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「星空のしたを、きみと歩けたら」《短編小説》

《あらすじ》
  原田結心は自分の意見を言うのが苦手で、毎年の委員会決めは苦痛でした。高校三年生になり、文化祭実行委員に選ばれたのは、派手で自己中心的な五十嵐穂花とムードメーカーの高橋でした。友達のタテコは高橋に恋をしており、結心はタテコを応援しています。夏休みの勉強会で高橋と親しくなり、穂花ともバイト先で仲良くなりました。穂花に連れられて花火大会に参加し、クラスメイトとも仲良くなっていきます。しかし、文化祭の出し物であったお化け屋敷ができなくなり、クラスは実行委員の穂花と高橋のせいにされます。結心の提案でイルミネーション展示に変更され、文化祭モードに突入します。しかし、文化祭前日に大雨が降ってしまい……。



星空のしたを、きみと歩けたら

第一章 一学期

 静寂な空間は人を萎縮させる力がある。無言の圧力が私を襲う感覚に近い。一学期の委員会決めは毎年苦痛だった。最後のほうになると、誰もやりたくない委員会が残って、誰か手を上げてよと言わんばかりの雰囲気になってしまう。
 それはまるで、私自身に命令されているのではないかと錯覚してしまうのだ。誰かが手を挙げれば、このピリピリした空気から解放される。私はその誰かにならないといけないような、よく分からない責任感にかられて、手を挙げてしまうことが多かった。
 去年は合唱祭の実行委員が最後まで残った。手を挙げたとき、え? 原田さんが? とみんなに言われているような気がした。私が不相応なのは分かっている。人をまとめるなんて大役ができるはずもなく、クラス練習さえうまく進まず、散々な結果に終わった。なんで原田さんが実行員なわけ? 放課後の教室で、クラスメイトの五十嵐さんが言っているのを聞いたとき、無性に腹立たしさを覚えた。だったら自分がやればいいのに。誰もやらないから、私がやっているのに。
 三年C組 五十嵐穂花(ほのか)
      原田結心(ゆい)
 高校三年生となり、クラス分けで五十嵐さんと同じクラスとなった。仲良しの立川千津子はB組で別のクラス。五十嵐さんと同じクラスという事実は憂鬱の何物でもなかった。。
 そして、再び委員会決めの時間がやってきたのだ。今年から合唱祭の行事は無くなった。音楽の授業は選択授業だったのもあって、やはり抗議があったのだろう。それなら去年のうちに中止してくれれば良かったのに。
 最後に残った委員会は文化祭実行委員だった。きっと、受験生の私たちには準備や委員会の時間が惜しいのだろう。大がかりなものだと夏休みから準備をするだろうし。
 教壇で担任の塚本先生が、仁王立ちをして手を挙げる生徒を待っている。
「えー、誰かやってよ」
 後ろの方からだるそうに言う声が響いた。五十嵐さんだ。私は彼女が苦手だ。明るい髪色に、化粧をばっちりときめて、校則違反の制服で、自分の意見ばかりを主張する彼女が苦手だった。
「じゃあ、そういう五十嵐がやればいいじゃん」
「お前もな」
 クラスのムードメーカー的存在である高橋君がそう言うと、五十嵐さんが言い返す。先生が「じゃあお前らやれ」とあっという間に二人が文化祭実行委員になることが決まると、体感にして一時間のホームルームは、実際には十〇分にも満たなかった。
 内心ホッとしていた。誰かやってよ、と聞こえた時に手を挙げそうになったのだ。そしてそれがブーメランのように彼女自身に返ってきたことに嬉しくなった。こんなことを喜んじゃいけないのかもしれないけど、後から誰々さんがなんでやってるの? と非難されることもないのだ。
 
 
「結心のクラスって文化祭なにやるの?」
 お点前を準備しているとタテコが聞いてきた。立川千津子、略してタテコ。「千津子って古臭い名前だからタテコって呼んで」そう言って一年生の頃から親しみを込めてタテコと呼んでいる。
「まだなぁーんも決まってない」
「まだ四月だもんね」
 高校三年生の四月。それはまだ四月なのか。もう四月なのか。去年まで有耶無耶に伸ばしていた進路も決めなければならないリミットが音もなく近づいてきている。
「タテコは進路どうするか決めた?」
「うーん、まだ」
「英語は特進クラスなんでしょ?」
「まあね。結心もでしょ」
 英語は少しだけ得意だった私は去年から発展クラスになり、今年は特進クラスとなった。特進クラスは国公立大学の受験を目指すから、自然と国公立大学を受けるんだろうなとは思っていた。だけど、実際どうなるんだろう。指導員の先生が入ってきたところで思考を止めた。

 ◇ ◇ ◇

「結心のクラスに高橋君っているじゃん?」
 部活の帰り道、タテコが言い出す。頬を染めている。
「なに突然」
 これは恋バナだろう。タテコの恋愛スイッチはいつも突然だった。高校に入ってから何度かタテコとこういう話題で盛り上がったことがある。そのたびに私は聞き役になる。
 今回は高橋君らしい。
「高橋君は英語発展クラスらしくて、その席が私の席なの!」
 私とタテコのクラスは英語が同じ時間にあって、特進クラス、発展クラス、標準クラスに割り振られる。特進クラスはC組つまり自分のの教室を使うから、発展クラスのことなんて知る由もなかった。
「授業の後席に戻ったら机に落書きがあってさ。可愛い〜って思っちゃった!」
 なるほど。今回は可愛いポイントにときめいたようだ。その前は軽音楽部の人で、さらにその前は生徒会長だった気がする。
「結心は高橋君とよく喋ったりする?」
「喋らないよ」
 でも彼はクラスの中心人物だ。彼は、分け隔て無くクラスメイトに接してくれるので、女子からの人気は高い。そんな彼とは違い、私はいつも窓の外を見たり、本を読んだり、たまに近くの席の子に話しかけられて喋るくらい。自分から話しかけるなんてできない。三年生になり、数日経った今も彼とと話したことなど無かった。
「高橋君の連絡先聞いてくれない? ね? 一生のお願い!」
 タテコの「一生のお願い」は「今日の一生のお願い」なのだ。
「無理だよ。話したことないのに」
 タテコと高橋君は似たタイプだと思う。分け隔てなく接するタイプ。だけど私は違う。いきなり話しかけたら不審がられるだろうな、なんて考えてしまう。

 そう思っていたけどチャンスは訪れるものだ。私と高橋君は日直となった。朝のHR前の騒がしい教室にその会話は響いた。
「今日俺日直じゃん。まじか」
「女子は原田さんじゃん。よかったじゃん」
「は?」
「全部やってくれそうじゃん」
 彼ら、彼女らの声は大きくて、読書をしていた私にもその声は聞こえた。やはり自分のことを責められているようで怖い。その言葉のとおり、すでに学級日誌は持っている。
「原田さん、なんか俺手伝うことある?」
 高橋君は私の前に来て言う。まっすぐな眼差し。
「とくにないよ」
 我ながらもっと気の利いた返事ができないのか、と思ったけど当の本人は気にする様子もなかった。そういうところが人気なのだろう。
 あ、と遅れてタテコのために連絡先を聞かなきゃと思い出す。別に約束したわけではないど。誤解されるのは嫌だけど。でも彼はどこか他の人より話しやすいと思ったのだ。
 高橋君の号令で一日が始まる。彼は授業が終わると積極的に黒板を消してくれた。だからといって私に話しかけることは無かった。私も黙々と学級日誌を書く。なんていえばいいのか、この共同作業ともいえるような雰囲気のような、ちょうど良い距離感に居心地の良さを感じた。きっと彼にとっては話しかけるのが面倒くさいに違いないはずなのに。それでも、彼の爽やかな号令を聞くたびに、良いように捉える私がいた。
「原田さん」
 帰りのHRが終わると高橋君が私を呼んだ。職員室に行こうと廊下を出るところだった私は、立ち止まって振り返る。
「日誌書いてくれてサンキュ」
「た、高橋君こそ、号令とか、黒板・・・・・・消してくれてありがとう」
 お礼など言われるなんて思わなかった私は、かみかみな口調で返す。やばい、きっと変な奴だと思われてた。
「職員室にそれ持ってくだろ? 俺も行くよ」
「え、いいよ。一人で大丈夫だよ」
「部室の鍵も取りに行くからついでだって」
「わかった」
 高橋君は私の腕から日誌を抜き取ると職員室へ向かって歩き出した。その背を私も追いかける。任せてしまえばいいのに。無駄に責任感のある私は日直という仕事を投げ出すのが嫌だった。
 私はいつから責任感を覆うようになったのだろう。人間誰しも、私さえよければいいという考えはあるものだし、私も内心ではそう思っている。だけど、その状況を打破しないといけないって思っているもう一人の自分もいて、毎年の委員会決めはそれの最たる例だ。いつも手が宙を彷徨っている。
 姉ちゃんって損する性格だよね。中学生の頃、習字教室に通っていた私に弟が言った。損するって何が? そう聞くと弟は「本当は辞めたいと思ってるくせに辞めないんだから」と痛いことを言った。一緒に習い始めた友達は1ヶ月で辞めたのだが、急に来なくなった友達のことを先生が「最近の若い子は」と言うので、私はなんだか辞めづらくなったのだ。結局、高校生になって部活を理由に辞めるまで、毎週通っていた。そんな私の性格を弟が損と言ったのだ。
 学級日誌を担任に渡し終える。部室の鍵を取った高橋君は私の方を向いて「じゃあな、原田さん」とその爽やかに言うのだった。

 高校三年間、私に好きな人ができたことなどなかった。恋愛のレの字も知らない私は、タテコの片恋話を聞いたり、少女漫画を読んで楽しんでいるくらいだ。化粧だって仕方も分からない。
 中学二年生の思春期真っ只中な弟は天体観測愛好会というのを立ち上げたらしい。毎週末にはプラネタリウムに行くし、弟の部屋には天体に関する本が並べられている。将来は天文学者か宇宙飛行士にでもなるの? と冗談で聞くと「宇宙飛行士は身体、精神面全てにおいて強くないとなれない」と体力作りを始めたのだから、若いなぁと思ってしまった。
 私の高校では二年生の三学期に修学旅行がある。ほんの数週間前に沖縄へ行ったのだ。どこまでも続く青い海に、果てしなく広がる青空。気候も穏やかで、流れている時間さえもゆっくりに感じられた三日間だった。でもそれも過去のこと。もう私たちには「受験」の二文字しかない。

 茶道部の帰り、タテコに日直の話をするととても悔しがっていた。私が日直になりたかった! というタテコにはいはいと流す。
「高橋君って彼女いるのかなあ。ねえ結心ー」
「やだ。自分で聞いたら?」
「ヒトデナシ」
 商店街を歩いていると、同じ制服を着た子が私たちの目の前を通り過ぎ、小さな雑貨屋の中へと入っていった。
「あれって結心のクラスの穂花じゃん」
「ほのか?」
「名前。五十嵐穂花。同じクラスでしょ?」
 呆然とする私に「ほんと結心って無関心なんだから」と零した。
「そんな無関心かな?」
「結心って最初は絡みづらかったけど、仲良くなったら面白いところあるよね」
「なによそれ」
 私に面白いとこなどないのにな。タテコが話しやすいから仲良くなったのに、タテコは自分の良さを分かっていない。

 ◇ ◇ ◇

 あっという間に体育祭の五月を通り過ぎ、中間考査が終了した。
「進路希望用紙は来週までに出せよ」
 帰りのホームルームで塚本先生が言う。何も書かれていない真っ新な進路希望用紙をぼんやりと眺める。目的はないけど国公立大を目指していた。タテコとは同じ大学か話していないけど、もし違う大学だとしてもお互いに応援すると勝手に思っていた。
 家に帰宅すると母親が台所で夕食の準備をしていた。朝の鮭があまっていたからムニエルだそうだ。台所に居る母親へリビングでテレビをつけながら進路について話した。
「国公立の大学? 東大とか?」
「東大は無理だけど、公立大に行きたいなって。今の授業も国公立レベルだし。夏休みには講習もあるし」
「あんた、塾だって通ってるのに身体がもつかしら」
「だいじょうぶだよ」
 そう言ってみたものの不安はあった。けれど頑張るしかない。そして週が明け、私は県内の国公立大学志望の進路票を提出した。

 一学期最終日のHRは文化祭の出し物を決める時間だった。他のクラスはすでに決めていて、私のクラスは期限ギリギリまで面倒事を引き延ばしていたのだ。
「去年、俺のクラスってお化け屋敷だったし同じでどう?」
 高橋君がそう言うと、何人かは賛成の声をあげる。他は我関せずという感じで、早くホームルームが終わるのを待っている空気が流れる。その空気を察したのか彼は「はい、決まりねー」と流れるように司会を進めた。
 去年のお化け屋敷は茶道部の子と一緒に入ったのだが、これが実に怖かった。マネキンの生首だと分かっているはずなのに、原型と留めていない生首を薄暗いところで見るのは恐怖でしかなかった。
 今年はそのお化け屋敷をやるのかと思うと、少しだけわくわくした。自分が怖いのは嫌だけど、人を怖がらせるのは楽しいみたいで、自分の性格の悪さを実感した。誰が何を準備するかも決まらないまま、ホームルームは終わった。
「結心のクラスはお化け屋敷かあ」
「タテコのクラスは?」
「B組は回転焼き。昼ご飯に食べに来てよ」
「うん、行く」
 あーあとタテコが腕を空に伸ばす。夏の風がスカートをひらひらとさせる。
「お化け屋敷で怖くて倒れたら高橋君が抱き上げてくれないかなー」
「それは無理じゃない?」
「それか高橋君が『大丈夫?』て保健室に連れて行ってくれたり」
「大丈夫?」
「もー結心ってば。いいじゃん。夢見たってさ」
 タテコは夏休みに毎日塾。私の通っている塾とは違って、朝から晩までみっちりと授業がある。
「結心と同じ塾にすればよかった」
「夕方だけだと不安だよ」
「でも勉強会にも出るんでしょ?」
 夏休みでも学校では、国公立大志望の生徒向けに勉強会が開かれている。私は夕方の塾までの間を勉強会に参加していた。タテコは朝から塾なのだ。
「たしか模試は同じとこだよ」
「じゃあまた。今度こそ高橋君の連絡先分かったら教えてね」
 手を振ったタテコの商店街に消えていく背中を見つめた。日が傾き始めた時間帯は買い物する主婦や若い人たちが行き交っていた。

第二章 勉強会

 扇形の階段教室で先生が黒板に書いた数式をノートに書き写していた。私の前方右端には高橋君の背中が見える。勉強会の座席は自由で、階段教室の六割くらいが生徒で埋め尽くされていた。私の両隣に生徒はいない。いつも誰かが隣にいる高橋君にも、今日は珍しく人がいなかった。
 空調の効いた階段教室には板書のチョーク音と先生の声だけが響いている。眠い。早く昼休みが来ないかなと何度も時計に視線がいってしまう自分がいた。
 やっと昼休憩を報せるチャイムが鳴った。先生が片付けながら「午後に確認テストするぞ」という言葉に眠かった頭が急に醒めた。
 私はいつも昼休みになると茶道部の部室に行ってお弁当を食べていた。この夏引退をしたけれど、茶道部は夏休み中活動がないので、ゆっくり過ごすにはちょうど良かった。
 その日は珍しく高橋君が声をかけてきた。
「原田さんって、いつもお昼どこで食べてるの?」
 今朝は時間がなくてコンビニで買った弁当を持って部室に行くところだった。できれば一人でいたい。
「部室」
「何部だっけ」
「茶道部」
「え? 茶道部ってあったっけ?」
「うん。あるよ」
 彼は興味があるのか無いのか曖昧に「そうなんだ。知らなかった」と零した。たしか、彼はバスケ部だ。普段、教室か体育館にしかいない彼が茶道部を知らないのも無理もない。
「俺も行っていい?」
「・・・・・・うん」
 突然の誘いに思わず承諾をしてしまった。いつもなら高橋君は仲の良い男子たちと階段教室でご飯を食べているのに。そうだ、今日はその彼らはいないんだった。初めて茶道部に訪れた高橋君は物珍しそうに見渡していた。
「高校三年生で初めてこの場所に入ったかも」
 部室の隅に置いてある長机でコンビニ弁当を食べる。高橋君もレジ袋からパンを取り出した。腰掛けたパイプ椅子がキイと鈍い音を立てる。
「原田さんが弁当食ってる。しかもガッツリ系の」
「わ、私だって食べるよ。高橋君こそパンで足りるの?」
「へえ意外。俺さ食べ過ぎると眠くなるから。その代わり放課後は夕ご飯までの間にいっぱい食うからちょうどいいんだよ。それよりさ、午後の確認テストのとこ食べ終わったら一緒に復習しようぜ」
「うん、わかった」
 お肉とご飯を口にほおばるとタレの甘味が口の中に広がった。おそらく高橋君の狙いは最初からそっちだったのだろう。でないと私にわざわざ話しかける必要なんてないのだ。
 
 それからというもの、高橋君は勉強会の昼休みになると部室に現れては一緒にお昼ご飯を食べるようになった。彼はいつも楽しそうに家で飼っている犬のこととか、一緒に暮らしているお婆ちゃんの話とかを話していた。
「原田さん、さっきの問題わかる?」
「うん、まあ」
 机にノートを開きシャーペンを滑らせると高橋君がのぞきこむのが分かった。その近い距離に思わずドキッとする。
「あ、ちょっとノート貸して」
 刹那手を伸ばした高橋君の指と触れる。驚きのあまり握っていたシャーペンが机の上を転がった。気まずい空気に気付いた高橋君が席を立ち「ほかの奴にも聞いてみるわ」と言うと部室を出て行った。
 私はその背が扉の向こうに消えていくまで見つめることしかできなかった。やっぱり高橋君は誰とでも距離感の近い人なんだと思う。いともたやすく私は彼に魅了されていて、もっと仲良くしたいと思ってしまっているのだと気付いた。

 六月に行われた体育祭で、私は高橋君が後輩に告白されているのを目撃した。照れながらも「ごめん」と返す高橋君と泣き崩れる女子生徒。その女子生徒の姿にタテコの姿を重ねて見ていた。きっと彼女ができたら受験勉強に集中できなくなってしまうから、断ったんだろうか。あのときは何も感じなかったけれど、今は自分のことのように悲しく思えた。
 
 午後の勉強会は黒板を見つめていたはずなのに、気付いたら前にいる彼の背を眺めていたことに気付いて、慌てて視線を戻した。ああ、いけない。勉強に集中しなければ。シャーペンを持ち直して、再びノートに視線を移す。ミミズ文字が数行埋め尽くされている。お昼を食べたあとの、冷房を効かせた教室はまさに睡眠には最適な環境だった。ぼうっと黒板を見ながら、文字を書いていたのだ。消しゴムでミミズを消して整った字に書き直す。集中集中。そのあとも、なんとか眠い目を堪えながら勉強会を過ごした。終わりを告げるチャイムが響くと、やっと終わったーと思わず両手を天に伸ばした。このあとも塾での勉強があるから、どこかで気分転換をしようかな。
 昇降口で靴を履き替えていると、高橋君も姿を現した。私たちのほかには誰もいない。
「原田さん」
 遠くで野球部の金属バットのカキーンと響く音が昇降口にまで届く。開けっぱなしのドアから風が吹き抜けた。
「あのさ、さっきの教えて貰ったとこだけど。原田さんに教えてもらったほうが分かりやすかったからさ、このあとちょっと時間ある? 一緒に勉強しない?」
 思ってもみなかった誘いに、鼓動が一際大きく跳ねる。私でよければ。そう返すと彼は爽やかな笑顔を向けた。
 商店街を抜けた先の駅前にあるファストフード店の窓際の席に膝をつき合わせて座る。私は眠気覚ましにカフェオレ、高橋君は炭酸ジュース。ノートを広げて高橋君が分からないところを質問して、私が答える。すぐに答えられるものもあれば、うーんと首をひねって一緒に考える質問もあった。
「やっぱり原田さんの説明だと分かりやすいって」
「そうかな」
 勉強を終えて外へ出ると、湿気った蒸し暑い空気が頬に張り付いた。
「あ、あのさ・・・・・・やっぱり何でもない」
 高橋君は何かを伝えようとして止めた。お腹の奥がむず痒く感じたけれど、私も聞き返すことはしなかった。
 
 その日、塾を終えて帰宅すると、弟がリビングで何かを組み立てていた。
「なにやってんの」
「プラネタリウム」
 端的に名詞だけを答える弟に生返事をする。傍らに放られた空箱には「家でも! プラネタリウム!」と書かれている。そういえば弟は天体観測とか星空を観るのが好きだったと気付く。
「姉ちゃん。電気消して」
 言われたとおり電気を消す。スイッチの入れる音がして、しばらくするとプロジェクターから無数の光が壁天井に星空を映した。ベランダから夏の心地よい風が通り抜ける。映し出された星はゆっくりと動きながら、星空の世界を魅了した。きっと高橋君がみたら「うわーすげえ」なんて言うのだろうか。そんな彼を見てタテコが、高橋君の隣にいたい、なんて言い出してしまうのではないかと想像してしまう。
 結局、私は母が帰宅するまでの間、弟と一緒に天井を眺めていた。
 
「文化祭はお化け屋敷するんだって?」
 売れ残りのトンカツを持って帰ってきた母は電子レンジで温め直した。母は高校近くの商店街にあるトンカツ屋でパートをしている。
「なんで知ってるの」
「この間あんたのクラスの高橋君が言ってたのよ。いいわね。彼、爽やかで」
 運動部は大抵帰り道にトンカツ屋で寄り道をするのは常識だった。だから引退した後も夏休みに勉強会に来ている彼なら小腹が空いていれば寄るのだろう。というか、母が高橋君と顔なじみだったことに驚く。
「あーバスケ部、超お得意さんだもんね」
 そうなのようと言いながら母が温まったトンカツをテーブルに置いた。

第三章 五十嵐さん

 夏休みも終盤に近づいている。今日は模擬試験のために少し離れた塾まで受けに行っていた。一日がかりの試験はあっという間だった。試験独特の静寂な空気の中にペンを走らせる音と紙を捲る音だけが響く空間。咳払いするのも躊躇われるような空間に、模擬試験なのに緊張が襲った。
 長い長い時間が経ち「終了です」のアナウンスが聞こえてきて、ペンを机に置くとふっと力が抜けた。
 この模擬試験にはタテコも来ているはずだ。スマホの電源を付けて、メッセージを送ったけれどなかなか既読にはならなくて、仕方なく試験会場を出ることにした。電車に乗るとようやくタテコから返事がきた。塾の子とカラオケに行くという文面。暗くなったスマホ画面にしかめっ面の顔が映り、すぐに頬を緩めた。でもまあ今日くらいはいっか。タテコのように、私も気分転換しようかなあ。
 最寄り駅のコンコースには花火大会のポスターが掲示されていた。八月二五日。今日か。駅から家とは反対方向にある河川で毎年花火大会が開かれる。家から花火は見えないけれど音は聞こえてくるのだ。去年までタテコや茶道部の子に誘われて行っていたけれど、今年は無理そうだな。
 
 商店街のアーケードを歩いていると、いつもなら通り過ぎてしまう雑貨屋の前でふと立ち止まった。お店全体が北欧っぽいナチュラルな色合いで、小さな出窓には素敵なインテリア雑貨が並んでいる。持ち手のついたキャンドルライト、小さな繭玉をしたLEDライト。可愛いな。こんなインテリアを飾ってみたいな。一人暮らしを始めたらできるんだろうか。
 そう思っているとカラン、と扉が開いた。中から出てきた人が私を見て「あ、原田さん」と呟くので私も彼女に視線を向けた。それは私の苦手な五十嵐さんだった。彼女はワイシャツにジーパン、黒のエプロンというシンプルな格好だった。
「ここ、素敵なお店だね」
 何も考えず発した言葉に思わず驚く。普段なら絶対に自分から話しかけたりしないのに。この数週間で高橋君と毎日のように話していたから、つい言葉を発してしまった。
 彼女は驚いたような、けれど嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あのさ、いま時間ある?」
 言われるがまま店内に入ると、やはり素敵な雰囲気がそこにはあった。店の奥には小さなカウンターと椅子があって、彼女はその壁の向こうのスペースに入っていった。私はひとまずカウンターの椅子に腰掛けた。
「初めて作ったんだけど、ちょっと味見してくれない?」
 差し出されたカップには泡立ったミルクに、ココアが粉雪のように降っていて、小さなマシュマロが飾り付けられている。
 五十嵐さんも隣に腰を掛けると、長い栗毛が揺れた。今日も化粧はばっちり整っている。
「ほんとはラテアートみたいなさ、可愛い感じにしてみたかったんだけどさ。まぁ初日にしては上出来じゃない?」
「すごい。可愛い」
「まじ? やっぱり?」
 五十嵐さんはまんざらでもない表情を浮かべる。普段、こんなに近い距離で話したことのない私は緊張していた。心臓に遅れてドキドキがやってくるのが分かった。
「五十嵐さんってここでバイトしてるの?」
「まあね。原田さんは勉強会? 予備校には行ってないの?」
「予備校は夕方から」というと、五十嵐さんは「げえ。そんなに勉強してんの?」と眉を寄せた。けれどそれは私自身を非難するような嫌な感じではなかった。本当は話しやすい人なのかもしれない。初めてそう思った。
「原田さんって話すと面白いね。去年はもっと地味な子かと思った」
「え?」
「去年、合唱祭の実行委員やってたじゃん。手を挙げる人がいなかったから、原田さんが仕方なく委員になったのに、みんな原田さんのせいにしてさ。他に文句言ってた子がやれば良かったのになんで原田さんが実行委員なんだろって」
 五十嵐さんの言葉に、私は返す言葉が見つからない。もしかして私は思い違いをしていたのかもしれない。あのとき偶然聞こえた会話は、私に向けられた言葉ではなかったのかもしれない。
「もっと手を抜いてもいいじゃん。やれる人がやればいいんだから。原田さんは無理して何かをしなくてもいいじゃん」
 それは不思議な感覚だった。てっきり、やれる人に強制的に自分がならないといけないものだと、勝手に思っていたから無理も無かった。
「最近、高橋から原田さんと仲良いんだって自慢されるんだけど。あいつって、色んな人に絡むじゃん。うざかったら無視していいからね」
 私に無視なんてできるわけないけど、五十嵐さんの言葉に頷いた。すると目を見開いた彼女は、ぷっと笑った。
「ねえ、今日の花火大会に来ない?」
「え?」
「C組の何人かで集まろうってなってんの」
 クラスのグループラインはなくて、仲の良い人同士でグループを作っていたのは知っている。私はどこにも入っていない。
「高橋も来るから驚かせようよ。あ、そうだ! せっかくだしメイクしてあげる。ちょっと来て」
 五十嵐さんは私の腕を掴むと、ずいっと奥の階段を上った。二階には6畳ほどの部屋にベッドや机が置かれていた。
「ここって五十嵐さんの家なの?」
「本当は従姉妹の家だけど、しばらくの間はここに泊めさせてもらってんだ。バイト代も稼ぎたいし。ていうか家が遠すぎる」
 椅子に座ると五十嵐さんがホットタオルを持ってきた。柔らかいタオルの心地。化粧もしたことのない私は、五十嵐さんの持っている化粧道具の名前も分からない。ポーチから取り出した丸いコンパクトや四角いキラキラのラメを「目つぶって」と言っては顔に塗った。初めてのことで膝に乗せていた拳をぎゅっと握る。
「そんなに緊張しなくていいよ」
「さすが五十嵐さんだね。すごい手慣れてる」
「まあね」
 目を瞑りながら、メイクが施されていくのを感じていた。ふわっとした肌触りのものが頬を撫ぜると、五十嵐さんは「もう目を開けても平気」と言った。目の前に置かれた鏡には私なのだけど、見慣れない私が映っていた。
「すごい・・・・・・可愛い」
「原田さんって素材はいいんだからメイクすれば可愛くなるのに」
 ここにこれを塗ってー、これはこういう感じでー。五十嵐さんはメイク道具の使い方を教えるのだけれど、そもそも私はメイク道具を持っていない。目の前の自分を見て、少しだけ自信が湧いた。私もメイクをしたら、五十嵐さんみたいに明るくなれるのかな。
「わたし、道具も持ってないから」
「じゃあ、今度一緒に行こうよ。安いのだってあるから。メイクの仕方も教えるよ」
「え、いいの?」
 五十嵐さんは笑みを浮かべた。
 
 一六時を過ぎた神社は賑わっていた。まだ空は明るい。
「原田さんも連れてきた」
「珍しいじゃん。原田さん来るなんて」
「穂花って原田さんと親しかったんだ」
 クラスの五十嵐さんと仲の良い女子たちが私を取り囲む。まるで包囲されているみたいで逃げ場がない。
「あれ? 原田さん化粧してる? 普段してるの?」
「これは五十嵐さんがしてくれて」
「まじ? 穂花すご。てか原田さん可愛い」
「原田さんの素材がいいからだよ」
「あ、男子たち来た」
 視線を向けると輪の中心に高橋君がいた。驚く表情が見えて恥ずかしい気持ちが湧いた。
 なんか、私場違いなところに来たんだろうか。
「本当に原田さん?」
 高橋君は目をぱちぱちさせ、何度も私を見て「やっぱり原田さんだ」と不思議そうに見るので周りの子も私も笑っている。
 出店を歩きながら、隣を高橋君が歩く。五十嵐さんたちはもっと先を歩いている。高橋君はシンプルな服装で、普段の制服姿しかみていないから新鮮な姿に胸がどきっとして落ち着かない。
「なんていうか、今日はいつもと雰囲気が違うね」
「そう、かな」
「うん」
 真っ直ぐな眼差しにあてられる。高橋君ってストレートに言うタイプなんだきっと。免疫がないからモロにあたってしまったじゃないか。高橋君という人物は恐ろしい。
「そういえば原田さんは今日模試行った?」
「うん」
「実は俺も行っててさ、原田さん見かけて声をかけようとしたんだけど、集中してたからやめた」
 今日の模試に私はそこまで集中していたっけ。たしか、電車待ちをしている最中、スマホを開いて暗記カードのアプリを解いていたっけ。そんなところを高橋君が見ていたなんて。
 私の歩くスピードに高橋君は合わせてくれる。少し歩みが遅い私に、高橋君以外は露店を先に先にと進んでいく。五十嵐さんの頭も見えなくなって、私たちは離れ小島みたいに雑踏の中を歩いていた。
「本当はさ、勉強会のときに誘いたいなって思ってたんだ」
「え?」
 もしかして一緒に勉強をした日に途中で言うのを止めたことって、今日のことだったのだろうか。
「でもいきなり誘われたら迷惑かなあとか、他に一緒に行くヤツとかいるかなあって」
「い、いないよ。全然いない」
 首をブンブンと振って否定する。顔が熱い。
 そのとき、ドンと花火が放たれ、夜空に大輪の花を咲かせた。
「うわーすげえ」
 花火は咲いては消えを繰り返す。ふと視界に光の点滅が見えた。高橋君のポケットに入れたスマホが光を放っている。
「高橋君、電話じゃない?」
「あ。ほんとだ。――お前ら今どこ?――うん、オッケー。今から行くわ」
 高橋君は電話を切ると「この先の広場にいるらしいから行こうぜ」と行って私の手を掴んだ。握られた手のひらに熱が帯びるのを感じながら、ただ高橋君の後ろを歩く。なんていうか、すごく青春っぽいことをしている気がして気持ちが浮き足立つような不思議な感覚だった。
「なんだ高橋、原田さんに手出してたの?」
「原田さんが可愛いからって」
「べつにそんなんじゃないし! 原田さんに失礼だろ!」
 
 その帰り道、高橋君が駅とは反対方向に向かう私を追いかけてきた。近くに住んでいるのは私だけ。みんなは電車で帰るというのに。もちろん高橋君も。
「暗いから送ってく」
「でも・・・・・・うん、ありがとう」
 悪いなと思いつつ、彼の優しさを受け入れる。少なからずこのまま別れることが寂しいと思っていたのだ。もう少しだけ一緒にいたい。
「あのさ、原田さん」
「ん?」
「俺とライン交換しない? 勉強でまた聞きたいことあるかもしれないし」
 自分の心臓の音が聞こえてくるくらい、ドキドキしていた。
「うん」
 暗闇の住宅街の中、スマホの明かりが私たちを照らす。スマホの画面に高橋君の笑顔のアイコンが映し出される。
「これって茶道部の写真?」
「うん。抹茶を点てた写真」
「へーこんな感じなんだ。苦いの?」
「今度文化祭でお茶点てるから飲んでみる?」
 この時間がずっと続けばいいのに。そう思ったときだった。
「結心?」
 突然名前を呼ばれ振り返るとお母さんがいた。
「あ! トンカツ屋のおばちゃん! え? 原田さんの母ちゃんだったの⁉」
「あら高橋君じゃない。なあに二人でデート?」
「お母さん、違うよ。みんなで夏祭り行ってきて、高橋君が送ってくれてるだけ」
「えー? それだけ?」
「ほんとそれだけ。高橋君そうだよね?」
「え? あ、そうっす。送ってるだけっす」
 慌てて高橋君に話を振ると、彼もまた驚いた様子で頷く。
「じゃあ、原田さん。また二学期な」
「送ってくれてありがとう。じゃあね」
 母親にからかわれて恥ずかしい気持ちと高橋君に対する歯痒い気持ちが入り交じる。
 にたぁと頬を緩める母親に冷めた視線を送ると「あの爽やか君を落とすとはねえ」と言う母親に、だから違うってば、と返すけどまんざらでもない私がいた。
「ていうか、その顔どうしたの」
「友達にやってもらったの」
「へえ。結心もお洒落する歳になったのね」
 寝る前、意味も無くラインを開く。当たり前だけど新着メッセージはない。高橋君からのメッセージを期待している自分がいることに気付く。ああ、私どうしちゃったんだろう。

第四章 二学期

 模試のあとの勉強会は高橋君が来ないまま過ぎていった。あとからラインで聞くと、墓参りやら親戚の家に集まったりと大忙しだったようだ。
 二学期の初日、事件は起こった。
 教室に入ると、高橋君と五十嵐さんが、それぞれ男子グループと女子グループに分かれて対立している。
「私が全部悪いってわけ?」
「俺だって夏休み中、勉強会とか模試とか忙しかったんだよ」
 遠くから眺めていたクラスメイトの話では、お化け屋敷に必要なマネキンの生首の調達を忘れていたらしい。調達予定だった美容専門学校は夏休みの間に生首は処分したのだそうだ。
 去年タテコを入ったお化け屋敷。怖そうな音楽と真っ赤に染まった生首の人形。あれはものすごく怖かった。たしかに生首がないと怖さが半減してしまいそうな感じがする。
「今さら生首のないお化け屋敷なんかできるかよ」
「たしか使う教室って一番奥の目立たないとこだろ? 誰が来るんだよ」
 もうやらなくてよくない? みんなが好き勝手に言い始める。二人が悪いという空気が教室を満たしていた。私もみんな、高橋君と五十嵐さんに任せ切りだったのに、二人を責める立場にあるんだろうか。不穏な空気の中、静かに予鈴が鳴ると蜘蛛の子を散らすように散った。

「結心のクラス、お化け屋敷できないんだって?」
 始業式が終わるとタテコがやって来た。教室の窓側の一番前の席に座る私の席から、タテコの視線は後方の高橋君に向けられていることが分かる。
「うーん、どうなるんだろうね」
 その返答に自分自身もまた他人事として捉えているようで、やり場のない気持ちに駆られる。
 タテコが私の顔をじいっと見つめる。顔に穴が空いてしまうくらい見つめるので、私も気付いたら見つめ返していた。
「そういえば結心、なんか変わった?」
「え? なにが?」
「なんていうか、何かうまくいえないけどオーラ?」
「なにそれ」
 タテコは両手をひらひらとさせ、なんかこんなオーラ、と笑う。私もつい頬が緩む。こういう気さくなタテコのほうがきっと私よりオーラを纏っている気がするのに。
 
 帰りのホームルームでは、案の定、文化祭の話し合いが開かれた。開口一番、生首がありません、と高橋君は告げる。
「なんか案ない?」
「忙しいのはみんな一緒だし、できる範囲でいいから」
 しんと気まずい空気が流れる。何ができるわけでもないのに、何かしなきゃいけないと変な正義感が私を襲う。委員会決めと同じだ。だけど何も思い浮かばないし、何かを言う勇気もないから、ただジッとこの空気に耐えるしかない。それは私以外も思っていたようで、しばらく沈黙が続く。やっとして、高橋君と仲の良い男子が声を発した。
「でも、すぐ用意できるのって暗幕くらいだろ? 映画でもやる?」
「プロジェクターは全部、映画研究会の予約入ってるから無理だぜ」
 教室に再び沈黙が訪れる。ひとたび静寂になると誰も物音を立てようとはしなかった。
 ふと、夏休みに天井へ映した星空を思い出す。家の中でも綺麗に見えたのだから、きっと教室で見たらきっと綺麗なんじゃないか。場所も一番離れた教室で、四階には私のクラスしか入っていなくて、きっと素敵な空間になるはずだ。カップルなんかで賑わったりしないかな。
 私は自然と高橋君を見つめていた。彼と視線が交わる。名前を呼ばれる前に口を開いていた。
「プラネタリウム用のプロジェクターなら家にあるよ」
 高橋君も五十嵐さんも私を見る。
「まじで? それ映えそう」
「じゃあさ、星空を映して、その周りを電飾でイルミネーションとかどうよ?」
 高橋君が商店街のイルミネーションを借りられないか先生に尋ねる。
「商店街の会長ってトンカツ屋のじいさんだぞ。あの人頭固いからなあ」
 あ! と高橋君が私を指差す。
「原田さんのお母さん、あそこで働いてるじゃん!」
「え? まじ?」
 私の発言によって思ってもみなかった方向にどんどんと転がっていき、三年C組の出し物はお化け屋敷からイルミネーションに変更された。
 廊下から教室まで暗幕を張り巡らせ、廊下にはイルミネーションを飾る。そして教室にはプロジェクターで映った星空。きっとデートスポットとして人気がでるはずだ、と急にクラスのモチベーションが上がる。かくいう私も、わくわくしていた。
 
 帰りのホームルームが終わると、五十嵐さんが鞄を机に置いた。
「こんなかにメイク道具持ってきたんだけど、ちょっとメイクしてみる?」
「え? いいの?」
 あの日以来、少しだけメイクに興味が湧いていたことは事実だった。スマホでメイクの方法を検索すると、たくさんの情報が入ってきて、どういう方法がいいのかさっぱり分からなくて二の足を踏んでいたのだ。
「穂花、原田さんにメイクするの?」
「うん。この間、メイクしてすっごい可愛かったし。いや普段から可愛いけどさ」
 クラスの女子が「穂花ってどんなメイク道具使ってんの?」と席の周りに集まる。普段、私の席にこんなに人が集まったことなんてないから、緊張してしまう。
「たしかに原田さんって整ってるよね。普段からメイクすればいいのに」
「文化祭の宣伝も原田さんにしてもらえば?」
「いいかもじゃん。やりなよ原田さん」
 五十嵐さんたちの勢いに、私も勢いにのり「うん」と返した。

 帰宅した母親にイルミネーションの貸出を相談すると、すぐに返答があった。
「え? ほんとにいいの?」
「全然いいわよ。猪俣さんも高校生に頼まれちゃあ断れないわよ。私からも言っておくわ」
 今日トンカツは完売したようで、トンカツ目当てにしていた夕飯はカップ麺に替わった。
「姉ちゃんの文化祭っていつ?」
「十月の一週目の土曜日」
「その日、天体部の奴らと遊びに行こっかな」
「えー和毅、来るの?」
「あらお母さんも行こうと思ってたのに」
「もうどっちでもいいよ」
 
 ◇ ◇ ◇
 
 翌日には、母親から話を聞いた会長から学校へ承諾の電話が入った。昼休みの教室に訪れた塚本先生が「電飾借りれることになったぞー!」と大人げなくガッツポーズなんてしたり。つられた生徒たちも「いえーい」とテンションが上がる。もちろん私も。文化祭まであと一月。
「あとはどうセットするかとか、看板を誰が作るか決めようぜ」
 残り一ヶ月なので、帰りのホームルームの時間は文化祭準備にあてがわれることとなった。セットを考えるグループの中に私も入る。そこには高橋君もいて、やはり彼が指揮をとる。五十嵐さんは看板を作るチームに入っていた。時折、高橋君のもとへ来ては委員会の話をしていた。
 日に日に、学校中が文化祭に染まっていくのを感じながら、もうこれが最後の文化祭なんだ、と思った。

◇ ◇ ◇

 文化祭が来週に迫って来た頃、私は高橋君たち数人でトンカツ屋へ赴いた。そこにはやっぱり母親がいて、私たちを見ると「店長! 学生さん来たわよ!」と家と変わらない態度で言う母親に思わず笑った。会長に言われるがままついて行くと、トンカツ屋の横道を進んだ先に倉庫があった。
 キイ、と音を立てて倉庫の扉が開く。お祭りで使う山車や雪洞が仕舞われていた。そしてその隣には小さなLEDライトの紐のようなものが袋に入れられていた。
「一番大きな電飾はこれだよ」
 一際大きなビニール袋をめくると、ベンチが出てきた。全体に電飾が取り付けられていて、背後にはハートマークの装飾が施されている。毎年、商店街に置いてあったっけ。クラスメイトも「これ商店街に置いてあんの見たことある」と漏らした。
「そっちのLEDテープのほう持ってけ。このベンチは当日朝、商店街の人らで持ち運ぶけんな」
 会長がそう言ってくれたので、私たちはLEDテープを持ち帰りやすいように袋に小分けする。
「原田さん、俺が持つよ」
 高橋君がそう言って私の手から袋を取った。身軽になった私は、それでもなにか手伝わないとと思いながらも結局なにも持つ物がなかったので高橋君の横を歩くばかりだった。
「会長さん、意外と良い人そうで良かったな」
「うん。そうだね」
 高橋君と並んで歩くと、夏祭りのように私の歩幅に合わせているのが分かった。優しい彼の一面に、やはり胸がむず痒くなった。
 
 四階校舎の四階の階段付近に入場口を作り、廊下から教室まで暗幕を張り巡らせる。そこにLEDライトを廊下の端や壁に取り付けると光の道ができた。
 光の道を通り抜け、エアコンを効かせた真っ暗な教室にはプロジェクターが星空を映している。まるで夜空を眺めているみたいで綺麗な空間だった。
「うわあ、すげえ」
「うわ、いいじゃん。映えるじゃん」
「人通りすくないのもいいじゃん。デートにぴったり」
 暗幕の足りない部分には黒色の画用紙を窓に貼り付けて、少しでも暗くするようにしていた。画用紙を貼りながら背中越しにクラスメイトの声を聞く。
「うわ、良い感じじゃん」
 タテコだった。
「結心、茶道部のほう手伝いに行かない?」
「これ貼り終えたら行く」
 茶道部の手伝いにも行かないとな。そう思っていると突然、校内放送を報せるチャイムが鳴った。
 
 ――先ほど、発達した雨雲がこの地域を通過するとの気象庁から発表がありました。したがって、本日の文化祭準備は終了し、完全下校してください。
 急いで残りの画用紙を貼り、部室へと走った。

「え? 今年はお茶点てないの?」
 部屋に入るとタテコが驚いた表情をしていた。
「どうしたの? 点てないってなに?」
「原田先輩……実は今年は抹茶フラペチーノに挑戦しようと思ってて。もちろん、部室でお茶は点てますよ」
「なるべく茶道部に興味持ってもらいたいんだって。去年のうちらじゃ考えなかったよね」
 タテコが感心するのを横目に、少しだけ寂しくもあった。だけど何がかは言い表せなくてモヤモヤした気持ちを飲み込んだ。
 準備を終えて昇降口についた頃には、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。
 鞄に忍ばせていた折りたたみ傘を取り出す。
「待って。俺も入れて」
 高橋君は私の傘を抜き取るとパッと開く。私の承諾は待っていないようだ。
「タテコもいるから待って」
「あ、私のことはいいから! 高橋君、この子のこと送っていって!」
 タテコに背を押され、私は高橋君の傘に入った。
「結心、後でラインするからね!」
 昇降口から手を振るタテコに手を振り返す。じゃあな立川、と高橋君も手を振る。タテコからどんなラインが来るのかすでに見当の付いていた私は申し訳なく思った。
 校門を抜けて私はやっと口を開いた。
「実行委員、お疲れ様」
「そっちこそお疲れ。原田さんのおかげですごく助かった。ありがとう」
 しだいに雨脚は強くなっていく。高橋君が私のほうへ傘を傾けるから、彼の肩はすっかり濡れてしまっていて、それがなんだか、こそばゆかった。
 商店街を通り過ぎ、住宅街へと進む。高橋君は電車通学なのに駅とは正反対だ。
「これ、傘貸すよ」
「うん。原田さんを家まで送ったら借りるよ」
 ビシャ、気付かないうちに水たまりを踏んでいた。ローファーの中に水が溜まる。靴下はすぐに水を吸い込み、足の指先が冷たくなる。
「大丈夫? もっとこっち寄りなよ」
 肩を掴まれ寄せる。
「これくらい大丈夫だよ」
 そう言ってみるが高橋君は聞いていないのか離してくれない。触れあった肩に熱が籠もるのを感じる。雨は容赦なく降っている。
 傘を雨粒がババババと打ち付ける音が響く中、私は心臓の音が高橋君に聞こえてしまうのではないかというくらいドキドキしていた。
 ようやく家についた私は、傘から軒先へと移動する。そこでようやく高橋君はほぼ半身がずぶ濡れだったことに気付いた。
「私のせいでずぶ濡れになってごめんね。家で雨宿りしてく?」
「いやいいよ。台風来るって言うし。傘借りるぜ。じゃあな原田さん」
 刹那、高橋君の濡れた手が私の前髪を撫ぜた。いたずらっぽく笑う彼。
「こっちこそありがとう」
 そういうと彼は満足げな顔を浮かべて帰って行った。叩きつける雨音だけが残る。私は心の奥底に芽生えていた感情に名前をつけることが怖かった。まだ認めたくない自分がいたのだ。だって、彼はクラスの人気者で、私は目立たない生徒で。それにタテコは彼に恋しているのだから、私が高橋君ともっと仲良くなりたいなんて思ったら、きっと悲しむ。

 夕食を終え部屋に戻るとタテコから電話が入った。
「タテコ、今日はごめん」
 きっと怒っているに違いない。あんなに高橋君の話をしていた彼女なのだ。話を聞くばかりで相談にも乗れず、ましてや連絡先を教えていない後ろめたさもあった。
「あー高橋君のこと? もういいのよ。フラれたし」
「え・・・・・・どういうこと?」
「応援してくれた結心に言いづらかったから黙っていたけど、夏休みの間に告白したんだ」
 模試の帰り、カラオケに向かう途中で高橋君を見つけた彼女は、意を決して告白したらしい。思い立ったら行動するタテコの性分だ。
「ほかに好きな奴いるからって断られちゃった。おかげでカラオケで歌いまくって高得点出したから、ある意味高橋君に感謝だわ」
「強いね、タテコ」
 そう返しながら動揺していた。高橋君には好きな子がいるのだということ。わざわざ嘘をついて断ることを彼はしないだろう。だからきっと好きな人がいるのは本当なのだ。
「ねえ、結心」
「ん?」
「高橋君の好きな人、気になる?」
「え? まあ」
 すごく気になる。だけど知りたくない。知ってしまったらもうこの気持ちに無視できない気がする。
 タテコは間を開けて言った。
「結心が連絡先知ってたこと黙ってた罰に教えないもんね」
「ご、ごめん! つい言い忘れてて」
 電話越しにタテコの笑い声が聞こえ安心した。
「いいよいいよ。それにさ、フラれちゃったけど、好きな人には好きな人と上手くいって欲しいなって思うもん」
「タテコは大人だね」
 タテコは大人な考えを持っていた。そんなふうに私は彼を応援できるんだろうか。
 電話を終えると、高橋君からありがとうのメッセージと一緒にスタンプが送られていた。ニッと笑う彼のアイコンに思わずふっと微笑んでしまう。こんな表情が私にも向けられたらいいのに。でもそんなことはない。きっとその相手は彼の好きな人で、いずれ彼女になる人なのだけど。
 明日が文化祭だからか、タテコとの電話のせいか、高橋君と相合い傘をしたからか、なかなか寝付けない私は屋根を叩きつける雨音や風音を長い時間聞いていた。

第五章 文化祭

 翌朝の空は、まるで昨日の台風などなかったかのような快晴だった。自然と鼻歌を刻んでいたらしく、弟に「姉ちゃん気持ち悪」と言われたけれど。
 学校へ向かう途中、商店街に人だかりが出来ていた。ちょうどトンカツ屋のあたり。そこから高橋君が駆け寄ってきた。
「原田さん! 大変!」
 高橋君に呼ばれるまま倉庫に向かうと、辺り一面が水浸しだった。昨夜の強い風で屋根が剥がれ、そこから雨漏りしてしまったらしく、そこらじゅうに枯れ葉が散って荒れ果てている。その中心に会長がビニール袋に被ったベンチを見つめていた。
「あかん。これじゃあ使えんわ」
 会長は苦い口調で言う。
 クラスメイトも「どうする高橋? なあ?」と尋ねるが、当の高橋君も呆然とベンチを見つめている。
「ベンチなくてもできるべ?」
「いやでも何か味気ないよな」
「デートスポットって感じに欠けるよな」
 商店街の人たちも惨状の倉庫を見つめ言葉をなくしている。
 星空の映る教室にこのベンチをカップルで座って見たり、友達と見たり、そんな素敵な文化祭にするはずだった光景が脳裏に映し出される。お化け屋敷もダメになって、イルミネーションも。そういえば、去年のお化け屋敷って懐中電灯だけもって入ったのだと思い出す。ふと、私の中を稲妻が通り抜ける。
「高橋君。文化祭が始まるまで、まだ時間あるよね?」
「ああ」
「ちょっと来て」
 私は高橋君の手を握り、商店街を走る。
「どうしたんだよ」
 驚く彼をそのままに私は夢中で走っていた。あそこなら、あそこに行けば、きっと・・・・・・!
 五十嵐さんがバイトをしている雑貨屋に着くと、高橋君は「このお店?」と首をひねった。
 息を整え、出窓に飾られた、持ち手のついたキャンドルライトを指差す。
「このライトを持って、あのイルミネーションを歩くのはどうかな?」
 お化け屋敷みたいな感じで、星空を観ることがメインじゃ無くて、その雰囲気を味わうことがメイン。きっと素敵なデートになりそう。
「めっちゃいいじゃん。カップル受け間違いないじゃん」
 カラン、と戸が開くと中から出てきたのは五十嵐さんだった。コーヒーの香りが微かに漂う。
「二人とも店の前でなにしてんの?」
 ことの説明をすると、五十嵐さんはすぐにスマホを取り出すと誰かに電話をかけた。
 その隣で、高橋君も誰かと電話をしている。ふと、タテコの話を思い出してしまう。高橋君の電話相手は好きな人なんだろうか。今はそんなことを考えるべきじゃないのに、頭の隅にそんなことがちらついた。
「従姉妹に聞いたら全部貸してあげるって。壊れたら弁償ね」
「こっちも、クラスの奴らに内容変更伝えといた」
 二人が電話を終える。私はほっと胸をなで下ろした。なんだ、クラスメイトにかけていたのか。会話は聞こえていたはずなのに、聞きたくないって気持ちから言葉までは意識して聞こうとしていなかったのだ。
 店に入り、出窓に飾らたキャンドルを紙袋に詰める。
「これ全部?」
「いや、まだ奥にある。段ボールにいくつか入ってるよ」
 奥の収納棚を覗くと段ボールに入ったキャンドルを見つけた。暗い室内の明かりを探そうと立ち上がる。
「わっ」
「痛っ」
 すぐ後ろに高橋君がいたのに気付かず、彼の顎に頭をぶつけていた。鈍い痛みが走る。
「ごめん原田さん。痛かったよね?」
 彼に顔を覗き込まれて、頬に熱が籠もる。ぱちっと明かりが付いて、五十嵐さんが「どうしたの」と来た。
「なんでもねえよ。ほら持ってくぞ」
 そっと視線を外す高橋君の表情が硬く、けれど赤いことに気付く。ざわざわとした感情が湧き上がるのと同じくらいのタイミングで、高橋君の好きな人が分かってしまった。きっと彼は五十嵐さんが好きに違いない。今の出来事も勘違いされたくなくて視線をそらしたのだ。
 とうとう、このえも言われぬ気持ちを言葉にする前に失恋をしてしまった。二人の背を見つめながら紙袋を握りしめていた。
 秋の風がさあっと吹く。遠くでカラスの鳴き声がする。空は青々と晴れ渡っている。私の気持ちなんて神様は気にもとめていないようだ。もちろん雨なんか降ったらせっかくの文化祭が台無しだから嫌だけど。

 ◇ ◇ ◇

 小さなスタンドタイプのキャンドルライトを教室の床にバラバラに配置していく。天井は星空が映り、地上には暖色のライトがその趣を余計にムードを漂わせている。
 無事にキャンドルライトを運び終えた私たちは、階段の踊り場の手すりに寄りかかりながら休憩する。
「すっごく良い雰囲気になったじゃん。原田さんのおかげ。ありがと」
「だろ? 原田さんってすげーんだから」
「なんで高橋が自慢気?」
 二人がそんな会話をしていて、私は踊り場の窓から校門を見つめる。昨日の台風で校舎に保管していたゲートを取り付けている最中だった。
 私は早くこの場を去って、二人きりにさせたほうがいいんだろうなと考える。二人は何だかんだ仲良しだ。二学期の初めは一瞬だけ対立していたけれど、こうして茶化し合っている光景はお似合い過ぎる。
「そうだ。原田さん、せっかくだし化粧してみない?」
「え?」
「なんか原田さんって化粧し甲斐があるんだもん。私の腕を上げるためにさ」
「おい五十嵐。お前、原田さんをおもちゃにしてるだろ」
「いいじゃん。あんただって原田さんが可愛くなったら嬉しいくせに」
「まあ、な」
 明らかに歯切れの悪い高橋君の返事に、鈍い痛みが走った。
 五十嵐さんに連れられ、女子更衣室に向かう。中にいたクラスメイトから巾着が差し出される。
 これを着てよ。と言われ巾着から取り出すと出てきたのは浴衣だった。
「原田さん、茶道部だから着付けできる?」
「それなりにかな」
 まだ暑さが残る季節。四階はクーラーが効いているとはいえ、歩き回るには暑い。
 浴衣を着て帯を締めていると、髪をクラスメイトが編み上げはじめた。壁に取りかかった鏡を見ると、メイクと髪型のおかげでいつもの倍、いやそれ以上、自分の顔なのにドキッとした。
「じゃあこれで高橋と宣伝してきてよ」
 そう言って五十嵐さんはチラシの束を手渡してきた。言われるがまま受け取った私は、嬉しいけれど尋ねた。
「わたしが?」
「うん。めっちゃ可愛いし、高橋も喜ぶって」
「でも、五十嵐さんのほうが」
「私はあいつとは無理」
 そんなことはないと思う。きっと高橋君もそう思ってる。だからといって、私に飛び込んできた高橋君と一緒にいられるチャンスを断る意思もない。
 更衣室を出ると、壁に背を預けていた甚平姿の彼と目が合った。
「なーに高橋見とれてんの~」
「べつに。原田さん、行こっか」
「うん」

 ◇ ◇ ◇
 
 スピーカーから音楽が流れ始める。これから文化祭が始まる。嬉しいのに、なんだか胸が騒がしい。この気持ちをタテコに伝えたら楽になるんだろうか。いっそ目の前の彼に言ってしまえば。ううん、そんなことさえできる自信なんかない。
 階段を降りると昇降口には学生と他の学校の生徒たちが大勢いた。浴衣姿の私たちを見た人は、高橋君の持っている看板に視線を向ける。
「イルミネーション面白そうじゃん。あとで見に行ってみる?」
「浴衣のお姉さん、チラシください」
 中学生くらいの男の子に呼ばれ、持っていたチラシを渡す。あざーす。そう言って「回転焼き行こうぜー」と仲間を引き連れて言ってしまった。チラシはまだたくさんある。高橋君はひたすら声を出している。
「三Cでイルミネーションやってまーす。裏校舎四階ですー」
 昇降口にある生徒用ロッカーを通り抜けると、来客用のスリッパが置いてあって、そこで履き替えて校舎に入ってくる人にチラシを渡す。そのまま受け取って、靴をいれているビニール袋に無造作に入れる人もいれば、ありがとうございますと返す人、浴衣がすてきねと返す保護者。
 外からガヤガヤと騒がしい音ととも六人男子高校生が校舎へ入ってきた。制服を着ているけれど、シャツが出ていたりピアスをしたり、きっとこの学校であんな着方をしていたら生徒指導に呼び出されるだろう。そんな人たちが入ってきたから、その場だけ人が遠巻きになる。私もあまり関わりたくないと思っていると、彼らの中の一人が私を見ると近寄ってきた。よく生徒指導のいる受付を通過できたな。
「ねえねえ、名前は? オレたちと一緒に回らない?」
「あの、えっと」
 その男子生徒は腕に抱えていたチラシを無理矢理抜き取った。
「へえ~イルミネーション。いいじゃん。俺と行かない? デートしようよ」
 知らない男の子たちに取り囲まれて、逃げるに逃げられない。怖い。
 そう思ったとき、スっと手が引っ張られ、私の目の前には高橋君がいた。
「悪いけど、俺の彼女だから」
「なんだよ。彼氏ならちょっと彼女貸してくれてもいいだろ」
 高橋君はぎゅっと私の腕を握ったまま。
「悪いけど無理。つーかどういう理論だよ」
 高橋君にそう言われると、男の子は舌打ちをした。
「なんだよ。彼女の前で痛い目みたいのかよ」
 振り上げた拳は高橋君の頬に向かう。きゃあ、と女子生徒の甲高い悲鳴が聞こえるのと高橋君が床に倒れ込むのは同時だった。
「いってえ。なにも殴ることないだろ」
 高橋君は何事もないように頬を擦り起き上がる、しかし男が跨がって阻止すると再び拳を振り上げた。
「おい! 何の騒ぎだ!」
 生徒指導の富山先生が男を取り押さえる。昇降口は野次馬の生徒が取り囲んでいた。男のグループ全員が出入り禁止を命じられ、校門を出ていき騒ぎは、瞬く間に沈下した。スピーカーから流れるポップな音楽がより一層かき消している。
 高橋君と私は保健室に連れて行かれた。椅子に腰掛けると膝がガクッと笑ていることに気付いた。
「大丈夫? 怖くなかった?」
「びっくり、しました」
 強面の男の子たちに絡まれることなんて一度もなかった私にとって恐怖の何物でも無かった。あのとき、周りの人は遠巻きにしか見ていなくて、高橋君が庇ってくれなかったらきっと私はもっと怖い思いをしていた。
 保健室の先生が一通り、高橋君の頬や口の中を確認した。
「派手に殴られたね高橋。口の中も切ってないし、大丈夫そうだ」
 
 保健室を出ると、高橋君は「ちょっと休憩しよう」そう言われて私と高橋君は空き教室となっている三年C組の教室に行く。
「ちょっとここで待ってて」
 そう言って教室を出て行った高橋君の足音が遠くに響いて消えた。一人、教室の窓から空を見上げる。雲一つ無い青が果てしなく続いている。
 深呼吸を繰り返して、やっと緊張の糸が解けるようだった。背もたれに寄りかかって脱力していると、高橋君は戻ってきた。両手に紙袋を持っている。
「回転焼き買ってきた! 食おうぜ!」
「・・・・・・ありがとう」
 隣の席に座るとこちらを向いて片手を差し出す。手に握られた回転焼きを受け取る。暖かい。一口囓る。
「あ! ていうか、俺原田さんのこと、彼女なんて言ってごめん!」
「ううん、気にしないで」
 本当は嬉しかった。嘘でも彼女と言われたことが。本当に彼女になれるならどんなに嬉しいか。
 生ぬるい風が通り過ぎていく。夏休みに勉強会で二人きりで過ごすのが久しぶりだった。けれど、あのときよりも自分の中に抱いていた感情に気付いて、なかなか言葉が出てこない。
「そろそろ宣伝に戻ろっか。今度は俺がビラ配るよ」
「ありがとう」
「なんかあったら俺がすぐ守るから言えよ」
 高橋君はそういうと背を向ける。中庭に出る前に一度クラスに寄ることにした。階段を上ると、すでに何組かが階段で行列を作っていた。よく見ると男女で並んでいる生徒が多い。
「ほんと原田さんのおかげだね」
 受付と書かれたテーブルでお会計をしていた五十嵐さんが私たちに気付くと手を止めた。
「二人ともお疲れさまー! 原田さん大丈夫だった? なんか他校の生徒に絡まれたんだって?」
「高橋君のおかげで大丈夫だった」
「そっか。あんま無理しないで。高橋、ちゃんと原田さん守ってよね」
「当たり前だろ」
 北校舎から中庭に出ると屋外テーブルには生徒や来客者たちがお昼を食べたりと賑わっていた。
「あ! 原田先輩」
 茶道部の後輩に呼び止められる。これが創作抹茶です、と紙コップが差し出される。冷たい感触が指先に伝わる。ああ、例のフラペチーノ。
「一応、お茶会のほうはちゃんとお茶点ててるんであとで来てくださいね!」
 後輩はそう言うなり「茶道部でお茶会やってまーす」と高橋君にビラを配ると、生徒たちの群れに消えていった。中庭に届く日差しは熱い。ストローに口をつける。うん、冷たくて美味しい。
「原田さん、俺にも一口ちょうだい」
「はい。どうぞ」
 明らかに高橋君は動揺した表情を浮かべ、けれどフラペチーノを受け取った。どうしたんだろう。そのあと私に一瞥向けるとやっと口を付けた。
「抹茶をちゃんと点ててるでしょ」
「ああ、うん」
 高橋君からフラペチーノを返してもらいもう一度飲む。やはり冷たくて美味しい。看板を再び抱えて中庭を進む。
「あのさ、原田さん」
 私の数歩前で立ち止まった彼の顔が西日のせいで眩しくて目を細める。彼がどんな表情をしているのか全くわからない。
「宣伝が終わったら一緒に3Cのイルミ見に行かないか」
 そう言って看板を抱えた彼は「仕事終わりー。ほら行こうぜ」と歩き始めた。高橋君がすぐに背を向けてくれて助かった。途端に胸が高鳴っていて、それだけで精一杯だった。

 空になった紙コップをゴミ箱に捨てたとき、自分のしでかしてしまったことの重大さにやっと気付いた。
 どうして高橋くんがフラペチーノを飲むのを躊躇っていたのか。どうして私はそれに気づかなかったか。きっと軽蔑されたことだろう。
「あの、高橋くん」
 言うべきか言うまいか悩んだ挙げ句、渡り廊下を歩きながら私は呼んだ。
「さっきの、ごめん」
「さっきの?」
「ストローのこと。私気づいてなくて」
「なんだ。俺脈ないのかなって思ったけどよかった。けどわざわざ言うってそれはそれで脈がないのか」
 ははは、と笑う彼の声がいつもより元気がない。彼の言う脈がない、という言葉に私は今度こそ胸が躍った。
「ないわけ、ないよ」
 聞き取れないほどの小さい呟きに、目の前の彼が「今なんて?」と聞き返す。そのとき、渡り廊下の向こう側からクラスメイトの男子が呼んだ。
「おーい高橋! 原田さーん! もう片付けるから早く来いよ!」
 私たちは急いで廊下を抜けて、裏校舎四階まで走った。おかげで静寂で神秘的な空間を、肩で息をしながら歩くことになってしまった。「四階までダッシュはキツいわ」と高橋君が笑って言うのを私も「そうだね」と肯定する。一番奥の教室に着くころには激しかった鼓動は落ち着きを取り戻していた。静かな教室にプロジェクターの稼働音だけが響いている。
 教室の天井には無数の星々が煌めいている。
「すげえな」
「うん」
 自宅で見たときよりも綺麗だと思えるのはきっと、こうして隣にいる高橋君のおかげなんだ。それに五十嵐さんのおかげ。二人がいたから、イルミネーションを提案することができた。それにクラスみんなの協力のおかげで、素敵な文化祭にすることができた。
「ほんと、原田ってすげえよ」
「高橋君と五十嵐さんのおかげだよ」
「あいつと同じかあ」
 悔しがる姿に、思わず頬が緩んでしまう。自分でも気づかないうちに、彼の隣にいることは心地のよいものに変わってしまっている。大事な言葉を伝えたいのに、今の関係性が壊れてしまうのが怖くて私はただ星空を眺めた。唐突に教室のスピーカーからチャイムが鳴り、文化祭の終了を伝えるアナウンスが流れた。同時にキャンドルの明かりだけだった廊下は白熱灯の眩しい光が差した。
「いやあ職員の間でも好評でさ――お前らいたのか」
 パッと教室も明かりが点き、ドヤ顔で入ってきた担任の塚本先生の顔が見えた。追いかけるようにクラスメイト数人が「先生!」と呼び止めるように走ってくる。
「高橋の告白タイムが!」「わりい高橋! せっかくのチャンスを台無しにして!」
 塚本先生も追いかけてきたクラスメイトも、半ば面白がるように高橋君に謝る。当の本人は顔を両手で塞いでしゃがんでいる。私だって頭が追い着いていない。告白ってどういうこと? だって高橋君が好きなのは私じゃなくて――。

「俺は!」

 しゃがんでいた高橋君が立ち上がって叫ぶと、私に視線を向けた。
 クラス中の視線が私たちに集まっている。

「原田さんが好きだあああ」

 高橋君の声とともに「きゃあ」とか「うおおお」と歓声が響く。とたんに体中が熱くなって、胸の高鳴りは止まりそうにない。
 こんな漫画でみるような展開に私は正直に受け止めきれないで立ち尽くす。みんなの視線が痛いほど伝わって、余計に言葉が出てこない。私が黙っていることで徐々に教室内が静かになっていく。まるで新学期の委員会決めみたいに。委員会決めと違うのは、みんなの注目を浴びてしまっているということ。私が発言しないといけないということ。
 数十秒しか経っていないのに長い時間流れているような錯覚さえしてくる中で、高橋君に視線を向けると耳まで真っ赤に染めた彼の姿があった。少しだけ困ったように眉を寄せてはにかんだ微笑みを向ける彼。それはさっき彼が私から抹茶フラペチーノを飲んだときの表情と同じで、そこでようやく勘違いしていたことに気づいた。
 視線のさらに奥で五十嵐さんが親指を立ててグッドサインを向けている。
『最近、高橋から原田さんと仲良いんだって自慢されるんだけど』
 きっと、あのときすでに私は五十嵐さんに対して嫉妬心を抱いていた。自分自身が傷つきたくなくて気づかないように避けていたんだ。
 お腹にぐっと力を入れて声を出した。

「は、はい!」

 緊張のあまり思わず挙手してしまう。

「わたしも、好きです」

 先に教室内がわあっと轟いた。一拍おいて高橋君が「っしゃあ!」とガッツポーズをしてみせた。

「よおーしさっさと片付け終わったら、みんなにアイス配るからな」
 塚本先生の言葉に再び歓声が上がる。私と高橋君に向けられていた視線が先生へと向けられ、私はほっと胸をなで下ろした。こんなに注目されることなんて、授業中に問題を当てられたときくらいしかないのだ。
 高橋君の視線に気付き、彼を見つめ返す。
「さっさと片付けしてアイスもらおうぜ」
 やはり彼の顔は真っ赤で、その言葉が照れ隠しなのは私にも十分に分かった。

◇ ◇ ◇

 片付けを終える頃には十七時を過ぎていた。後夜祭なんてものはなくて、片付けを終えたクラスは徐々に下校していた。後夜祭がない代わりに、週明けの月曜日が振替休日になっている。
 3Cの教室では塚本先生からおごってもらったアイスをみんなで食べていた。坊主頭の男の絵が描かれた小さい頃によく食べたアイス。
「原田さんって茶道部だよね? お茶会行ってきたよ」
「抹茶のフラペ美味しかったよ」
 アイスを囓りながら、クラスメイトから掛けられる言葉を聞く。照れくさいような、誇らしいような不思議な気持ちだった。舌の上に伝わる冷たさはすぐに溶けていく。
 和やかな時間が流れる教室で五十嵐さんの声が響いた。
「ちょっとみんな、原田さん捕られたって高橋が拗ねてる」

エピローグ

 夕焼けに染まった商店街で、私の隣を高橋君が歩く。そっと見上げると、ふわっとした風が吹いて彼の短い髪が揺れた。
「文化祭も終わっちまったな」
「そうだね」
 私たちにはもう前を向くしかないのだ。来年どうなっているかなんて分からない未来に向かって、ただただ自分を信じて突き進むしかないのだ。
 もう迷っている時間なんてないのだ。
「俺、原田さんの気持ちも考えずに告白したけど迷惑じゃなかった? ごめんな」
「そんなことないよ。てっきり五十嵐さんが好きなのかと思ってた」
 そう言うと高橋君は笑った。
 一学期に書いた進路希望表を思い出す。私の進む道に彼もいるのだろうかとふと考える。
 夕焼け空の奥には群青色の幕が下りようとしていた。きっと夜になっても商店街の明かりで星は見えないだろう。
「今度はちゃんと星空を見たいな」
 隣の彼はそう言うと、私の手を握った。小刻みに震える大きな手のひらの温もりに、こっちにまで緊張が伝わった。
「うん」
 手のひらに力を込め、そう返事をした。

#創作大賞2024

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