツ、スニーカー。寒いけど、今日はお天気もいい。気持ちのいい日だ。

「ちょっと歩きますけど、いいですか?」
「はい。大丈夫です。よろしくお願いいたします」

駅前からコンコースを抜けて30分くらい。さっそく白髪混じりのこざっぱりしたおじさんに挨拶される。並木さんは、ちょっとこの辺では有名人みたいだ。一人ひとりに笑顔で挨拶して、しゃがんで顔を見て、お話して、手を振って別れる。ぼくはといえば、なんとなく居心地が悪くて少し後ろで突っ立っている。笑顔が張り付いてるのがわかった。

「にいちゃん、いつもあんがとな!」
「え、ええ……」

違うんだけどな、と思いつつ、うまく答えられなかった。そんな感じにしばらく歩いて、目的の施設に着く。会議室に通される。建付けは古いけど整理整頓されてて、うちのオフィスより綺麗だった。

一通りの挨拶と、事業説明。やることはやってしまった。あとは、どうしよう。現場視察の名目で、オフィスの端に座る。並木さんがコーヒーを淹れてくれた。大晦日だ。ここも出勤する人は限られているらしい。席はまだらに空いていた。

「年末は、どんなことをされてるんですか?」
「そうですねぇ」

だいたいの企業は年末年始休む。うちみたいに休むところを受け持つような業種もあるけれど、雇用関係とかは年明けに繰り越すことが多い。今年はもう新規での受け入れもないし、最近どうですか?くらいの世間話のつもりだった。

「ホテルの予約をしたりですかね」
「えっ、ホテルですか?」
「ええ。急なキャンセルとか、空いてる部屋があれば、ホテル側と交渉して安く借上げたり。人って、寒いと死んじゃうんですよ」

寒いと死んじゃうんですよ、耳から入った言葉がうまく飲み込めなくて、そのまま口から出ていった。並木さんは少しバツが悪そうに笑って、「すみません、びっくりしちゃいますよね。」と謝った。年末は支援施設も閉まってしまうんですよ。当たり前だ。施設の人だって、休むんだから。だから、年末こそ家がない、帰る場所がない人が増えるそうだ。寒さに耐えられず、留置場に入るために犯罪を犯してしまう人もいるらしい。

「全員は無理でも、できるだけ場所、用意したいの」

毎年毎年、どうしても部屋は足りなくなるらしい。地域のホテルと提携したり、いろいろ手は打ってるんですけど……と、並木さんは漏らした。足りない。足りなくなる。それで、足りなかった人はどうなるんだろう。それって、どうやって優先順位をつけるんだろう。言葉が出てこなくて口ごもっていると、見透かしたように並木さんは教えてくれた。

「そうですね。どうしても、就労できるか。それに近い人を優先してますかね。身なりのこともあるし、年明けを踏まえて。そういうのって、むずかしいところです」

むずかしいところです、か。それでも誰かが決めなくちゃならないし、決めてる。だから私、ホテルの予約とか値引き交渉得意なんですよと、両手でカップを抱えて並木さんはまた笑った。

「そうだ、さっき駅前で会ったよしおさん。来年はじめに〇〇商事へ紹介予定だったんですけど」

〇〇商事は、簡単な軽作業からユーザー対応の窓口業務まで幅広く受注がある。クライアント側の理解もあり、事業所自体が大きいのでつぶしが利くし、中でキャリアも積めるので継続的に紹介を行っているところだ。ぼくが後方支援で事務処理をしていた先のひとつでもある。

「ああ、あの方だったんですね」
「はい。ここらへんだと長いというかちょっと有名な方で。お年もお年だしそろそろって思って、ずっとお話してたんです。やっと本人もやる気になって準備してたんですけど」

この感じ、あんまりいい話じゃなさそうだな。でも、ちゃんと辞退って伝えてくれるだけありがたい。当日来ないとか、急にいなくなるなんてよくある話だから。

「駅前に大きいビジネスホテル、あったでしょう?あそこにも毎年お部屋を借りてるんですけど。昨日よしおさん、あそこに泊ってたんです。そしたら」

並木さんが言いにくそうにして、コーヒーを一口飲んだ。人には事情がある。しかたない。

「ちょうど今日待ち合わせしたあたりかな。駅のロータリーのとこ。昨日の晩、ホテルの窓から見たらスーツの人が一人、座ってたらしくて」
「……はい?」

たまたまだ。会社が倒産した。頼れる親戚がいなかった。家が更新できなかった。年末で公的機関がやってなかった。そんな、たまたまが重なってしまう。スマホの充電も切れる。どうすればいいかわからない。そんなことってあるのかってのが、現実にある。あった。

「よしおさん、窓からその人を見つけて。夜になっても動かない。電車もなくなって、お店も閉まって、深夜になって、それでも動かないってんで、ついつい声掛けたらしくて。おい、元気か。なんだ腹減ってんのかって」

そのままホテルで一晩過ごして、今朝二人で事務所を訪ねてきて。ホテル側にはめちゃくちゃ怒られましたけど。まあ事情も事情だし、わかってくれてたんじゃないかな。そうそう、さっきお会いする前に謝罪にいってきたんですよ。それからよしおさん、「こいつ、俺より若けえし役に立つぞ。代わってくれ!」って聞かなくて。

「なので、大変申し訳ないんですけど、紹介者の変更って間に合いますか?」
「それは、はい。大丈夫だと思いますけど」

いつもあんがとな!よしおさん。ぼくのことわかってて、声掛けてくれたのか。

「あの、よしおさんは……?」
「ああ。そうですね。俺はもう慣れてっから。気にすんなよベテランよぉって、すぐ出て行っちゃいました。駅前にいたし、年始はコンコースか、駅の反対のアンダーパスのところにいると思いますよ」
「……そうですか」
「すみません。いつもお願いばかりで。私、すっごい細かいでしょう?」
「えっと、そんなことは……」

いえいえわかってます、と並木さんは笑う。でも。

「あと100円足りなくて、もう一部屋借りられなかったらくやしいじゃないですか。できるだけ、郵便とか紙とか無駄にしたくなくて」

公的書類は枚数が多い。しかも、まだまだ紙で申請しなくちゃいけないものが多い。郵送にも、印刷するだけでも、けっこうなコストがかかる。そして、とにかく厳格だ。少しのミスで差し戻しされてしまう。
ちょっと考えればわかる。なのに、全然わかってなかった。知らん顔だった。ぼくは、自分の両手がいっぱいのときに、誰かに声をかけられるだろうか。書類一枚の確認も、メールひとつも、めんどくさいと思ってしまうのに。なんだか急に口が渇いて、耳まで熱くなった。申し訳なさが胸に沈む。そんなぼくを察してか、知らずか。並木さんはもう一口コーヒーを飲んで、やっぱり笑って言った。

「さて、と。いつもありがとうございます。来年も、よろしくお願いいたしますね」

よしおさんの代わりに来た石崎さんは、すごく優秀だった。飲み込みも早いし、ひたむきな姿勢がクライアントにも好評で、すぐに管理職に昇格。そして、しばらく働いたあとに転職していった。それでいいんだと思う。

「ほんとうに助けられました。みなさまのおかげです。ありがとうございます」

辞めるとき。去るとき。心からおめでとうとか、ありがとうを贈れるってすごい。贈られるってすごい。それって、その人を表す一番の功績だ。穴埋め、代打、誰かの代わり。誰かの仕事。痛手だけど、ふしぎと苦じゃない。

ぼくはというと、やってる仕事はあい変わらずだ。担当業務と兼任して、事務処理をやってる。大変だけど、相手を想像してちょっと手を入れる。先に確認する。しておく。それだけ。それだけだ。だけど、そのちょっとの想像があるとないでは全然違う、のかもしれない。

[いつもありがとうございます。年末の件ですが~、]

あれから、並木さんとのメールのラリーはだいぶ減った。


あさりの砂出し

「へぇ、そうやってやるんですね」

年末からお正月にかけて、実家にお邪魔している。仕事の都合もあったが、この数年は来ようにもなかなか訪ねにくかったから、久しぶりだ。

「いけー!」
「ああ、ガード下げちゃあ!」
「そこだ!よしっ。よーし」

リビングから楽しそうな声が聞こえる。大晦日のなんかかっこいい名前の格闘技イベント。数年ぶりに観客を入れての開催。熱狂するアナウンサーの実況にまじって野次のような応援が飛んでくる。格闘技好きはお義父さんゆずりらしい。久しぶりの帰省で父娘二人ともお酒もすすんで、だいぶ出来上がってるみたいだ。わたしは全然観ないから、一緒に盛り上がってくれる人がいるとうれしいのだろう。

「ほんと、物好きねぇ。うちの味なんて、どこにでもあるようなやつよ」
「そんなことないですよ。たのしいです」
「そう?」

お義母さんとふたり、台所に立って客用のうつわが入った木箱を開けていく。間に挟んである紙をとり、ひとつずつ並べる。艶やかな朱色の碗。一年に一度の出番だぞ。たしかに年月が経っているのに、まだ新しさが残っているのがふしぎ。わたしの家は奔放というか自由な父母だったので、家族の味とか伝統というのが珍しかった。

「お母さまは、お元気?」
「元気ですよ。旅が解禁したら、すぐに年越しどっか行ってます。今年は、フィンランドだったかな?」
「お母さま、自由ねぇ」

よし、やっていきましょう。うちはお雑煮にあさりを使うのね。別にあさりじゃなくても、貝ならなんでもいいのだけど。大晦日のうちに砂出しさせておくの。お義母さんはそう意気込み、ひとつずつ洗いながらていねいにあさりを確かめていく。わたしもそれに習う。手にとって見ると、形も模様も手触りも、いっこずつ違う。冬の水はさっき飲んだビールの火照りに心地いい温度だった。

「塩は海水に近いくらいに、まあ目分量なんだけどこのくらい」
「なるほど」

手際よくあさりを洗うしぐさに、皺に、重みというか人生みたいなものがにじむ。細く弱そうなわたしの手はまだまだだ。比べるものじゃないけれど、並ぶと差がよくわかる。

「ごめんねぇ。あの子、ずいぶんわがまま言ったんでしょう?」
「いいんです。二人で話して決めたことですし。もともとキャリアとか、そんなに気にするほうじゃなかったので」
「けっこう、いいお仕事だったんでしょう?人事部だったわよね」
「ええ。歳のわりにはですけど。ほら、由結さんのほうがやりたいことが明確でしたし」

テレビの歓声とともに、由結とお義父さんが振り上げた手をハイタッチして飛び跳ねた。試合が決まった瞬間がスローで再生され、それに合わせて由結が細い腕にギュッと拳を作って再現している。お義父さんが大げさにノックアウト。このペースだと、ふたりとも年越しの前にひと眠りしてしまいそうだ。

「でもほら。由結、家事とかてんでダメでしょう?」
「それは、ちょっとそうかも」
「伝え忘れちゃったのかしらねぇ。ごめんなさいね」
「そのうちまたやりたくなったら、わたしも何かやりますよ。それまではお料理、たくさん教えてもらおうと思いまして」
「なんにも知らないのに、つい口ばっかり出しちゃう。歳取るって、やあねぇ」

袖まくりと腕組みで意気込むわたしに、ふふふ、とお義母さんが微笑む。お言葉の節々から気遣いが漏れていて、思わずこっちも口元が和らいだ。

「今は、いろんなあり方があるのよね。二人がそれなら、うん。それがいいのよ」
「ありがとうございます」

大きな木の桶の底、いっぱいに並んだあさりの行列から小さな泡が浮かんでは、音もなくぽっと消える。あさりは海だと勘違いして、安心して、砂を吐くらしい。台所の海。世界に満ちる新しい水。その中でしか見えない呼吸の粒たち。出汁取りにも使うから……といいながら、ほんとはちょっと張り切っちゃった!と、お義母さんはまた悪戯っぽく笑った。

「最後にね、こう手を熊手みたいにして3回半、反時計回りにかき回すの。そうすると、よく砂を吐いてくれるから」
「へぇ、なんでなんだろう?」
「……」

えっと……と一瞬真剣な表情をして、でも、ゆっくりと飲み込むようにまた笑顔に戻る。

「私、これまであんまりなんで?って考えてこなかったんだわ。これも母から教わった通りに続けてるだけ。なんで?って大事よね。もっといい方法があるかもしれないもの」
「……そうかもしれませんね」
「なんでかわかったら、教えるわね。もし先にわかったら、教えてちょうだいね」

競争ですね、と二人で笑って残りのおせちの準備に取り掛かる。緩やかに、でも少しずつ。水の底で呼吸をし、静かに砂を吐き、古い殻を捨てて、わたしたちは家族も形もアップデートしていく。もっといい方法を探して。今年も。来年も。年が明けるたび、朱色のうつわに一番新しい出汁を注ぐ。

おわり。

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