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R.マリー・シェーファー 『新装版 世界の調律: サウンドスケープとはなにか』

☆mediopos2696  2022.4.4

原書が著されたのは一九七七年
邦訳が刊行されたのは一九八六年
平凡社ライブラリーに入ったのが二〇〇六年
そして今回新装版になった(二〇二二年)

じつに四十四年ほどが経っているが
ここで論じられているテーマは
いまもまだ新しく
ますます重要になってきている

「サウンドスケープ」とは
自然の音や街の喧騒など「耳でとらえた風景」のことだが
それは現代人にとって「聴く力」の衰えともつながる
重要な環境問題に関わっているともいえる
つまり「騒音公害」である

わたしたちはかつての世界とは
「本質的に異なった音環境の世界に暮らし始めている」
たくさんの大きな音があらゆる場所で蔓延しているのだ

たえず聞かされ続けている音楽もそのひとつだ
わたしたちはつねに音の鳴っている環境のもとにあり
それを避けるどころかみずから耳にイヤホンをして
外界からの音を避ける代わりに
積極的に絶えず音楽を聴いていたりもする

極めて人工的で機械的な騒音そのものも問題だが
それ以上に外界からみずからを閉ざして
大きな音にみずからを委ね続けているような
そんな音環境にある人たちが
休日に静かな自然音だけの場所で過ごすとは考えにくい
すでに耳が内的なリズムを喚起できるような
ひらかれた身体で「聴く力」を失いつつのだ

象徴的なのはウォークマンの誕生だろう
ウォークマンは1979年7月1日に登場した
個人的にもその初代ウォークマンをはじめ
その携帯ポータブルプレイヤーには
ずいぶんと重宝したものだ

それはどこにでも自分の聴きたい音楽を
持ち運びできるという画期的な利点があったが
それが過剰なまで使われるような生活スタイルになると
じぶんの周囲にある環境音への意識が希薄になる
堪え難い環境音を避けることが
みずから育てていくことの必要な
内的な「聴く力」を奪ってしまうのだ

本書の第九章は「沈黙」と題されているが
わたしたちは睡眠によって生命力を回復する必要があるように
「心と精神の落ち着きを取り戻すためには
静寂な時間」を必要としている
それは「沈黙」のための時間である

現在設けられている休日は
かっては「一週間のうちで最も静かな日」だったが
いまやそれはみずからを静けさから遠ざける日
となっている感さえある
機械音にあふれ人とのおしゃべりが過剰となり
聖なる日となるはずの休日が
お祭り騒ぎの日になってしまっているのだ

西洋社会では沈黙は否定的にとらえられ
「コミュニケーションの断絶に等しい」
西洋においては絶対的な「沈黙」をは恐れられ忌避され
沈黙し言葉を発しないことは
考えていないことを意味しているように

現代ではウォークマン的な環境どころか
スマホを中心としたデジタル環境によって
ますます「沈黙」が捨てさられようとしている

たとえおしゃべりがないときでも
内的なおしゃべりは尽きることがない
沈黙のための時間が恐れられ忌避されるために
常にスマホの画面に向かい合っている

最初の刊行から四十四年経ったいま
「世界の調律」は
「サウンドスケープ」をさらに拡張して
論じられなければならなくなっているようだ

そして結論は本書の最終章で示唆されているのと同様に
「沈黙をもって終わらなければならない」

そのためにもひとまず必要なことは
人工音やおしゃべりからはなれる時間をもつことだろう

■R.マリー・シェーファー (鳥越 けい子ほか 訳)
 『新装版 世界の調律: サウンドスケープとはなにか』
 (平凡社ライブラリー 平凡社 2022/1)

(「平凡社ライブラリー版 訳者あとがき」より)*二〇〇六年三月

「原書の出版(一九七七年)からはすでに二九年、訳書版(平凡社、一九八六年)の刊行からはちょうど二〇年が経つ。本書を著した当時のマリー・シェーファーは四〇代半ば、翻訳作業に当たっていた頃、五人の訳者の多くがまだ二〇代だった。」


(「平凡社ライブラリー新装版 訳者あとがき」より)*二〇二二年一月

「現代社会がその奥深くに抱える環境問題について、私はかねてより、その根源には「聴く力」の衰えがあると考えている。そこには、現代人の単なる「張力の減退」に留まらず、「聴取能力の閉塞」「聴取対象の偏向」等の問題が含まれる。そしてそれは、現代人と現代社会が、何に対してどのように耳を開き−−−−より正確には、何に対してどのように「身体」を開き−−−−そこに何を、どのように感じ取るかをも含む「複合的な衰え」を意味する。
 今から四四年前、シェーファーが「サウンドスケープ」という言葉とその思想の普及をめざし、本書の原書を著したとき、彼のなかにはおそらく、そのような危機感や問題意識が(直観的にも)あったはずだ、と思わずにはいられない。」

(「序章」より)

「世界のサウンドスケープは変化しつつある。現代人はこれまでとは本質的に異なった音環境の世界に暮らし始めている。これらの新しい音は、質においても強さにおいても過去の音とは異なっており、ひときわたくさんの大きな音が人間生活のあらゆる場所に帝国主義的にみさかいなく蔓延する危険を多くの研究者に警告している。騒音公害は今や世界的な問題である。どうやらわれわれの時代に至って世界のサウンドスケープは劣悪の極みに達したようだ。多くの専門化がすでに、この問題に手を打たなければ最終的には世界中の人間の耳がおかしくなると予告している。」

(「第十九章 沈黙」より)

「かつては、やかましい音に疲れた誰もがその地を離れ、精神の休息のために引きこもることのできる静かな聖域があった。木立の中、海の上、あるいは雪に埋もれた冬の山腹がそうした場所であったかもしれない。人はそこで、星々や空高く音もなく飛ぶ鳥を見上げては心をやすめたものだった。」

「生活のエネルギーを補充し回復するために人間が睡眠を必要とするのと同様に、心と精神の落ち着きを取り戻すためには静寂な時間が必要である。かつて静けさは、人間の権利の不文律における貴重な一項目だった。人間は精神的な新陳代謝を行なうために、自らの生活の中に静けさを確保していた。都市の中心部においてさえ、教会や図書館の暗く静かなアーチ形の天井に覆われた空間があり、客間や寝室でのプライバシーがあった。都市の喧噪のすぐ外側には田園地帯があって、自然の音のやさしい響きを聞くことができた。静かな時間もあった。休日になってしまう以前の聖なる日は静かだった。北アメリカでは、娯楽の日となる以前の日曜日は一週間のうちで最も静かな日だったのである。これらの静寂な聖林と時間の重要性は、それぞれが設けられた際の種々の目的をはるかに超えるものだった。そうした静けさを失ってしまった今になって初めて、われわれはこのことをはっきりと理解することができる。」

「人間は自分がひとりぼっちでないことを確かめるために音を発したがる。こうした観点から見れば、完全なる沈黙とは人間の本質的性格に反するものである。人間は生命の欠如を恐れるように音の欠如を恐れる。究極的な沈黙は死であり、そのために追悼の式典において沈黙が最も厳粛なものとなる。
 近代人はそれ以前のどの時代の人間にも増して死を恐れるので、永遠の生命という自らの幻想をはぐくむために沈黙を回避する。西洋社会では、沈黙は否定的なものであり、虚ろなものである。西洋人にとって沈黙とはコミュニケーションの断絶に等しい。もし自分に何もしゃべることがなければ、相手がしゃべることになる。そしてこのことが、あらゆる種類のおしゃべり商品によって拡張されている現代社会の、たえず音をたてていなければ気がすまない性格の根本原因なのである。
 絶対的な沈黙というものを考えることは、西洋人にとっては否定的で怖ろしいこととなったのだ。だからこそ、ガリレオの望遠鏡が無限の宇宙の存在をほのめかしたとき、哲学者パスカルは永遠につづく沈黙を想像して深い恐怖の念を抱いたのである。「これらの無限の空間の永遠の沈黙に私は恐れおののく」。」

「西洋では、ひとつの生活条件としての沈黙、実現可能な概念としての沈黙は一三世紀の終わり頃、マイスター・エックハルト、ロイズブルーク、フォリニーニョのアンジェラ、そして『不可知の雲』の無名のイギリス人の作家とともに消滅したと考えられる。一三世紀末は最後の偉大なキリスト教神秘主義者たちの時代であり、習慣や技術としての瞑想もやはりこの頃の姿を消し始めた。
 社会を侵食する音の量が増大してきた結果、今日われわれは精神集中という言葉の本当の意味を理解できなくなりつつさえある。言葉自体は生きのびている。言わば、そうした言葉の骸骨が辞書の中に横たわっている。けれども、その言葉に生命を吹き込む方法を知っている者はほとんどいない。瞑想を復活させることによってわれわれは、沈黙をどうしたらそれ自体において積極的、かつ好ましい状態として見なすことができるか、さまざまな行為を浮かび上がらせる背景、それなしには自分たちの行為が意味を為したり存在することさえできないような偉大ですばらしい背景として見なすことができるかを学ぶことになろう。このような考えを述べた鉄が気がこれまでにもたくさんあった。」

「音が何もないとき、聴覚は非常に鋭敏になる。リルケが『ドゥイノの悲歌』で「沈黙から生まれる絶え間のない便り」と表現したのもやはりこれと同じ考えである。透聴力をもった人々にとっては、沈黙とはまさに「便り」なのである。
 世界の音のデザインを改良したいと望んだとしても、それは沈黙がわれわれの生活の中で積極的な状態として回復された後に初めて実現されるものであろう。心の内なる雑音をしずめること−−−−これがわれわれの最初の仕事だ。そうすれば、他のすべては時のたつうちに自然に進んでいくだろう。」

(「エピローグ 音楽をこえて」より)

「音に関するあらゆる研究(は)沈黙をもって終わらなければならない。(・・・)それは、中身のない虚ろな状態の否定的な沈黙ではなく、充実した完璧な状態の積極的な沈黙である。要するに、人間が完全性をめざして努力するのとちょうど同じように、あらゆる音は沈黙の状態、すなわち「天体の音楽」の永遠の生命を切望するのだ。
 沈黙をきくことができるだろうか? 宇宙に向けて、無限の世界に向けて意識を拡大していくことができれば、われわれは沈黙をきくことができる。瞑想の訓練によって、筋肉と精神は徐々に弛緩し、全身が開かれて耳となる。(・・・)その瞬間、完全なるものが達成され、宇宙の秘密の暗号が明らかとなる。数がきこえてくる。その響きは、きく者を音や光で満たしながら降りそそいでくるのだ。」

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