やさしくなれる誕生日
先日、11月12日。
僕は22歳の誕生日をむかえた。
19歳から20歳になる時には、10代が終わる虚しさを感じた。
20歳から21歳になる時、自分の未来について不安と希望を思い浮かべた。
そして、22歳。
日付が変わる時、ここまで誕生日と意識しなかった日はないかもしれない。
日付が変わって、携帯の通知がなる。
自分の誕生日を知っている心優しい友人たちがおめでとうメッセージをくれた。
僕はそのやさしさに対して、本当に何も感じなかった。
僕はもっと祝ってほしいと思ったのか、Twitterに言葉を投げかける。
ぶっきらぼうで、投げやりな報告を
そして、目を閉じて、
11月11日を終わらせた。
やさしくなれる誕生日
2週間くらい前、誕生日を祝う予定はなかったので、アルバイトのシフトで自分の誕生日にシフトで✖をつけなかった。
僕は週3くらいでアルバイトをしていて、その週は予定はなかったから、確率としては、3/7。まあ、40%くらいだろう。
僕はきっちりその40%を引いた。
そういう運命なんだろうなと割り切って受け入れていた。
まあ、その後、友人から飲みに誘われたのは別の話である。
誕生日当日、前日の夜にテキトーに投げかけたTwitterの投稿に反応してくれる人たちがいた。
その人達にありがとうという旨をお伝えした。
僕はこの時も特に感情は動かなかった。
会ったこともないもない人の誕生日を祝える平和な世の中だなと思えた。
誹謗中傷で溢れるSNSでも、こういう温かいメッセージを送れる人がいるなら、捨てたもんじゃない。
変に誕生日と意識せず、いつも通りの1日を過ごそうとした。
英会話に読書、YouTubeでバイトまでの時間をつぶした。
時間になり、アルバイトに向かおうとすると、誕生日にバイトってどうなんだろうという寂しさみたいなものを感じた。
普通に出勤して、普通に業務に入った。
そこで、先輩に呼び出され、事務所に向かう。
先輩に呼ばれた時点で、僕は察していた。
僕が働いているアルバイト先はスタッフの誕生日を祝う習慣があって、寄せ書き的なものをもらえるのだ。
僕はこのアルバイト先が4年目なので、今回貰うので4回目だった。
「ハッピーバースデー」
陽気な先輩が寄せ書きを僕に渡す。
僕はとりあえず、お礼を言って、寄せ書きを自分のロッカーにしまった。
この時も、僕は特に何も感じなかった。
アルバイトの休憩中、年下のスタッフがプレゼントをくれた。
ボールペンだった。
この時に僕は少し感情が動いた気がした。
それは
異性のスタッフに祝ってもらえたことが嬉しいのか、
プレゼントが嬉しいのか、
分からなかった。
アルバイトが終わり、家に帰って、ご飯を食べて、風呂に入り終わって、携帯を見ると、追加でおめでとうメッセージが来ていた。
それで思い出したように僕は寄せ書きをひらき、メッセージを見た。
そこで今日はじめて、心が温かくなるのを感じた。
僕は来年、就職なので、このアルバイトとももうすぐでお別れだ。
そう思うと、少し名残惜しくなった。
1人1人のメッセージを見て、その人たちとの思い出を自分の頭の中で想起させる。
本当に心がポカポカするような気がした。
ここで今日初めて、僕に関わる人達が僕に向けてくれたやさしさに気づくことができた。
自分がいろんな人のやさしさに助けられていることも気づいた。
今日、形だけの礼を言ってスルーしてきたおめでとうメッセージが本当にありがたいものだと感じることができた。
人はやさしさを感じたときに、純粋にその人たちにやさしくしたいと思える。
この感情は清らかで誇らしく、そして、温かいものだ。
誕生日は色んな人が祝ってくれる。
関係値の深い人から浅い人まで、普段よりはみんなやさしさを向けてくれる。
そのとき、自分がやさしさを向けられていると実感できる。
それをきっかけに自分に対してその人達がどういう風に接してくれていたか気づける。
気づかなかったやさしさに気づける。
やさしさが当たり前になって、やさしさのアンテナが低い人がいる。
かく言う僕が代表例だ。
だから、
特別みんなやさしくしてくれる誕生日という日を、みんなのやさしさを認識するべき日だと思った。
そうすれば、この温かい感情をもって、自分自身もやさしくなれる。
誕生日は祝われる日でなく、1年に1度のやさしさを認識して、やさしくなれるチャンスの日。
そういうとらえ方もあるんじゃないかと思う。
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