![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/130300730/rectangle_large_type_2_f12dc31914b86bff51567f80de0fc3bb.jpeg?width=800)
#5読書ノート 逢坂冬馬「同志少女よ、敵を撃て」
※この記事には物語の根幹になる記述があります。未読の方はご注意ください。
記事としてnoteを書くのは2年ぶりである。なぜそれほど間が空いたかといえば、公私ともに余裕がないからに尽きる。読書ノートとしても同じくらい間が空いた。そんな僕にあえて長文の感想を書かせるほど感情を動かした作品である。
最高に洗練されたエンタメ小説
僕も多少は小説を書くので判るのだが、エンタメ小説として極めて完成度が高い。
まずストーリーラインは、主人公の喪失からの再生と成長(変化)いうこのとおり書けば絶対に間違いのない堅実な構成、それに突如過去に飛んだりせず時系列で物語を進め読者の混乱を最小限にするリーダビリティの追求、そしてひとりひとりが際立った造形のキャラクターたち。
エンタメの精髄を極めようという作者の努力と読者への配慮を強く感じる。Amazonなら☆5を迷いなくつけるし、アガサ・クリスティ賞で史上初のパーフェクト選出だったことも大いに納得できる。
偽善的なテーマとその結論
しかし、僕はこの物語に嫌悪を抱いた。
著者の実力を認めた上で、そういう感想になる。それはつまり僕に嫌悪を抱かせ長い感想を書かせるほどの力が、この物語にあるということである。
主人公は、狙撃兵としての訓練中に戦う動機を問われる。そして主人公は「女性を守るために戦う」と答えているが、そう動機づけされる決定的な伏線はないように感じた。つまりは作者自身が主人公の行動原理としたいテーマだろうと推測できる。
そして物語の結論が「ソ連もドイツも関係ない。女の敵は男」になっており、このテーマと結論を男性作家が書いていることに吐き気を催すほどの偽善を感じた。なぜなら物語全部を使って「女の死は許されない悲劇であるが男の死は単なる数字である」と主張しているからである。
物語の中で、女を犯した男は死に女に優しい男は戦後まで生き残る。現実は必ずしもそうではないのだが、そうであってほしいと物語に仮託しているのだろう。巻末の参考文献にあった「戦争は女の顔をしていない」は僕も読んだが、その中にドイツ女を犯した元兵士へのインタビューがあった。
彼らは決してそれを誇ってはいなかったが、その苦衷が物語の中で現されてはいない。もちろんストーリー構成上捨象しなければならない要素はあるが、あえてこの部分をオミットしていることで著者の結論である「女の敵は男」が鮮明になっている。
戦争で最も命を失うのは若い男である。下図は昭和20年における日本の人口ピラミッドであるが、女性と比べると20~40代の男性の大きな欠落に簡単に気づくだろう。
![](https://assets.st-note.com/img/1707454977491-7OklHoNVil.png?width=800)
作者が「女の死は許されない悲劇であり男の死は単なる数字である」と一貫して物語を構成し「女の敵は男」という結論を選ぶことは、このグラフの欠けの中に幾百万もの男たちの命が存在したという想像力に欠けているのではないか。
ましてや、ソ連は2000万人の戦死者を出している。そのうち、女性兵士の戦死者は100万人。甚大な数ではあるが、戦死者の95%は男性なのである。
「女の死は許されない悲劇であるが男の死は単なる数字である」という認識は、ひとり作者だけのものではない。第二次大戦から数十年が過ぎても、日本人の大部分はそのように思っていた。大戦終結から46年後、電通OLの過労死が問題となったが、それ以前に幾万もの男が過労死をしてきた。
社会はそれら男たちの死を風景のように扱い一顧だにしてこなかったのだが、女がひとり死ぬと社会問題にしてしまう。それは近代だけのことではない。水害を鎮めるため人柱で埋められた娘は千年にわたって語り継がれるが、治水工事に従事して死んだ男たちは数字が残れば御の字である。女の死は物語だが男の死は日常というのは、伝統的な認識だった。
独ソ戦において男の流した血は女の流した血の20倍以上である。より多く報いられるのは当然でないだろうか。あえてこの言葉を使うが、それを個々の物語に「矮小化」することによって、性別の「かわいそうランキング」の差でより多く血を流した性別の犠牲の価値が矮小化されてしてしまう。
そもそも男の死が日常的に受け入れられていたのは、その死の対価に敬意があったからである。男たちから命を搾取するものではなく、男は命を差し出し女子供は敬意を差し出す双務的なものだったのだ。そうでなければ、数百年もそのような文化が連綿と続いてきたりはしない。
数十年前までは、男の死を贖う敬意がまだ生きていたが、近年それは「男尊女卑」「家父長制」などと呼ばれて悪しきものとされている。にもかかわらず、数十年前と同じく男は心身を害し命を差し出してまで働くことを求められている。
その結果、男が心身を害してもそれを理由に離婚されることが多くなっている。妻が心身を害しても、それを理由に離婚されることは遥かに少ない。現在、ようやくそういった不均衡に疑義の声を上げる勢力が澎湃として現れてきているが、そのような時代にこのテーマと結論は「男女差別」の誹りを免れ得ないだろう。
繰り返すが、独ソ戦に従軍したソ連の女性兵士の戦死者は100万人、戦死者全体は2000万人。95%以上の戦死者が男でありしかも徴兵制で戦争参加は義務であった。女性兵士はすべて志願兵である。たとえ主人公のように村を全滅させられても、戦場に行かずに暮らすことはできたのである。
そういった全体像の中で、「女の死は許されない悲劇であるが男の死は単なる数字である」というテーマと「女の敵は男」という結論を選ぶ作者の人格を誹謗したい欲求に駆られるが、その小説家としての技量に敬意を評し心にしまっておくことにする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?