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視点① 人称

人称について悩んでいる人も多いみたいなので、ひとまずコラムとしてさらっと書いておきますね。

人称の大枠は以下のポイントかなと考えています。

・人称とは何か
・人称の種類
・三人称の罠、一元視点と全知視点
・視点の切り替え
・自由話法(心の声)

人称とは何か

まず物語には、「語り手」が存在します。これは物語が言葉で語られる以上、語り手が自分の存在を明らかにするしないに関係なく、必ず存在します。語り手が存在することで、物語の中の情報が物語の外にいる「読み手」に伝わります。

「読み手」に関してはそのまんまなので特に説明も必要ないかと思います。強いて補足するならば、これはあくまで語り手が伝える対象として想定する人物です。実際の読者であるとは限りません。

さらに「視点人物」も存在します。語られる物語の中心となる人物です。これは「語られ手」であり、語り手は視点人物について語っていると言ってもいいでしょう。

この語り手と視点人物を把握すれば、人称についての把握も容易です。人称というのは端的に言ってしまえば、語り手が視点人物をどう呼ぶかです。

人称の種類

どう呼ぶかは関係性が決めるので、人称は語り手と視点人物の関係のことでもあります。そして関係性には2つの軸があります。

・語り手と視点人物は同一なのか
・視点人物と読み手は同一なのか

これにより、4つのパターンが生まれます。

・語り手=視点人物=読み手
・語り手=視点人物≠読み手
・語り手≠視点人物=読み手
・語り手≠視点人物≠読み手

語り手=視点人物=読み手は、もはや読み手不在なので語るという行為が成立していません。なので除外します。もし書いたとしても、普通に書くと語り手=視点人物≠読み手と区別が付かないでしょう。

語り手=視点人物≠読み手は、語り手が視点人物を自分として呼称します。「私」とか「僕」とか。つまり一人称ですね。

語り手≠視点人物=読み手は、語り手が視点人物を読み手として呼称します。「あなた」とか。つまり二人称ですね。

語り手≠視点人物≠読み手は、語り手が視点人物を自分でも読み手でもない、第三者として呼称します。名前とか「彼」「彼女」とか。つまり三人称ですね。

ということで、人称は大きなくくりだと3種類ということになります。

・一人称
・二人称
・三人称

ただし、二人称はかなりトリッキーな書き方で、現代小説においては一人称と三人称が基本です。ですから基本スタイルは一人称と三人称だけで、それ以外は変則スタイルだと思っていいでしょう。

三人称の罠、一元視点と全知視点

基本スタイルは一人称と三人称だけとはいえ、そこには罠があります。実は三人称の中にも以下の2つのパターンがあるのです。

・三人称一元視点
・三人称全知視点

三人称一元視点は、視点人物を一人に固定し、内面を描くのもその人物だけに制限した書き方です。「三人称固定視点」「三人称限定視点」「三人称主人公視点」なんて呼ばれたりもします。内面を描かない「ハードボイルド」という手法でも、基本的には視点人物は一人なので三人称一元視点に該当する場合が多いでしょう。

たとえばAとBがトイレに行きたいと思ったとき、三人称一元視点で書くとこうなります。

Aはトイレに行きたかった。Bもトイレに行きたそうな様子だった。

三人称全知視点は、視点人物を一人に固定しなかったり、内面を描く人物にも特に制約のない書き方です。要するに制約なしなので、定義も難しいです。これは俗に「神視点」と呼ばれたりもします。「三人称多元視点」も全知視点に含められることもあるのですが、それについては後述します。

三人称全知視点もトイレにたとえてみます。制約がないので書き方も一概には言えないものの、多くは以下のように書かれます。

Aはトイレに行きたかった。Bもトイレに行きたかった。

なんとなく三人称をイメージすると、全知視点をイメージする人も多いかと思います。実際小説以外の文章ならば語り手が知ってることをどう書いてもいいわけで、制約はありません。つまり全知視点になる場合が多いでしょう。

しかし、現代小説の三人称というのは、ほとんどが一元視点です。全知視点は変則スタイルの位置づけになります。

なぜ一元視点が主流かというと、そのほうが読みやすく、感情移入もしやすいからです。全知視点で読者を引き込むのは難しいんですよね。ですから全知視点で面白い作品を書くには相当な実力が必要になってしまいます。

そのため、なんとなくのイメージで三人称を書こうとして全知視点を選択すると、非常に苦労するかと思います。罠ですね。あくまで小説での「普通の三人称」は「三人称一元視点」のことなんです。ですから「普通の三人称」を書く時には、以下の制限を守って書くようにしましょう。

・視点人物は一人に固定
・視点人物以外の内面は一切書かない

視点の切り替え

一人称や三人称一元視点の視点は固定されているものです。ですから同時に複数の視点から描くことはできません。しかしです、実は作中で視点を切り替ちゃってOKなんです。

視点の切り替えがOKとはいえ、一人称と三人称の切り替えは原則できません。語り手と視点人物の関係が変わったのなら可能ですが、そうじゃない場合に行うととんでもなく読みづらくなります。もちろん原則的にできないことをあえて行うことでどんでん返しをする「叙述トリック」という技もありますが、やはり変則スタイルです。ですから基本的には人称は変えず、視点、あるいは視点人物を変えていくことになります。

一人称での視点切り替えは、主に章が変わるタイミングで視点人物を変えるといった方法で行われます。一人称で視点を切り替えると読みづらくなりがちなので、章の切り替わりなどのタイミングじゃないと難しいからです。

たとえ章が変わるタイミングでも、短い間隔で変わってしまうとやはり読みづらくなります。読者は同時に複数の人物に感情移入することが難しいからです。ですから一人称は同一の視点人物で最低でも1万字は続けてからじゃないと、切り替えるには大きなリスクがあると考えたほうがいいでしょう。

三人称一元視点での視点切り替えも、視点人物の切り替えは章が変わるタイミングがいいでしょう。ただし、一人称ほどは読みづらくならないので、「何らかの区切りがある場所でやると無難」くらいに考えて大丈夫です。筆力さえあれば、文中でやっても成立するでしょう。

それに加え、人物に依存しない視点も使えます。映画のように曖昧な俯瞰視点から視点人物に切り替えることも可能ですし、視点人物から俯瞰視点に切り替えることも可能です。実際「視点人物は切り替わらないけどオープニングかエンディングで俯瞰視点に切り替わる」というのはよくある書き方です。変化球というわけでもなく、それなりに王道のスタイルです。

重要なのは同時に複数の視点を登場させてはならないということです。映画と同じで他のカメラからの視点にいつでも切り替えられるものの、いきなり2画面にしたらおかしなことになってしまうのです。感動的なシーンで急にワイプで他の人物が感想を語り始めるようなものなんです。やっちゃだめではありませんが、使いこなすのは至難の業です。

ある程度読みやすい文章を書ける人なら、この三人称一元視点での視点切り替えは問題なく、しかも頻繁に行えてしまいます。そのことも多くの初心者を三人称全知視点に誘う罠で、「三人称の視点は固定しないものだ」と思わせてしまいがちです。たしかに切り替えが頻繁な一元視点と全知視点との違いは曖昧です。ですが三人称一元視点の切り替えはあくまでも視点を固定していないのではなく、固定した視点を切り替えているのです。この違いを混同しないようにしましょう。

三人称多元視点

実はまだ「三人称多元視点」と分類もあります。しかしこれは人によって指すものが異なるのですが、既に説明したもののうちどれを指すかが変わるというだけの話です。ですから新しい要素は特にありません。

「視点の固定」という概念が採用されていない場合は、視点人物以外の視点が使われるという点で多元視点は全知視点と同一ものとして語られたりします。

一方で「視点の固定」という概念が採用されている場合は、視点人物が切り替わるタイプの三人称一元視点を指す場合が多いかと思います。複数の視点が使われているとはいえ、固定した視点を切り替えること視点が固定されていないことは大きく異なりますから、全知視点とは全く別物と考えます。視点を固定した書き方のうちでも、視点人物が切り替わるか否かを区別するために「三人称一元視点」と「三人称多元視点」という表現を使っている形です。

つまりはどう定義するかの違いでしかないので、「三人称多元視点」をどう捉えようとさほど重要ではありません。しかし、小説を書く側の人間ならば、「視点の固定」という概念を採用せざるを得ないとは思います。そしてマシュマロ式でもがっつりと「視点の固定」を重要視しています。そのため書く際の感覚としては三人称多元視点は三人称一元視点の延長と捉えるほうが自然なような気がします。ただもっと言えば、ただでさえややこしい視点の話に「三人称多元視点」なんていう分類を増やすより、「三人称一元視点でも視点を切り替えちゃってOK」とだけ認識していればいいようにも思います。

自由話法(心の声)

実は視点の話をさらにややこしくする要素があって、それが自由話法という存在です。これは文芸創作論においては自由間接話法、物語論や文法においては自由直接話法と呼ばれるものなんですが、使い分けが面倒なのでまるごと自由話法とします。

自由話法は独立した記事にまとめる予定なのでここでは詳しく書きませんが、ざっくり言うと心の声を地の文に書くことです。

どうして俺ばかり算数の問題に使われるのか。たかしは納得がいかず、机を激しく叩いた。空になった2本の牛乳瓶が音を立てて揺れる。

この文章だと「どうして俺ばかり算数の問題に使われるのか」という文が自由話法にあたります。

自由話法をさらに具体的に言えば、語り手と視点人物の視点を同一化させる表現です。しかし人称が変わることとは違います。あくまで視点を同一化させて書く技法であり、語り手と視点人物の関係が変わるわけじゃないからです。

だから三人称一元視点で自由話法が多用されていても、人称が変わっているわけでもないし、視点が切り替わっているわけでもないんです。ただ、そこらへんの話は詳しい説明や例文がないとわかりづらいかと思います。なので詳細は次の自由話法の記事で……

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