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[短編小説]旅の果て

 ***

「どこか旅行へ出掛けてみないかい?」

 ベッドに座りながら問いかけられた主治医の先生の言葉に、「は?」と僕は思わず間の抜けた声を漏らした。
 先生は口ひげに触れながら、僕のことを眺めていた。

「君はずっとこのベッドの上で時間を過ごしているだろう? ここでない場所に出掛けてみれば、きっといい気分転換になると思うんだ」

 病気のせいで、僕は昔から体が弱かった。物心ついた時から、僕の居場所はずっと病院のベッドだった。
 代わり映えすることのない、無機質で白い部屋。この部屋で幾つもの時間を過ごしただろう。数えるのが難しいくらい、僕はここで過ごしている。そのおかげで、この病室にいることが当然になっている。

「な、なんで急に?」
「実はね、君の病気も薬を飲めば、ある程度のコントロールが出来るくらいに落ち着いて来ているんだ。もう暫く経てば、退院することも夢ではないだろう。だから、一度練習も兼ねて、旅行に出掛けてはどうかと思ってね」
「は、はぁ」

 初めて耳にする情報に、僕は戸惑いの声しか出せなかった。

 先生は僕の病気が良くなりかけていると言っていたが、それは本当だろうか。感覚的には、何ら変わっていない。そもそも通常の状態が分からないから、比べることなんて出来ないのだけど。

「どこか行ってみたい場所はないのかい?」
「いや、急に言われても……」

 ベッドに座っている間、ここではない場所に行けることを夢見たことがある。自然が綺麗な場所、空気が美味しい場所、食が豊かな場所。だけど、このベッドの上から出られないと思って、僕は諦めた。

 諦めたはずの夢に、いきなり手を伸ばすことが出来ると言われても、僕はどうしたらいいのか分からない。

「僕には行きたい場所なんて分かりません」
「そうか。そしたら、時間を決めてみよう」
「時間?」
「うん。いつでも何でも出来ると思ったら、選択肢の幅が広がりすぎて決められない。だから、逆に時間の制限を設けてしまうんだ」

 突拍子もない言動に、僕は下手な相槌しか打てない。戸惑う僕を他所に、「そうだなぁ」と先生は一人話を続けていく。

「半月後にここに戻って来れるように旅をしてみよう。たとえば、こんなスケジュールはどうだい。五日間旅して辿り着いた場所に、五日間留まる。そして、残りの五日間で来た道を戻って来る。あとは君のやりたい通りに決めていいんだ。ほら、これなら旅が出来そうじゃないか」

 嬉々として話す先生。そんな先生をジーっと見つめて、

「なんか他人事だと思って楽しんでいないですか?」
「そんなことないない。私は君のためを思って言葉にしているんだ」

 先生の目は泳いでいた。きっと図星だ。先生は切り替えるように、咳払いを一つすると、

「けれど、君もそろそろ青年になるだろう。経験は何事も重要なはずだ」
「……」

 確かにその通りだ。いつまでも病院の世話になり続けるという訳にもいかない。もし本当にこの体が回復できるというのなら、尚更だ。

 僕の表情を読み取ったのか、先生は僕の前に小包を置いた。何度も見慣れた小包の中身は、あえて聞かなくても分かった。

「朝と夜にちゃんと飲むんだぞ」
「もし飲まなかったら?」
「君が一番分かるだろう?」

 僕の病気は薬によってコントロールしている。薬の制御がなければ、たちまち全身に痛みが押し寄せて来る。あの痛みを想像して、僕は身震いした。

「いやいや、僕やっぱり行けないですよ。自信ないです」
「飲み忘れなければいいだけだからさ。今回の旅行は、君が自立するためには必要なことなんだ。さぁ、いってらっしゃい」

 先生は半ば強引だった。そんな先生に反論出来る余力は僕になく、自室に戻るなり、旅に出る準備を始めた。

 ***

 体が弱くて病院が居場所だった僕にとって、今回の一人旅はまさしく冒険だった。

 行きたい場所は分からなかった。だからこそ、心の赴くままに僕は歩を進めた。

 風が南に吹けば南の方角へ向かい、人の賑わう声が東から聞こえれば東に向かった。西の空が曇った時には西の方角へ行くのを遅らせ、北から良い香りが漂えば北に吸い寄せられていった。

 行く先々で、僕は色々なものを見た。本の中でしか見たことのなかった景色が僕の目の前に広がった時は、言葉に言い尽くせない感情に襲われた。
 知識で知っているのと実際に目で見るのとでは、あまりに感動が異なった。

 僕は今までどれだけの時間を無駄にして来たのだろう。今まではベッドの上しか知らなくて、そこで満足していた。だけど、外の楽しさを知ってしまった今、僕は止まらない。
 世界を知らなかった反動か、僕は貪るように色んな地へ回った。
 色々な人と出会い、更に優れた土地を勧められ、その先へ向かう。

 半ば強引に始めることになった旅だったけれど、色々な場所に足を踏み込んだ今となっては、先生の言葉に従って良かったと心から思った。

 いつも通りに薬を服用しているおかげか、僕の体調が崩れることもなかった。この旅を通じて、長年連れ添っていた病魔とも、お別れの時も近いのかもしれないと自信を持つことも出来た。

 留まるよりも色々な場所を目にしたくなった僕は、最初の予定を変えることにした。一週間で行けるところまで行き、その場に一日だけ留まって、旅を折り返す。
 病院に帰ることは名残惜しいけれど、薬無しには流石に旅を続けることは出来ない。

 自分の中で期限を定めたからこそ、より一層この旅に熱が入り始めた。

 そして、一週間の最後となる日の夕暮れ。自分の力で行けるところまで行って辿り着いた場所は、名前の知らない見晴らしの良い土地だった。
 この旅の中で一番高い場所まで、僕はやって来た。時間は遅くなってしまったけど、ここまで自分の力だけで辿り着けたことが、僕の自信になっていた。

 空は近く感じられ、町の光が小さく見える。まるで雲の上に乗っているかのようだ。

「良い場所だなぁ」

 直感的に僕はそう判断した。

 実際、今日の宿を確保した時も、店主も彼の一人息子も温かく僕を迎えてくれた。支払った料金以上に、食事をもてなしてくれ、温かな風呂も用意してくれた。僕は彼らの厚意に甘え、旅の疲れを癒した。

 風呂上がりの夜風が、ここまで気分がいいものだとは思いもしなかった。夜風を一身に受け、空を見上げる。すると、空の星が直接僕の網膜に焼き付いた。

 今まで星を見ると、どこか哀しかった。
 儚い夢。もしくは、燃え尽きることを待つだけの存在。――そんな感情を、僕は星空に投影した。もちろん肯定的な意味ではなくて、否定的な意味で。
 だけど、今は違う。星の眩い光が、僕にも輝くことが出来るんだと教えてくれるようだ。

 そうだ、僕はもう燃え尽きるだけの存在ではない。これから光を放って生きていくことだって出来る。
 ここには僕と星を阻むものはない。

「……僕は、なんて幸せなんだろう」

 今僕が生きている現実は、ベッドの上で病魔に蝕まれていた時には、想像さえ出来なかったものだ。いや、想像してすぐに夢物語だと諦めてしまった。
 そんな夢物語の中に、僕は生きている。

 まさか、こんな日が来るとは思いもしなかった。突拍子もない先生の提案に、最初は戸惑いを隠せなかったけれど、今思えば本当に感謝しかない。
 諦めなければ、何でも出来るんだ。人生はなんて素晴らしいのだろう。

 今回の旅で目にした全ての景色を、僕は忘れない。この旅で経験したことをもって、僕は生きていく。
 そして、また必ず旅に出るのだ。

 ――これが、僕の新しい夢になった。

「ごほっ」

 小さな咳払いによって我に返ると、僕は声の方に向いた。そこには心配そうに僕を見つめる宿屋の一人息子がいた。

「咳、大丈夫?」
「うん、平気。それよりも、にーちゃんだよ。夜風に当たりすぎると、風邪引いちゃうよ」
「あはは、ありがとう。今戻るね」

 知り合って数時間も経っていないというのに、僕は彼とすっかり意気投合してしまった。自分よりも年下の男の子の、純粋に慕ってくれる姿や活発な姿に、僕の心はすっかりと解かされた。弟がいたらこんな感じで接していたのだろうかと、突拍子もない考えが胸中を過りもした。
 たった数時間の出会いだけれど、僕の中で彼は大切な存在となりつつある。

 旅を満喫出来る最後の一日の予定は、彼にこの町を案内してもらいながら過ごすことになっている。今から楽しみだった。

 小さな背中を追いかけて、僕は宿屋に戻る。明日を充実させるためにも、帰ったら早く眠ろう。楽しみ過ぎて眠れるか分からないけれど……。

 もちろん薬を飲むことは忘れない。

 ***

 軽やかな体でもって目を覚ますと、カーテンを開き、窓を開けた。あまりの眩さに反射的に目を閉じる。眩しさに徐々に慣れて目を開けると、僕の視界に飛び込んで来たのは、柔らかな陽射しを浴びながら意気揚々と存在感を放つ木々だった。自然独特の匂いを伴った風が、僕の心を撫ぜた。ピリリと肌を刺激する日光さえも、どこか心地いい。

 僕が今日という一日を迎えることに、手放しで歓迎してくれるような包容力に、思わず「ほぅ」と安堵の息が漏れた。その漏れた息を取り戻すかのように、僕はぐっと背筋を伸ばして深呼吸をする。新鮮な空気は体の中を循環して、僕を新しくしてくれる。

 僕を満たしてくれる自然と一体になる感覚は、言葉に表現出来ないほどに気持ちが良かった。

 この旅が間違っていなかったと祝福してくれるかのように、優しく降り注がれる木漏れ日に、僕は最後まで思い切り満喫することを決意した。

 今日を楽しむためにも、寝起きの薬を飲もうとした時、

「……にいちゃん」

 弱々しく開かれた扉と、気遣うような声に、僕は薬を飲む手を止めた。昨日とは打って変わったような態度だった。一応客である僕がまだ眠っていることを案じてくれているのだろうか。

「おはよう。今日の案内、楽しみに――」

 僕の言葉は最後まで紡がれることはなかった。言い終わる前に、一人息子がその場で倒れ込んだのだ。

 僕は急いで駆け寄った。抱きかかえると、顔を紅潮させ、息を乱している。そして、時々「……痛い」と声に出していた。
 只の風邪ではなさそうだ。それにこの症状は、どこかで……。

「……まさか」

 矮小な可能性を否定するように小さく首を横に振ると、彼を背負い、そのまま宿屋の店主がいる部屋へと飛び込んだ。事態の異常性をすぐに察した店主は、その場で電話を掛けながら、近場の病院へと一人息子を連れて行った。もちろん僕も同行する。
 事前に電話をしていたおかげか、病院に到着するや否や、先生は一人息子のことを診察してくれた。僕と宿屋の店主は祈るように拳を握った。

 そして、診察が終わった先生に対して、「息子の容態は?」と鬼気迫る表情で店主は問い詰めた。その問いに、病院の先生は眉間に皺を寄せると小さく首を横に振った。

「私は初めて見る症状です。少なくともこの国では症例はないと言ってもいいでしょう……」
「……そんな」

 先生の言葉に、店主の顔は分かり易く青ざめた。力なく、その場で崩れ落ちていく。

「今日明日で死ぬような病気ではないことは確かです。ひとまず彼の傍にいてやってください」

 先生の背中の後を追って入った個別の病室には、ベッドの上で苦しそうに呻いている一人息子の姿があった。

 この光景を、僕は何度も見たことがある。いや、体験していた、と言った方が正しい。
 もしかしたら彼も僕と似たような病気を患っているのかもしれない。

 確かに、昨日初めて会った時から、小さな咳を漏らしていることがあった。今思うと、あれは予兆だったのかもしれない。でも、なんで急にここまでの症状が出て来たのだろう。僕の場合、病気は幼い時から共にしていた。こんな風に、急に発症したりはしなかったはずだ。

 だけど、考えたところで答えが出るわけがなかった。

 僕は物心がついた時から病魔に犯されていた。僕の心身を痛め続けた病魔が、いつ発症したのかなんて記憶にはないのだ。生まれ持ってからかもしれないし、目の前にいる一人息子のように急に発症した可能性だってある。

「……はぁ、はぁ」

 苦しそうに息を荒げている一人息子を見ながら、僕は自身の今までを回顧する。

 病魔に苛まれた当時の僕は、それが普通だと思っていたけれど、この苦しみ方は尋常ではない。この苦しみから逃れ、自分の足で色々な土地を踏めるようになったことが、どれほど恵まれた奇跡なのか、俯瞰することでようやく悟る。僕は彼に対して憐れみに近い感情を抱いていた。

 そして、同時に浮かぶのは、僕に甘えるように旅の話をせがみ、自身の夢を語る嬉々とした姿。
 いつか大人になったらここを出て世界を見るんだ――、そう満面の笑みで夢を語る表情は、子供のはずなのに、どこか大人顔負けだった。

 その夢も、病魔によって足枷が生じてしまった。

 根気よく治療を受ければ、僕みたいに回復もするだろう。……いや、この病院の先生が病状を見たことがないと言っていたことから、この国には治療法が存在しない。このまま苦しむ他ないということだ。

 ――たった一つの例外を除いて。

 もし仮に、僕と同じ病気もしくは近しい病気だった場合、僕の薬を渡せば一人息子の症状を和らげることが出来るかもしれない。

「……だけど」

 だけど、そうしたら僕はどうなってしまう?

 薬の服用を忘れたら、いつか必ずあの痛みが襲い掛かる。明日かもしれないし、この後すぐかもしれない。あの全身に襲い掛かり精神を狂わせるような痛みを、僕は二度と味わいたくない。

 僕はズボンの中にある薬を握り締めた。
 そうだ。僕はようやくベッドの上から抜け出した。どうして昨日今日出会った少年のために、僕が危険を冒さなければいけないんだ。

 僕はもっと生きて、今まで見れなかった分、世界中を見てみたい。

 胸に漂う僅かな罪悪感を、僕は正当な理由で打ち消そうとしていた。

「にい……ちゃん……」

 掠れるように紡がれた弱々しい声に、僕はハッと現実に引き戻される。
 薄っすらと開く目は、僕のことを見据えている。

「……ごめ、な」
「え?」

 僕の口から漏れたのは、間の抜けた声だった。一瞬、彼はぐっと息を飲み込むと、

「せっかく、遊び、に来てる、のに、ごめんな……。この町、見どこ、ろが、たくさんだ、からさ、早く……」

 全身を駆け巡る苦痛に耐え忍びながら、一息に言葉にしてくれた。

 彼の優しさに目を瞑ってしまうほど、冷酷にはなれなかった。

 運命を恨みたくなってしまうくらいの痛みを味わっているはずなのに、昨日出会ったばかりの僕を案じてくれている。
 同じ立場にいた時、僕はここまで誰かのことを思いやることが出来ていただろうか。首を横に振る。

 保身ばかり考えていた僕が、情けない。

 ――答えは決まった。

 そうだ。元々の僕はベッドの上で命を終える覚悟をしていた。今の状況は奇跡の上に成り立っているだけに過ぎない。

「これ飲ませてもいいですか!」

 僕は薬を一錠取り出すと、そのまま答えを聞かずに飲ませた。「何をするんだ」と店主は目を見開かせていたが、当の本人は拒むことなく、なけなしの力を振り絞って嚥下した。

 祈るような気持ちで、容態を見守る。いつもの感覚なら、薬を飲めば一時間も経たないうちに回復する。

 僕の薬で回復できるのだろうか。それとも果たして――。

「おぉッ!」

 祈る思いで半刻、店主の感嘆する声が聞こえた。その声に瞼を開くと、苦しそうに呻いていた表情が一転、柔らかな寝息を立てるほどに様変わりしていた。

「……良かった」

 これで僕がやることは決まった。

 安堵の息を漏らしたのも束の間、

「少ないですけど、これ!」

 僕はポケットから薬を取り出して、店主の手へと強引に握らせた。

「今の薬が約一週間分あります。朝と夜に飲ませてください。もし病院の先生に見せて、新しく調合出来るなら調合してください」

 店主は薬と僕を複雑そうな表情で見比べながら、「だけど、君は……」と心配そうに呟いた。店主が言わんとしていることは、痛いほどに分かった。しかし、その言葉を最後まで聞いてしまったら、僕の決意も少しだけ揺れそうになる。

「お守りとして持ってきただけですから。それに、故郷に戻ればたくさんあります」

 僕は笑みを浮かべると、そのまま身を翻した。

「また薬持って戻って来ます! だから、待っててください!」 
「おい、君――」

 制止の声を振り払いながら、僕は全力で駆け出して、故郷に戻ることにした。

 ***

 旅行の帰り道は、正直何も憶えていない。

 行きの時はあれほど鮮明に印象に残っていたのに、一つさえ記憶に残っていないことに笑ってしまった。
 頑張って思い出そうとしても、浮かび上がる景色は流れて消える。

 それほどまでに、僕は帰ることだけに全力を注いでいた。

 それも全ては――。

「間に合ってくれよ……っ」

 今も尚、あの場所で苦しんでいる宿屋の一人息子のためだった。

 最後の旅の終わりに寄った町に住む子供なのだが、今までベッドの上でしか生活しなかった僕は、当然この時に初めて出会った。

 彼とは不思議とすぐに意気投合し、まるで弟のように親しみを感じていた。しかし、僕が宿屋で過ごした翌日、急に病魔に襲われた。その症状は、僕も感じたことのあるようなものだった。
 薬を持っていた僕は、薬が彼にも効くことを祈って飲ませた。祈りは叶い、彼の容態はみるみるうちに落ち着いた。
 けれど、薬で症状が和らいだとはいえ、油断することは出来ない。僕が持って来て残っていた分の十四錠は、全部手渡した。暫く大丈夫なはずだが、薬がなくなった瞬間、あの子の命が失われてしまう可能性は否めない。痛みに苦しむようになるのは、間違いがないだろう。

 だから、僕は急いで故郷に戻って、担当の先生にこのことを伝えなければならない。そして、事情を説明した後、薬を貰って再度あの町に行くのだ。

 僕の行動によって、弟のように親しみを感じているあの子が元気になるなら、全力を注ぐことを惜しまない。

「……でも」

 彼の心配をしつつ、僕は自分の心配もしなければならなかった。

 薬で安定するようになって旅行が出来るようになったとはいえ、いつ悪化するかは分からない。
 服用していない状態で、七日も影響がないのは奇跡に近いといっても過言ではない。病気の影響がないとないで、いつ爆発してしまうのだろうと不安が胸中を過る。

 未だなお、僕自身も爆弾を抱えているのだ。

 せめて一錠でも手元に残せば良かったのかな。そうすれば、容態が急に悪化したとしても、薬の効能で凌ぐことが出来る。

「……いや」

 すぐに僕は首を横に振った。
 もしもその一錠のせいで、彼が苦しむことになってしまったら、きっと僕は僕のことを許せなくなる。

「一週間分も旅行に出ようなんて、思わなければよかったな」

 ――そうしたら、早く故郷に帰ることが出来たのに。

 自身の行動の浅ましさに、恨み節を呟く。しかし、一週間分放浪しなければ、あの町に辿り着くことはなくあの子に出会うこともなかった。そうしたら、薬もないあの町で、彼は助かることはなかった。

 だから、これでよかったのだ。
 僕の旅によって誰かが喜んでくれるのなら、それでいい。
 そう思うことで、僕は自分の行動を肯定していく。

 こういう思考を、帰りの最中で僕は何度繰り返して来ただろう。そして、浮かび上がる思考を、僕は前に進むことで打ち消して来た。

 脇目も振らずに、ひたすら前に進むこと一週間――。

「――あ」

 見慣れた景色が、僕の目の前に広がって来た。

 この道を駆け抜ければ、病院だ。つまり、あの子の命も助かる。

 心臓がどくんと跳ね上がった。一度跳ね上がったことをキッカケにして、どどどどっと尋常ではない速さで脈を打っていく。達成感に満たされて、嬉しさゆえに弾んでいるのだと思っていた。そう思っていたのに――、

「――ッ」

 この鼓動が嬉しさとは別の要因から来ていると察するのに、そう時間は掛からなかった。

 心臓が脈打つたびに、全身に痛みが走って来る。この痛みは――。

「まさ、か」

 僕が間違えるはずがなかった。薬で抑えられるようになったとはいえ、何度も味わった痛み。
 僕の人生で何度もこの首を絞めて来た病魔が、僕を襲い掛かっている。

 なんでこのタイミングで。もう少しで病院だというのに……。

「……ぐっ」

 全身を襲う痛みに耐えられなくなって、僕はその場で倒れてしまった。

「……くす、り……」

 倒れ込むや否や、救いを求めるけれど、僕には拠り所なんてどこにもない。僕を苦しめるものを退ける希望は、全て渡して来てしまった。
 誰かが通ることに望みを賭けるか。いや、この人通りが少ない道では、僕の希望も儚く散ってしまいそうだ。現に、誰も通りかかる気配はない。

「うぁっ」

 悶えながら動くことで、なんとか痛みを打ち消し、耐えようと試みる。けれど、痛みは消えない。

 直感的に分かっていた。今回の病魔の力は今までの比ではなく、僕の命を絶やすために働いている。

 人の範疇を超えた力の前で、僕は自分の人生を強制的に振り返させられていた。
 物心着いた時からベッドの上で苦しむ僕。外の世界に憧れて、でも憧れが現実にならないことを痛感させられて、世界中の本を読み漁った。全てを諦めかけた時に、先生から打診された旅行。初めて自分の力で、行けるところまで世界を旅した。

 今までの人生で何が出来たんだろう。ただ苦しむだけだった僕の人生に、意味と甲斐を与えてくれたのは、あの子だった。

「……そっか」

 今回の旅は、あの子を救うためにあったんだ。

 僕の命を賭けた最後の仕事は、あの子に薬を届けること。全ては運命に導かれたのだ。
 きっと店主に渡した薬は、解析されて、新しく生産されるはずだ。

 不思議と、そう信じられる。
 だから、このまま命を落としても未練はない。

 ベッドの上で終わるはずだった命なのに、自分の足で世界の一部を見ることが出来た。他人を助けることも出来た。最後はヘマをこいてしまったけど、満足な人生だ。

 僕は十分に生きて、生きて――。

「――生きた、かった」

 僕は最後の力を振り絞って、縋るように、何も入っていないポケットに手を入れた。意味はない、いつもの癖だ。けれど、爪先に小さな何かが当たる感覚を得た。

 まさか。

 ポケットの中で爪先に当たったものを掴んだ。ポケットから手を引き抜き、ゆっくりと手を開く。

「――」

 一錠の薬だった。
 袋には入っていなかったけれど、どうしてここに……。

「……ぁ」

 そうか。この一錠は一人息子が倒れた朝に、飲み忘れていた一錠だ。ドタバタ騒ぎのせいで、すっかり忘れてしまっていた。

 運命は僕にまだ生きろと言っている。そして、最後まで使命を果たせと言っている。

 僕は残された力を振り絞って、薬を口に含むと、音を鳴らして嚥下した。喉を通り、胃に落ちていく。

 この体から痛みが引くことを、祈る。
 薬が効く確率は、普段なら百パーセント。けれど、今は状況が違う。どうなるかは分からない。

 だから、目を瞑って祈る。

 もし病魔が退いてくれたなら。

 僕は生かされた命を無駄にしないようにする。

「――ぁ」

 薬を飲んだ後、どれくらい痛みに耐えただろう。ゆっくりと全身から血の気が失せていくことを感じた。

 ――僕は一つ心に誓いを立てた。

<――終わり>

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