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【エッセイ】落ち込むということ。

しばらく前に、私は学校で男に振られた。
いわゆる「失恋」というモノだ。

その男は目鼻立ちがくっきりしていて、
顔の輪郭はやや細めであり、
巷でいうイケメンという部類である。

その男は何人かの女に好意を持たれており、
私もそのうちの一人であった。
すでに、学年で上位4番目くらいに可愛い女と噂になっていた。

この「失恋」エピソードについては、
まるで重要ではないので詳細は割愛。

端的に言うと、
『私はその男とセックスをして振られた。』
ただそれだけの話であり、よくある話。

私はその後
しばらくの間「落ち込んだ」

失恋すると誰もがみな、
そうであるように。

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【期待→失望→落胆→回復・・・】
「物事」が始まり、期待通りにならないと、
おおよそこのようなサイクルとなる。

その「物事」が軽ければ軽いほど、
早く回復することができる。

「失恋」というありきたりな事象においては、
このプロセスが、最も適しているのかもしれない。

ではこのプロセスの一部分である「落胆」
いわゆる「落ち込む」
とはどういうことなのか。

その事象で私が最近感じたことを、
ここに記す。

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「落ち込む」という行為は、
ご存じの通り「気分が沈んでいる状態」

この状態になりたい人は、
この世に一人もいないだろう。

と、思っていた。
つい最近までは。

「失恋」だけではなく、
悲しいことには「落ち込む」

全員がそうであるように、
私もそうだ。

この「落ち込む」という行為は、
実は『浸っている』のでは、と感じる。

当人は「浸っている」なんていう感覚はない。
むしろ「はやく立ち直りたい」
とさえ思っている。

「え?落ち込んでるの?浸ってるねー」
こんな事を言ったら縁を切られるかもしれない。

この雑多な世の中には
「無理しないでいいよ」
「頑張らなくていいよ」
という言葉が氾濫している。

不特定多数が軽く、無邪気に飛ばし合う。
いつまでも無限に。

それは心地のいい言葉。
ふわりと優しく、心が安らぎ、落ち着く。

そのやわらかな言葉の海に
「浸って」しまう。

ボートに横たわった私を、
大海原が静かに波を立てず、
その身を包み込んでくれる。

そこに身をゆだねると、
とても気持ちがいい。

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たとえ、他人からその「やわらかな言葉」を掛けてくれずとも、自分自身でそれらの言葉を「反芻(はんすう)」する。

「もうだめだ、生きている意味がない」
「私には向いていない」

これは、一見ポジティヴな「やわらかな言葉」とは違い、全く性質の異なるネガティヴな「沈み込む言葉」である。

それはまた「自己否定」と捉えることもできる。

しかし「自己否定」の言葉の本質は
「やわらかな言葉」と同等であるように感じる。

「私というこの悲痛で『落ち込んだ』ヒロインをなんとか慰めてほしい」という体内の意思表示。

それは「自己防衛」という、
冷たい鉄の鎖の付いたような、
お堅い「四文字」に変換することもできる。

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この話は単なる「甘え」ではない。

人間の複雑奇怪なメンタルを、
「甘え」というあからさまに無頓着で、
ぶっきらぼうな二文字で片づけられはしない。

そして私は「落ち込む」という
暗くとても大きな家宅に
数センチだけドアを押し開けて
その開けたドアの隙間から
一歩だけ「土足」で中に入っただけだ。


悲しみに「ドーパミン」がドバドバ
よだれを垂らしながら
虚無に「浸り」続けるわたし。

つづく。

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