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岡﨑乾二郎『絵画の素』〜「アルベルトゥス・マグヌス」

☆mediopos3482  2024.5.30

岡﨑乾二郎『絵画の素』から
「アルベルトゥス・マグヌス」

「世界は決して繰り返さない」ことについて

アルベルトゥス・マグヌスは
中世スコラ哲学を大成したトマス・アクィナスの先生で
「古代ギリシャのアリストテレス哲学を復興し
キリスト教神学と結びつけた」とされている

アリストテレスは「世界の多様性、生成変化を
いかに認識、理解するかをその哲学の核心に置き」
「論理学として組み上げた」

しかしながら論理学は
「属性の分別構成を認識する側の論理に組み込み
整合的に体系化してしまおうとするわけだから、
事物の生成変化は、それを認識する論理としては
体系化され整合化されるが、
究極的には、その外は扱えない。認識できない
という結論に達してしまう」

岡﨑はそのことを
「パズルのピース」にたとえている

「人は自分たちの持っている
認識パズルのピースを組みあわせていくが、
はじめからパズルが完成しているわけではない」

もしパズルの完成したピースの全体像が知られていれば
「世界のすべての生成もあらかじめ論理的に
すべて予測し把握し、了解もできることになるだろう」が
そのとき「世界の広がりは空間、時間を含めて
細部に至るまで、あらかじめ確定されているはず」なので
人間には自由はなくなってしまう

その意味で「世界の可能性は不完全性とつながっている」

トマス・アクィナスは
「アリストテレス哲学とキリスト教神学を、
普通の意味で統合したわけではな」く
「アリストテレスがあえて開けておいた
可能性の空隙を示そうとし」
そこに神の存在をのぞかせた

「宇宙のすべての物理的データを知ることができれば、
宇宙の全運動を未来にいたるまで
確定的に把握(予測)することができる」という
ラプラスの魔と呼ばれている考え方があるが
「世界に含まれるすべての知りえる要素と、
それをも含む世界の全体は異な」っているのである

アルベルトゥス・マグヌスは
「アリストテレスとキリスト教神学の相反する思考回路を
整合的に統合しようなどとはしなかった」

アリストテレス自然学を研究するにあたり
「実践的に実験し試し」
「中世における錬金術の基礎をつくった」とされてもいる

しかしアルベルトゥス・マグヌスは
錬金術で得られるのは「金そのものではない」という
そのことから岡﨑は
「われわれの知識が到達しうる世界は完結していて、
ある意味(知のみならず、技術として)確定されうるし、
してもいるけれど、金が金であること
(あるいは人が人であることも、宇宙が宇宙であることも)は
決して人間の認識として確定することはできない、
と言い換えて理解してもいいだろう」という

錬金術は必ず失敗するが
そのことは「論理では到達できない存在の次元、
世界があることを立証する」ことになり
「自由があることをわれわれに教える」

私たちの「日々の営みはつねに予想外、
論理を超えた事柄をかならず含んでいる。
世界はつねに(さっきまでの)世界ではない。
世界は決して繰り返さない」のである

論理にはその外の世界がある
そしてそのことによって
わたしたちには自由がある

AIが人間にとってかわる・・・
というような話もあるが
AIにはその外の世界がなく
自由もそこには存在しえない

「世界は決して同じ姿に留まることなく、
常に変化し続けている」
いわゆる「無常」である

あらかじめ完成しているピースの全体像があって
変化がそれへと向けた変化にすぎないとき
自由は存在しえないが
そこに「いままで存在しなかったものが現れる」ならば
「無常」こそがほんらいのポイエーシスの
可能性を孕んだものだということができる

「世界は決して繰り返さない」から
わたしたちは自由であり得るのだ

■岡﨑乾二郎『絵画の素』〜「アルベルトゥス・マグヌス」
 (岩波書店 2022/11)

**(「アルベルトゥス・マグヌス 1」より)

*「われわれの気分そして思考が変化していくように、世界は決して同じ姿に留まることなく、常に変化し続けている。変化とは、いままで現れていた状態、様相とは異なる状態、様相が現れることともいえるだろうは、その変化には二つの側面がある。一つは、あるものが、いままでの姿とは異なったものに変容すること、もう一つは、いままで存在しなかったものが現れることである。

 けれど、これらの変化もわれわれの感覚器官が感受するのだとすれば、新しい姿が現れたように見えたとしても、それは、あらかじめわれわれに備わっていた感受する能力があったからである。いかに新しい様相に見えたとしても、その変化は、見る側がもともと持っていた、それを感受しうる(いままで発動せず自覚されなかった)潜在的能力が発現したにすぎないといえるだろう。少なくとも一つ目の変化についてはそういえよう。こうして新しく現れたように見える世界の様相、出来事は、われわれの感覚器官の潜在性において、すでに感受されていた世界として連続することにもなる。その世界の多様性は、われわれの感受できる能力のうちに、あらかじめ構造的に連続したものとして組み入れられていたものである。だからわれわれは自分たちの能力の広がり、多様性に安堵もし、その安定性を頼もしくも思うわけである。世界は多様性をもって連続していく、と。

 けれど、ゆえに人を本当に不安にする事柄は、人は決して本当に新しい出来事を感受することはできないということ。世界が(人間の能力を超えて)決定的に新しい事態に移行してしまっても、それを感受することはできない、いや、それはもう起こってしまっているかもしれない、という二つ目の出来事が起こっていることを認識できない可能性にある。」

**(「アルベルトゥス・マグヌス 2」より)

*「中世スコラ哲学を大成した、トマス・アクィナスには先生がいて、アルベルトゥス・マグヌスという。スコラ哲学は、古代ギリシャのアリストテレス哲学を復興しキリスト教神学と結びつけたと広くみなされている。古代ギリシャの哲学の流れを汲んで、アリストテレスも世界の多様性、生成変化をいかに認識、理解するかをその哲学の核心に置いた、事物の属性は事物に所属するのか、それを認識する側にあるのかは問題の入り口である。アリストテレスはそれを論理学として組み上げた。けれど論理学は、属性の分別構成を認識する側の論理に組み込み整合的に体系化してしまおうとするわけだから、事物の生成変化は、それを認識する論理としては体系化され整合化されるが、究極的には、その外は扱えない。認識できないという結論に達してしまうだろうとも思える。もちろん世界を認識するわれわれの推論、認識の誤謬を正すことはできよう。人が何かを知ろうとするその知がどのような仕組みになっているのか、アリストテレスほど明晰にその論理を構造として把握した人はきっといない。」

「アリストテレスは大元の直観において、人の持つ能力には認識できないものが発生すること、存在することをどこかに前提としていた、そう思える。つまり知を可能にする。それを目掛けて、人は自分たちの持っている認識パズルのピースを組みあわせていくが、はじめからパズルが完成しているわけではない。パズルのピースとしては完成しているけれど、それがどう組み上がるのかは感覚では捉えることはできない。ただ、それがきっとあることをあらかじめ人の知は察知している。だから知は働く。」

「一方、そのパズルの完成した全体像が知られていたならば、つまりアリストテレスの論理学が整合性をもって完結しているならば、世界のすべての生成もあらかじめ論理的にすべて予測し把握し、了解もできることになるだろう。(・・・)そこに神は必要ないが、一方で逆説的に人間の自由もない。世界の広がりは空間、時間を含めて細部に至るまで、あらかじめ確定されているはずであるならば。が、アリストテレスは決してこのように考えたわけではない。人間は完全ではない以上、人間の論理も完全ではない。むしろその不完全な知の構造までをアリストテレスは考えようとした、なぜ、われわれはそれをいま、知ることができず、あとでそれが現れるのか、すべてが現れることがないのか。つまり知ることのないものがあるのか。そこにアリストテレス哲学の最大の可能性があった。世界の可能性は不完全性とつながっているのである。」

*「トマス・アクィナスはアリストテレス哲学とキリスト教神学を、普通の意味で統合したわけではないのだろう。アリストテレスの明晰な自然観察と論理を論証技術としてフルに使いながら、その明晰に組み上げた論理がほつれてしまうところ、つまりアリストテレスがあえて開けておいた可能性の空隙を示そうとした。そこに神の存在がのぞいている。あまりに話はできすぎているのだけれど、あれだけの著作を爆発的に生産し続けていたトマス・アクィナスは五〇歳も間近になったあるとき、決定的な宗教的啓示を経験し(そこで得た啓示に比べ)「自分が書いてきたものは藁くずみたいなものだ」といって、著作することをやめてしまったというのである。その数ヶ月後、アクィナスは世を去る。」

**(「アルベルトゥス・マグヌス 3」より)

*「アルベルトゥスこそアクィナスたちに先立ってアリストテレス学を(その広範な自然学までも含めて)本格的に復興した人物だったといわれる。アルベルトゥスはアクィナスに劣らず偉大だった。が、彼はアリストテレスとキリスト教神学の相反する思考回路を整合的に統合しようなどとはしなかった。アルベルトゥスはアリストテレス自然学を研究するにあたって関係する資料を徹底して集め、それらを比較検討し整理し注釈し、より重要なことはそれを実践的に実験し試した。すなわちその知識には技術技法が含まれている。ゆえにアルベルトゥスは魔法使いのように見なされることさえあり、中世における錬金術の基礎をつくった人物として知られている。」

 
**(「アルベルトゥス・マグヌス 4」より)

*「宇宙のすべての物理的データを知ることができれば、宇宙の全運動を未来にいたるまで確定的に把握(予測)することができる、という考えがあり、それを主張した天文学者の名を用いて、ラプラスの魔と呼ばれている。この主張は論理的である。知りえるものすべてを知ることができるのであれば、知りえることをすべて知ることができると考えるのは当然であり自明の理(トートロジー)である。それが起こったとき、それを認識できるなら、それは知りえるものであり、それは当然、知っているものから論理的に導きだせるだろう。が、世界に含まれるすべての知りえる要素と、それをも含む世界の全体は異なる。世界は必ずしもそれらによって構成されていない。錬金術がかならず失敗するのはこの点である。金はわれわれの知るうる金の性質、属性の総合ではない。それらを寄せ集め、うまく合成すれば、われわれの知覚に現れるものとしては、金と瓜二つの見分けのつかないものができるかもしれない。しかしそれは金そのものではない。

 物質の属性、現れを超えて、そのモノをそのモノとするのは賢者の石だけれども、錬金術は賢者の石を得ようとして、かならず失敗する。(端的に、金が金である、という同一性は一つの属性として引き出し数えることはできないのである。)世界はわれわれの知りえるものを超えている。その世界は人間が認識できいないゆえに不変にも感じられるが、ほんとうは(正確にいえば)そこで起こっている変化、変容をわれわれが知覚できないだけである。世界はつねにわれわれの知っている世界とは異なり、つねに、われわれの知覚が決して把握できない変容をし続けている。世界はつねに(さっきまでの)世界ではない。」

*「アルベルトゥス・マグヌスは「錬金術で得られるのは金と瓜二(人の感覚から捉えれば)違いのない物質である。けれど、それは決して金そのものではない、あくまでも金と見分けのつかない物質にすぎない」と述べたという。ここでアルベルトゥスの語った言葉を、われわれの知識が到達しうる世界は完結していて、ある意味(知のみならず、技術として)確定されうるし、してもいるけれど、金が金であること(あるいは人が人であることも、宇宙が宇宙であることも)は決して人間の認識として確定することはできない、と言い換えて理解してもいいだろう。

 錬金術はこうして失敗する。その失敗が逆に、それは論理では到達できない存在の次元、世界があることを立証する。悪魔であっても、それを確定的に捉えることができない。かならず失敗すること。そこに神は存在し、それが世界を地面から立ち上げている。この立ち上がる世界に繰り返しは存在しない。

 繰り返し=完結性、それは人間の論理こそが必要とする大地の性質=構造的土台である。そこではすべてのものの複製が可能であり、技術的な不可能もない、が同時に(その論理の必然として)その世界はあらかじめ閉じていて自由はない。

 錬金術の破綻(=破綻することを覚知するために実践されてさえきたといえるかどうか)は(神という存在を媒介としつつも)自由があることをわれわれに教える。いや正確にいえば、一方で反対に、神がすべてを決定していたとしても、人の論理はそれを決定として捉えることはできず、それを把握するためのエンドレスな繰り返しに陥ることなく、技術的試行、そして思考を持続することができるのである。その日々の営みはつねに予想外、論理を超えた事柄をかならず含んでいる。世界はつねに(さっきまでの)世界ではない。世界は決して繰り返さない。夜が果たして、いつも明けるものなのか(また朝にんり日常に戻ることになるのか)。決して明けることのない充実した夜に留まることもあるのだ。」

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