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藤原辰史・伊藤亜紗「「ふれる、もれる」社会をどうつくる? 」 (ちゃぶ台7)

☆mediopos2679  2022.3.18

道徳と倫理は
同じような意味で
使われることが多いが
似ているようで異なっている

道徳は外から与えられるが
倫理は内から育てられるからだ

「倫理」という言葉も
たとえば「内なる知恵」のように
表現されたほうが誤解を避けられる

道徳はそうした「内なる知恵」が
固定化されピン留めされた標本のようなものだ

この藤原辰史・伊藤亜紗の対談でも
「道徳からどう逃れるのか」が
重要なテーマとなっているという

「道徳はわかりやすくて、
全自動的で、カント的」であるがゆえに
内的リズムを持ち得ない

道徳は〜すべきだ
ということで
外からリズムとかたちを
変化し得ない型に押し込めてしまう

対談の最初に
「ものを考えるときに、
「名詞族」の人、
「形容詞族」の人、
「動詞族」の人がい」て
藤原辰史・伊藤亜紗の両氏は
ともに「動詞族」で
「名詞は一番嫌い」だという話がでてくる

なぜかというと
「名詞は止まっている」から
「概念として操作可能に」なり
「ブロックのように組み合わせたり、
体型化したりできる」けれど
動詞は「使った瞬間に
こちらが体ごと巻き込まれる」ように
「変身」できるのだという

つまり「動詞族」であるということは
「変身」し「何かになれ」る
つまり「主語が交換可能に」なるのだ

対談のなかに
「細胞膜」の話もでてくるが
「細胞膜のレベルでは浸透が起こっていて」
「閉じているんだけど開いている」
細胞もまた決して閉鎖形のものではなく
名詞ではなく変身できる動詞なのだ

道徳と倫理の違いに戻ると
その意味では
道徳は概念の決まった名詞族であり
倫理は「変身」できる動詞族である

その意味では
学校やメディアで教えられる情報も
ほとんどが与えられるだけの
「名詞」にすぎない閉鎖形であり
内なる智恵はそこからは排されてしまうことになる

ひとを管理するためには
そうした名詞としての道徳が好都合だ
「正しい」とされる「答え」を与えるだけで
その「正しさ」を「問うこと」は許されてはいないから

■藤原辰史・伊藤亜紗(対談)
 「「ふれる、もれる」社会をどうつくる? 」
 (ちゃぶ台7「特集:ふれる、もれる、すくわれる」
  ミシマ社 2021/5所収)

(「藤原辰史・伊藤亜紗(対談)「ふれる、もれる」社会をどうつくる? 」より)

「伊藤/なんか、私と藤原さんは「動詞族」ですよね。
 藤原/動詞族!? どんな族ですか(笑)
 伊藤/ものを考えるときに、「名詞族」の人、「形容詞族」の人、「動詞族」の人がいると思うんです。動詞族は、動詞をベースとしてものを考える人です。
 藤原/なるほど。そうするとたしかに僕は、がぜん動詞族です。すべて動詞にもっていきます。伊藤さんもそうですか。
 伊藤/私もそうです。形容詞とかもたまに好きですけど。名詞は一番嫌いです。
 藤原/なんで名詞は嫌いですか?
 伊藤/名詞は止まっているからですね。
 藤原/日本語、とくに学者の言葉って、だいたい「名詞+〜でる」になっちゃいますよね。僕はそれがずごくいやなんです。もっと動詞にニュアンスを込めればいいのにと思って、意識的に動詞を増やすようにしています。伊藤さんは、停まらないようにするために動詞を多く使って思考するんですね。
 伊藤/名詞は概念として操作可能になっちゃうんですよね。ブロックのように組み合わせたり、体型化したりできる。でも動詞は、使った瞬間にこちらが体ごと巻き込まれる感じがします。私は文学研究かたスタートしているのですが、最初に研究したポール・ヴァレリーは動詞族の人でした。彼は「動詞は身体を探している存在である」と言いました。
 (・・・)
 藤原/私があるときから動詞を意識的に使おうとしたのは、環境史というジャンルにちゃんと取り組むためでした。人間だけの歴史ではなく、人間以外の生物・植物をひっくるめて文章を書くとき、名詞ではどうしても「変身」できないんです。伊藤さんの本のキーポイントも「変身」ですよね。「何かになれる」ということ。動詞を使えば、木も犬も猫も立つし、われわれ人間も立つ。主語が交換可能になってきます。動詞族と名づけていただいて光栄です。」

「伊藤/私が生物学をやっていたときに一番好きだったのは細胞膜だったんです。細胞膜はすごく浸透します。生物は「閉鎖であり、かつ開放である」ものですが、まさにこれが細胞膜のあり方ですね。膜として自分の領域を定義しているけれども、同時にその膜をすごい量の物質が出入りしている。頭で考えると「個体」として分かれているけれど、細かく見ると細胞膜のレベルでは浸透が起こっていて、もれまくっている。建築でいったら、穴だらけみたいな状態。閉じているんだけど開いている、という加減はミラクルだなと思います。

(・・・)

 藤原/「今日は菌のために一〇〇キロカロリーあげようかな」とか考えて食べるのは幸せですね。

 伊藤/自分のために食べるよりも、菌のために食べると思うほうが幸せですよね。細胞膜は、人間がそういう境界をすごく恣意的に決めているということを教えてくれました。ブラインドラニングのロープも細胞膜のようなところがあって、滲み出す、染み込む、みたいなことが起こります。ロープの両端を伴走者と視覚障害者のランナーが手で持っているのですが、お互いの呼吸が感じられるほど接近した状態で運動を何時間もシンクロさせるという、すごく特殊な状況のなかで、お互いの境界がよくわからなくなる。うまくいくと、視覚障害の人も走路が見えるような感じがしてくるそうです。ちょっとここで曲がるなとか、段差があるなとか、鳥が前を横切ったなとか、環境に対する晴眼者の反応がぜんぶもれていくんですよね。もれたものを視覚障害者が感じることで、走路が見えちゃうみたいなことが起こる。でも、そもそも神経だって、体のなかを結ぶロープみたいなものですからね。」


「伊藤/なんか、意識してやっていることってたいしたことではないなと思うんです。「もれる」の問題ともつながると思いますが、意識的に頑張ってやることよりも、無意識にやってしまうこととか、仕方なくそうなってしまうことのほうが、何かを破壊してくれるというか。自分が持つ計画だったり、「私はこうである」という像だったり、そういうものを破壊していく要素に救いを見出したいんですよね。

 藤原/タイトルは『手の道徳』ではなく『手の倫理』なんですよね。「倫理」というところまでいっている。これは、ついやってしまうとか、つい出てしまうものにかかわる問題ですよね。「つい出てくる」という場のつくり方や信頼関係のあり方がある、言いかえれば、「つい」ということから同時遂行的に倫理が出てくるんだと。こういうふうに「道徳」と「倫理」を区別しているところは大変示唆的です。ある意味、きわどいところを攻めてらっしゃると思うんですよね。ポリコレが強すぎる世界では言葉にしづらいのですが、『縁食論』で私が書きたかったのは、道徳と食物を結びつけても辛いというか、美味しくないだろうということでした。野放図に食べまくるのもちょっと問題だけど、伊藤さんのいう「倫理」を積み上げて、お互いに「出てしまった」みたいな感じでやっていくほうが、縁食としてうまくいくのではないでしょうか。すごく微妙で曖昧で、相互浸透的なところを突いてきていらっしゃるなと思います。」


「藤原/『縁食論』も伊藤さんの本も、「道徳からどう逃れるのか」が重要なテーマになっています。道徳はわかりやすくて、全自動的で、カント的なので、ある意味で『どもる体』のリズムとおなじですね。リズムに乗れば吃音がなくしゃべれるけれど、それは全自動だから、あえてリズムに乗らずにどもる人がいる。ある種の道徳から逃れることは、これと一緒です。

 伊藤/たとえば、いつか自分は死ぬじゃないですか。そのことになんかほっとしたりするんですよね。べつに死にたいわけじゃないんですが、そういう摂理みやいなものに救われるところがあります。「どうにもならないもののほうがメインである」という感覚です。どうにもならないものに乗っかっていて、非人間的なものが本当だという感覚に、逆に救われる。だから人間でないもを探しちゃうのかもしれないですね。」

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