[短編小説]狂って、想って
***
都会の町並みから少しだけ離れた閑静な住宅街の、とある家。
その家は一見すると、普通の一軒家だ。広めの庭があることから子供が自由に遊び、たまの休日にはその庭でBBQを行なって、家の中でも常に談笑が絶えず、優雅な音楽を空間に響かせながら一日を過ごすような、そんな絵に描いたような幸せそうな家族が暮らしている――、この家の外観を見ると誰もがそう連想するだろう。
だけど、実際は違う。
――この家には幽霊が住んでいる。
そう噂されることが多かった。
その理由は単純明快。
近隣住民でさえ、この家に出入りする人を見たことがないからだ。
誰が何人住んでいるのかも分からず、住んでいたとして何をしているのかも分からない。ここの住宅街に何十年も住んでいる人間でさえ、一度も顔を見たことがない。
それほどまでに、一見すると華やかで幸せそうに見える家とは正反対である生活感のなさが漂っている。
立派なのは外側だけ、中身は空っぽそのもので、まさしくもぬけの殻と表現するに相応しかった。
住宅街の住民が不気味がっているのは、それだけじゃない。
家の近くを通ると、時折一定のリズムを刻むような地響きが起こってしまうのが、更にこの家への不信感を募らせる。といっても、その地響きなようなものも微かすぎて、家の前を歩く人でさえも気のせいだったのかと流してしまうほどではあるのだが、不信感が募っている状態ではどんな些細な事象でさえも、更に不安感を増幅させるための要因になる。
もし仮に、本当にこの家の中で人が暮らしていたとしたら、その人は狂人そのものだろう。
だから、この家の前を通る時は下を向いて通り過ぎることが、近隣住民の間で決まりとなっていた。
近隣住民はこの家の存在を無視することで、何もないこととしたのだ。実際のところ、存在が奇妙なだけで、周りに実害は与えられていない。しかし、関わってしまうことで、余計な面倒事を生み出してしまうのは得策ではないだろう。
結局のところ、住民の間で共通していたのは、面倒事に巻き込まれたくないという自己保身だけだった。
###
噂の家の地下、周りに音を漏らすことさえ許諾されない密室の中。常人であれば気が狂いそうなほど静かで何もない空間で、独りの人間が一枚の紙に向き合って、何かをひたすらに書き綴っていた。
そして、急にペンを止めたと思うと、すぐ横にあるピアノに座っては鍵盤を叩き出す。その表情は楽しさとは全く別物の表情であった。
***
薄れつつある意識の中、何かが見えた気がした。その何かは酷く朧気で、よくよく意識を集中しなければ、その全容を見ることが難しい。手放したくなる意識を何とか手繰り寄せて、必死に必死に世界を知ろうと試みる。
まるで靄が掛かったように朧気だった世界は、なんとか影形だけは見えるようになった。現実ではありえないような、荘厳とした景色。加えて、見出した者を祝福するような音が鳴り響いている。
この景色は、たったの一部だ。たったの一部であるに関わらず、関わろうとする者の五感を虜にしようとしているのが分かる。
行きたい。聞きたい。触れたい。見出したい。
幾重の欲望が湧き上がる。
しかし、自分より遥か高みの存在というのは、欲を見出した瞬間に人の手から抜け落ちるというのが世の常。
誰も彼もを虜にする世界は、凡人を拒むように再び朧気に霞んでいく。虚しいことに、霞んだ意識の先で、音を立てて崩れたのが分かった。
また届かなかった。ひどく落胆してしまう。完全で独立して触れた人を魅了する世界に至るために、何が必要なのだろう。分からない。分からない。分からないから、ただただ没頭する。
意識を集中させて、新しい世界を見出す。しかし、一度片鱗を見てしまったからか、朧気にすら現れてくれない。むしろ、資格すら脱却されたように、思考が黒く染まっていく。
どうしたって私の理想を覆す世界を見出すことが出来なくて――。
「……っ」
浸っていた世界から京花が目覚めるキッカケは、頬にあてがわれた冷たい感触だった。
スッキリとしない目覚めから徐々に脳を覚醒させていくような感覚で、京花は自分の世界から現実へとピントを合わせる。
「まーたやってるの、京花?」
「……由梨」
あと少し近付かれれば密着してしまいそうなほどの距離にいたのは、由梨だった。
「ごめん、タイミング悪かった?」
京花の機嫌を窺うように尋ねる由梨。と、同時に京花の目の前に水が差し出された。京花を現実に引き戻した水を見た瞬間、喉が自然と鳴った。体が水分を求めている。
「ううん、行き詰ってたから大丈夫。水、ありがと」
受け取るや否や、京花はグビグビと水を呷った。いつぶりになるか分からない水分が、京花の中を勢いよく循環していく。
ぷはっ、と飲み口から唇を離すと、
「どれくらい経ってる?」
「んー、今回は三日くらいかな。言うて、プロデューサーからはやりすぎないように見張っといてって言われてるからね。京花は心配することないよ」
「そっか」
道理で水が身にも心にも染みるわけだ、と京花は一人納得した。
三日ぶりに口にする水は美味しかった。水を一口でも飲んでしまえば、自然と空腹も感じてしまう。
京花のことを良く知っている由梨は、何も言わずにおにぎりを手渡して来た。「ども」と軽く礼を口にすると、おにぎりを頬張る。
そして、腹を少し満たしたところで、京花は己の愚行を思い知る。
「また、出来なかった……」
今や不動の人気を博している『破蕾』というバンドのメインボーカルを、京花は務めている。
小柄で可愛らしい京花からは想像も出来ないような、聞いた者の心を掴んで離さない力強い声が、周囲から根強い人気を集めている。しかし、その他にも人気を集めている理由がある。
それは京花の手で書き下ろされた作詞と作曲だ。特に京花が綴る作詞は、聞く人の心に優しく寄り添うような歌詞になっていて、唯一無二の人気が集められているのだ。
しかし、詩を書く当の本人は、無意識だった。作詞をしようとすると、いつも自然と京花の頭の中は言葉で覆い尽くされる。その言葉を、心境や情景に合わせて、書き綴るだけだった。
そして、作曲をする際には、誰にも邪魔されない防音室に閉じ籠って、二日でも三日でも必死に音だけをかき集める。
京花は、それを才能だと捉えていた。
自分の納得が行く理想の音楽を見出すまで、とことんやる。それが、京花の常だった。
「作詞だけでもプロなのに、自分で作曲もするって本当に音楽が好きなんだね」
けれど、京花の周りは違って、そう口を揃える。
破蕾のボーカルという表向きの京花しか知らない人間は何も思わないけれど、京花と近しい人間はいつも畏怖の念を抱き、そして、その異常さに距離を置く。
寝食すらも忘れ、人としての尊厳をかろうじて保つ姿は、常人には理解し難いのだ。京花の身を案じた友人が、一度それとなく注意しようとしたけれど、殺気のこもった眼差しを向けられて諦めた。京花の才能を見出しているプロデューサーでさえも、「京花は音楽と共に生きている人だから」と匙を投げるほどだ。
同じバンドメンバーの由梨も、京花の没頭する姿を見て「狂っているなぁ」と一笑に付している。笑ってくれるならまだマシな方だ。
だからこそ、由梨は京花が信頼して合い鍵を託せる数少ない人間だ。
由梨がいなければ、きっと世間から見放され、置いて行かれていることだろう。
しかし、本当に理想の音楽を追及するのなら、全てを投げ売って没頭する必要があることも同時に理解していた。
「私なんてまだまだ」
「はいはい、謙遜謙遜」
歯噛みしながら応じた京花の言葉を、由梨は軽くいなした。
混沌とした部屋の中を由梨は歩くと、「お」と一枚の紙を手にした。
「これなんて良いんじゃん?」
由梨は床に散らばっている手書きの楽譜を手にしながら、軽く口ずさむ。
自分の頭に浮かび上がった世界。逃さないように書き落とした世界。何度も口ずさんで確認した世界。
悪くないと思っていた旋律だったけれど、いざ他人の口から奏でられると、京花が生み出した世界は酷く稚拙な気がした。
「全然足りない」
必死に作り上げた調べさえも、理想に届いていないならば、京花は容易く切り捨てる。
そうしてしまうのには、京花の過去が関連している。
今や不動の人気を博している京花だが、京花の音楽活動は最初から順風満帆ではなかった。最初に組んだ『SEED』というバンドで出した曲がネットで名を馳せて有名になったけれど、一発屋として終わってしまった。京花の声に惚れ込んだ今のプロデューサーに声を掛けられて、破蕾として何とか売れるようになった。
ありふれたバンドストーリーかもしれないけれど、京花本人にとっては簡単に手に入れた立場ではないのだ。
栄華からの失墜を知っているからこそ、慢心することなく、絶えず最高の音楽を生み出していきたいと思っている。
「本当よくやるね」
悔し気に握りこぶしを作った京花に、やれやれと言ったように由梨は肩を竦めた。
「京花、また周りの人から噂されてたよ。この家の住人はヤバい奴だ、って。そこまでしてやらなくてもいいんじゃない? 二十歳らしく少しでも若々しいことを――」
「なんで?」
真面目なトーンで、京花は言葉を返す。
京花にとって周りからどう思われようと関係がない。大事なのは、音楽という媒体で作り出す京花の世界が、受け入れられるかどうかだ。更に忌憚のない表現を使うならば、誰も見たことも聞いたこともない世界に、聞く人を導けるかどうか、そこにしか興味がなかった。
「私は誰もがアッと驚くような世界を作りたいの。そのためなら、どんなものも犠牲にする覚悟をしてる。だって、そうしなければ、絶対に理想の最高傑作を生み出すことは出来ないもの」
京花は自身の胸に手を添えながら、由梨を見据える。質問をした由梨の方が気圧されてしまうほどだ。一切にぶれることのない京花の瞳が、まるで「凡人だ」と叱責しているようで、由梨は思わず目を逸らしてしまった。
京花は肩を一度竦めると、
「それこそが私の生き甲斐なの」
そして、京花はまた白い紙を真剣な目で見つめた。今の京花の頭の中には、いくつもの音符が浮かんでは消えていた。口ずさむことで音の流れを掴み、書き綴ることでこの世界に目に見える形で落とし込んでいく。
けれど、どうしても満足いく音楽が出て来ない。
京花の理想とするものは、今生み出しているよりも、もっともっと遥か高みだ。こんなものじゃ満足できなかった。
もう話は終わったと言わんばかりの集中力を、京花は白紙に向けて注いでいた。否、実際に由梨が目を逸らした時点で、京花の中で話す価値はないという決断ですでに終わっているのだ。
京花の答えを聞いた由梨は、
「ま、分かってたけどね」
落胆に近い溜め息をふっと吐いた。京花の反応は、由梨が思い描いたものとほとんど変わっていなかった。それでも真っ直ぐ見れなかったのは、由梨自身の弱さからだ。
破蕾を組むようになってから早三年。由梨は京花のことを間近で見続けて来て、京花の性格を分かっているつもりだ。「……でも」、由梨は言葉を呟く。
「ほんと狂ってるよ」
###
一日中自分の世界に浸っては、新しい調べを見出す。
時には寝食を忘れてまで、自分の中から旋律を生み出そうとする。不思議と疲労も何も感じない。それを何日も何日も繰り返す。
自分でも狂っていると思う。
だけど、仕方がない。
いつ出会うか分からないのだ。もしかしたら、小さな雑音だと切り捨てた中に、新しい世界への活路が隠されているかもしれない。けれど、集中していなければ、見極めることすら叶わない。
五臓六腑、神経の先から先まで、全てを犠牲にしなければ、僅かな時を逃してしまう。
だから、周りから何と思われようとも、ただただこの身も心も捧げるだけだ。
必要最低限以外のことは全て捨て、またしても自分の中の世界に入り込む。
***
世間的にも人気のあるバンドに所属していて、作詞作曲の才能にも恵まれ、孤高の人としても憧れを抱かれている京花だが、当人の自己評価は低いものとなっている。
その理由は、京花の前身バンドでもある『SEED』にまで遡る。京花がSEEDとして活動していたのは、今から五年ほど前の高校時代のことだ。
一般企業に勤める両親の元、京花はのびのびと過ごして来た。ある程度の自由を許された中、京花はネットやテレビなどを通じて音楽にのめり込むように触れ、気付けば自分でも作詞作曲をするようになっていた。
初めて作詞作曲ともに完成させたのは中学一年の頃で、周りからは「天才だよ」と囃し立てられた。自分の中に才能を見出した京花は、更に作詞作曲に励んで、多くの楽曲を生み出した。
そして、高校に進学した京花は、音楽が出来る友達を集めて『SEED』を結成した。SEEDでは、京花がボーカルを担い、作詞作曲も京花一人で行なう――、つもりだった。
京花の予定は、冴えない同級生の男と出会ったことで崩れ落ちた。
その人物は、京花の中では暗く地味で無口なクラスメイトとして認識しており、ハジメという名前だった。
ただのクラスメイトとしてではなくハジメという人間として京花が認識するようになったのは、バンド練習が終わったある日の放課後、教室で一人居残っているハジメの姿を見た時のことだった。
夕暮れに染まる教室で一人寂しくヘッドフォンで何かを聞いているハジメを見て、京花はある企みを思いついた。
同世代の男がどんな音楽を聞くのか、リアルな状況を把握してみたいという軽い気持ちが生じたのだ。もし男子高校生の流行が分かれば、作詞作曲の幅も広がるかもしれない。
「ねぇ、何聞いてるの?」
ハジメの耳からヘッドフォンを外し、京花は自分の耳に装着する。
瞬間、京花は自分の世界が足元から崩れ落ちるような感覚を得た。
作曲する立場になって、それが既存の曲か未だ世に出ていない曲か、瞬時に聞き分けることが出来るようになっていた。ハジメが聞いていた楽曲は、明らかに後者だった。
――力強く荘厳でいて、人の気持ちに優しく寄り添う、相殺されるはずなのに共存された世界。今までに出会ったことのない曲だった。
軽い気持ちで聞いたことを、京花は後悔した。
京花のプライドは、根こそぎ折られた。
この時、京花は才能の有無を認めてしまった。
同い年の十五歳なのにここまで完成された世界を持っているのかと、京花は驚きを隠せなかった。
自分が奏でていた曲は音楽にすらならなかったのだと、そう痛感させられた。
悔しいのは、京花の中で言葉が洪水のように押し寄せて来ることだった。目の前にいる人間が作り上げた世界観に刺激され、感化されようとしている。
ハジメが作った音楽を最大限活かすための言葉を、ズタボロにされた頭で、必死に手繰り寄せている。
「あ、あの」
恐る恐る肩をつつかれて、京花は現実に戻った。
「も、もう、い、いいですか」
片耳だけヘッドフォンを外した状態で、ハジメの声を聞いた。
華奢な体。細い声。自信がなさげな態度。なのに、ハジメが築き上げる世界は、本人の性格とは正反対で力強い。それでいて、やはり本人の性格を現したように優しい。
「これ、何?」
「ぼ、僕が作ったんですけど……」
予想していた答えは、京花の心を容赦なく乱す。
「この曲、どうするの?」
「ど、どうす、どうするって……。べ、別に、何も」
つまり、この曲は自己満足のためだけに消費されてしまうということだ。もったいない、と素直に思った。
ハジメが作った音楽は、もっと多くの人が聞くべきものだ。
「私ね――」
気付けば、京花はハジメに自分のことを語り、SEEDのデビュー曲として使わせて欲しいと懇願していた。
最初は謙遜しつつ渋っていたハジメだったが、京花は舞い乱れる言葉をハジメの旋律に乗せて諳んじると、最終的には自分の名前を出さないことを条件にして頷いた。
京花はすぐにネットに投稿した。これがSEEDとしてのデビュー曲になった。
ハジメが奏で、京花が綴った曲は、瞬く間に世間から認められた。作詞作曲共に称えるようなコメントが多く寄せられた。しかし、多く称えられる中でも、作曲の方を褒め称える方に軍配が上がっていた。
分かっていた結果だった。けれど、自分よりも称えられているハジメの才能に、京花は嫉妬した。
かろうじて音楽を続けようと思えたのは、京花には天才的な作詞センスがあったからだ。もし作詞にさえも才能がなかったら、今の京花は間違いなく存在しなかっただろう。
京花の荒れ狂う心境を除けば、華々しい駆け出しだった。
しかし、順風満帆に思えたSEEDのデビューだったが、予想だにしない問題が襲い掛かる。
その問題は、繊細なハジメは一曲の楽曲を生み出すのに、かなりの時間を要してしまうタイプだったということだ。
人々から認知され続けるためには、楽曲を出し続けなければならない。
歌詞を綴ると同時、否が応でも京花が曲を作らされることになった。元々その予定だったから、問題はない。
ないはずなのに、京花の心は、いつも何者かに追われているかのように切羽詰まっていた。
拷問だった。SEEDとして曲を作り出そうとする度、ハジメが奏でた旋律が京花を阻むのだ。
誰に聞いても完璧だと評価されるハジメの楽曲は、京花にとっても理想そのものだった。
越えられるわけがなかった。
デビュー曲以上の衝撃を世間に与えることが出来なかったSEEDは、解散を余儀なくされ、自然と人々の記憶からも姿を消した。
結局SEEDを組む中で、京花とハジメが合作で作った曲は、デビュー曲のみだった。
だから、京花は自分自身に対して、自己評価が低くなってしまっている。
幸いなことに、歌声と歌詞のセンスを評価された京花は、高校卒業間近に、現在のプロデューサーによって『破蕾』としてデビューすることになった。
破蕾を組むようになってから、京花は過去の幻影に囚われないように没頭した。周りから評価され、好きな音楽から離れることなく、天才作詞家と謳われ孤高のボーカリストとしての立ち位置を手に入れた。
けれど、ダメだった。どうしてもハジメが作り上げた理想を振り払うことが出来ずにいる。
「……どうしたら」
今日も誰もいない防音室の中で、没頭して新しい世界を見出そうとしていた京花は、椅子の背もたれに全体重を預けながら嘆く。
歌詞は何となく思い浮かんでいた。けれど、その歌詞を彩るための最高の旋律が、京花の中から生まれない。締め切りまで残り一週間もない今、京花の心は焦るばかりだ。
こういう時、京花は自分の才能のなさを呪う。もちろん完全にないわけではない。しかし、京花が求める理想には全くと言っていいほど追いついていないのだ。
その証拠に、『破蕾』について調べると、京花が書き綴った作詞について褒める言葉に対して、京花が奏でた作曲に関して褒める言葉は圧倒的に少なかった。
京花自身も、妥当な評価だと思っていた。
あの日あの夕暮れに聞いたハジメの曲が、京花にとって原点であり頂点だ。京花の評価の基準は、どうしても過去からのスタートとなってしまう。
あの曲を超えるような曲を作れていない自覚が京花にあるのだから、周りの評価を批判する気にもなれない。
天才を超える歌詞を綴れども、天才を超える曲は見出せない。
どうしたら天才の域に達することが出来るのだろう、そのことばかりを考えて音楽活動に励むようになった。しかし現実は悲しく、自分の才能のなさに歯噛みしつつ、狂ったように独り没頭したとしても、理想の世界には至れない。
それもそのはずだ。
「私はあいつの真似事をしているだけだもん」
自覚している分、余計に質が悪かった。
もしも才能の無さに気が付いていれば、きっと目を瞑っていられたことだろう。けれど、現実は違う。才能がある者は、自他問わずに才能の有無を見極めてしまう。
いつも理想を超えられない自分の才能のなさに、辟易する日々が続いた。
想像の範疇を遥かに超える理想の音楽を、京花は常に求めてしまっている。
世の常識を脱するように狂った生活を送ろうとも、到底理想には至ることが出来ない。
「……ん?」
他の侵入を許さない部屋の中、一つの虚しい電子音がパソコンから響く。この部屋に置いてあるパソコンのアドレスは、たった一人の人物からの受信しか許諾していなかった。
京花はガバッと体を起こし、机に置いてあったヘッドフォンを耳に装着、その勢いのままパソコンのモニターにかぶりつくように近付いた。
本文を開き、添付されていたファイルも開く。
そこから、美しい旋律が流れる。繊細で、荘厳で、自由。息が詰まるほど集中して聞く。
五分十六秒なんて、あっという間だった。
ザァーッというノイズを耳にしながら、京花は暫く放心したようにパソコンの画面に映る自分を見つめていた。けれど、そこに思考も何もない。打ちのめされるような感覚の余韻を、味わっているだけだ。
送られてきた曲は、優しくて、自由で、どこか胸が締め付けられるような感覚にさせる。普通に生きていたら出会えないような感情を、他人にも体感させることが出来るのは、まさしく天才の所業だ。
どれくらいそう過ごしていただろう。五分十六秒という何倍の時間が経過しても、余韻から抜け出すことが出来ない。
「――」
しかし、少し遅れたように京花の中を言葉が押し寄せてくると、ようやくハッと我に返り、もう一度再生ボタンを押した。
この世界の煩わしさとは一線を画した世界が、変わらずそこにあった。
繊細な旋律を彩る歌詞が、浮かぶ。浮かんでは、もっと至高の言葉を探して、更に潜る。たったの一語、否、たったの一音さえも、この曲に相応しい言葉を探していく。
曲が終わる予兆のノイズを感じ取ると、京花はすぐさま再生ボタンを押した。何度も何度も繰り返し再生する。そのたび、相応しい言葉を掴み取る。次第に、再生ボタンを押すという指一つの挙動さえ途中から煩わしくなって、エンドレスでリピートされるように設定した。
何百回繰り返し聞いただろう。
この曲に相応しい歌詞を諳んじることが出来るほどになって、ようやく理想の世界から離れる心構えが京花の中に生まれた。それでも限界までこの世界から離れることを惜しむように、ゆっくりとヘッドフォンを外して現実に戻る。
ここでようやく一息つくと、
「ほんと、むかつく」
そう悪態づく京花の表情は、あからさまに破願していた。
###
噂の家の地下、周りに音を漏らすことさえ許諾されない密室の中。ここで暮らす一人の人物――『一』という名前の青年は、一仕事を終えたようにふぅと息を吐いて、パソコンの画面をシャットダウンさせた。
ドッと押し寄せた倦怠感を全身に感じながら、ハジメは自分の部屋を見渡す。至る場所に散らばっている紙、菓子パンやオニギリのゴミ、ゴミ箱から溢れ出したゴミの山、到底人間が住むべきとは思えないほどの乱雑とした様子だった。
「あー、またやっちゃった……」
自分が生み出した惨状だと理解しつつ、ハジメは溜め息を吐いた。
一度やりたいと決めたことであれば、とことん没頭してしまう性格をハジメは有していた。常軌を逸するハジメの没頭する様は、自分の身の回りのことでさえ度外視してしまうほどで、周囲から疎まれていることはよくよく分かっていた。『一』という名前からも、名前にさえも気を取られるな、という両親のメッセージを受け取っていた。実際、その通りの人生を歩んでいる自覚があった。
ハジメの生き甲斐は、音楽を生み出すこと。
いつからだったかは明確ではないが、ハジメはふとした時に自分の頭の中で旋律が流れていることに気が付いた。しかも、その旋律はこの世の中で一度も聞いたことのない、美しさを伴なっていた。ハジメはその美しさを外側に解放したいと思った。
それが人生を賭してやるべきことだと、使命感に似た想いを抱いていた。
しかし、ハジメは脳や手先が器用な方ではない。また、妥協も許さない一途な性格もしている。
それゆえ、一度手を付けると、更なる完璧を求めてしまう。もしかしたら、もっと至高の一音があるのではないかと、どこまでも自分の世界に入り込んでしまう。
この一曲も作り上げるのにだって、五年ほどの時間が経っている。
そして、その五年の月日の間――否、正確に表現するのであれば、高校を卒業して親の脛を齧るように、制作に集中できる防音室を与えてもらい、ここに籠るようになってからの二年もの間、ハジメはまともな寝食を取らずに没頭していた。
自分の中から限界まで搾り取った疲労感。
これ以上の傑作は生み出せないだろう、という達成感。
代償にして、身の回りのもの全てを犠牲にした生活。
一曲作ると、ハジメはだいたいこうなってしまう。
「……ははっ」
嘲笑するような渇いた笑いがハジメの口から洩れる。
人間として大切な何かを捨てた生活を送っている自覚はあった。もう少し控えた方がいい、ということも頭の中では何となく分かっている。
この荒れ狂った惨状の中を、何の感慨も持たずに当然と生活してしまっているのは、獣同然だ。
けれど。
「抜け出せるわけがないんだよな」
創作の世界に、ハジメは取り返しが付かないほどに虜になっている。
自分の中にしかなかった旋律が、ハッキリと音符という形になって世界を奮わせていく。その瞬間、ハジメは普通に生きていては体感出来ないほどの幸福を感じる。
もしも、心の中に響く旋律を表現できなかったらと考えると――、そう頭を過らせるだけでハジメは息が詰まって苦しくなる。
頭の中で奏でられる旋律を地上に現すことでしか、自己を満たす方法は知らなかった。
「でも、まだ足りない……」
これ以上ないほどの最高の調べを築き上げたけれど、どこかで不足を感じていた。
何が足りないのかは、ハジメ自身理解していた。
今ハジメが作り上げた楽曲をたとえるならば、種を植え、根が生え、葉も青々と生い茂っている状態だ。それだけでも、見る人は美しいと思う。
けれど、まだ花が咲いていない。花が咲いてこそ、一目瞭然の結果として人々の心を惹きつける。
自分の曲に花がないことに気が付いたのは、高校一年生の時だ。
だんだんと夕暮れに向かっていく世界の切なさを曲で表現したくて、何日も何日も一人で放課後の教室に残っていると、ハジメは一人の同級生に出会ってしまった。
堂々と、力強く、強引で、いつも和の中心に立つも、少しだけ儚くて、整った容姿を持ち、まさに人を惹きつけるために生まれたようなカリスマ的存在である京花だった。
ハジメとは正反対の世界で生きる人間だ、そう印象を抱いたのは、ほんの僅かな時間だった。
初めて京花とちゃんと接するようになったあの日。
ハジメの奏でた音楽を真剣に聞く京花を見て、似た者同士だと思った。
音楽に真剣に通じようとしているからこそ、地味で暗いクラスメイトが作った曲でも気味悪がることなく、一音も逃すことなく聞こうとしている。
ハジメが作り上げた世界に没頭する京花に、申し訳のなさを抱きながらも声を掛けた。そうしなければ、いつまでも現実に戻ってこないことを分かっていたからだ。
そして、聞き終わった後のやり取りで、ハジメの予感は確信に変わった。
京花の口から紡がれたのは、ハジメが胸の奥で秘めていた言葉にならない想いだった。
京花は傍若無人な振る舞いを見せるところもあるが、人の心象風景を正確に読み解き、言葉にすることに長けていた。その才能により、京花は一瞬にして、ハジメの曲に言葉を乗せたのだ。
天才とは、こういう人間のことを言うのだとハジメは思った。同時、京花といれば、ハジメが本当に作りたいと願っている世界を完成させることが出来ると確信した。
京花であれば、ハジメが思い描く理想を遥かに超えた形で、世界を彩ってくれるという確信を持っている。
だから、全てを投げ捨てたくなるような、辛く孤独な創作活動にも耐えることが出来る。
たった今作り上げた世界がどう彩られていくのか、一人ハジメは夢想していると、
「ハジメ!」
ドタバタと階段を駆け降りるような音に続いて防音室の中に響いたのは、ハジメの心を奮わせる声だった。
ハジメは扉の方に目を向けた。
そこにいるのは、息を荒げながらヘッドフォンを手にしている京花だった。
「……京花、ちゃん」
久し振りに他人に対して発した言葉は、当然のように酷くか細く、今にも消えてしまいそうだった。相当弱っているのだと、ハジメは客観的に痛感する。
しかし、弱っている状態だというのに、京花の声には煩わしさを感じない。
「作った! これ聞いて!」
京花は遠慮がなかった。
常人なら足を踏み入れるほどを躊躇するほどの乱雑としたスペースも、臆することなく掻き分けて進んでいく。京花自身の部屋も似たような惨状なのだから、躊躇う理由はどこにもない。
そして、無遠慮にハジメの前に来たと思うと、京花は強引にハジメの耳にヘッドフォンを装着させた。
文字通り命を賭けるようにハジメが作り上げたイントロが、耳から響く。自分の意志で聞くのと、他人から聞かせられるのとでは、少しだけ受ける印象が異なる。
しかし、そんな呆けた感想を抱くのも束の間、すぐに京花の力強い声が、脳を刺激した。
世界に色が灯った瞬間だった。
京花の伝えたい想いが、怒涛のように押し寄せて来る。そして、すなわちそれは、ハジメが胸の奥底に隠していて世に発信したい想いでもあった。
――あぁ。どうしてこの人はいとも簡単に人の想いを汲んでくれるのだろう。
ハジメが京花に音源を送ってから、まだ半日も経過していないはずだ。それにも関わらず、ハジメが作り上げた世界に対して、京花は花を咲かせている。しかも、その色合いに、一切の乱れがない。
どれだけ京花は天才なのだろうと、ハジメは痛感させられる。
気付けば、京花が新しく塗り替えてくれたハジメの五分十六秒の世界は終わりを告げていた。
「……もう一度」
ハジメは求める。京花は無言で頷き、端末を操作する。もう一度、世界が響き出す。
遠くにいたはずなのに、誰よりも近くに寄り添ってくれるような言葉の数々。
優しく、繊細で、包み込まれるような感覚。他の誰にも作れない、ハジメと京花で完成させた世界。
ハジメはずっとこの世界を作り上げたかったのだと理解した。
狂うように没頭し、それでも至高の世界に至るためにもがき続け、周りの人間からも揶揄され続けて来たけれど、その労苦が全て報われたようだ。
こういう瞬間を体験してしまったから、ハジメはもう抜け出すことが出来ない。
――一方。
縋るようにヘッドフォンに耳を当てているハジメを、京花は複雑な心境で見ていた。
ハジメは間違いなく天才作曲家だ。ハジメが奏でる曲は、一音一音完全に計算されていて、繊細な音をしている。世のどこにいても辿り着けない世界を、ハジメはその小さな頭の中にいくつも持っている。
その旋律は、どれほど人の心に寄り添い、救うことが出来るだろう。
京花はハジメの音を邪魔しないように、一語一語大切に言葉を紡いだ。それがどれほど己の心身を削る作業だろうか。
恐らくハジメに出会わなければ、ここまで京花は苦しめられることはなかった。自分を恥じたくなるほど何度も何度もハジメの才能に嫉妬したこともあった。
いつもハジメという理想が、京花に纏わりついていた。理想を超えるために、人として大切であろう様々なものを犠牲にして来た。
だけど、京花はハジメに声を掛けなければよかったと、そう後悔したことは一度もない。
ハジメに出会わなければ生じなかった音楽が、たくさんある。気付けなかった想いが、あまりに多い。
京花は作曲をする際にハジメを理想とするだけでなく、作詞をする時もハジメの次元を想像しながら書き綴っていた。
その結果、誰からも認められるボーカリストになることが出来た。それは誰かの心に届き、誰かの助けになれたということだ。
人に影響を与えられるというのは、並大抵の実力で出来ることではない。ハジメに出会わなければ、京花は自身の才能を宝の持ち腐れとさせていただろう。
そして、もっとも幸いなことが、ハジメが作り上げた世界を誰よりも一番先に触れ、言葉を綴れることだ。
無限に言葉が湧き出て、最高の歌を作れた時のあの瞬間。
世の何も卓越した恍惚さは、味わった者すべてを虜にしてしまう。一度虜にされてしまえば、もう抜け出すことは出来ない。
まるで誰の足跡のない新雪で、自分だけの氷像を作る時の快感に近いだろうか。
もっと、もっと。もっと先に進んで、誰も踏んだことのない境地へ。
更によい音楽を生み出すためならば、狂ったように没頭してみせる。
そうしてこそ、誰も見たことのない世界に至ることが出来るのだ。
「……」
ヘッドフォンを外して顔を上げたハジメと、京花は視線が重なった。
「どう?」
少女のようなキラキラとした笑みを浮かべながら、京花はハジメに問いかける。いくつ年月が経てども、京花もハジメも、初めて出会った時と何一つ変わっていない。
二人で作り上げた世界を聞いて、怒涛のように押し寄せてきた感情を、ハジメはどう言葉にしようか逡巡した。しかし、それも束の間だった。
「最高だよ」
ハジメは京花のように言葉が巧みではない。だから、シンプルな言葉で、真っ直ぐに自分の言葉を伝える。
「頑張って生きて良かった、って思える。心から」
「私もだよ」
ハジメの感想を聞いた京花は、一番最初に浮かんだ言葉を何も飾ることなく簡潔に言った。
<――終わり>
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?