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恋心中


 春、木漏れ日が降り注ぐ。夏、緑葉が陽光を散りばめる。秋、もみじが舞い落ちる。冬、白く厚化粧した枝がしなる。一年の間に全く違う姿を見せてくれるあの木の下のベンチで彼は、この先もずっとこうして座っていたいと告白をしてくれた。突然の言葉に驚きつつも涙ながらに承諾したことを今でも忘れられない。──あれからどれくらいの時間が経っただろうか。

 20歳になったらちょっと背伸びした旅行に行きたいね。彼はそう言った。19歳になったばかりの時だった。片岡卓也とは高校の時に出会った。隣のクラスに体が大きくていつも眠そうにしてた子がいたから、私たち女子の間では秘かに『クマさん』というあだ名で呼んでいた。初めて会話したのは高校2年生に上がった時。クラスが一緒になった。厨二病丸出しの自己紹介には正直ひいた。去年までは少しだけ話してみたいなという興味があったが、いざ同じクラスになると印象が180度変わった。
 2年生になり3週間たった頃、私に人生で初めての彼氏が出来た。なかなかのイケメンを捕まえたと喜んでいたのも束の間、すぐに破局した。ドがつくほどのクズ野郎だった。そんな落ち込んでいる私の話を聞いてくれたのが前の席に座っていた卓也だった。どうやらプリントを前から後ろに回す時になかなか反応がなかったのが気になったらしい。色々話していくうちに、最初に彼に抱いていた印象とは打って変わっていった。女の子が落ち込んでいる所に漬け込むのはいかがなものだろうか。俯瞰的に見ればずるいとも思えるが、当時の私にとっては彼が唯一の支えであったのは間違いない。次第に芽生えたのは恋心だった。ただ、それは彼も同じだったらしい。学校から2駅ほど離れた所にある公園で夜まで話すこともしばしばあった。古びた木製のベンチはいつも温かかった。

 高校生という限りある時間は、あっという間に最後を迎えた。二人とも県内の企業へと就職することが出来た。彼は工場勤務、私は銀行へ入行した。東京へ研修に向かって早3週間。ようやく帰ってきた日の夜中、一通のLINEが私のスマホを振動させた。『いつものとこに来て』とだけ書かれていた。履き慣れないパンプスとタイトスカートは、いつもの公園への道のりを長く感じさせる。月明かりに照らされたベンチ。彼はいつものように座っていた。待ったかと聞くと待つのは好きだといつもの言葉を返してきた。少々の沈黙の後、先に口火を切ったのは彼の方だった。

   「なあ沙耶。」
   「ん?」
   「俺たちさ、毎日こうして話してたじゃんか?」
 「そうだね。」
    「これからもさ、沙耶とこうして一緒に座っていたいと思ってる。」
    「……」
    「……俺と付き合ってほしい。」
 「もう。どれだけ待ったと思ってるのよ。ばか。」
  「ごめん。なかなか気持ち伝えられなかったんだ。あと、誕生日おめでとう。これ」

 そう言って渡してきたのは、月光を反射させるほど輝いたシルバー色のピンキーリングだった。内側に小さく『SAYA』と刻印されていたのに気づいたのはそれから10ヶ月も経った頃だ。どこで知ったかも分からない指のサイズに思わず震えたが、素直に嬉しい気持ちでいっぱいになった。
 社会人というものは、どうやら忙しさと切っても切れない関係になるらしい。毎日の業務から来る疲れは想像した以上だった。窓口担当の私は客の対応におわれる毎日だった。一方の彼は世界に名を馳せる企業の工場ということもあり、手当も良く給与もそれなりにあった。彼の誕生日にはネックレスをあげた。高貴なブランド物には手を出せなかったが、彼の誕生石である小さなガーネットをはめ込んでもらった。真っ赤な輝きが彼にはよく似合っていた。宝石を握りしめ目を瞑り何かを唱えている様子すらも愛おしく思えた。

 お互い土日休みの勤務形態のため、2人でデートすることは多かった。どこか遠出する訳ではなく、ショッピングに行ったり、美味しいご飯を食べたりということがほとんどだった。もちろん体を交えることも少なくはなかった。お互い実家暮らしのため、家デートの時は親のいない時間を狙ったり、たまにはホテルに行ってみたり、そうやって2人で今夜の作戦を練る時間が、何かいけないことをしているみたいで楽しかった。
 社会人になってからの一年は、これまでとは比べ物にならないほど早く感じた。そう感じたのは彼から2度目のサプライズをされた時だ。残業終わり、LINEの通知がスカートを震わせた。時間はあるかと彼から来ていた。仕事終わりの疲れた体でいつもの場所へと向かった。今日もまた彼はベンチに座っていた。どこか懐かしい光景に感じたのも気のせいではないだろう。彼は缶コーヒーを渡して、そっと私を座らせた。

 「仕事お疲れ様。」
 「ん、ありがと。」
 「後輩は出来たか?」
 「まあね、指導だけで疲れちゃいそう。」
 「そうだよな。俺もだよ。」
 「んで?今日は何?」
 「ああそうだ。沙耶、誕生日おめでとう。」
 「え?ああ、そっか今日誕生日だったのか。ん、どうも。」

 本当に一年というのは早いものだ。まさか自分の誕生日すら忘れているとは思わなかった。彼から祝福と共に渡されたのは1枚の紙切れだった。軽井沢と書かれていた。

 「これ、職場の先輩から貰ったんだ。知り合いが旅行関係の仕事をしているらしいんだ。よかったら明日行かないか?」
 「え、軽井沢ってそんな。高そうなのに。本当にいいの?」
 「大丈夫だよ。せっかく貰ったんだし、都合が悪くなければ俺と一緒に行って欲しいな。」
 「うん、大丈夫だよ。ありがとうね。」
 「おう。一緒に楽しもうな。」

 そういって彼はぎゅっとハグしてきた。ヒラヒラと舞い降りてきた桜の花びらが彼の背中に乗った。まるで空から降ってきた雪が恋をしているかのようにほんのりとピンク色に火照っていた。

 次の日の朝、彼が家に迎えに来た。最寄り駅へと車で向かい、そこからはバスでの旅だ。私たちの他に20組ほど、若いカップルが同じバスに乗るらしい。年寄りばかりだったらどうしようかと不安だったが、少し安心したことは彼にはきっと伝わっていないだろう。この先、1時間半ほど走る箱に揺られるらしい。車中、窓から見える景色を見ながら彼と談笑した。1時間半に思えないほどあっという間だったのは、きっと彼の話が興味深く、考えさせられるものが多かったからだろう。ノーベル賞受賞者に京大出身が多い理由について考えていた時には、もう目的地に着いてしまった。バスを降り、案内されたのは大きなホテルだった。綺麗に整備された水辺には鯉が見えた。真っ白な外壁に赤いとんがり屋根が乗せられていた。正面の自動ドアを抜けると、かしこまった素振りをしているフロント嬢が丁寧に頭を下げてきた。思わず自分も頭を下げた。気持ちが良かった。
 スラッとした身なりのスーツを着たお兄さんに促され、私たちは荷物を持ち506号室へと足を運んだ。部屋からはうんと大きな山が見えた。あれは浅間山だと彼が教えてくれた。浅間山と聞いて目の前のガラスの向こうから鉄球が飛んできたらどうしようか、とつい考えしてしまうのはこの旅には相応しくない思考だろう。ぶんぶんとかぶりを振って遠くの青空を見上げた。景色は本当に素晴らしい。所々見える屋根はきっと別荘だ。さすがは軽井沢だ。
 しばらくすると、部屋に備え付けられた固定電話が甲高い音と共に鳴り響いた。ロビーへの呼び出しだった。彼と一緒にエレベーターに乗り、ボタンを光らせ下へと降りる。10秒ほどするとチーンという音に続き扉が開いた。




 「……おい……だい……か…」

 「おきろ!沙耶!」

 ハッとした。どうやら寝ていたらしい。なかなか開かない目を擦ろうとしたが、手が思うように動かない。どうしたのか、と意識を集中させると手足が縛られていることに気づいた。彼も同じらしい。ここはどこなのだろうか。壁はひんやりとしたコンクリートで四方囲われていた。所々に穴ぼこが出来ていた。穴が顔に見えるのはシミュラクラ現象というらしい。今はそんなことどうだっていい。どう足掻いても手足に力が入らないのが私のフラストレーションを高めた。

 何時間経ったのだろうか。外の光も全く届かず蛍光灯だけが光るこの部屋は、何が目的に作られたのだろうか。まるで牢獄を思わせる様な鉄扉の横には、もしかしたらご飯が運ばれてくるのだろうか、ポストのような形のものがあった。外を覗けないかと思いうねうねと這って行ってみたが、どうにも内側からは開けられない仕組みになっている。これもまた私のフラストレーションを貯めるには十分だった。

 「ねえ、これってどういうことなの?」

ダメもとで彼に聞いてみたが、硬い口を結んだまま応えは返ってこなかった。彼は私を起こした後からずっと黙ったままだった。どうして何も喋らないのかと問うてみたが、ごめんと言わんばかりにかぶりを振ってきた。どうやらこんなことになってしまったのは自分のせいだ、と反省をしているふうに私には見えた。ならば、と気にしないでと声をかけてみたが、それにも反応はあまり見せなかった。よく観察すると、少し怯えているのか震えている。昨夜きたLINEの通知のようにブルブルと小刻みに震えていた。

 「寒いの?」

 この問いにも彼はかぶりを振った。何を聞いても無駄だ、と私は彼に問いただすのを止めた。それもそうだ。ついさっきまでエレベーターにいたのに起きたら急にこんなところに居るのだ。誰だって恐ろしいに決まっている。諦めをつけた私が壁によりかかろうと動いていこうとした時、彼が口を開いた。

 「俺、聞こえたんだ。」

 「何が聞こえたの…?」

 「……男の悲鳴だよ。」

 「悲鳴?」

 「ああ。その直後だったんだ。この部屋のアナウンスが鳴った。沙耶を起こせって。」

 「…え?」

 彼曰く、私が起きる前にどこかの部屋で男性の悲鳴が聞こえたらしい。そしてこの部屋で私を起こせというアナウンスをされたらしい。彼が推測するには、今日一緒にバスに乗って来たカップル達がそれぞれロビーへと連れてこられ、エレベーターを降りたところを何者かに眠らされて、この部屋へと入れられたのではないか、というものだった。誰の仕業なのか、目的が何なのか、沸き上がる疑問が後を絶たないが、次のターゲットが私たちであることは間違いなかった。

 ガサっと音がした。先ほどのポストのようなものが開いた。ご飯かと思ったが、外から来たのは紙切れが1枚だった。

  『1人選べ。選んだらドアを叩け。』

 どうしたものかと私たちはお互いに目を見合せた。あまりにも情報が足りなさ過ぎる。これから何をされるというのだ。悲鳴が聞こえたと言うことはきっと痛めつけられるのだろうということだけは脳裏に思い浮かんだ。彼の震えは大きくなっていた。次第にカタカタという音が部屋に響いた。彼のあごが震えて歯がカタカタ鳴っていたのだ。今の彼にどっちが行くか、など聞けなかった。どうせ死ぬのなら先に死にたいと考えた私は、鉄扉へと這っていき、ドンドンと頭を扉に打ちつけた。するとぎしりと耳が痛くなるような音がなり、全身白づくめの人が入ってきた。お前かと言わんばかりに私を睨みつけ、その後私は廊下らしき所へと出された。ここもまたコンクリートだった。白づくめは、私を縛っていた手足の縄をナイフで切った。そしてまたひとつ紙を渡してきた。

 『相方ヲ殺せ。
       殺せないなら静かに家族を想え。    』

 読み終わると白づくめは小さなナイフともう1枚紙を渡してきた。

 『切り傷1箇所につき1万円給付
  首を切り落とせば5000万円給付』

 そうしてアタッシュケースを開き大量の札束を見せてきた。本当に何が目的なのだろうか。今すぐこのナイフで目の前のサイコパスを殺してやろうかと思った。しかし、家族を想えという言葉が引っかかりどうにも歯痒い思いになった。
 もう一度鉄扉が開かれると、中では彼が全裸でイスに縛り付けられていた。いつの間にイスがあったのか。どうして彼が縛り付けられているのか不思議で仕方なかった。ナイフを持った私が中に入ると、何かを察したのか彼は涙とともに尿を流した。びちゃびちゃと飛び散る音が部屋に響いた。彼の全身の力が抜けているようだ。私は扉を叩いてしまったことを今更ながら後悔した。彼に全てを任せ、私が死ぬべきであった。変に見栄を張った自分を殺したい、とさえ思えてきた。どちらか1人を選ばせたということは最初から殺す人をあいつらは絞っているわけではないのだ。リゾート地軽井沢に来た幸せカップル達をズタズタにしてやろうというとち狂った考えだろう。扉を叩いて出てきた勇者に良い思いをさせてやろうというそんなイカれた考えなのだろう。アホらしい。どうせこの部屋には監視カメラが付いていて殺す姿を見て興奮している、これを仕組んだやつはそんなサイコパス野郎なのだと私は思った。
 ならば、と私は思いついた。彼の首筋、胸、手、そして唇にキスをした。その後服を脱ぎ、彼と同じく全裸になり、セックスをした。これでも見ろ、と言わんばかりに激しく声を上げ、ちらちらと天井の隅を見ながらしてやった。私らは幸せなんだぞと奴らに見せつけた。
 お互いが何の気なしに果てた。これが最期にしては、少々無理矢理すぎた。彼の気持ちなど全く考えず自分勝手に終わらせてしまった。彼の頬を伝う涙は上から降り注ぐ蛍光灯の明かりで光っていた。506号室から見えた景色よりも美しかった。これから目の前にいるパートナーを殺らなければいけないという、意味の分からない使命に胸を締め付けられる。いっそそのまま心臓を締め付けて死なせてくれとまで思える程だ。なんで殺さなければいけないんだ。当たり前が当たり前じゃなくなってしまう恐怖が私の全身の毛を逆立てる。きっとそれは殺される側の彼も同じだろう。

 私の中の葛藤は頭のキャパシティを簡単に溢れさせた。もちろん彼を殺す気には到底なれない。かといって殺さなかったら私たちの家族が危ない。彼の親にはたくさんお世話になった。免許のなかった頃、よく買い物に連れていってくれた。彼を殺してしまったなんていう事実をどう説明すれば良いのだろうか。自分だけ生き残って帰ってきたなんて知られた日にはもうおしまいだ。さっきの金を全額渡しても許して貰えないだろう。かといって私がここで彼を殺さなかったら── 



 覚悟を決めた。右手に持っていたナイフの切っ先は既に彼の方を向いていた。座っている彼に向かって、私は真っ直ぐ歩き出した。よく研がれたナイフだった。先ほどキスした首筋にスっと刺さっていた。何も見ずそのままナイフを横にスライドさせた。本当によく研がれたナイフだ。骨は硬いから並大抵のものでは切れないとよく言われる。ゴロンと音を立てて床に落ちた彼の頭を見て私はありったけの涙を流す努力をした。枯れきった涙腺は濡れることさえ叶わなかった。誕生日にあげたネックレスが支柱を失い私の足元へと滑り落ちた。首から噴水のように沸き上がる血飛沫が生温かい。私はたった今愛する人を殺めた右腕を、自分の首へと持っていった。違和感を覚えたのは手が首に当たった頃だ。さっきまで持っていたはずのナイフがない。2人で心中しようと離さず持っていたはずのナイフが手から消えていた。勢いで離してしまったのか、と床を見渡してもどこにも見当たらない。ふと気配を感じて後ろを見ると先ほどの白づくめがこちらを見ていた。最期の別れを言う隙もなく彼の遺体は、一緒に入ってきた他の白づくめによって運び出された。遺体の代わりに運び込まれたのはアタッシュケースと紙切れだった。

 『首代 5000万円 在中』



 意識が戻った私の前には見慣れた景色が広がった。月明かりが射し込む枯れかけの桜の木の下。この公園はいつも私を待っているみたいだ。違うのはベンチに彼が座っていないことだけ。たったそれだけだ。夜風に舞い散る桜の花びらは冬の雪そのものだった。右手にはアタッシュケース、左手には彼の形見のネックレスを持っていた。フラフラとベンチまで歩きアタッシュケースを置いた。いつも私たちを見守るように後ろに立っていた桜の木の、少し太そうな枝にそっとネックレスを通し、それから自分の首を通し私は首を吊った。みしみしと折れそうな音が背後から聞こえる。相変わらず乾ききった目はもう何も見えない。耳も機能しない。次第に呼吸もままならなくなってきた。もう少し、もう少しだ。
 最後に1度だけ許された深呼吸をこの世に遺し、私はまた長い旅に出た。血まみれのガーネットが笑ったような気がした。

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