『ハンチバック』読後感想

芥川賞を受賞した『ハンチバック』を読んだ。感想を書く。

店頭に並んだときは芥川賞候補作のときの帯がついていて、女性の芥川賞作家が推薦文をよせている。ひとりは「小説に込められた強大な熱量にねじ伏せられたかのようで、読後しばらく生きた心地がしなかった」と書いている。そういう感想もあるのかもしれない。とはいえ芥川賞はあくまで新人賞であり、これまでの芥川賞受賞作がそうであったように、本作は新人作家に相応の出来のいい小説という印象を超えるものではなかった、というのが私の正直な感想である。

作者のプロフィールには「筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症及び人工呼吸器使用・電動車椅子当事者」とある。本作の主人公である「釈華」も同じような境遇にある人物であり、まさに「当事者」でなければ書けないようなディテールに満ちている。たとえば、「紙の本に感じる憎しみ」のくだり。これはネットの記事でも話題になっていた。記事を読むと、フィクションである「釈華」にとどまらず、作者じしんも出版界の「健常者優位主義(マチズモ)」を告発する姿勢をとっているとみえる。こうしたパースペクティブも、当事者でなければ、なかなか気がつかないところで、考えさせられる。

だとすると、そうしたディテールやパースペクティブなどは、かならずしもフィクションのかたちを取らなくても、すぐれて表現できるのではないだろうか。という疑問が湧く。一読して、これらは小説よりも、むしろ当事者目線のルポやエッセイが持ちうるポテンシャルに近いと思ったのである。

だから、ここでは本作が持つ「フィクション」の要素に着目したいわけだが、特に重要なのは、ひとつは1:自称弱者男性である「田中」との間に起こる出来事であり、もうひとつは2:ラストで描かれる作品そのものに関するギミックである。両者を踏まえると、『ハンチバック』の要約ができる。

以下はネタバレ。

疾患のために子供を残すことはかなわないだろうが、ならばいっそ「子供を堕ろしたい」という願望をもつ女性「釈華」が、1:自称弱者男性と金銭のやり取りを通じてそれを実現しようとするが失敗し、2:しかしその顛末じたいが、子供を妊娠する能力と意志のある女性「紗花」の書いたフィクションだった。『ハンチバック』とはそういう小説だと一息にまとめても差し支えないだろう。

本作の評価は、これらの出来事がいかに語られているかにもとづくべきであり、ルポ的な観察の細かさや、エッセイ的な主張の是非で測るべきものではない。私はそう考える。そうでなければ、良識をそなえた当事者(やその代弁者)しか文学できなくなってしまう。

まずは2について。

このギミックによって、本作はフィクションとしての体裁が整っている。この結末ゆえに、『ハンチバック』はルポやエッセイではない。したがって「純文学」である、とも言い募ることもできる。

そのアイデアはいいとして、実践としてそれが成功しているかは疑問だ。この結末が成立するには、「紗花」編の語りが、「釈華」編の語りに比べて、描写や人物造型などふくめてあまりにもペラいのである。

そもそも、われわれは「これは小説だ」と知ってて小説を読んでいる。ルポやエッセイと勘違いしているのでない限り(もしそうだとしたら、そうとう失礼な読者ということになる)。だから、作中で「これは小説でした」と言われても、感動も意外性もないのである。本作を「純文学」にするための、とってつけたような結末にしか見えない。

もっとも、「これは小説でした」という語りがすべて無意味というわけではない。たとえば、「釈華」が描くフィクションの中には「紗花」みたいな女性が登場する。もしも「釈華」編と「紗花」編の双方が同等の強度をもって描かれていれば、章を隔てて2つの物語が入れ子構造をなす奇書『匣の中の失楽』のように、語りそのものがもたらすリアリティの宙吊りを本作は表現していただろう。

もしかすると作者にもそういう表現が念頭にあったのかもしれない。とはいえ、やはり総合的に見ると、語りの戦略性よりも、フィクションとしての脆弱さが際立ってしまっている。多くの新人賞受賞作がそうであるように。

次に1について。

主人公は(あくまで「釈華」編での話だが)、「子供を堕ろしたい」という願望を、弱者男性に金を払って実現しようとする。こうした願望は現実社会ではいまのところ足場をもたない。フィクションの中でこそ十全に展開できるテーマであると思われる。その点では、本作はラストを除けば成功した小説だと評価することもできる。

ただし、私が読んでいて目についたのは、釈華による語りの「良識」性である。たしかに「子供を堕ろしたい」という願望は過激であり、反社会的でさえある。書店で私はこの一節を立ち読みして、本作を読んでみようという気になった。いいじゃないか。どうせフィクションなんだ。やりきるところまで、やってしまえばいい。しかし、結果として釈華はそこまで社会に迷惑をかけていない。本人がいささか苦しんだだけだ。他人を騙したわけでもないし、徹底的に巻き込んだわけでもない。しかも相手は金銭で釣っても気が咎めなさそうな弱者男性である。ついでに指摘すると、この弱者男性もかなり類型的に描かれている気がしないでもないが、2の設定がそれを巧妙に正当化している。

したがって、釈華は二重にフィクションの登場人物であるのだが、にもかかわらず「良識」ある人々からの視線をひどく気にしている。もっといえば、ビビっている。そういう印象をあたえる。さながらルポかエッセイの書き手のように。語りに反して本作の主人公はいたって健康的な精神生活を送っているのが明らかだ。フィクションにおいて健康とは退屈の謂でもある。

このあたりは、時代の風潮もあるだろう。ともかく、釈華は子供を孕むことができなかった。もちろん「紗花」編をふまえて戦略的にそうしたのだ、という可能性はあるものの、フィクションが「良識」(そこには当事者性の尊重も入るだろう)を前にして、その限界を露呈しているように感じた。その限界は、作家個人の資質というよりも、そうした作品が歓迎されるという、ここ数年の空気感がもたらしたものだと私は思う。(終わり)




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