[短編小説]振り返り、桜
***
過ぎ去ったはずの、あの日のことを思い出した。
電車の中で、私が手離した物と似た物を持っていた女性をふと目にした時だ。
もう七年近くも前の出来事だというのに、よくも憶えていたものだと我ながら関心する。そして、同時に当たり前のようになりつつあったことに、自分自身で気付く。
あの日がなければ、心の中がこんなにも満たされることを知らないまま生きていた。
「――侑希ちゃん、ありがとう」
彼女のこと――帆波先輩のことを思い出す時に浮かぶのは、どんなことにも感謝を言葉に表現して、屈託のない笑顔を見せる瞬間だ。帆波先輩を知っている人に、彼女の特徴を問いかければ、十人に十人が同じ解答をすることだろう。
七年前、初めて帆波先輩と会った時に分からなかったことが、今は少しだけ分かる。
私は肩にぶら下げた荷物に、視線を落とした。仕事の関係で、次のお得意先で使う荷物だ。ずっしりと重いのだが、この重さは不思議と嫌ではない。
顔を上げると、トンネルに入ったのだろう、鏡の役割を担うようになった窓ガラスに私の姿が映り込んでいた。
客観的に見た私は、背筋をピンと伸ばしていて、真っ直ぐな表情をしていた。
思わず、ふふっと笑いが零れる。あの日の私が今の私を見たら、きっと驚くだろう。隣に立っていた女性が、手すりを握りながら、私のことを不思議なものを見るような目で見ているように。
隣の人に向けて軽く頭を下げると、記憶の蓋を開けるきっかけとなった持ち物へと、視線が再び戻っていく。
目の前で座っている女性が持っているものは、何の変哲もないエコバッグだ。しかし、その犬のシルエットが入ったデザインは、私が過去に持っていた物と、とてもよく似ていた。今は私の手元から離れているから確認しようもないが、確かこんな柄だったと思う。
エコバッグを手離したのも、今みたいに電車に乗っている時だった。
あの時は確か、リクルートスーツに身を包んだ帆波先輩が、紙の手提げ袋が破けてしまったことで中身を車両にばら撒いてしまった。同じ車両に乗っていた当時の私は、リュックの中に入れていた犬のデザインをしたエコバッグを、帆波先輩に手渡した。大袈裟なくらいに頭を下げた帆波先輩の姿は、私の心に鮮明に刻まれている。窓の外に流れる景色の中に、鮮やかなピンク色が混ざっていたことも心から消えやしない。
それが、私と帆波先輩の出会いだった。それから、同じ大学の敷地内で顔を合わせることが多くなり、色々なことがあった。本当に、色々とあった。
帆波先輩は、今もあのエコバッグを大事に使ってくれているだろうか。
「……使っているんだろうなぁ」
頭の中の疑問符に、すぐさま呟くように答える。
帆波先輩は、人の優しさを無下にしない人だし、誰に対しても優しさを与えることが出来る人だ。
帆波先輩と過ごした、大学生活の一年間が頭によぎる。
まだまだ幼かった当時の私は、当時の帆波先輩の行動を理解することは出来なかった。多分、同じ大学に通っていた人、みんなそうだ。帆波先輩の優しさを、当たり前のものとして――むしろ、その優しさに付け込むように接していた。
それでも、帆波先輩の振る舞いは、誰に対しても平等だった。
「――ご乗車ありがとうございます」
アナウンスとほぼ同時に、電車がホームで止まった。多くの人が降り、そしてまた乗車する。隣に並んでいた女性も、このホームで降りたようだった。
電車に紛れ込んだ桜の微香を味わいながら、私は腕時計を見る。この電車が目的地に着くまで、残り八駅。時間にしたら、三十分ほど。
あの時の記憶を思い起こすのに、ちょうどいい時間かもしれない。
それに、今の私の原点であるあの日を思い出すことで、この胸は温かさに満ち溢れ、次の仕事に向けた活力にもなる。
私はゆっくりと瞼を閉じる。
――これから振り返るのは、きっと他の人からしたら、他愛もない普遍の話だろう。
だけど、私にとっては特別で大切で温かい、そんな想い出だ。
***
私が帆波先輩と会ったのは、あの日電車で出会ったのが初めてだった。けれど、帆波先輩の存在を知っていたのは、もっともっと前のことだった。
私の通う大学では、とある噂でちょっと有名になっていた人が、一人いた。
世話焼きで、頼み込めば、見返りを求めることなく手を貸してくれる人がいるというものだ。たとえば、講義の代返とか、ノートを見せてもらうとか、課題に一緒に取り組むとか、本来なら自分で解決すべきことでも、手を貸してくれるらしい。
それが、帆波先輩だった。
私は噂でしか聞いたことがなく、帆波先輩のことを頼ったことはなかった。けれど、大学中に噂が蔓延するほどの人物だ。関わりはなくとも、敷地内で帆波先輩のことを見かければ、「あ、噂の人だ」と一方的に認識出来るくらいには知るようになっていた。それほど影響力が強い人だった。
当時の帆波先輩のトレードマークでもあったシュシュでまとめた髪を見かける時は、いつも忙しそうに大学内を駆け回っていることが多かった。そんな中、帆波先輩が不満げな表情を浮かべていたのを見たことがなかった。その口元は微笑の形に象られていた。
けれど、その固まった口角の裏で、何を隠しているのかは分かったものではないと私は思っていた。
他人の行動に何か裏があるのではないかと勘ぐってしまうくらいに、大学生活を一年送った私は荒んだ性格をしていた。
間違った解釈をしていたことに私が気付かされたのは、実際に帆波先輩と関係性を持つようになってからだ。
「この前は、本当にありがとうございました」
電車での一件があって構内で再会した時に、真っ先に頭を下げられてしまった。
帆波先輩が何に対して頭を下げているのか一瞬理解が出来なかったが、エコバッグを渡した時のことだと、少しばかり時間を要して思い出すことが出来た。
「同じ大学に通う方だったんですね。今何年生なんですか?」
私が記憶を掘り起こしている最中も、帆波先輩は人当たりの良い笑みを浮かべながら、真っ直ぐに問いかけて来る。私は意識を切り替えるためにも、「……んっ」と小さく喉を鳴らしてから、
「っと、今年で二年になりました」
「あ、じゃあ私と二つ違うんだ」
帆波先輩の口調が砕けて親しみやすいものに変わった。
「私、高梨帆波。あなたは?」
私が「平野侑希です」と自己紹介をしたと同時、「侑希ちゃんね」と言いながら、帆波先輩ががっしりと手を握って来た。
目と目が合って、私はすぐに視線をふいと横に反らした。穢れを知らないような澄んだ瞳に、同性ながらも少しだけ胸が高鳴った。
「改めて、侑希ちゃん。この前は本当に助かったわ。侑希ちゃんからあのバッグを借りなければ、大量の資料を手で持って帰らなければいけなかったもの。ちゃんと畳んで持って来たから、今返すわね」
帆波先輩が鞄から取り出したエコバッグは、言葉通りにピッシリと折り畳まれていた。恐らくアイロンがけもしてくれたのだろう、まるで売り物のように綺麗だった。たかが百円だからと蔑ろに扱っていた私とは、段違いな対応だ。
だからこそ、すぐさま受け取ることが出来なかった。首を小さく横に傾げた帆波先輩に、ようやくハッと我に帰ると、取り繕うように首を横に振って、
「えっと、返さなくても大丈夫ですよ。また必要な時があるかもしれないし、帆波先輩が持っていてください。……それに、百均で買ったような安物ですし」
「あら、そうなの?」
帆波先輩は、納得していないように目じりを下に下げていた。私の言葉通りに受け取っていいのか、それとも借りたものはちゃんと返すべきか、迷っているのが窺えた。帆波先輩の仕草には、彼女の純真さが現れている。
そして、やがて自分の判断を決めたのか、帆波先輩は顔を上げて私の瞳を真っ直ぐに見つめると、
「帆波ぃ、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
帆波先輩が口を開こうとしたタイミングで、同級生らしき集団から声が掛かった。帆波先輩は、「あ、はーい」と大きく手を振りながら返事する。
そして、手を降ろすと、私に向き直って「……うん、分かった」と一言言った。
「そしたら、ひとまず預かっておくね」
「了解しました」
「もし侑希ちゃんも困ったことがあったら、私でよければ何でも言ってね。またね」
私に向けて軽く手を振ると、帆波先輩は同級生らしき集団の方へと足早に去っていった。帆波先輩が同級生の輪に混ざるまで、つい視線が追いかけていた。満面の笑顔でいる帆波先輩は、誰が相手だとしても接する態度を変えないのだと、傍から見ていても分かった。
そのまま帰ればいいのに、私はその場に立ち尽くして、帆波先輩の動向を眺めていた。
帆波先輩は嫌な顔一つせずに、むしろ先輩たちの言葉に真剣に耳を傾けていた。時折、帆波先輩からも意見を出しているようだ。
だけど、それよりも印象的なのは、噂通りに帆波先輩が手伝うことを当然のように受け入れていたことだった。
帆波先輩が何かをしても礼を言う人は誰もいない。「ありがとー」と声に出す人もいたけれど、その声も間延びしていて、形だけの言葉に聞こえてしまった。
けれど、帆波先輩は何も気に留めることなく、身を注いでいく。
私だったら、耐えられそうにない。
何かしてあげたなら、その分返って来るべきだ。見返りがないなら、手を差し伸べる理由なんて、どこにもない。
理由もなく出来る人なんて――、
「本当に世話焼きで、お人好しなんだな」
その時は、帆波先輩に対してそんな感じの感想を抱いて、軽く受け流していた。
しかし、私が抱いた感想は、すぐさま覆される。
出会いというものは不思議なもので、一度縁が出来ると、固く結ばれたように引き合わされる。
何が言いたいのかと言うと、私のことを構内ですれ違う一生徒ではなく「平野侑希」として認識した帆波先輩と、顔を合わせて言葉を交わす頻度が一日一回ペースに増えた。帆波先輩が何か別の作業をしていても、私の姿を見ると、手を止めてまで声を掛けて来るほどだった。そして、帆波先輩はその都度――、
「侑希ちゃん、この前は本当にありがとうね」
とお礼の言葉を挟んで来た。まさか一週間以上も前の小さな出来事を、まるで今も恩恵を被っているかのように言われ続けるようになるとは思わなかった。
恥ずかしい想いを抱きつつ、感謝の言葉を言われて悪い気がしなかった私は、内側から湧き出る感情を必死に抑えながら平静を装っていた。
帆波先輩と関わる大学生活が続いて。私の生活の中に、微かな変化が生じて。
私は帆波先輩と話す度、とある疑問が湧いて来た。
どうして帆波先輩はこんなにも人に尽くそうとするのだろう――。
知り合う前だったら「へー、そうなんだ」と受け流すくらいのものだったけど、帆波先輩と接すれば接するほど、確かな疑問として私の心を満たし始めているのがあからさまに自覚出来た。
だけど、誰かに対して真摯に向き合うことが出来なかった私は、深く問い詰めることが出来ずにいた。人の深いところを聞いてしまったら、そこで終わるのではないかと思うと、どこか怖かったのだ。
胸に宿る疑問が募って、私の中で大きくなっていった。
そんな私が帆波先輩の本心を聞くことが出来たのは、彼女が桜並木の下を凛とした姿勢で歩き始める時だった。
***
薄紅色に染めた花びらが、新しい風に吹かれて宙を舞う。ほんのりと柔らかな香りが、鼻孔をくすぐる。
いつもの道。風が止み、花びらに覆われた視界がスッキリとした。すると、シュシュでひとくくりにした、いつものあの髪が見えた。
――帆波先輩。
何度も当たり前のように言の葉にした名前を、私はもう声に出すことは叶わない。ましてや、その名前を紡いで、花のような笑顔で反応してくれる人はもうここにはいない。
帆波先輩は、この大学を卒業していったのだから。帆波先輩とこの道を通らなくなってから、早くも一か月ほどが経過しようとしていた。
帆波先輩のような髪型をしていた女の子は、私のことなど気に留めることなく小道を歩いていく。
私はふっと息を吐いた。
この道を一人で通る度、帆波先輩との最後のやり取りを思い返される。
華やかな着物に身を包んだ帆波先輩の後ろ姿を見かけるや否や、「――帆波先輩っ!」と私は大声を出して、新たな門出を踏み出そうとしていた帆波先輩を呼び止めたのだ。
「侑希ちゃん」
振り返る帆波先輩の表情は、いつものような笑顔だった。だけど、手にしている卒業証書を見て、私の心はキュッと締め付けられた。
「……本当に、お別れなんですね」
「うん。地元に帰ることにしたからね」
帆波先輩の地元は海の見える穏やかな町らしく、そこで就職することを選んだ。この大学がある町とは遠く離れていて、私の地元とも正反対の場所だから、帆波先輩が門を通り過ぎたら気軽に会うことは難しくなる。
「侑希ちゃん、ありがとう」
いつもの言葉を、いつもの温度で言われて、私はまじまじと帆波先輩を見た。今日で最後だというのに、帆波先輩は天母のような笑みを浮かべていた。
「電車の中で侑希ちゃんに助けてもらって、ご縁が出来て、一緒に過ごすことも多くなって――。この一年間すごく楽しかったわ」
ずるい。それは私の台詞だ。私だって、帆波先輩と出会ってから、楽しい想いばかり味わわせてもらった。
だけど、胸に湧く想いが溢れ過ぎて、何も言葉にすることが出来ない。
帆波先輩は未練を感じさせる素振りを見せずに、「じゃあ、またね」と歩き出そうとしていた。
この背中を見送ってしまえば、今までみたいに簡単に帆波先輩に出会うことが出来なくなる。
この声にも、この笑顔にも、この優しさにも、触れ合えるのはもう最後かもしれない。
そう思ったら――、
「帆波先輩!」
先輩との時間を繋ぎ留めるために、一際大きな声が出た。帆波先輩は驚いた顔も嫌な顔も一つせずに、天母のような優しい笑みを浮かべていた。
「……ど、どうして帆波先輩は、あんなにも人のために尽くせていたんですか?」
何も考えずに、必死に絞り出した言葉は、帆波先輩に対する問いかけだった。
最後の最後にする話題ではないだろう、と思いつつ、抱き続けた疑問を言葉に出せて、少しだけ胸が軽くなった。
聞きたかったことも、二度と聞けなくなるかもしれない。
だからこそ、この時に知りたい。
誰に見られずとも、帆波先輩がずっと頑張り続けた理由を、私は知りたい――。
「大学に通ってる間、迷いなく人の助けになれる帆波先輩を凄いと思ってました。だけど、みんな当たり前のこととして受け止めて、帆波先輩のことを理解してくれる人なんていなかったじゃないですか。なのに、なんであそこまでお人好しになることが出来たんですか。正直、はたから見てたら、そこまで帆波先輩が頑張る必要があったのかなって……」
――だけじゃない。
帆波先輩の努力が、報われてほしかった。
帆波先輩が頑張って来た姿を知っている。晴れの日も雨の日も、いつだって構内を汗水垂らしながら駆け回っていた。
当たり前ではないけど、当然になってしまって、誰も気に留めなくなった日常。
帆波先輩はどんな心境で大学に通っていたのだろう。そのことを慮ると、胸を焦がす思いがあった。
誰よりも優しい帆波先輩に報われてほしい。もっと、みんなに帆波先輩のことを正しく知ってほしい――。
上手く言葉に出来なくて、失礼な言葉になったかもしれない。
けれど、私のたどたどしい言葉を、帆波先輩は真剣に耳を傾けてくれていた。
帆波先輩は私の頭に優しく手を置くと、
「侑希ちゃんは、もう分かってるんじゃないかな」
――分かりません。分からないから、こうして聞いているんです。
頭に浮かぶだけで、口には出せなかった。
優しく撫でる帆波先輩の手によって、頭の中から疑問が流されてしまっているようだ。子供だと思われたくなくて、押し寄せる涙を留めることに必死になるだけだ。
「四年間、この大学の中で、色々な経験をさせてもらったの。誰かの力になれたことは、全部私の中に残ってるわ。この経験があったからこそ、私は別の場所に行こうって思えるようになったの。……人を助けることって、結局は自分が助けてもらえることなのね」
「……なんで、最後に謎解きみたいなこと言うんですか」
「あはは、謎解きにしたつもりはないんだけどね。そしたらさ、いつかこの答えが分かったら、私に教えに来てよ」
「……私とは金輪際会わないってことですか」
「こらこら、なんでそうなるのかしら」
撫でられていた手で、そのままポンポンと頭を叩かれた。うっ、と目を瞑ったけど、そのリズムは子供をあやすようでどこか心地よかった。
「大丈夫。侑希ちゃんなら、すぐに見つけられるわ。だって、侑希ちゃんは、私よりも人を助けてあげられる人だもの。今度会うとき、侑希ちゃんがどんな人になっているか、楽しみにしてるね」
帆波先輩の手が、緩やかに私の頭から離れていった。温もりが離れる瞬間を、私は忘れられない。
温もりを求めるように顔を上げた。すると、
「また会おうね、侑希ちゃん」
目を微かに潤ませながらも毅然と去る帆波先輩を、私はみっともなくも涙を隠すことなく見送った。帆波先輩をもう留めさせてはいけない、そう思った。
それが、別れ。帆波先輩との最後の瞬間だった。
帆波先輩の卒業から一か月が経っても、まだ鮮明に思い出すことが出来る。
この道を通るたびに、嫌でも別れの瞬間を思い出す。
桜並木の下で、胸がスッキリするように答えを求めて最後の問いを投げかけたのに――、
「なんで、追加で疑問を貰ってるの……」
舞い散る桜を見ながら、何度そうぼやいたことだろう。
あれから一か月が経ったけれど、私は帆波先輩からの問いの答えの片鱗さえも掴めずにいた。
帆波先輩より人を助けられる、と帆波先輩は言っていたけど、それは違うと断言できる。
大学に通い始めた二年間、私が誰かのために行動したことなんて片手で数えられるほどだ。
それにその心境だって、帆波先輩みたいに純真なものではなかった。
仮に、同じ人助けをしたって、私と帆波先輩とではその質が全く違う。
「……私には、打算しかなかったもん」
呟くように言ったこの言葉が、真実だった。
私が大学生活をしてから二年が経ち、誰かのために行動をしたのは片手で数えられるほど。しかも、そのどれもに、自分自身の存在意義を見出すためという打算があった。ううん、違う。存在意義を見出すよりももっと酷い――、ただ単に悦に浸るためだけの行動だった。
誰かに何かをすれば、褒められる。自分が優位に立ったような気分になる。
だからこそ、私は目に見えて困っていて、私の力量で助けられそうな人だけに手を差し伸べた。
すると、助けた瞬間に肯定的な感情を向けられるから、私が認められるような気がした。大学生として、世間に役立つことが出来ているような感覚を抱くことが出来た。
この支えがなければ、私は大学に通い続けることは叶わなかったかもしれない。
そんな打算的な私が、どうして純粋無垢な帆波先輩と同じだと言うことが出来るだろう。
同じ人助けという結果だとしても、私と帆波先輩は明らかに正反対だ。
「……私にはいつまで経っても分からないよ、帆波先輩」
私は散り行く桜に向かって、文句を言うように呟いた。
***
転機が訪れたのは、夏。照り返った日差しが殺人的な猛威を振るう、真夏の日だった。
容赦なく降り注がれる太陽の熱に、往来の人々は避暑地を求めて、足を動かしていた。そんな状況下だったからこそ、暑さに耐えかねた女性が道のど真ん中で倒れてしまった。
彼女の横にいた人は、一瞬驚いたような顔を浮かべたが、すぐに自分の道へと戻っていく。比較的近くにいる人も、我関せずといったように、黙々と歩いていた。
一方、私はと言えば――。
「――大丈夫ですか?」
反射的だった。つい体が動いて、私はしゃがみ込む女性に対して足を向けていた。顔が見えるくらいまで近付いて分かったけど、その子は私と同年代かもしくは少しだけ年下の女の子だった。彼女の瞳と私の視線が重なり、私の決意は更に固まった。
「大丈夫ですか、立てますか? あの、もし良かったら、この水飲んでください」
彼女は真っ青な顔を小さく縦に振りながら、私が差し出した新品の水を受け取った。そのまま震える手で、ゆっくりと水を口に含んでいく。
私が助けに入ったことで安堵したのか、彼女と私に注がれていた吹けば吹くような小さな関心は、完全に向けられなくなった。
私はいつまでも彼女を炎天下の中に晒したくなくて、彼女の手を取りながら、涼しい建物の中に移動を始めた。
そして、無事に移動が完了すると、彼女の顔はみるみるうちに色を取り戻していった。
彼女は大袈裟なくらいに頭を下げて、「本当に助かりました。命の恩人です!」と言った。私は「そ、そんな急に動かないで」と彼女を窘めながら、やんわりとお礼を受け取って、その場を離れることにした。あの様子なら、もう大丈夫そうだ。
彼女のことを助けられたことに安堵しながら、私は先ほどのことを思い返す。
不思議と打算はなかった。彼女を助けたいという想いだけが先行していて、実際に大事になる前に助けられてよかったと思っていた。
私の中にはあったのは、誰かを労わり慮る、他者貢献だった。そして、見知らぬ彼女の力になれたことが、私の中で言葉に出来ない力へと変わっている。
「――あ」
その考えは、まるで水が上から流れ落ちるように何気なく、自然と舞い降りた。
そうか。私、今嬉しいんだ。だから、心の内から、力が湧いて来ている。
「帆波先輩も、そうだったのかな……」
帆波先輩を一言で表現するなら――、与える人だ。
自分が持っているものを出し惜しむことなく与えて、人を喜ばせることが出来る。その一方で、与えた分の恩恵を受けることはしない。
帆波先輩の優しさを受けていた人は、その優しさを当たり前のように受け取り、関心を払わなくなったほどだった。
それでも帆波先輩が、いつも明るく元気だったのは、与えることで誰かの力になれる喜びを知っていたからだろう。
まさに今の私のように。
「……あはは、こんな簡単だったんだ」
今まで考えても考えても辿り着かなかった答えなのに、一度思い浮かぶと、今まで至れなかったことが不思議なことに思えて来る。
どれほど頭を悩ませていた問題があったとしても、解かれる時は一瞬だ。一瞬の衝撃だけれど、私の脳に働き掛ける影響は大きく、私自身を変えてしまう。
数秒前の私と、今の私は、もはや別人のようだ。
「でも」
この状態に甘んじることは出来ない。まだまだこれは片鱗で、複雑に絡まった糸に解れが生じたようなものだ。
これから私は、この解れを完全に解いていく必要がある。
そのために、私がやるべきことは――、
「――決まってるよね」
この想いが消えないように、私は決意を固めた。
それからの私は、帆波先輩の背中を追いかけるように、残りの大学生活を人助けのために費やすようになった。
帆波先輩に倣うように、誰彼構わずに声を掛け、私に出来ることは何でも手伝った。
もがくことはたくさんあったけど、その分たくさんのお礼を言われるようになった。
たくさんの「ありがとう」の言葉を貰う度、あれほど遠かった帆波先輩の存在が近付いて来た気がした。いや、それよりも自分の中に大きな変化が生まれていた。
それは、私自身の考え方が変わってきたことだ。
今までの私は、打算的だった。
誰かに対して手助けをするのも計算が入り混じり、それゆえに人からの厚意も当たり前だと受け止めていた。
自分が社会にとって役に立つ存在だと認められることを、第一優先にして生きて来た。そうしなければ、ちっぽけな私が、埋もれていくような気がしたからだ。
それが、どれほど虚しい考えか痛感した。
人の力になるということは、勇気のいる行動だ。
良いことをするからと言って、それが誰にとっても良いことになるとは限らない。迷惑だと言って、攻撃をしてくる人もいるだろう。実際に、私もそういう人と遭遇した。
自分の厚意が受け入れられなかった時、傷つく可能性だってある。そのことを覚悟してでも、手を差し伸べられることが、どれほど尊敬に値する行動だろうか。
きっと、みんな想いを抱えてる。
だからこそ、誰かに助けてもらえることが、どれだけ大きくて、どれだけ嬉しいことか――、初めて自分が本気で向き合ったことで、ようやく分かった気がした。
誰かに何かを手伝ってもらった時は、大袈裟なくらいに素直な気持ちでお礼も言えた。まるでいつかの帆波先輩を彷彿とさせてくれることが、今の私には嬉しくて誇らしい。
「――人を助けることって、結局は自分が助けてもらえることなのね」
帆波先輩から別れ際に言われた言葉を思い出した。
今なら分かるよ、帆波先輩。
そう――、与えることは喜びだ。
与えることは、一見すると自分のものを手離すような、損を被る行動に思えるかもしれない。けど、そうじゃない。実際は、自分が受けたものを倍増させる力を持っている。そして、その与えた喜びと受けた喜びとが、再びどこかの誰かに巡り巡る。こうして、世界は成り立っていく。
この喜びを知ってしまったら、もう手離せない。誰かに喜んでもらうことが、自分にとっての喜びになることはどれだけ嬉しいことだろう。
あの日、電車の中で先輩と出会って。帆波先輩の優しさに触れて、誰かのために生きるようになって。
「侑希先輩!」
あの日私が変わるきっかけを与えてくれた少女が、満面の笑みで近寄ってくれて。
私の人生に彩りを添えてくれたもの、全てが尊い財産になった――。
――これが今の私を象る想い出だ。
窓の景色を移ろう桜並木を見ながら、宝石がたくさん詰まった宝石箱の蓋をそっと優しく閉じた。
帆波先輩が桜並木の下を潜り抜けて以来、一度も会っていなかった。
だから、私が変わった姿を、帆波先輩は知らない。私も、今の帆波先輩のことを知らない。
それでもよかった。
きっと帆波先輩は変わらずに元気にやっているという確信が、私の中にはあった。
それに、帆波先輩に会う時は、もっともっと自信に溢れた私でありたい。
当時の帆波先輩に、私は全然追いついていない。
まだやれる。もう少し出来る。
そういう想いに、私はあの日からずっと突き動かされている。
「――間もなく到着します」
アナウンスと共に、電車の速度が緩やかになっていく。電車の扉が開くと、懐かしい香りが鼻をそっと撫ぜた。
これだけで、今日も一日頑張ろうと思える。
背筋を伸ばして、陽気な空の下に降り立とうとすると、
「――ぁ」
ふと後ろから、ベビーカーを押す雰囲気を感じた。実際後ろを振り向くと、ベビーカーを下ろそうとしている主婦の姿が見えた。
「手伝いますよ」
何の迷いもなく、私は声を掛ける。そこに、私の理想の姿を重ねながら。
<――終わり>
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