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INTJゲイがnoteを書き始める理由②  ゲイの生き辛さについて

この一連の記事では、自分がnoteを書き始める理由を以下の構成で語っています。

  1. 日頃言えない生き辛さを吐き出すため

    1. INTJの生き辛さ

    2. ゲイの生き辛さ

  2. 自分と同じような生き辛さを感じる人の励みとしてもらうため

前回はINTJの生き辛さを取り上げました。
この記事では、『ゲイの生き辛さ』について語っていきたいと思います。

ゲイの生き辛さ

ゲイに批判的な人たちについて

皆さんはゲイ(同性愛者)についてどう思いますか?

Yahooニュースのコメント欄、X、そして身の回りの人たちの話を聞いていると、当然様々な意見が入り混じっているものの、ゲイ(あるいは同性愛者)に対して批判的な意見を持っている方はそれなりの割合でいるように見受けられます。

否定的な意見は全く構わないと思います。
なぜなら、多くの場合批判的な方々は『生理的な嫌悪感』が根本にあるのだろうと思うからです。

非常に悪い例えで申し訳ないのですが、虫に嫌悪感を持っている人に理由を尋ねても「気持ち悪いから」以上の理由はありません。
自分も気持ち悪いから、虫は嫌いです。
理由をいくらこねたところで、そう感じるのを止めることは非常に難しいと思います。
ゲイを批判する人も同様に色々と理由をこねている場合がありますが、根本は虫が嫌いなことと一緒だと私は考えています。
単純に『異質』で何か『気持ちが悪い』のだと思います。
そしてそれだけでは何か人として道徳に悖るので、後付けで理由を考えているのではないでしょうか。

一点補足しておきますが、個人的には『生理的な嫌悪感』は文化や社会の変遷によっていくらでも変わりうると考えています。
実際、若い世代の方が同性愛に好意的なのは、社会の潮流が少しずつ変化していることが影響していると思います。
歴史を見ると、キリスト教が広く普及する以前、スパルタなどの国は同性愛が一般的に受け入れられていました。
人間は自分が思っている以上に、文化や社会に影響を受けています。

よって、自分はゲイに批判的な人たちを恨んだり責めたりする気持ちは全くありません。
問題は、そういう人たちがいるために、結果論として私はゲイという性質を隠して生きているということです。
そして隠しているということに起因して、様々な生き辛さが立ち現れてくるのです。

ゲイを隠す面倒くささ

自分は同じゲイの人以外に、自分がゲイであることを打ち明けたことは一度もありません。
なぜかというと、先ほど述べた通り気持ち悪がられるのも嫌ですし、好奇の目に晒されるのも嫌だからです。

ゲイであるということを隠して生きるか、明らかにして生きるかは、当然人によります。
①基本的に他人を信用している
②他人の目が気にならない
③自分らしく生きることが至上だと考えている(ありのままの自分で他人に接することができないのは我慢ならない)
以上のような性質や思考のいずれかを有している方々は、ゲイであることを公表して社会を生きているのだと思います。

自分はこの内、①と②の思考を持つことが出来ません。
他人をそこまで信用していませんし、自分が他人にどう見られているかを常に気にしてしまいます。
③の想いは最近強くなっているように感じます。
それは後述するように、ゲイであることを隠して日々他人と接するのが面倒くさすぎるからです。
正直、もうほとほと嫌になってきているのです。
「うるせー、俺はゲイなんだよ、もう放っといてくれ」と、叫びたい気分なのです。

ゲイであるということを隠すということは、つまり他人に嘘をつくということです。
他人とのフランクな会話(飲み会でも何でも良いですが)では、必ずと言っていいほどセクシャリティや恋愛関連の話になります。
特に自分は30代前半ですので、「なんで結婚しないの?」とか「彼女いないの?」といった質問を腐るほど振られます。
その度に自分は嘘をこしらえます。
結婚には興味がない設定にしたり、同性の交際相手を女性に仕立てて話をしたりしてその場をやり過ごします。
そして、これからも設定に齟齬が出ないように気をつけながら、他人やコミュニティ内で矛盾が無いように注意を払うのです。

異性愛者に対して、適切な類似例を出してこの状況を伝えたいのですが、中々適切な例が浮かびません。
(どなたか、良い具体例があれば教えてください)
また悪い例になってしまいますが、『親族が犯罪歴を抱えていて隠さなければならない』とか、『人種を隠さなければならない』とかがある程度近い状況なのでは無いかなと思います。
つまり、『自分にはどうしようもない性質・背景』を抱えており、その性質や背景が『他人に批判的に見られる』可能性があり、それを(当人の性格により公表する場合があるものの)『日常で隠す必要がある』ということです。

この面倒くささ、伝わるでしょうか?
自分だって、他人に何も隠すことなく、あるがままの自分を伝えたいです。
でも、どんなに仲の良い人でも、尊敬している人でも、異性愛者の方々には少なくとも一つ、嘘をついていることになります。
本当はゴールデンウィークに恋人と旅行に行ったとしても、両親に「ゴールデンウィークはどこに行ったの?」と聞かれたら小さな嘘をつくことになります。
実家の道中で、「ゴールデンウィークは何をしていた設定で喋ろうか」と考えています。
ゲイであることを公表しない限り、こんなことを周りの人たちに対して死ぬまで繰り返すことになります。
そして、人間は目ざとく気づくので、「何かあの人隠しているな」「信用できない人だな」と何となく思われる場合もあります。
考えるのが面倒くさいし、嘘はつくことで心は痛むし、他人と芯から繋がることもしづらいので孤立も感じます。

前回の記事でも、INTJという性格ゆえに演技をしていることを伝えました。
それに加えて、自分はゲイによっても演技をする必要性に駆られていることになります。
開けっ広げな性格で、他人にどう思われても気にしない性格ならゲイであることを皆に伝えていたでしょう。
あるいは異性愛者であれば、セクシャリティに関しては言行一致し、何の苦労も感じることはなかったでしょう。
残念ながら自分はどちらの性質も有していません。

しかし、こんな自分でも最近は色々面倒くさすぎて、「もう全部言ってしまおうか」という気になっています。
とはいえその勇気がなく、未だ誰にも公表は出来ていませんが。

当たり前が出来ない

もう一つ、ゲイは皆さんが描く「順風満帆な人生」を歩むことは基本的に出来ません。
いや、出来なくはないのですが、「他人の目を気にしなければならない」と言う方が適切でしょうか。
異性愛者が恋人と手を繋いて歩くこと。家族を築いて暮らすこと。
好奇に晒されることを覚悟しながらそれをするか、諦めるかを判断することになります。

ゲイであることは受け入れている

散々文句を垂れてきましたが、自分は自分がゲイであることを受け入れていますし、ある種誇りにも思っています。

ナチスの強制収容所の体験を綴った、ヴィクトール・E・フランク『夜と霧』の一節を引用しましょう。

人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命と共に全宇宙にたった一度、そして二つとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。誰もその人から苦しみを取り除くことはできない。誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、二つとない何かを成し遂げるたった一度の可能性はあるのだ。

ヴィクトール・E・フランクル 『夜と霧』

私はゲイであるがゆえに、小さな悩みや葛藤を抱えていますが、だからこそ得ているものもあると思っています。
また、この運命を携えているからこそ出来ることもあると思っています。
それは「弱者に寄り添う心を持つこと」かもしれないし、「はぐれ者として第三者視点で物事を視る姿勢」かもしれない。
他人と違う性質を有しているからこそ、他人と違う思考を持つことになります。
自分は、この性質を引き当てた存在として、この性質と思考を携えながら、「二つとしてないあり方」で人生を生きていく覚悟が出来ています。

とはいえ生きづらい!!

覚悟は出来ているとはいえ、日常生活で他人と接する限り、面倒くささは続きます。
「人里離れた一軒家で、犬と戯れながらリモートで仕事をしたい」と厭世的なことを考える瞬間もあります(笑)

私の場合、INTJである性質とゲイである性質が負のシナジーを生んでいるようにも感じます。
人見知りなので同性愛者のみのコミュニティにもほとんど参加しないですし。

ということで、ゲイであることによって感じる生き辛さも、noteで綴りたいと思っています。
他に言う場がほとんどないので、自分のデトックスとして優しく見守っていただければと思います。




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