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外山滋比古『自然知能』

☆mediopos-3179  2023.8.1

外山滋比古といえば『思考の整理学』だが
本書『自然知能』は
九十歳を超えた頃書かれ
扶桑社内に保管されていた未完原稿である
(氏は二〇二〇年に亡くなるが
書かれたのはその三年前の二〇一七年の春頃)

刊行にあたっての経緯については
娘の外山みどりにより
「刊行にあたって」として
巻末に収められているが
人工知能が問題化されている今だからこそ
本書を刊行する価値があるとの判断だったそうだ

二〇一七年頃はまだ現在のように
AIはクローズアップされてはいなかったので
当時の状況を背景としているが
その問題意識は現在のほうが
むしろより意味深い視点となり得ている

たとえば外山氏とほぼ同世代である
(二〇二三年の一二月で九五歳になる)
現代アメリカの言語学者・哲学者である
ノーム・チョムスキーは
二〇二三年二月八日の「ニューヨーク・タイムズ」紙に
「チャットGPTという偽りの希望」という論考を投稿し
生成AIをめぐる議論の不毛性を厳しく批判している

「自然知能」という言葉は
「人工知能」という言葉に対して
外山氏によって作られた言葉で
人間が生まれながらにしてもっている
知能のことを意味している

「自然知能」は
AIの持ちえない能力であるが
「人工知能」が議論されるなかで
ともすればなおざりにされかねない

「人工知能」を先行させるかのごとく
「自然知能」をスポイルし
その発達によってひらかれる創造性を
閉ざしてしまいかねない教育さえ行われている

「人工知能」は
泣くことも笑うことも
「おもしろい」と感じることも
「気配」を察知することも
マイナスの経験から知恵を磨くことも
嗅覚で「おかしい」と感じることも
知的なものとも関わる味覚を育てることも
手や足で考えることも
耳の可能性を育てることも
意味ある雑談から学ぶことも
できない

できるのは
プログラムされていることだけだ

「人工知能」はあくまでも
それがどんなに優れた能力を発揮するとしても
人間の「道具」を超えるものではない

人間が人間でしか持ちえない「自然知能」を
たしかに育ていくことを怠ってしまうならば
その退化し衰えた五感をもった存在として
「人工知能」より劣った人間を演じるだけの
悲しい存在でしかなくなってしまうことになりかねない

■外山滋比古『自然知能』(扶桑社 2023/7)

(「01 〝自然知能〟が泣いている」より)

「人工というのは、自然に対比されることばである。人工知能というからには、自然知能がはっきりしていなくてはおかしい。
 その「自然知能」だが、ことばを聞いたこともない、というのは、明らかに順序が逆であると考える。
 自然知能はあって、そのあと、人工知能があらわれるのが順序である。人工知能が先行するのはおかしい。
 人間は生まれながらにして自然知能を持っている。
(・・・)
 昔、昔、そのまた昔から、自然知能は名もなく放置されてきたのである。そのため人間は進化がおくれた。そういうことを考える人もなかった。人工知能があらわれてようやく、自然知能が存在しなくてはいけない、ということがわかるようになった。
 それにもかかわらず、自然知能ということばもない。本書が書名にこれを掲げたのは冒険であるかもしれない。
 人工知能は大人の仕事である。
 自然知能は生まれて数年の間、最大の力を持っていて。賞味期間の間に、だんだん小さくなっていくように考えられる。
 運よく生き延びた自然知能は十五、六歳になると、〝天才〟として開花する。」

「いつまでも、自然知能を声なく泣かせておくのは人類の恥である。少しでも早く、自然知能に、本来の働きをしてもらえるようにするのが、いまの人間の務めであるように思われる。
 いま、自然知能は、名もなく、声もあげず泣いているようであるが、昔の人が言ったように、泣く子は育つ、と信じたい。」

(「02 生まれながら」より)

「いま、人工知能をよく理解するのは一部の専門家にとどまる。知識人でも文学的教養を持っている人は、人工知能に冷淡である。それに対して、自然知能は人間知能で、すべての人間が持っている能力である。
 そういう人間知能をとびこえて、人工知能を考えることは難しいのである。」

「キカイ的人間になりたいのなら別だが、人間らしい人間として生きるには、持って生まれた自然知能を高めなくてはならない。」

(「04 生得的能力」より)

「考えてみるよ、医療は人間の創り出した文化である。それによって、救われた命はおびただしい。
 しかし、医療は、病気を減らすことはできない。むしろ、新しい病気を見つける。新しい病気や故障を創出しているのかもしれない。医療が病気を増やし、それを治療するというのは人間にのみ与えられた力であろう。ほかの動物は、医療がないから、病気も少ない。病気になれば、自分の力で治そうとする。うまくいかなければ死ぬのである。
(・・・)
 そういう自然力頼みでも、多くの動物は生きることができる。余計な心配はしない。自然にまかせて、病気、怪我を乗り越えようとしている。自然力のままに生きているのだが、一概に不幸であるとは言えないであろう。
 人間は知識というものを持っている。技術というものを使うことができる。知識や技術を使えば、自然力だけではどうにもならないことを、うまく処理できる。
 それはありがたいことであるが、眠っているものを揺さぶり起こすということもないとは言えない。まして自然の力を殺してしまう。
 知識はまことに有用であるが、使い方を誤ると、不幸、病気を招き入れかねない。
 人間の不思議なところである。」

「人間の持っている自然知能を充分に発揮するには、よけいな知識を持たないことである。
 少し具合がおかしい、と言うと、すぐ病院で受診するというのは、常識ある人のすることだが、賢明とは言えないことがある。」

「人工知能をいくら高めてみても、おもしろい生き方ができる保証はない。無知、無力、自然まかせの生き方は人間らしい喜怒哀楽を生み出すことができる。」

(「05 気配察知」より)

「危険の予知は生きるものにとってきわめて重要な能力で、生後の努力などに委ねることができないから、生まれつき、本能的な知能としてそなわっている。文化、文明によって、その危険が少なくなるにつれて、少なくなったと考えると、退化するもののようである。」

「人工知能は恐ろしいまでの力を持っているが、ひとりひとりの前にあるおもしろさをとらえることはできない。この点で、自然知能は人工知能に勝つことができる。
 まず、すべての人間がそういう知能を持っていることを認めるところから、新しい生き方ははじまる。ひょっとすれば、自然知能は人工知能より大きな、おもしろいことをとらえることができる。」

(「07 計算力」より)

「自然知能より人工知能のほうがすぐれていると知った日本は、自然知能である暗算能力を捨てて、電卓にウツツを抜かすことになった。」

「せっかくすぐれた自然知能を持っていたのに、人工知能によって、ひどい目に遭っている。
 いったん捨てられた自然知能、ふたたび甦ることはないであろう。
(・・・)
 計算力は、自然知能の大事なひとつである。それがキカイによって破壊されようとしているのを、進歩と考える思想は万能であろうか、考える必要がある。
 未来に生きる子供にとって、自然知能を大切にしないことが、マイナスにならないか、吟味しないと、人間文化は危うい。
 ことに教育にかかわる人たちは、このことを深刻に考えないといけないように思われる。」

(「08 経験知」より)

「自然知能を助けるもっとも大きな力は経験値で、子供のときはほとんど見向きもされない。年とともに経験を積む。その経験が、自然知能の助けをしてくれるのである。
 経験といっても、なんでもよいのではない。思いがけない幸運に出会ったというような経験はひとときの喜びにすぎない。(・・・)
 それに対して、マイナスの経験は痛切である。滅多なことでは挽回など考えることもできず、失敗の後遺症はなかなか消えない。
 その間に、人間はいろいろなことを学ぶのであろう。二度と同じ失敗をすることは少ない。マイナス経験は苦労となって。心の中に居座るようである。苦労は賢く、用心深く、強情である。失敗する前より、失敗した後のほうが、人間がよくなり、賢くなっているのだが、失敗にこだわているうちは、なかなかそれに気付かない。しかし、その間に、確実に、人間性を高めているのが普通で、昔の人が「災いを転じて福となす」と言ったのも、この間の心の機微に触れたものである。
 経験値がマイナスから生まれるのは、人間の宿命なのであろう。生まれつき溢れるような天分を持ち、それをうまく伸ばして、驚くべき成功を収めた人が、中年になり、高年になってむしろ、みじめなことになる例は、自然知能の衰退を経験値で補い切れなかったのである。
 恵まれた環境で育った人は、不幸な生い立ちの人に比べて、経験が足りない。ものを考えない人は、不幸を憎むけれども、本当に人間の成長を考えるとき、不幸が足りない、失敗を知らないというのは、たいへんなマイナスであることがわかる。」

「一般には、記憶力が強く、いつまでも忘れないでいるほど頭がよいように考えられているが、本当にすぐれた頭脳は、不要なことをさっさと忘れる。いくら忘れるといっても、すべてが忘れられるわけではない。
 忘れきれなかったことから、新しいものが生まれる。記憶した通りを再生すれば、模倣ではあるけれどもそれを抜け出せない。忘れて忘れて忘れきれなかったことの中から、新しいことが生まれる。」

(「10 愉快力」より)

「実は、笑うことができるのは、たいへんなことで、人間の特技と言ってもよい。イヌやネコは笑わない。
 くすぐって笑わせるのは別として、笑うのは頭の働きである。知能によってヒトは笑うのであろう。知能がはっきりしない動物では笑いは生まれない。泣くのは人間と同じように泣くことができる。
 人工知能は泣くこともできないし、ましてや、おもしろいことがあっても、笑うことはできない。」

「われわれが、〝おもしろい〟ことを求めるのは決して退廃ではない。創造への泉であるといってよい。
 ただ、その〝おもしろさ〟の感覚が成長するのは、幼少のころに限るということがポイントで、万人が天才的可能性を持って生まれてくるのに、本当の天才が、きわめて少ないのは、自然知能を放置しているからで、惜しむべきこと言わねばならない。
 その〝おもしろさ〟の感覚から愉快力が生まれる。」

(「12 嗅覚」より)

「嗅覚は動物のみにある感覚である。」

「生まれたばかりの子は、母親をニオイで感知するらしいが、離乳するころには、その識別を忘れてしまうらしい。
(・・・)
 思春期になると、嗅覚ははっきり弱化する。そして、中年になると、香水を求めるほどになる。
 普通の大人は、嗅覚を意識することが少ないが、それで不便、不都合は少ないようである。」

「人間の嗅覚には心理的作用をともなっている。
 おかしい、臭い、ということを感知するのが心理的嗅覚である。はっきり正体を突き止めるこっとはできなくても、なんとなく、クサイと感じることがある。どことなくニオウ、ということもある。形而上的嗅覚で、ふつう、勘といわれるものである。
 この嗅覚的な勘は、悪いことに対して働くことが普通で、喜ぶべきことの予感にはならない。」

(「13 味覚」より)

「味覚は、案外、大きな力を持っていて、たんに健康のためばかりでなく、広く、知的能力にもかかわっている。味読とか味解などということばがあるのは、味覚能力が、ほかの面にも広がっていることを暗示させる、うまい、とか、まずいとかも、広く、いろいろに用いられるのも、味覚の力を暗示するように思われる。
 味覚を大切にするんは、自然知能を重視することである。人工知能があらわれた現在、その意義は増大している、といってよい。」

(「14 手のはたらき」より)

「〝目は口ほどにものを言い〟ということばがある。(・・・)
 その伝でいくと、手は口ほどに、ものを言うとすることもできる。
(・・・)
 「日本人は目で考える」と言ったのはブルーノ・タウトであるが、日本人は手で考える、ということもできる。」

「触覚の力は、文化創造と深くかかわりあっていることは、これまでの歴史でも明らかなところである。
 手の力は、新しい文化を生む、というのは人工知能が注目される中にあって、きわめて重要な考え方であるように思われる。」

(「16 聞き分け」より)

「もっと、耳を大事にしないといけない。聞き分ける力が、人間知能の根源であることを常識にしないと、日本の文化の発展は望み薄になる。
 いま、自然知能が求められている。耳の育成を放置しておくのは賢明でない。」

(「17 しゃべる」より)

「下らないゴシップ的おしゃべりのとりこになれば、人生は退屈の連続になる。心あるものは、おしゃべりはするが、悪質おしゃべりは避けなくてはならない。具体的な心得をあげるならば、
 ○身近な人を固有名詞つきで話題にしない。
 ○なるべく、現在形、未来形の動詞を使う。
 ○人から聞いた話の受け売りはしない。
 そんなことを言われては、言うことがなくなる、という人は、しゃべるのはやめて、聞き役にまわればいい。
 つまり、浮き世ばなれしたおしゃべりが価値を持っているということである。
 そういう知的会話ができればすばらしい人生がひらけると考えてよい。」

(「18 歩く」より)

「歩くのは、健康のためばかりではなく、思考力を高めるのに、もっとも有効であるということをよく解しないのが現代である。
 歩くのは、自然知能による思考力の強化にとって、かけがえのないものであるということを認めてもよいのである。
 歩行は自然知能の泉であると言ってよいだろう。」

(外山みどり「刊行にあたって」より)

「本書の著者、外山滋比古が他界したのは、二〇二〇年(令和二年)の七月であった。既に死後三年が過ぎようとしている。本書に収められている文章は、もちろんAIが死後に作成したものではなく、外山滋比古本人が、死の三年前、二〇一七年の春頃に執筆したものである。その原稿は、未完のまま、扶桑社内に保管されていた。
 その時期のことであるから、もちろん最近の人工知能のめざましい進化や、社会に与えた衝撃の大きさなどは知らないままに、本書は書かれている。人工知能については、囲碁や将棋の棋士がAIに負かされた話くらいしか出てこない。ただし本書が、人工的な技術の産物であるAIの進歩に対する漠然とした危機感から出発して、人間が本来もっている広い意味での知能、自然知能と呼べるようなものの重要性を論じ、人間が潜在的にもつ能力の可能性を伸ばし、開花させるにはどうすればよいかを考えつつ書かれたものであることは確かである。九十歳を超える年齢の著者にありがちな、老いの繰り言のような部分もあり、(・・・)これをまとめて、「自然知能」というタイトルのもとに出版してよいものか、心理学を多少学んだ娘のワヤシは躊躇し、原稿を未完のままに残す可能性も考えていた。
 それに対して、扶桑社の出版局長である山口洋子さんは、人工知能が社会の注目を集めている今だからこそ、このような本を出版する価値があると熱心に説き、私に翻意させる結果となった。」

【目次】

01 〝自然知能〟が泣いている
02 生まれながら
03 人工知能
04 生得的能力
05 気配察知
06 リズム
07 計算力
08 経験知
09 マイナスがプラス
10 愉快力
11 忘却力
12 嗅覚
13 味覚
14 手のはたらき
15 口のきき方
16 聞き分け
17 しゃべる
18 歩く

◎外山滋比古(とやま・しげひこ)
1923年、愛知県生まれ。お茶の水女子大学名誉教授。東京文理科大学英文科卒業。雑誌『英語青年』編集、東京教育大学助教授、お茶の水女子大学教授、昭和女子大学教授を歴任。文学博士。英文学のみならず、思考、日本語論などさまざまな分野で創造的な仕事を続けた。
著書には、およそ40年にわたりベストセラーとして読み継がれている『思考の整理学』(筑摩書房)をはじめ、『知的創造のヒント』(同社)、『日本語の論理』(中央公論新社)など多数。『乱読のセレンディピティ』『老いの整理学』(いずれも小社)は、多くの知の探究者に支持されている。

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