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[短編小説]問イカケル

 ***

 ある日を境に、私たちが通う高校の空気は、居心地の悪い異質なものとなった。

 その変化の渦中にいるのが、一週間ほど前まで生徒会長を務めていたアキラだ。

 原因は、先週起こった事件。
 校長先生がアキラとヤマダ先生から聞いた話をまとめたものを、事件が発覚した当日の朝には、全校生徒の前で共有された。
 事件の内容としては、誰かが夜の校舎に窓を割って忍び込み、職員室にあるはずのテストの模範解答を盗もうとしたらしい、というものだ。らしい、というのは、窓ガラスを割っただけで模範解答までは盗まれなかったからだ。
 第一発見者のヤマダ先生によると、割れた窓の近くにアキラはずっといた。しかし、アキラは犯行に使えそうな物を何も持っておらず、その手は怪我や傷を負っていたそうだ。ヤマダ先生に問い詰められたアキラは、自分が窓を割ったなどの犯行を告白した。
 証拠は不十分だが、アキラによる自白と本人が現場に居合わせたことから、ひとまずアキラは容疑者となった。それにより、大学からの推薦も全てふいになり、生徒会長も降りることになった。

 だから、実を言えば、アキラは容疑を掛けられているだけで、百パーセント犯人だと決まった訳ではない。

 事件から一週間ほど経った今でも、先生達は事実を追究すべく行動している。人望も厚く、この高校のために必死に働いたアキラのフォローをしようと、日夜働いている。

 しかし、空気というのは恐ろしいもので、不確かな噂も確かな事実として受け入れるような風潮が、この高校の中で蔓延し始めていた。

 実際、この高校のほとんどの生徒が、アキラのことを揶揄し始めた。そればかりか、アキラはちょっとした嫌がらせも受けるようになってしまった。
 そんな状況に晒されても、アキラは笑って受け流し、生徒会長の時と変わらない真面目さで学校生活を送っている。

 けれど、幼馴染である私はアキラのことが心配で、気が気でなかった。

 私には、家が近所で物心がついた時から一緒にいる幼馴染が二人いる。その内の一人が、アキラだ。アキラは、昔から変わらなかった。生徒会に関われるようになった小学校高学年くらいから、ずっと生徒会に顔を出すような、真面目な人間だった。
 勉強も手を抜くことはせず、運動もしっかりとこなす。大変そうな人がいれば、自分のことを二の次にして手を差し伸べる。周りからの信頼も厚く、アキラは適切に評価され、いくつかの大学から推薦をもらっていた。
 それが、アキラという人間だ。

 アキラは驕ることもなく誠実に学校生活を送っていたというのに、不確かな噂が広がってから、アキラを取り巻く空気は変わった。

 今アキラの尻拭いをするように、副会長や書記や会計の人が忙しく働いている。二年生で副会長を務めるカナイくんと、唯一の三年生で生徒会を全面的にサポートしている書記で同じクラスのマツナガくんは特に大変そうだ。

 生徒会の人だけじゃない。私の周りでも反応は変化している。

 前までは「アキラくんと幼馴染なんて羨ましい」と事あるごとに言っていたくせに、今や「ルリ、あいつの幼馴染なんて可哀想」という声を、直接言われるようになっている。

 もう一人の幼馴染のテツキは、この件について無関心だ。

 テツキもまた、運動も勉強も程よくこなせるような、文武両道タイプの人間だ。アキラほどではないにしろ、いつも成績上位に食い込んでいる。一見すると不愛想に見えるような振る舞いをしているが、一度心を開けば情に厚くなるような人懐っこい性格を持ち合わせていて、アキラとは別の系統で周りから好かれている。
 アキラとテツキは男同士だからか、軽口を叩きあうことが多い。たまにテツキの方が、アキラに対して過剰に噛みついて、口論にまで発展することもある。傍から見れば、犬猿の仲と思われるかもしれない。けれど、なんだかんだ二人が本気で喧嘩をしたことはないし、言葉を交わさない日はなかった。
 そんな二人と並んで歩く時間が、私は好きだった。仲のいい三人組だと周りから言われることを、その通りだと思っていたし、どこか誇らしく思っていた。

 それなのに、この一週間、テツキと話すことはなかった。私だけでなく、アキラと話している様子もない。時折顔を合わせても、何か後ろめたいことでもあるのか、ばつが悪いように顔を背けてしまう。テツキは一人で行動することが多くなっていた。

 幼馴染のテツキでさえも変わってしまうのかと、やるせない気持ちになった。

 学校は、いや社会というのは、失敗した者に対しての風当たりは厳しい。テレビやSNSなどを見てると、わざわざ過去の失態を掘り出してまで、その人のことを叩こうとする傾向がある。一方で、その失敗した人が今までどれだけの功績を立てたのかを忘れ、知ろうともしない。
 まさか自分が現実の問題として受け止めなければいけない日が来るとは思いもしなかった。しかも、その人物というのが、私がよく知っている人間だとは想像さえも出来ていなかった。誰かが誹謗中傷を受けるのは別の世界の出来事なのだと、心のどこかで高をくくっていた。

 みんな、どうして物事を正確に知ろうとしないのだろう。

 事件を起こしたアキラを、何を考えているか分からなくて怖い、と周りは言う。怖いから、退けたい。退けるための免罪符があるから、容赦なく責めることで、心の平穏を得る。
 私からすれば、この空気の方が怖かった。特定の人物を傷つけることで、仮初の、歪んだ平穏が蔓延している。そんな空気に染まりたくなかった。

 だけど、ある意味、私もテツキや周りの人達と同罪だ。

 アキラに寄り添って話を聞きたいと思っていても、高校の近くではアキラのことを避けるようになってしまった。気を遣わなくてもいい家の周りであって、変に意識して、言葉を交わせない。

 それはきっと、我が身可愛さから来ている行動だ。
 誰だって、自分が傷つくことは怖い。火中の栗を拾いに行けるような勇気を、私は持ち合わせていなかった。

 そんな私が、アキラの幼馴染だと――、いや友達だと、果たして胸を張って言えるのだろうか。
 本当の友達なら、その人が苦境に陥っている時こそ、支えるものではないのか。

 最近の私は、そんなことばかり考えている。

 ***

 僕は昔から何でも出来る人間だった。

 だけど、何でも出来るからと言って、努力しなかったわけではない。大きな声では言えないけれど、毎日夜遅くまで勉強もして、朝早く起きて運動をした後に机に向かってから、登校するようにしていた。もちろん、睡魔に襲われる時もあったけれど、澄ました顔で授業を受けた。僕を頼りにする声があれば、迷わずに手を貸した。
 そうやって、血のにじむような努力を続けて、今の僕を築き上げて来た。

 生徒会に立候補した時も、成績優秀な僕に対して、誰も文句を言う人はいなかった。むしろ、僕なら安心して任せられると、期待を一身に受けて見送られたほどだ。
 最初は期待に応えるべく、必死に行動した。生徒会としての行動が、誰かの力になるのだと思うと、とても嬉しかった。

 だけど、上に立つことで気付いてしまった。
 生徒会としてやっていることは、意外と雑用が多い。請け負った雑用を誰かに割り振れば、こんなしんどい思いはしなくてもいいのだけど、自分自身でやった方が効率的で早かった。

 誰かに指示をして優雅に椅子に座りながら出来上がりを待つ――、そんなのは妄想に過ぎなかった。
 上の役職に就いていることを周りのみんなは羨ましがるけれど、実際は汗水垂らしながら校舎を駆け回るだけだ。僕からすれば、何も考えずに学校生活を送っているみんなの方が羨ましい。

 何をやっているのだろうと思うけど、このステータスを手離したら、誰も見向きもしないのではという強迫観念が襲って、やめることは叶わない。
 僕は必死に努力して、ようやく誰かに認められる。そんな、ちっぽけな存在だ。

 けれど、世の中には、何も努力せずに誰からも好かれる人間がいる。
 たとえば、人当たりの良いあいつは、他人の懐に入り込むのが上手い。気付けば、誰もがあいつに心を許している。苦労とは無関係の笑顔を見る度に、少しだけ胸がざわついた。

 生徒会の仕事や更には部活の引継ぎなども重なって、ここ最近は、上位の成績をキープすることが難しくなっていた。ライバルだと思っていた同級生にも抜かされるだけでなく、眼中になかった同級生までにも抜かされ、僕のプライドはズタボロになっている。

 成績のこと、生徒会のこと、大学のこと、部活のこと、人間関係、誰かからの期待――。

 考えれば考えるほど、僕という存在から掛け離れているような気がして、逃げるように目の前のことだけに没頭した。
 何もすることがないと、悩みに頭が支配されてしまい、発狂しそうだった。自分の部屋でのんびりなんて、とてもじゃないけど出来ない。実際、満足に眠れない夜を、いくつ越えただろう。

 だから、動く。
 動いて、努力して、繕って、平気なフリして――、なんとか一日を乗り越える。

 他の方法は知らなかった。越えられない壁があったら、努力をすれば何とかなると思っていた。

 だけど、僕は今思い知らされている。努力だけでは、どうしようも出来ないことがあるんだということを。

 妥協を出来る性格ではなかった僕は、届かないと知りながら、無駄な努力を続けた。努力が結ぶものは、何もない。費やした時間全てが、泡沫に消える感覚は、まさしく虚無と呼ぶに相応しい。

 何をやっているのだろう。
 だけど、周りの視線が、僕を止めさせてくれない。お前ならもっと出来ると、そう暗に言われている気がする。

 努力を続けてようやく現状に踏みとどまっているのに、努力することさえ止めたら、僕は僕でいられない。

 ――いや。

 そもそも僕って、何だろう。

 そんな根本的な疑問が、心の奥から湧きあがって来る。
 誰かの期待に応え続けることで僕は僕を保って来たが、何もしなくなった時の僕を、恐ろしいほどに実感出来なかった。誰かの想像する僕を、僕は演じて生きている。

 そう言えば、ここ数年、自分が心からやりたいと思ったことは出来ているだろうか。分からない。考えたら、余計に苦しくなる気がした。

 だけど、考えまいとすればするほど、終わらない問いが僕に襲い掛かる。誰かに相談出来れば心の重荷は軽くなるのかもしれないけど、僕のちっぽけなプライドが許さなかった。

「……大丈夫?」

 そう眉根を寄せながら心配する人もいたが、「……平気」と僕は軽く一言言うだけで躱す。「何かあったら言って」という声も、どこか上からの物言いに感じられて苛立った。

 お前みたいな奴に、僕の気持ちなんて分からない。

 そう叫んでやりたかったが、常識を詰め込んだ理性が何とか押しとどめてくれた。

 だけど、自分の想いを、自分の中で抱え続けることは負担なことだ。
 いつしか僕は、楽になることを望み始めた。
 いつも自分に無理強いしながら生きるのではなく、もうちょっと効率よく生きて、ありのまま生きたかった。

 どうしたらいいのだろう。僕は、どうありたいのだろう。

 眠れない夜を越え、眩しすぎる朝を越え、周りに怯えるばかりの昼を越え、逢魔が時である夕を越え、僕はある選択を思いついた。

 職員室に忍び込んで、次のテストの模範解答を盗み出そう。そうすれば、面倒くさい努力をすることなく、現状を維持することが出来る。いや、解答を丸暗記して満点を取れば、現状を脱することだって可能だ。
 それから、どうせなら窓ガラスの一つでも割って侵入しよう。

 この時の僕は、自分の思いだけを顧みて、一般的な考えは失くしていた。パッと思い浮かんだことが、魅力的な答えに思えて仕方がなかった。

 そうか。僕は一度真面目な人間から脱したかったんだ。それでいて、何も努力せずに、皆から慕われたい。

 ようやく答えに辿り着いた僕は、暗い部屋で一人笑いを零していた。悩んでいたのが阿呆らしくなるくらい、単純な答えだ。

 そう思いついたら、行動するのは速かった。

 時間にしたら、夜の十時は回っていたと思う。正確な時間は分からない。だけど、先生は誰もいないと思っていた。日中すれ違う先生の中で、そんな夜遅くまで高校に残って仕事をしているような、真面目な人はいないと思っていたからだ。
 万が一のことを考えて、黒のジャージと黒いニット帽で全身を覆い、玄関に収納されている工具箱からトンカチを音もなく拝借すると、家を出た。両親はテレビに夢中になっていて、僕が自分の部屋から出たことさえ気が付いていないはずだ。

 夜の住宅街は、静寂に包まれていた。
 心地よい秋の夜風が、僕の頬を撫ぜる。ただの夜風なのに、普段と違う時間というだけで、少しだけ心が動く。
 だけど、僕の頭を冷やすには、全然足りない。

 この息苦しいだけの人生を抜け出すには、どこかで博打に出る必要がある。大丈夫。現行を見られない限り、僕が犯人だとバレる要素はどこにもない。もう優等生を演じるだけの自分は、嫌だ。

 時間は遅いというのに、僕の目論見とは異なって、時々誰かとすれ違ってしまった。酔っぱらって足取りがふらついている人、あまりの疲労からか猫背になって歩いている人。そんな人達とすれ違う時でさえも、僕はニット帽を更に目深に被り、誰にもバレないようにする。気を付けすぎて困ることは、どこにもない。

 そして、ようやく校門の前に着いた。正門から見る校舎は、灯りが点いている様子はなく、しんと静まり返っていた。

 門を軽くよじ登り、校庭を思い切り突っ切って、校舎の一階の前へと立つ。

 手にはトンカチ。息は荒く、手は震えている。全てを断ち切るように、思い切り振りかざした。窓の割れる音が豪快に響き渡る。それと共に、僕の心の中の何かも割れた気がした。

 割れた窓ガラスを見て、心の中がスッキリとしていることに気が付いた。吹っ切れた、のだろうか。分からない。灯りのない暗い校舎の中では、自分がどうなっているか把握する術はない。体の内から熱い何かが溢れている気がするけど、その正体も分からない。血だろうか、それとも――、そんな疑問さえも払拭するような高揚感が、僕を満たしている。
 得も言えぬ感覚から抜け出せなくて、暫く呆然と立ち尽くしていた。窓ガラスを割ったことで、変な達成感を得てしまい、当初の目的を忘れかけていた。

 そして、気付けば、僕の目に、瞼を閉じてしまいたくなるほどの眩い光が差し込む――。

 心臓が警鐘を上げた。ヤバい、と気付いた時には、もう何もかもが遅かった。

 ***

 第一発見者は、俺だった。たった一週間近く前の出来事だから、鮮明に憶えている。

 最初に抱いた感想は、なんでお前が、だった。まるでテレビのインタビューみたいな、ありきたりな感想だが、そう思ってしまったのだから仕方がない。生徒会長を務めるアキラが、あんなことをするなんて思ってもいなかった。

 一週間前、サボって溜まりすぎていた仕事を片付けようと、朝の清々しい時間に学校に向かった。時刻はまだ六時半くらいで、誰もいないと思っていた。
 校舎の中はあまりにも静かで、時間が止まっているかのような雰囲気だった。

 いつもと空気が違うなと直感が過るも、こんな朝早くから学校に来ることがない俺は、早朝の雰囲気をこんなものかと割り切っていた。ただ、やけに風通りが良くて、少しだけ寒さに震えそうになった。
 一日中窓が開けっ放しで、校舎全体が冷えてしまったのだろうか。生徒が登校する前に、校舎の中を温かくしないとな、と先生のようなことを思いながら、空いているはずの窓を探そうと校内を探索することにした。

 一階の職員室に通じる廊下を歩いていると、誰かが窓際の壁に背を預けながら足を伸ばしている姿を発見した。こんな早くに誰だろう、と思うと同時、朝から面倒事は勘弁してくれよ、と思っていた。

 出来れば関わりたくないのけど、見つけてしまったからには見逃すことは出来ない。

 肩を揉みながら、足を伸ばしている人物に近付くにつれ、違和感に気付く。
 件の人物の服装は、まさしくうちの高校の制服だった。しかも、窓の向こうの景色が一部分だけクリアに見えると気付いた時に、ようやくそこが割れているんだと悟った。

 しかし、そんなことよりも俺にとって一番衝撃的だったのが――、

「……アキラ?」

 事態を呑み込めず、その場で立ち尽くしてしまった。

 この学校の生徒会長で、真面目という言葉を体現したかのようなアキラがなんで。心を通過して思わず口からアキラの名前が漏れ出しても、アキラがこの場にいることを実感するには程遠い。

 廊下に立つ俺の存在に気が付くと、

「ヤマダ先生。お待ちしていました」

 と平然とした振る舞いで立ち上がり、アキラ自ら声を掛けて来た。

「……お前、何があったんだ?」

 ようやく現実に戻り、俺は教師としての使命を全うすべく、アキラに問いかける。

「今日、推薦入試の当日なんです。それで、昨日の夜に家で最終チェックをしている時に、生徒会室に置きっぱなしにしていた資料を忘れたことを思い出して、夜遅くに学校まで取りに戻ったのですが、急にどうしようもない不安に駆られてしまって……。気付けば、窓ガラスを割ってしまいました」
「割ったって……、割れたガラスの破片は?」
「割った後、正気に戻って片付けました。もし、誰かが廊下を通った際に怪我をしたら大変ですから」

 一応、話の筋は通っている。仮にアキラが犯行を及ぼしたとしても、自責の念に耐えられなくて、今の証言のようなことを実行しそうだと思った。結局、周りのことを気にしてしまうような優しい子なのだ。

 だけど、筋が通っているからといって、実際にアキラがそれをやるとは到底思えなかった。アキラなら考えに過った瞬間、ものの数秒も経たないうちに、悪い考えを取っ払えるはずだ。
 それに加え、今の説明だって、あまりにも淀みがなさすぎた。まるで予め準備した文章を音読しているだけみたいだ。

「それと、職員室に入って、週末の試験の答えを盗もうとしました」

 俺が顎を指で抑えながら考えていると、付け足すようにアキラが言った。

「……しましたってことは、未然なんだな?」

 思わず問い詰めるような口調になってしまった。訝しむような俺の視線にも、アキラは一切物怖じしない。

「はい。でも、やろうとしたことには変わりません。もし全校朝礼で僕のことを言うならば、そのことも伝えてください」
「やっていないことを、言う必要はないだろう」
「いえ、とても大事なことです」

 相対するアキラの瞳は、真っ直ぐに澄んでいた。俺は溜め息を吐いて、「……分かった。校長先生に、そう言っておく」と返事をした。その時の、アキラのホッとした表情の意味は、今も分からない。

 自分が更に不利な状況に陥るというのに、どうしてそんな顔をするのか。

「……正直、こんな事件がこの高校で起こったのは初めてだから、どうなるか分からない。ひとまずアキラの話を参考にするしかないから、もっと詳しく聞かせてくれ」

 そう言って、アキラを職員室まで連れて行くことにした。だけど、それよりもアキラを冷たい廊下にい続けさせたくない、と思ったのが、正直なところだった。事実は分からないにしろ、もしアキラの証言にも正しいものがあるのなら、夜半の間、凍てつくような寒風に晒されていたことになる。

 職員室に辿り着くと、何かを訊ねるよりも先に、いつも飲んでいるインスタントコーヒーを作ってアキラに渡した。ホットコーヒーを飲んだアキラの瞳が、少しだけ潤んだように見えた。俺は深く言及することはなかった。

 俺以外の教師が職員室に来るまでの間、アキラからぽつぽつと話を聞いた。けれど、先ほどの供述以上の情報が引き出されることはなかった。そして、俺の次に職員室にやって来た校長先生に、事の顛末を全て話すと、臨時の全校朝礼が開かれた。
 緊張しているのか、校長先生の説明はたどたどしかった。傍から聞いていると、その説明ではまだ参考人でしかないアキラが、まるで犯人扱いされてしまうのではないかと、気が気でなかった。

 そして、俺の予想は、見事当たってしまった。

 生徒会長であるアキラをあれだけ慕っていた生徒は、掌を返すようにアキラのことを責め始めた。

 責任を取って生徒会長を辞めたにも関わらず、生徒の声は止まらない。

 事件一つを足切りにして、この学校の空気は変わってしまった。

 生徒達は、アキラを責めることを善とし、善を成すためならと、自分達の考え得る最善を尽くしている。生徒達なりに導き出した最善が、無言の内に生徒間で共有され、学校の空気を満たしている。

 けれど、たとえ善だとしても、度が過ぎるほど行なったら悪になる。

 そもそも、犯人だと決まってもいないアキラを責めることは、善でも何でもない。
 周りに同調してしまった結果、生徒達は真実を知ることを無意識に拒んでいる。だからこそ、俺は教師として分別する知恵を、教えるべきだと思う。

「――けど」

 生徒達に教えられたらいいけど、こういう大切なことは言葉で言っても伝わらない。言葉の意味が分かったとしても、自分で体感しなければ、本当の意味で理解は出来ていないだろう。
 そもそも俺だって、大人になって少しずつ学んだんだ。高校生の時は、今の生徒達と同様に、周りに合わせて生きていた。

「……今も変わらない、か」

 自分の思考に、小さい声で反論した。

 もしも本当に周りに流されないように生きられるようになっていたら、間違っていることは間違っていると主張して、こんなにも息詰まったように悩むようなことはしていないだろう。

 大人かつ教師である俺達も息苦しいのだから、敏感な生徒が影響を受けていないか心配になる。

 しかし、当事者であるアキラは、文句ひとつ言わなかった。むしろ、言い方は変になるかもしれないが、こうなることを望んでいたかのようにさえ見えた。実際、最初に現場でアキラに会った時の供述も、自分を犯人扱いしたいかのような口ぶりだったのだ。

 アキラ自身が何も語らない今、この事件の真相は、いまだ闇の中だ。

 連日の職員室は、アキラに関する対応で追われていた。先週末にあるはずだった試験も、解答を見られた可能性も考慮して修正することを強いられたため、延期になった。

「……はぁ」

 肉体的にも精神的にも疲労が重なって、思わず溜め息を漏らす。

 先ほども、生徒会の中で上級生ゆえに責任を取って動いている書記のマツナガと、生徒会長がいなくなって突然一番上の立場に立たされることになった副会長のカナイが、この高校の運営について行き詰っていたので相談に乗った。

 コーヒーを口に含みながら、アキラのことを思う。
 真面目なアキラは、一度決めたら最後までやってしまうタイプの子だ。きっとアキラの中で譲れないものがあって、犯人役を最後まで演じる心づもりが出来上がってしまったのだろう。
 あの日、朝日に照らされるアキラの表情から、そういった心情を感じ取ってしまった。

 俺の勝手な思い違いかもしれないが、そうだと信じたい。
 正しい情報があれば、本来アキラはこのように誤解を受ける子ではないのだ。

 だからもし。

 もしも、アキラの心が変わって真相を語るようになったならば――、もしくはアキラとは別の子が真実を語ってくれるならば、俺は全力で支えようと思う。

 もう二度と、この学校が息苦しい場所にならないように――。

 そう心に決めながら、いつもよりも濃く、苦々しく出来上がったインスタントコーヒーを、喉の奥へと押し込んだ。

 ***

 人の心は、変わりゆくものだ。

 あいつを巻き込んだ事件で、その事実をありありと痛感させられた。

 仲が良かったはずの人でも、あることがきっかけで口も利かないような関係になったり、逆に仲が悪い人だったのに、急激に心の距離が縮まったりもする。
 ずっと同じものなんてなくて、そして変化する時には痛みが伴う。その変化が良くても悪くても、誰かが痛みを背負っている。

 不要な痛みを味わうことを知りながら、俺は一石投じることにした。痛いからと言って、変化を恐れていては現実は何も変わらないのだ。俺が動くことで、この空気が再び変化するように願いを籠めて、隣のクラスにいる人物に声を掛けた。

 そのまま、そいつを人目のつかない廊下まで連れ出すと、

「――なぁ、マツナガ。生徒会書記の立場から、生徒会長の立場になった気持ちを教えてくれよ」

 振り返りざまに確認したマツナガの瞳孔は、思い切り見開かれていた。ちなみに、マツナガの下の名前は知らない。生徒会という立場にいることで苗字を目にすることはあったから、なんとなく憶えているだけだ。

「ま、待ってよ、テツキ」

 何も言わないマツナガの代わりに、俺達のことが気になって後を付けていたルリが、息を切らして問いかけて来た。そう言えば、ルリとマツナガは同じクラスだった。他クラスの人間が――、しかも幼馴染の人間が、堂々と教室に入っていけば、不審に思うのも仕方のないことだ。

「なんで書記のマツナガくんが、生徒会長の立場になれるの? うちの高校には、副会長のカナイくんもいるじゃない。普通、会長の次に偉い立場の副会長の方が――」
「簡単なことさ。原則、この高校の会長は三年が務め、副会長は二年が務める。だけど、まだ二年の副会長には難しい後始末だから、三年かつ書記であるマツナガが、会長の立場として運営している。……違うか?」

 最後の一言は、マツナガに向けて言った。呆然としていたマツナガだったが、立て直すように首を一度だけ首を振ると、嘲るように口角を上げ、

「か、勝手な憶測で物を言うのはやめてくれ。生徒会長のようになりたいから、僕がアキラを貶めたって言うのか? 僕は今、アキラの後処理で疲れているんだ。アキラの影響力は、みんな知ってる。後始末に追われるって分かりながら、どうして好き好んでやりたがるんだよ」
「そうだよ、テツキ。それに、いつも真面目なマツナガくんが、窓ガラスを割るなんてするわけないじゃない」
「なら、ルリはアキラが窓ガラスを割ったと思うのか?」

 俺の指摘に、ルリは口ごもる。俺とルリとアキラは、幼馴染だ。だから、アキラが絶対にそんなことをする人間ではないことは、知っている。

「この事件が起こって、一番得するのは誰かって考えたんだ」
「……得をする」
「ああ。事件が発生してから、約二週間――正確には十日だけど、この期間で変わったことは、大きく二つある」
「一つは、責任を感じたアキラが生徒会長を辞めたことでしょ。でも、それ以外に何かあったっけ?」
「あるだろ、皆が嫌いなテストが」

 俺の言葉に、ルリが「あ」と声を漏らした。マツナガは顔を真っ青にして、ただ黙っているだけだ。

「先週末に行なわれるはずだったテストは、解答を見られたことを危惧して、延期されることになった。いつテストが行なわれるかは分からないが、勉強をし直すにはいい機会になるはずだ。この二つを踏まえた上で、一番得するのは誰か。この十日間、アキラとは別に犯人がいることを前提にして、ずっと考えて、俺なりに調べていたんだ」
「……そういえば、ここ最近のマツナガくんの成績は下がっていたような」

 そこらへんの事情は、同じクラスのルリの方が詳しいだろう。

 最初からアキラと同じ生徒会に属している人が怪しいと踏んでいた俺も、実際、マツナガのクラスメイトから話を聞いた。
 そして、確信を得たから、こうしてマツナガと対峙することを決めた。

 下調べもせずに、確証もないまま言葉にしたら、誤解が生じる。それはきっと、人の良いどこかの誰かさんが許してくれない。

「だから、俺が導き出した事の顛末はこうだ。自己満足に飢え、成績にも限界を感じていたマツナガは、職員室から解答を盗むことを決めた。そして、実際夜遅くに窓を割って校舎に侵入したマツナガは、運が悪いことにアキラに見つかった。アキラの事情は、多分全校集会で説明があった通りだ。で、アキラと対面したマツナガは、アキラに罪を押し付けて逃げた」

 俺の説明を、ルリもマツナガも口を挟むことなく聞いていた。

「それからのマツナガは、アキラの代わりに代理として生徒会長の役を担うようになり、改めて勉強する時間も出来た。マツナガくらいに頭が良い奴だったら、少しでも勉強する時間が取れれば、テストの点を大いに伸ばすことが出来るだろ。それに、誰から聞いても、事件が起こって以降、マツナガの顔から憑き物が落ちたようだって話だ」
「確かにマツナガくんなら、両方とも条件がマッチしてる……」
「だろ。マツナガの想像した展開とは違うかもしれないけど、結局は望むとおりの結果となった。なぁマツナガ、違ったら反論してくれよ」
「……」

 マツナガはすぐには言葉を返すことはなかった。その態度は、もはや自白したも同然だった。

 どれほど時間が経っただろうか。恐らく一分も経っていないはずだ。しかし、体感的には昼休みが終わるくらいの時間が経っているように感じられた。それほど、この空間は緊迫した空気に満たされている。

「……もう、疲れてたんだよ」

 やがて、長い長い静寂を打ち破るように、マツナガが口を開いた。

「周りからの期待に応えるために、僕の限界以上を続けていくことが、いつしか苦しくなっていたんだ。それに、どれだけ頑張ったって、アキラがいる。僕が頑張ってようやく出来ることを、アキラは軽々とやってのける。それに、一見真面目にも見えないテツキや他のクラスメイトにさえも、成績が追いつかれているようになってさ。どう足掻いても、僕は上に立つことが出来ない。出来ることは、精一杯やったんだ。だから、もう楽になりたかった。この高校に来なければ……、アキラに会わなければ、こんな思いしなくてもよかったのにっ」

 悔しそうにマツナガは語る。マツナガの告白を聞いて、その気持ちが少しだけ分かった。あいつの幼馴染だった俺は、いつも何かと比較されて来た。

 ――幼馴染のアキラくんは何でも出来るんだから、テツキもしっかりするんだぞ。

 周りの声を、何度聞かされただろう。その度、心のどこかに傷を付けられているようだった。
 だから、アキラの才能を目の当たりにして、嫉妬に似た感情を抱いてしまうことも分かる。

 けれど――、

「それが、アキラを貶めていい理由にはならない」

 その気持ちを理解しつつ、俺はマツナガを慰めることはしない。

 幼馴染だからこそ、何でも出来るアキラに負い目を感じて、何度その関係性を崩したいと思ったことだろう。

 だけど、俺とマツナガが違うところは、俺はあいつの幼馴染でいることを諦めなかったところだ。
 時々つっけんどんな態度を取ったこともあったけど、必死にしがみついた。平均点以上を取れるように必死に勉強もしたし、毎日体だって鍛え上げた。アキラのように誰にでも手を差し伸べることは難しくても、俺に近付いてくれる人だけでも力になれるように行動した。

 こうして少しでもアキラと同じ位置で立てるように過ごすことで、優しいあいつを一人にさせないようにした。

「それに、アキラが簡単にやってることなんて、一つもない」

 アキラは生まれた時から何でも出来た訳ではない。むしろ、最初は運動だって俺の方が勝っていた。その状態から、アキラは必死に努力して、小学生なのに正気かってくらい努力して、今のアキラを築き上げた。

 アキラはどんなことにも真面目なのだ。出来ないことも、出来るところまで改善する。

 だけど、みんなアキラの表面的なところしか見ない。見ようとしない。あいつが、どれだけ悩み、苦しみ、もがき、それでも人に寄り添おうと努力していることか。

「アキラは誰も見えないところで、こっちが引くくらい頑張ってんだ。その努力は、絶対に否定させねぇ」

 溜飲を無理やり下げ、あくまでも淡々と告げる。

 マツナガがハッとしたように目を一度だけ見開かせた。そのまま、視線だけ右上、左上と移動させたが、

「……知っているさ」

 観念したように、マツナガが肩を落としながら呟いた。

「いつも生徒会で最後まで残るのは、アキラだった。この学校が良くなるように、生徒の悩みを聞き歩いて、先生にもしっかり相談していた。それだけじゃない。学校全体の評判がよくなるように、毎朝学校の周りを掃除して、放課後だって時間があればゴミ拾いをしている。アキラほど努力していてながらも、大っぴらにしない人を、僕は知らないよ」
「なら、どうして――」
「―――一つだけ」

 ルリの疑問を遮って、マツナガがゆっくりと人差し指を立てる。

「一つだけ、テツキの意見を訂正すると――、僕はアキラを貶めてはいないよ。全部、アキラが自らやってくれたことなんだ」

 そう言うと、マツナガは事件当日のことを滔々と語り出した。

 重ね連なったプレッシャーから逃げたくて、夜の学校に忍び込み、窓ガラスを割った直後、マツナガはアキラと出会った。
 突然のことに頭が追いつかないマツナガに対して、アキラの第一声は「大丈夫?」という、身を案じるようなものだったらしい。
 マツナガを咎めることなく、アキラは親身に話を聞いた。そして、全てを聞いたアキラが放った言葉は「ごめん、僕がもっと真剣にマツナガに声を掛けていれば……」という後悔だった。

「後のことは僕に任せてマツナガは帰っていいよ、って言うんだよ。僕は咄嗟に動けなかったんだけど、アキラに背中を押されて、そのまま帰ってしまったんだ。……それからは、皆が知っている通り」

 あらかた俺が思った通りの展開だった。

 ただでさえ心身ともに限界を迎えていたマツナガが、これ以上苦しまなくてもいいように、アキラはマツナガの罪を肩代わりした。その結果、大学の推薦をふいにし、生徒や先生の信用を失った。
 けれど、アキラは自分の選択に後悔することなく、変わらない日々を過ごしている

「だからって、アキラがそんなことする必要は――、いや、ううん」
「あぁ。そういう奴だよ、アキラは」

 何かを言いかけて一人納得したルリに同意するように、俺も頷いた。

 アキラとルリと俺。ずっと幼馴染を続けているからと言って、お互いの考えが全て分かるなんて言わない。けれど、何を思って行動したのかくらいは、何となく分かる。

 それから予鈴が鳴ったけれど、俺もルリもマツナガもすぐには動くことが出来なかった。
 動き出したら、またこの学校の空気が変わってしまうことを直感していた。

 しかし、止まり続けるものなんて、この世の中にはない。

 教師のヤマダが向こうから歩いて来るのが見えた。昼休みが終わり、授業に向かう最中だろうか。それとも、ただ単純に校内を見回っているだけかもしれない。どちらにせよ、ちょうどいいタイミングだった。

「なぁ、マツナ――」

 マツナガの方を見ると、腹をくくったような表情を浮かべていた。多分、誰が何を言うまでもなく、自ら告白するんだろうな、とそう確信した。

 もう俺が言葉を重ねる必要はない。そっとマツナガから離れ、教室に戻ることにした。

「ねぇ、テツキ。これでアキラは大丈夫になるだろうけど、今度はマツナガくんが心配だよ」

 俺の隣まで追いついたルリが、歩みを止めることなく、こそこそと耳打ちした。

 長年アキラと幼馴染を続けているから、ルリも基本的に人が良い。こんな行動を取ってしまう俺も、多分人のことを言えないのだろうけど。

「まぁ、なんとかなるだろ」

 アキラを攻める風潮がなくなれば、今度はマツナガが標的になるかもしれない。確かにマツナガも、最初は苦労するかもしれないが、その心配もきっと杞憂に終わる。

「どうせアキラが全力でサポートするからさ」
「……うん、そうだね」

 アキラは敵味方問わずに、誰でも助けてしまう性格をしている。いや、もしかしたら、アキラの中には敵も味方もないのかもしれない。

 助けを求める人には容赦なく手を差し伸べて、声も出せずに悩んでいる人には優しく手招きをするように支える。それが自分の損になろうとも、行動に移せてしまう。

 アキラがそんな性格をしているのは、マツナガの犯行を肩代わりしたことからも、すぐに分かるだろう。

 クラスメイトから稀有な視線を注がれることを覚悟しながら、俺とルリはそれぞれの教室へと入った。

<――終わり>

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