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ジェニー・オデル『何もしない』・福岡正信『自然農法』・『荘子 』

☆mediopos-2522  2021.10.12

ジェニー・オデルの『何もしない』は
先日の世阿弥の
「無用の事をせぬと知る心」
「せぬ所」「せぬ隙」としても
とらえることができる

本書の最後のほうで
福岡正信の「自然農法」の話がでてくる

いま住んでいるのが
福岡さんの地元近くであることもあって
三〇年ほど前になるが
何度かお話をうかがったこともあり
たまに街中で作務衣を着た
福岡さんを見かけたりもしていた

自然農法の福岡さんというと
無為自然の老子といった
聖人的なイメージでとらえる向きもあるが
むしろ新しいもの好きでもあって
新しい映画や音楽なども楽しまれていた
テクノロジー反対派というのではなかったようだ

「なにもしない」「無為」は
けっして「放置」ではない
ほんらいの意味での自然を生かすことにほかならない
おのずから然らしむるようにすることだ
けれど自然を離れた人間にとって
あらためてそれを生かすことを学ぶのは難しい

その意味で
「なにもしない」「無為」は
新たな「自由」にかかわることでもある

世の中はまるで
ミヒャエル・エンデの『モモ』にでてくる
灰色の男たちのような時間泥棒に満ちていて
生産性や効率といったいわば「数値」で
人間の価値を決めているところがある
その価値観から「自由」になるためには
「なにもしない」ことが重要となる

本書『何もしない』には
荘子の「無用の木」の話がでてくるが
それは内篇の「人間世 第四」にある
「無用の用」の話である

役立たずだからこそ切り倒されずに
大木になれるほどの時を経てこられた
役に立つとすぐに使役され
「世の俗人たちに打ちのめされ」てしまう
役に立つというのは「大衆の価値観」に過ぎない
そうした価値観のもとでは
大木という「真に役に立つ存在」にはなれない

役に立ってはならないのではなく
近視眼的で功利主義的な価値観のなかでは
「魂の世話」がないがしろにされてしまうからである
「魂」はいわば世間の価値観に阿ることで痩せ細り
切り倒されてしまうことにもなる

「何もしない」ということは
なにより「魂の世話」をするということなのだ

かつて「赤信号みんなで渡ればこわくない」
というギャクがあったが
「世の中というのは、猛烈な勢いで反対方向に進んでいる。
だから、私が時代遅れのように思われるのだ」
と福岡さんが述べているように
みんなが我先に渡っているときに
「何もしない」ということが重要なのだ

■ジェニー・オデル(竹内要江 訳)『何もしない』
(早川書房 2021/10)
■福岡正信『自然農法 わら一本の革命』
 (春秋社 1983/05)
■池田知久 訳・解説『荘子 全現代語訳(上) 』
 (講談社学術文庫 2017/5)

「何もしないでいることほど難しいことはない。人間の価値が生産性で決まる世界に生きる私たちの多くが、日々利用するテクノロジーによって自分の時間が一分一秒に至るまで換金可能な資源として捕獲され、最適化され、占有されていることに気づいている。私たちは数値評価を得るべく自由時間を差し出し、たがいのアルゴリズムと交流し、個人ブランドを維持する。なかには、実体験のすべてを能率化、ネットワーク化することにエンジニア的満足感を覚える者もいるだろう。とはいえ、刺激が多すぎて思考の流れが維持できなくなるかもしれないというある種の不安は残る。意識からふと消えてしまう前にそのような不安を捉えるのはたやすいことではないが、実のところそれは差し迫った感情なのだ。人生を意義あるものにしてくれるものごとの多くが、偶然のできごとや、妨害、セレンディピティに由来すると、私たちは今でもわかっている。それは、体験を機械的に処理する視点が排除しようともくろむ「なんでもない時間」だ。」

「本書はアーティストや作家だけに向けたものではなく、人生とは手段以上のものであって、それゆえ最適化されないと考えるすべての人に向けて書いた。私の議論の原動力となっているのは単純な拒絶だ。それは、自分にとっての「今・ここ」や周囲にいる人たちだけではなんとなく物足りないと考えることの拒絶だ。フェイスブックやインスタグラムのようなプラットフォームは、私たちが自然に抱く他人への興味や、年齢に関係なくコミュニティを求める気持ちにつけこむダムのような存在で、人間のもっとも根源的な欲求を乗っ取って欲求不満にさせ、そこから利益を得ている。孤独、観察、シンプルな自立共生(コンヴィヴィアリティ)は、それじたいが目的や結果なのではなく、興奮にもこの世に生を享けた者ならだれもが持つ不可侵の権利だと認識されなければならない。」

「私が本書で提案する「何もない(nothing)」とは、資本主義的な生産性の観点から見た場合の「何もない」に限定されるという事実が、『何もしない』というタイトルを冠する本がなぜか行動計画らしきものになっている皮肉を説明している。本書では以下の一連の動きに注目してみたい。ひとつめは、ドロップアウトすること。これは一九六〇年代の「ドロップアウト」とたいして変わらない。ふたつめ、私たちの周囲のモノや人へと横方向に向かう動き。みっつめ、下降して所定の位置に収まる動き。現代のテクノロジーのほとんどが、内省、好奇心、コミュニティに属したいという欲望を釣り上げるための疑似ターゲットを内包するデザインになっているので、油断すると私たちの歩みはことあるごとに妨害される。何らかの逃避に憧れている人がいたら、聞いてみるといい。そもそも「大地に帰る」とはどういうことなのか? 大地とは私たちが今まさにいるこの場所のことでは? 「拡張現実」というのは、受話器をもう持ち上げなくてもよくなるということだけを意味するのだろうか? それでは、そういう状態になったときにあなたが対峙するモノ(もしくは人)とはいったい何/誰なのか?」

「私が定義する「何もしない」の重要なポイントは、リフレッシュして仕事に戻ったり、生産性を高めるために備えたりすることではなく、私たちが現在「生産的」だと認識しているものを疑ってかかるということだ。私の主張が反資本主義的なのはまぎれもない事実であり、時間、場所、自己、コミュニティを資本主義の観点から捉えるよう促すテクノロジーにたいしてはとりわけ警戒している。それはまた、環境や歴史にかかわることでもある。私は注意の矛先を変え、深めることを提案しているが、そうすれば自分が歴史の人間以上のコミュニティの一員として参与しているという意識が生まれるだろう。社会的視点、エコロジカルな視点、どちらから見ても、「何もしない」の究極の到達点とは、注意経済(アテンション・エコノミー)から私たちの注意を奪還して、それを公的で物理的な領域に移植してやることなのだ。
 私はテクノロジー反対派ではない。なぜなら、自然界の観察を可能にする道具から脱中央集権型の非営利ソーシャル・ネットワークまで、私たちが今ここに存在するのを助けてくれる可能性を秘めたさまざまな形のテクノロジーが世の中には存在するからだ。私が反対しているのは、企業プラットフォームが私たちの注意を売買することや、狭義の生産性ばかり神聖化して、ローカルで、人間くさくて、詩的なものを無視するようなテクノロジーのデザインや利用法だ。現行のソーシャル・メディアが表現(そこには自分を表現しないという権利も含まれる)に及ぼせる影響と、依存性が組み込まれている点を懸念している。だが、必ずしもインターネットそのものやソーシャル・メディアという概念じたいが悪者なのではない。責められるべきは、商業的ソーシャル・メディアが持つ侵略的ロジックと、私たちをつねに不安、羨望、注意力散漫の状態にしておいて利益を上げることを奨励する金銭的インセンティブだ。さらに、そのようなプラットフォームから派生する個性礼賛やパーソナル・ブランディングは、私たちのオフラインにおける自己像や実際に暮らしている場所についての考え方に影響をおよぼしている。」

「「何もしない」とは、まず注意経済から身を引くことであり、その後何か別のものとかかわりを持つことだ。「何か別のもの」とは、ずばり時間と空間のことであり、注意のレベルでは、そこで私たちが出会えるのはいちどきりしかない可能性がある。最終的には、オンライン上で最適化された人生の没場所性にたいして、歴史的なことがら(ここで過去に何があったか)と生態系にかかわることがら(誰、もしくは何がここに住んでいるのか、かつて住んでいたのか)への感性と責任を育む新たな「場所性」について議論したいと思っている。」

「生産性という近代的概念が、実際には生態系の自然な生産力の破壊の枠組みになっていることが多いのはなぜだろうか? 荘子の話の逆説を想起させるが、そもそもの話は「有用」という概念がいかに狭小であるかを揶揄するものであった。大工の夢に現れた老木は、要はこう尋ねていたのだ。「何のための有用か?」と。

「二〇〇二年、作家で環境活動家のウェンデル・ベリーは、一九七八年に出版された『わら一本の革命』の翻訳版に序文を寄せた。日本で農業を営んだ著者の福岡正信は、彼が「何もしない農法」(自然農法)と呼ぶものを考案した際に、このコペルニクス的転回を経験している。放置されて、植物や雑草がはびこる畑の生産力に感動した福岡は、その土地にもとから存在する関係性を利用する農法を考案した。畑に潅水し、稲の種籾を春先に蒔くのではなく、植物から自然に種が零れ落ちるように、秋に直接地面にばらまいた。従来型の肥料は使わずに、畑の表面をクローバーで覆い、刈り取ったクローバーの茎はそのまま地面の表面にのせておいた。・
 この農法を実践すると、労働力が減り、機械や農薬は使わずに済むが、農法が完成するまでには何十年という月日を要し、さらに、しっかり注意を払わねばならない。すべてが適切なタイミングで実行されれば、見返りが約束された農法だ。福岡の農園は近隣の農園に比べて生産力が高く、持続可能であっただけでなく、彼の農法を何シーズンか実践するとやせた土地が回復するので、岩だらけの土地や荒れた土地を農地にすることができたという。
 著者のなかで福岡は、「世の中というのは、猛烈な勢いで反対方向に進んでいる。だから、私が時代遅れのように思われるのだ」と述べている。」

(『荘子 全現代語訳(上) 』〜「無用の用」より)

「「あれはつまらぬ木だ。舟を作れば沈むわ、棺桶を作ればすぐ腐るわ、道具を作ればすぐ壊れるわ、門や戸にすれば箭に樹脂が出るわ、柱にすれば虫が食うわで、全く役に立たない木だ。使い道がない。だから、こんなに長生きできたのさ。」
棟梁の石が家に帰ると、その夜社の櫟が夢枕に立って、「そなたは私を何と比べるつもりかね。立派な木と比べたいのだろうが、一体、樝・梨・橘・柚や、木の実・草の実の類いは、実が熟するともぎ取られ、もぎ取られると辱めを受けることになる。また、大きな枝はへし折られ、小さな枝も引っ張られる始末だ。これは、なまじ役に立つ取り柄があるために、かえって己の生命を苦しめるもの。だから、天寿を全うしないで、途中で若死にする結果にもなるわけだが、自ら世の俗人たちに打ちのめされようとするものだ。こういったことは、何も木の場合だけに限らない。あらゆる物がこうなのだ。
 それに、私はずっと以前から、役立たずでありたいと願ってきた。その願いは、死に近づいた今になってやっと適えられ、真に役に立つ存在になったのだ。さらに、所詮そなたも私も、ともに一つの物であるにすぎず、根源者たる道ではない。どうして互いの価値を決められようか。そなたとて、死に損ないのつまらぬ人だ、私が真につまらぬ木かどうか、分かるはずもなかろう。」
 棟梁の石は目が覚めると、夢の吉凶についてあれこれと思いをめぐらしていた。すると弟子がたずねて、「役立たずでありたいと願っていたのなら、何だって社の神木になんかになったのでしょう。」
「黙れ、滅多なことを言うでない。あれもただ社の櫟の木に姿を借りているだけだ。分からず屋たちが悪口を言っていると思っているだろうね。たとえあれが社の櫟以外の物に生まれていたとしても、刈り倒されて天寿を全うできないなどという恐れは、あるはずがない。それに、あれが胸中に抱いているものは、大衆の価値観とは違うのだ。それなのに、大衆の価値観で誉めたり貶したりするなんて、えらく検討はずれだねな。」」

《『何もしない』目次》

はじめに──有用の世界を生きのびる
第一章 「何もない」ということ
第二章 逃げ切り不可能
第三章 拒絶の構造
第四章 注意を向ける練習
第五章 ストレンジャーの生態学
第六章 思考の基盤を修復する
おわりに──マニフェスト・ディスマントリング:明白な解体

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