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トクベツってやつになりたかったんだ

中学の頃、自分が平凡であるということに愕然として、悲しくてしかたなくて、涙がたくさん出た。
もし私にこういった気持ちを鮮明に書き出せる才能があれば、「トクベツ」であれたのに。と今でも考えている。
私は「トクベツ」であるということにどこか執着しているのかもしれない。

最近考えるのは、この「トクベツ」ってやつは、きっと才能と呼ばれる類のもので、才能ってやつは、自分が思っていたより些細なものかもしれないということだ。才能はきっと、沢山の努力の先で少しだけの差を見せる、そういう要素なのではないか、と考える。

そもそも努力をしていない私はまだその土俵にも立てていないように思う。
土俵に立ててもいないくせに、「トクベツ」に執着して苦しくなっている。もし才能があれば全て解決すると思っている。そんなわけないのに。

努力も才能のうちと言う人がいる。たしかに努力には向き不向きはあるように思う。
そもそも自分は「努力をしている」と意識して行動したことがないし、大変めんどくさがりであるので、しんどいことはしたくない。そういう意味では努力に向いていないのかもしれない。
しかし、誰しも頑張ることはできると、信じている。誰しも子供のころは、努力と思わずにいろんなことに全力で挑戦してきただろう。きっとそれが、根源的な「努力」であるのではないだろうか。

もし努力まで才能にされたら、どうなってしまうだろうか。自分は「トクベツ」ではないのだと、全てをあきらめる理由にしてしまうのではないだろうか。それじゃ、自分がダメになってしまう。
私はどうしようもなく凡人だけど、それを理由に沢山のことをあきらめてしまってはいけない、と思う。

いつだって、自分の欠点を探してないものねだりをするのは簡単で、人を羨んだり、妬んだりしてしまうことも容易い。私はその理由に「トクベツである」ことを挙げてしまうけど、それはきっと頑張った人達しか使えない言い訳ではないだろうか。

私はどうしても「トクベツ」に憧れてしまうけど、凡人であることに愕然としてしまうけど、それが苦しくても、頑張って土俵に立ちたい。人生をあきらめたくない。

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