掌編「ブーケと抜け殻」
やばい先輩が結婚した。
教会の並べられた椅子。背もたれ直滑降、ほぼ90度の椅子に座り(いや座るというよりお尻を置く台みたいだ。わたしは置き物になりきる)、風景と化した先輩を眺める。決められた動作。段取り。慣れたスタッフと緊張の所作。
交互に指輪を持ったり、置いたり、署名したり。エセ日本語をすらすら垂れ流す牧師だか神父だかの誓いの言葉がなめらかに流れていく。視界の画角の左上には豪華なシャンデリアの偽物がぶら下がり、上から2段目、右から3番目の電飾がチカチカしていた。本物なんて知らないのに、偽物だってことだけはわかる。
チカチカ、キラキラ。
今にも消えそうで、なかなか消えない。その明滅だけが妙にリアルで、あとはいつの間にか変わっているクイズの絵みたいだ。どこが変わったでしょうか?だらり焦点が合わないまま、背景が緩慢に変化していく。
だんだんお尻が痛くなってきた。この木製の直角は座るようにデザインされていない。馴染んだ木のツヤは、十分に年季を感じさせた。今まで誰も文句を言わなかったんだろうか?ほんとに?我慢が美徳は日本式だろう。ここはどこだ?いまなにしてるんだっけ?
週末、ネットフリックスで観た犬を殺されてブチギレる殺し屋の映画を思い出す。誰かが懺悔しに来たときも、すぐに朝になったり夜になったりするのに。みんな我慢してるのだろうか。お尻が痛くならないんだろうか。……そうか。きっと、お尻が痛いのなんて気にならないくらい、悩んだり迷ったりしている人しか懺悔なんてしないのだ。深い哀しみは尻の痛みも飲み込む。軽い悩みは、座ってるうちに不自由に塗りつぶされる。神はよくできている。
ぼーっとしているうちに、急に周りが立ち上がった。わたしには悪い癖があって、こんなふうにほんとうに考えなくてはいけないことがあるときほど、意味のないことを考えてしまう。妙に何かが気になったり、無駄なことを考えたりしてしまう。コロコロ、コロコロ、考えたり見たりぼーっとしているうちに、気がつくとだいたいわたし以外がぜんぶ進んでいて、はじめる前から遅れているなんてことがよくある。でも、ほんとうに考えなくてはいけないことってなんだろう。なにを考えてたんだっけ?
「どうせ、いつか追いつかれるのよ」
そうだ。先輩はあの日、そんなようなことを言っていたんだ。渋谷のビルの間に流れる川に向かって叫んだあと、ボソッと。たぶん。さっき横を歩いていった顔は、なんとなくそのときの顔に似てたんだっけ。先輩は追いつかれたんだろうか。なんで?何に?
周りに合わせて立ち上がって、促されるまま教会の中央にダラダラと移動した。
「ほら真ん中行きなよ」
「わたしはいいよぉ」
年寄りと男の湿った目線が気持ち悪い。まるで生贄だ。誰かの幸せのための地層。新郎側の親戚の子が寝てる。わたしも眠い。オルガン。バイオリン。白い花。チカチカ、キラキラ。あのシャンデリアは落ちないんだろうか。掃除するときは長い脚立が必要だよね。「いいじゃん」「でもでもぉ」先輩、チューしたっけ?誓いの言葉はなんて言ったっけ?「はい」「誓います」どっちだっけ?どっちでもいいけど。
「それでは、どうぞ」
その瞬間。一直線。
ふと目を上げた先、ウェディングドレスからまっすぐ一直線に伸びた足が天を突いていた。
これは。これは、令和の沢村栄治。飛んでくるのは確実に大リーグボール2号だ。間違い、ない!
来る。
一瞬。またたく瞬間の気迫に押されて、周りの「いいじゃんいいじゃんわたしはいいよぉ」たちはたじろぎ、一歩下がった……ような気がした。
でも、わたしは、動けない。
だって、先輩が綺麗だった。画面の真ん中、視界を縦に真っすぐ引くライン。そこから、達人の如くスローモーションで放たれたブーケの軌跡は、急降下で放たれる流線形の放物線。綺麗だ。いつか光景だ。いつだっけ。どこだっけ?……そうだ。
あの日、渋谷の汚ったねぇ川に落ちていったラインくらい美しい。
「これ、つぶあんじゃねぇかぁぁああああああ!!!!!!!」
午前4時。渋谷。ビルの間。
一口かじったアンパンをぶん投げて叫んでいた、あのやばい先輩が結婚した。
+
いくら飲んでも酔えない。でもアルコールは回る。金曜日の夜。そんな人生の数時間をドブに捨てた帰り道は、たいてい先輩のことを思い出す。
先輩は一億円を蹴った女だ。
セキュリティと家賃を天秤に掛けた結果、都心から電車で30分、駅から歩いて20分。名前も知らない川の横にあるマンションに越してきた。
無駄に重だるい体を引きずりながらオートロックをくぐり抜ける。エレベーターが点検中。朝出たまんま、変わらずに止まっている。なんでだよ。はぁ。さらに気分も重くなり、5階まで階段を上がる。右足。左足。右足。左足。暑い。耐えきれなくなってワイヤレスイヤホンを外してビニール袋に投げ込む。どっかの誰かの歌声がひどく小さくなって、でも鳴っている。どっかから虫の声もする。リーンリーン、ジージー。息を吸い込むと、鼻の奥に川の匂いがした。一日一日、毎日がこんなに長いのに、なぜかもう何年も経った。
はぁ。すぅ。呼吸を整えると、少しだけ体の火照りがコンクリートに溶けていく。
+
先輩に出会ったのは5年くらい前だ。新卒で入った会社で、ダラダラと専門性も獲得しないまま部署を渡りながら、あちこちの都合で押し付けられていた頃だ。PMと言われればなんかよさそうな響きだけど、やってることは水漏れ修理みたいに故障を見つけて直しては去る。その繰り返し。いろんなことに詳しくなって、詳しくなり過ぎずにいなくなる。気がついたら3年が経ち、同期の何人かは転職したり昇進したりしていた。
「これからは営業だけしゃべれても意味がない。話せるやつが欲しい」
これからはプランナーもデザイナーも、いい仕事ができるだけじゃダメだ。いい仕事をつくり、伝えられなくては意味がない。勝てない。バリバリの営業で成績を残していた先輩が、どこで聞いたのか、なぜかわたしを指名した。たぶん一番都合がよかったんだと思う。どこでも、いてもいなくても、誰でも代わりがきくやつ。そういう人間は、意外と会社に少ない。どう見繕っても口下手、役不足の能力なしを自覚していたわたしは、文字通り金魚の糞になって先輩の提案やら営業やらに同行したり、オンラインミーティングでニヤニヤ笑顔をつくってはうなづいたりすることになった。
「よし、でかい案件を取りに行くから」
なにが「よし」なのか。「外面の言葉を磨け」「考えろ」「後で嫌な思いするくらいなら最初に手間を掛けろ」「ルールをつくれ」「答えがなければ聞け」「聞いてダメなら別の人に聞け」「聞く人がわからなければ相談しろ」「一人でやるな」「思考は共有しろ」「嫌だったら言え」「感情と必要は分けろ」「役割を意識しろ」……ets。鍛えられた、といえば聞こえはいいけれど、今思えばいろんなものに引っかかる気がする。でも、やめることすらめんどくさかった。はい。ええと。まあ。そうですね。そんなバリエーションだけが増えていった。
「錫は、どう考える?」
そう。どんなに拙くても、アホみたいな言葉でも、それでも先輩はわたしの話を遮らなかった。毎回必ずどう考えているかを聞いて、その次には上位互換の言葉やフレームで返してくれる。だんだん大変さよりも、仕事のたのしさが上回った。はじめてだった。たぶんちょっとバグってたんだと思う。連日遅くまで資料やプレゼン、構成を詰めては消し、やり直し、また詰める。そんな日が続いて、朝も夜も仕事で頭を埋め尽くして、寝ても覚めてもディスプレイとデータとチャットの打ち返しをしていたら、ほんとうに大型案件を受注していた。公式サイトのリニューアルを起点としたマーケティング戦略全般の統括支援プロジェクト。まずは一億、その先に拡張性もある素晴らしい座組みだ。誰もが知ってるクライアント。きっと、価値のある仕事。
「統括PM 鈴木 錫」プロジェクトの役割表、トーナメントみたいな広がりのなかのひとつに自分の名前が入ってるのが不思議だった。
+
ガサガサ。……これなんだっけ?そうだ、コンビニに寄ったんだった。水と、なんかアルコールに効きそうなビンのやつと、ホイップが載ったプリン。スプーンはつけますか?いらないです。コンビニからしばらくは天使の心でやさしく、地球にやさしく、縁日の帰り道の金魚みたいに、ていねいに揺らさないようにしていたのに。いまはもう中も見たくない。いらない。ぐるぐるぐるぐる。ぜんぶぐちゃぐちゃだ。
「じゃあね」
その一言で、先輩はいなくなった。それからしばらく、先輩の絞りカスみたいになるべくおんなじように仕事を回した。そうしたら、あっさり昇進した。知らないうちに名刺の文字が増えていく。
「鈴木さんには、いくつかチームを持ってもらうから」
いつの間にかわたしが先輩と呼ばれるようになった。嘘みたいに嘘をついている気分がとれないまま、ここまで来てしまった。
スマホをかざしてドアを開ける。倒れ込みたい誘惑を振り切って、乱雑にパンプスを脱ぎ捨てる。ドサッと玄関にビニール袋を落とす。もうやさしさの欠片もない。
イヤホンの音はいつの間にか聞こえなくなっていた。壁伝いにキッキンまで行き、流しに置きっぱなしのグラスとおんなじグラスを棚から取り出す。おそろいのグラス、だったもの。今はただのおんなじ2個のグラスになったもの。乱暴に蛇口を引き上げ、水を入れる。ジャー。派手にこぼれたが、どうでもいい。早押しクイズみたいに手を振り下ろし水を止める。グラスに半分は残った水を一気に飲み干して、やっと少し落ち着いてきた。今度はゆっくり蛇口を引き上げる。ツー、トトトトと少しずつグラスに水が満ちていく。もう少しでいっぱい……となる直前、ピンポーンとまた手を振り下ろして水を止めた。
リィーン。
なんの音だろう。遠くに響くような金属の音。きれい。蛇口を引き上げる。ジャー。止める。ポタ。グラスの水を捨てる。パシャ。ジャー。パシャ。耳を澄ましてもさっきの音はしない。ジャー……。水がグラスから溢れて手を滴り落ちる。今度はさっきみたいに勢いよく水を止める。
リィーン。
ジャー。ヒュッ。リィーン。パシャ。ジャー。ヒュッ。リィーン。水道管に響いて鳴るのだろうか。パシャ。ジャー。ヒュッ。リィーン。どこまでも響くような、きれいな音。こんな音が鳴っていたんだ。知らなかった。イヤホンもつけてない。テレビも消えている。スマホは充電切れ。ぜんぶオフにしたら、夜は音を返してくる。
+
しばらく蛇口を弄んでから、南向きのでかい窓を開けると、ベランダにも音がたくさんあった。ザー。川の音。リンリン、ジージー。虫の音。遠くの電車の音。コトッとコンクリートにグラスを置くと、おんなじ形に滲んで、そこだけ色が闇になる。
充電切れのスマホの電源を入れてみたら、ハローとだけ出てまた消えた。ぐるぐるぐるぐる。片手に収まるただの板のくせに。なんでも出来るドラえもんに思えるときもあれば、うんともすんとも言わない死骸になるときもある。結局ただの枷にしかなってない気もする。帰り道、つい見ちゃうSNSやらなんなら。いらない。でも気になる情報の海。元彼。元パートナー。元友達たちの生活の切れ端が流れていく。過去のものってなんで「元」ってつくんだろう。元気の元じゃん。どう考えても元気じゃない。もと、なんて後ろ向き以外で使わないのに。でも「げんき」とか「ゲンキ」なんて書くと、一気に嘘っぽい。元気って、よくよく考えたら前向きハツラツな漢字じゃない。完全、ただの元の気分でしょ。一周回ってゼロじゃん。素がまともで、ゼロで息出来る陽キャな奴らだけに成り立つやつじゃん。
「お疲れ様でしたー!」
「乾杯!」
上司のマイホームも、後輩のキャリアも、あれもこれも、適度なプライベートも、大して興味ないくせに聞くフリも聞かれるフリも、ぜんぶがぜんぶどうでもいい。でも、一番嫌いなのはどうでもいいのにどうでもいいって言えないこと。なんとなく笑ってたら流れていく時間が一番楽ちんで、選ばないをずっと選んでて、やりたいも好きも嫌いも大好きも知らんがなもわかるよもわからないも言えなくて、えへへどっちつかずで笑うときの口角の作り方だけ天才的に覚えてて、覚えちゃって、忘れられないこと。
「先輩って、なんかときどき話聞いてくれてるかわからないときあるんすよね。なんか、ここにいるのにいないみたいな。いつもなに考えてるんですか」
わたしが先輩?いまだに慣れないその呼ばれ方にドキッとする。知るかよ。聞いてるよ。聞いてるんだよ。でも、その速度で生きられないんだよ。えへへ。口角。この角度。泣きたい。聞いてたんだよ。ちゃんと。でも、言えなかったんだよ。言えるようになったら、もういないんだよ。だいたいが、そういうもん……なんて、やっとチームに馴染んできた後輩に言えるわけもない。
なんか叫びたくなってきた。いいかな。ダメだろうな。絶対ダメ。東京はこんなにうるさい街なのに、いつだってどこだって叫んじゃいけないだよ。でも、ダメと言われるとやりたくなるんだよね。変なの。どっちが?わたしが……知らんけど。思いきり息を吸い込む。アルコールの残り香と明日1日分くらいの決意めいたものが肺に充電されていく。どうせわたしは明日もおんなじように笑うだろう。2つのグラスをまるでもともと1つずつだったように使うさ、玄関のプリンをほんのちょっと申し訳ない気持ちで捨てる。嫌いな自分から目を背けて、それでもときどきこんな夜を過ごして、やり過ごしていくんだろう。たぶん。
「……ばっっっかやろーー!!!」
あの、ほら?遠くに見える小さな点。その光の中、マンションの最上階の角部屋にわたしとおんなじような子がいてさ、ベランダでたまたま一緒に叫んで、その声はぶつかって相殺されて、夜に消えてしまう。わたしの声は、わたしの中にいる「どこかのわたし」が、勝手になかったものにしてしまう。叫んでも、叫んでも、声になる前に打ち消されて、「ああ」とか「はい」とか、絞り出されたカスみたいなうめきだけが口から出てくる。それでも口角を上げて笑う。普通を演じていく。
でも、精いっぱい空気を揺らして、不安なくらいほんの少しの波。そのほんの少しが必要なんだ。ときどき。思いきり叫んだぶん、冷たい空気が肺に返ってきた。
「うるせぇ!何時だと思ってんだ!寝ろ!!!」
「はーーーい!」
夜はわたしに声を返す。返してくれる。音が鳴っている。返ってくる。息が白い。深呼吸。足を擦り合わせながら乱暴に窓を閉める。あー、寒いな。うん。誰だか知らないあのおっさんに、明日めちゃくちゃいいことありますように。
そうだ。明日は、先輩の結婚式だ。
+
「それでは、これからよろしくお願いいたします」
役員クラスまで、関係者が集まってプロジェクトのキックオフだった。先輩が組み立てた通り、滞りなく進み、質疑応答もほとんど予測の範疇で終わった。ちらほらと画面が消えていくに連れ、残った人の画面が大きくなる。
「鈴木さん、少し残れますか?」
消えていく画面に脂っこい個別チャットが飛んできた。ああ、これはまずいやつだ。頭ではわかっていても「はい」と返していた。これまでもめんどくさいからてきとうにスルーしていたけれど、もう何度目かの呼び出しだ。
思えば、この担当者ははじめからこうだった。やたら自社側のミーティングツールを使いたがったり、「コミュニケーションは透明で密に」とかなんとか言ってカメラオンの空気にしたり、バストアップは映るようにしてくださいとか言ってきたり。常習犯なのだろう。それでもクライアントだ。クライアント。クライアント。クライアント……。そう言い聞かせながら、心を閉めて表ではニコニコを貼り付ける。そう。外面の言葉を磨け、だ。
「鈴木さんは、地味だけど美人ですよね」
「はぁ」とか「まあ」とか、声にも息にもならない音が口から漏れる。こういうの、なんて言えばいいんだろう。「地味」も「だけど」も「美人」も、すべていらない一言だ。余計な言葉の三連単、クソ野郎が裏ドラに乗った。競馬も麻雀も知らないけど。奇跡的に胸糞悪い。
少し遅れて、議事録用に付けていた文字起こしが画面に流れる。倍率ドンのさらに倍ハラスメント。
でも、ごめんね。
「基本的に在宅フルリモートです」をなぜか信じてたんだろうけど、今日は鬼がいる。
キックオフのあと、今後のすり合わせをすることになっていて、久しぶりにオフィスに出社していた。すーっと、バーチャル背景から現れた先輩は、文字通り鬼の形相だった。
「これは、どういうことですか」
+
そこからは台風だった。
「追って連絡します」
ぼーっとしているわたしに代わって、ミーティングを切る。相手の担当者は最後までモゴモゴなにかを言っていたが、よく聞こえなかった。
先輩は一通り叫び散らした後、さっきまでにこやかに挨拶していた役員たちに順番にチャットだの電話だのをかけまくった。何人か出社していた上司を呼びつけて、そのまま別の会議室に怒鳴り込んでいった。
わたしはそのまま、「ミーティングは終了しました」と表示されたウィンドウと、天井の配線や空調のダクトをぼんやり眺めていた。なにかとんでもないことをしてしまったような、わたしが台無したことへの焦りと開放されたような感覚。綺麗にまとめられた何かしらの配線。天井からぶら下げられた観葉植物。細長い蛍光灯。空調の音。自販機の唸り。ブーン。時間が止まったような気がする。でも、止まっていなかった。座ってるのに立ちくらいみたいに視界が歪んで、過剰に眩しかった。気がついたらパソコンの電源が落ちた。
「まだいたの?」
少し声を枯らした先輩が、戻ってきた。さっき出ていったと思ったのに、いつの間にか何時間も経っていた。もうすぐ今日が終わる。
「……付き合って。酒飲んでなかったことにしよう」
24時間やっている名前だけ海辺の居酒屋に駆け込み、ビールを煽る。乾杯。何に?さあ?もうビール入らないと言って、焼酎をロックで飲む。
焼酎無理と言って日本酒を高いやつから、かたっぱしから頼んでいった。人生を麻痺させるには、わたしたちの肝臓は強敵過ぎたらしい。肝臓にも見放されていたのかもしれない。フルラウンド浴びるように飲んで、飲んで、飲んで、午前3時頃にやっとフラフラの足取りで店を出た。
酷く喉が渇いていた。まるでカラカラのクレオパトラだ。クレオパトラ?クレオパトラはミイラじゃなかった。でもいいか。絶世の美女だってほどよく乾かせば、たぶんミイラだ。包帯でグルグル巻きの乾燥死体。みんな大して変わらないと思う。ごめんパトラ。どうせ、日本語も天国も通じないだろうけど。ごめん。ごめんね。ごめんなさい。
ふたりで歩道橋の脇にあるファミリーマートに駆け込み、目につくものをかたっぱしからかごに入れた。水。ホイップクリームがのったプリン。手遅れだと肝臓に怒られそうなビンに入った栄養剤。先輩はアンパンを投げ込んでいた。手にとっては戻し、戻しは手に取るの繰り返し。意味もなく、ずっと笑いながら。
「袋はいりますか?」
「お願いします!」
「ペイペイ!」
ああ、こんなときでもペイペイは変わらないテンションで金を払う。いいな。羨ましい。いつも、どんなときでも、ブレない。完璧な外面の言葉。わたしはペイペイになりたい。どうだろう?憧れるけど、やっぱり嫌かもしれない。
歩道橋を渡り、ビルの合間に流れる偽物の川にかかる橋を渡る。朝の手前。誰もいないオフィス街のくせに、どこからか人間が暮らす匂いがする。何かが腐ったような、渋谷に蒸したコケの匂い。マックの匂い。降ってない雨の匂い。先輩は追い越しざまわたしの提げたビニール袋からアンパンを取って、潰すようにパンッと開けた。ピタッと立ち止まり、一口かじる。
「これ、つぶあんじゃねぇかぁぁああああああ!!!!!!!」
叫ぶやいなや、先輩はこれまで見たこともない美しいフォームを構える。ピッチャー振りかぶって、投げた。高い。高く。高く。空へ。放たれたアンパンの行方。美しい放物線を描きながら、頂点までアンパンは登っていく。そして重力に捕まって、ゆっくり、ゆっくりと落ちていく。
綺麗だ。
キラキラ、キラキラ。朝日が汚い川面に反射して嘘みたいに輝いている。静かに落ちていくアンパンの軌跡。そのライン。これは、なんだっけ。どこかで見たような気がする。……あれだ。そう。ムンクの、叫びじゃないほう。夏の夜、声。ぽっかりと引かれた月の灯り。もう朝だけど。
「きみたちは、もしかしたらこんな時間は無駄だと思っているのかもしれない。単位のひとつとしか思ってないかもしれない。しかし、教養は人生の素地だ。ある日、ある時、ある瞬間。きっと、あなたの人生とつながるときが来るでしょう」
大学の講義でおじいちゃん教授が言ってたっけ。西洋美術史Ⅰ。えっと……古川先生だ。たしか。
先生。わたしのムンクはこんなところで叫んだけど、これで合ってますか?いいんでしょうか?
そのまま川に落ちると思ったアンパンを目で追っていたら、上空から何かが飛んできた。速い。でかい。黒い。見たこともない大きさのカラスだった。まじか。そのままカラスはアンパンを空中で捕まえると、ビルの間に飛び去っていった。
「うそでしょ」
ふたりの口から、まったく同じリアクションが漏れる。一瞬して、わたしは笑った。先輩も笑った。先輩は笑いすぎてちょっと吐いた。
「どうせ、いつか追いつかれるのよ」
夏の夜と朝の隙間。午前4時。
先輩の声が、渋谷に残響しながら遠くに溶けていく。
その後は、どうしたっけ?
うまく覚えてない。
+
何回かのミーティングを重ねて、先方から謝罪があった。あの担当者はもう出てこず、これからは別の担当者をつける。まとまりそうなところで先方の役員が口走った「状況からこちらに非があると思われるが、証拠もない。どうか穏便に仕事を進めたい」に、再び先輩が切れた。
「証拠なんて必要ない。御社との取引はもうないので」
わたしはもうなにも言えず、ただただ黙っていた。そのうちミーティングにも呼ばれなくなった。
慌てた上長が先輩の説得を試みていたようだが、数日したら、いつの間にか「どう修復するか」から「どう断るか」になっていた。先輩はこれまで組み立てたスキームで、まったく別のクライアントからより条件の良い案件を受注してきた。会社なんて、そんなもん。結局わたしはより条件の良い方の案件に入ることになり、その後は詳しく知らない。案件が軌道にのった頃、先輩は会社をやめた。
「じゃあね」
先輩は、わたしの代わりに怒ってくれたのだろうか。仕事だからだろうか。それから、追いつかれたんだろうか。何に?なんで?何を?
あの日と同じフォームから繰り出されるブーケの放物線。一直線に向かってくる軌跡。思い切り胸に衝突した豪速球の花束を、思わず落とさないように抱きしめた。淡くて甘い香りがいっぱいに舞い上がる。
ポツポツと周りから拍手が起きて、何もなかったかのように式はもとに戻っていった。もしかしたら、ほんとうに何もなかったのかもしれない。ぜんぶ嘘だったのかもしれない。
「先輩、おめでとうございます」
「ありがとう」
元気にしてた?はい。おかげさまで。他愛もない話をして、何度かおめでとうございますを伝えて、テニスの練習みたいにお決まりのラリーをして。もう先輩とは、外面の言葉でしか話せないのかもしれない。それでも、あの時間は嘘じゃないと信じたい。
「先輩」
「なに?」
「相変わらず、いい肩してますね」
「……でしょう?」
一瞬だけ、あのときに帰ったみたいに先輩は笑った。
+
ぼーっとしていたら、乗り換えの渋谷駅で降りてしまった。癖とは恐ろしい。歴史未満でも時代は変化する。リモートワークも出社も、今じゃ半々くらいだ。
夕焼けがビルの合間に差し込んで、川に反射している。無駄にばかでかい引き出物を置いて、先輩みたいに構えた。
ピッチャー振りかぶって、投げた。
わたしの身体はすべてがぎこちなく、なめらかの対極の動きをした後、ヒールが引っかかって転びそうになるのをギリギリでこらえる。
キラキラ、キラキラ。
ブーケは、不格好に手からすべり落ちていく。わたしは、まだ追いつくにはほど遠いらしい。
おわり。
待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!