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『聖なるもの』

☆mediopos-2341  2021.4.14

ルドルフ・オットーは
シュライエルマッハーや
ルターそしてゲーテの影響を受け
「聖なるもの」を
超自然的・超個人的なものへの感情である
ヌミノーゼに結びつけて論じている

それは崇高で神聖なものに対してだけではなく
戦慄すべき怖ろしいものに対する感情でもある
どちらにしてもそれらは
神秘的なものや超越的なものの前に
私たちを連れだし崇敬と恐怖の念を起こさせる

白川静によれば「聖」とは
「祝詞を唱え、つま先立って神に祈り、
神の啓示を聞くことができる人」のことだが
ヒエロファニーという聖化現象もあるように
聖なるものは超越的な形態をとってあらわれる

つまり「聖なるもの」は
私たちの生を「俗なるもの」から切り離そうとする

「俗なるもの」とは地上的日常的なものであるが
それだけでは私たちの生は完結しない
それゆえ日常的なものを超えた時空を
わたしたちはさまざまなかたちで希求する

「聖なるもの」への希求の多くは
宗教的なもののなかに見られるが
(それは政治的に制度化されさえもする)
芸術などのさまざまな文化現象のなかにも
変容したかたちであらわれることも多くある

私たちはなぜ「聖なるもの」という
超越的なものを求めるのだろう
どんなに地上的物質的に生きている者でも
姿を変えた「聖なるもの」としての
非日常を求めずにはいられないからだろう

おそらく私たちの魂の奥には
そうした地上を越えた「聖なるもの」
魂の故郷といったものへのノスタルジーがあって
その場所につながることを求めているのだともいえる

わたしたちはそれを
外的なもの
つまり聖なる場所や
そこでの体験のなかに求めることもあれば
内的なもの
つまり瞑想的なものや
そうした体験のなかに求めることもある

どちらにしても
私たちは俗のなかに生きながらも
天と地のあいだをむすぶ存在として
みずからを「超自然的・超個人的なもの」のなかに置き
そこで魂を救済・解放・変容させようとする
そうした衝動をだれでもが少なからず有している

■ジャン・ジャック・ビュルジェ(川那部和恵訳)
 『聖なるもの』(文庫クセジュ 白水社 2018.2)
■オットー(山谷省吾訳)
 『聖なるもの』(岩波文庫 1968.12)
■ミルチャ・エリアーデ(久米博訳)
 『聖なる空間と時間 宗教学概論3』
 (エリアーデ著作集 第三巻 せりか書房 1974.10)

(ジャン・ジャック・ビュルジェ『聖なるもの』より)

「聖なるものはどんなふうに現れてくるのだろうか? たとえば系統発生の視点から、人類の発展のなかに聖なるものに関する行為の出現を位置づけるべく、これを先史時代のなかに追求することは可能である(・・・)。あるいはまた、もっと深く、現象学的観点から、人間の心的経験のなか、そのさまざまな感情や情動や表象のなかに、聖なるものの出現の形態と条件を探ることも可能である。
 一見してわかることだが、実際、聖なるものの本能的な、前概念的な内容は一連の共通体験を根拠としている。そうした体験はどれも神秘的なものや超越するものの前にわれわれを連れだし、何かわれわれにはわからない、われわれを凌駕するもの、われわれには支配も接近もできないようなものにたいして、恐怖と崇敬の念を起こさせる。そうして、われわれがとてつもなく強烈なもの(山中の嵐)や、とてつもなく巨大なもの(カテドラル)を前にして覚える崇高の美的経験、あるいは、生まれてくる子どもを前にした歓喜の感情なり、死にゆく者を前にした不安と恐怖の感情などに、感情と情動の幽霊の最初のかたちが見られるのであり、そこに、聖なるものの、現象学的肖像とでも言うべきものの作成が可能になったのである。
 聖なるものは、実際、異化した現実(われわれをとりまく直接的な現実とは違う、完全に別ものであり、よってしばしば「まったく他なるもの」tout Autre と呼ばれる現実)についてのあるタイプの認識および意識化に対応しており、そこから現れる固有の力は直接的にも間接的にもわれわれを、肯定的また否定的に、はげしく感動させもし、悲しませもする。聖なるものは、ゆえに世界の二分化と切り離せないのだ。聖なるものは、視線的・歴史的現象、個々人の行動や人格、またさまざまな書きことばや話しことば、さらには音楽をとおして生起し、あるいは生成への媒介されうる。聖なるものは、われわれの意識に向けて、月並みなもの、身近なもの、日常的なもの、慣例的なものの埒外に、隔てられ、区別され、自由に扱えず、というより手にすることすらできない禁じられた一つの現実の面、あるいは源を出現させる。そしてこの現実を、まずは意識が、識別し、そのあとに文化が、安定させ、命名し、保護し、聖別し、称賛し、かつそこから結果を得るための道具として扱うことになる。なぜなら、聖なるものは、言語や習俗のような、外的伝達を引き起こす文化現象(神話と祭式)のなかに客体化されるのではあるが、それはまたつねに特有の内的状態をもたらすからである。かくして、聖なるものに固有の心的で実存的な経験というものが存在するのであって、この経験は、情動と感情の主観的な状態においても、表象と言語の根底にある世界の客観的表徴においても、認められるのである。

「聖なるものは感覚と想像世界と信仰についての一つの構造へとわれわれを差し向ける。その構造は、この世界の経験の内容に、それ特有の性格を与え高い価値を付加するのだが、またその構造において、同じ経験の内容が他性や超越するものや超自然的なものや神的なものとして考えられていくに従って(尊敬によるにせよ禁止によるにせよ)この世界で占有できないものとなってしまう。
 聖なるものはまず何よりも諸宗教の本質的な次元である。そして宗教は、聖なるものを多彩な方法で演出したばかりか、ときには己の使用だけのために独占、いや占奪さえした。しかしながら、キリスト教化した西洋の歴史から切り離せない、非神聖化・世俗化の動きは、聖なるものが消滅せずに変容しうることを証明することになった。西洋の現代性についていえば、聖なるものは、たとえば人格の方(医療または人権のなか)へと移行したが、それがより最近になると、たとえば、芸術とか詩的なものの領域に再投入されている。芸術の神聖化は、不滅の傑作との一体化を望んでいる大衆を集結させる多くの大規模な展覧会やコンサートの成功において顕著になる。美術館と音楽祭におけるこうした新しいタイプの世俗「宗教」に芸術市場の急騰はつきものであり、聖なる至宝と同じくらい莫大な貨幣価値に達するのである。
 ただしこの世紀初頭の現状は、宗教とりわけ一神教の回帰に押された社会空間の予期せぬ再神聖化をも示している。たとえば大量移住が原因で、アフリカをはじめ、アジア、ヨーロッパなどに普及しつつあるイスラム教は、その熱心な勧誘を受けたこれらの地域において、法的ー社会的な神聖化を要求する、原理主義的・根本主義的なさまざまな潮流の攻勢を浮かび上がらせた。ヨーロッパにおいて、ポストコロニアル(植民地主義以降)の現代性は多文化間における違いの尊重を主張していたが、ヨーロッパおよび他の多くの社会は、ほぼ偶像崇拝的な解釈において了解済みの、宗教的聖なるもののアイデンティティについてかように再確認することをあらためて不安に思い、この解釈に反して、世俗性、いや世俗主義の擁護を立ち上げている。世俗的な自由の精神で特徴づけられた版画、素描、またとくにカリカチュアが、たとえばこれを不敬とするかの熱狂的な潮流によってますます告発されることとなり、それは攻撃を通り越してテロリズム的な反応を出現させるほどである。したがって二つの極端な立場ーーーーすなわち一方には、蒙昧主義的神聖からの解放を求める、無神論的で反教権主義的な、いや反宗教的さえある精神が、また他方には、偶像崇拝と神権政治のにおいがする。宗教的な権利の要求のためのはげしい政治があるーーーーのあいだには、しだいに激化する対立関係が認められる。
 聖なるものの想像域の象徴人類学は、われわれをむしろ無神論的なものと宗教的なものの中間の位置へとみちびく。その位置どりが、聖なるものの政治と文化的倫理の基礎をおくのに重要になるのだ。聖なるものは、人間と超越的他性との関係を、象徴的な様相において提示する。それはこの他性が宗教性を帯びていてもいなくても同じなのであって、この他性は、あらゆる聖なるものの崩壊を唱道する者たちに対して、とうぜん保護され尊重されるに値するのである。聖なるものは人間に、限界の感覚と、自分を超えるものにつながるための道を教える。しかし聖なるものは、自由な解釈を可能にする場合にしか、多元主義的で自由主義的な共同生活と両立することはできず、また偶像崇拝と熱狂を先ぶれする絶対化には決してならない。聖なるものは、科学と技術によって、また形ばかりの想像力によって、徐々に詩趣をそがれてしまった世界を豊かにするための特権的な機会なのである。聖なるものは日々の体験に深さと高さを与えるが、ただそれは、ほんものの宗教のひらめきとは無縁な独裁権力の隠れみのである、独断的で、粗暴かつ全体主義的な言語に変貌することはないという限りにおいてなのである。
 ヨーロッパがかかえる現代の最大の課題はおそらく、フランス現代思想における主要なモデルに従って、公共空間や文化の非宗教化・中立化を探求することではない。むしろ、科学ー技術的理性のみに基づくものの考え方には還元されない意味を求める人々の信念と行動をみちびくこと、しかもこれらを、みずからがその意味の唯一の源泉だとか、唯一の番人だとか主張するだろう諸権力の道具として扱うことはせずに、聖なる、宗教的なる、法的ー政治的なる、詩的なる、などの、多様な想像域を関連づけ、解釈しようと努めることなのである。」

(ミルチャ・エリアーデ『聖なる空間と時間』より)

「いろいろな事象を全体的な視点から眺めると、問題のシンボリズムは次のような三つの互いにつながり、補いあう類型に分けて述べることができる。
 1 世界の中心には、「聖山」があり、そこにおいて、天と地が出会う。
 2 いかなる寺院や宮殿も、ひいてはどんな聖都や王宮も「聖山」に比定され、したがってそれぞれは「中心」となる。
 3 逆に、寺院や聖都は、そこを世界軸が貫いている場所であるので、天と地と冥界とが交叉する点である。」

「無数の神話や伝説は、宇宙を象徴する宇宙木(七層の天に相当する七本の枝)を登場させている。それは世界を支えている木や中央の柱であったり、その実を食べる者に不死を与える生命の木か不思議の木、などである。これらの神話や伝説はそれぞれに、「中心」の理論を織りこんでいる。それは「木」は絶対的実在、生命と聖の根源を具現し、それによって世界の中心に位置する、という意味においてである。宇宙木であれ、不死の生命の木であれ、あるいは善悪を知る木であれ、その「木」にいたる道は「困難な道」であり、いたるところに障害がある。なぜなら、「木」は近づきがたい場所にあって、怪物に守られているからである。」

「迷宮というものの原初の意味や機能についてあれこれ憶測するまえに、そこに「中心」を守るという観念が含まれていることは疑いない。迷宮に何事もなく入りこめ、あるいは無事にそこから出て来られる、と断言できる者は、ひとりとしていなかった。迷宮に入ることは加入儀礼の価値をもっていた。「中心」のほうも、さまざまに形象化されていることはいうまでもない。」

「検討してきたシンボリズムや同一視はすべて、要するに次のことを証明している。すなわち、聖なる空間と俗的空間とが、質的にいかに相違していようとも、人間はこの種の聖なる空間においてしか生きることはできない、ということである。この聖なる空間がヒエロファニーを通して人間に啓示されない場合は、人間は宇宙論や土占いの法則を適用して、みずからそれをつくりだす。したがって。たとえ「中心」は、何人かの加入儀礼を受けた者のみが入ることを望めるような「どこか」に存在している、と考えられているにしても、家はそれぞれに、やはり、世界の中心そのものに建てられている、と主張するのである。ある一群の伝承は、人間には努力せずして「世界の中心」にいたいという願望があることを証明しているが、他方の一群の伝承は、その中心に到ることの困難さと、したがってそこに入り得る功績とを強調している、ということができよう。」

「聖なる空間の「力学」と「生理学」とは、ヒエロファニー任意の空間の聖別が実現しようとする祖型的な空間の存在を確証できるのである。「中心」の多様性ということは、(・・・)同一の中心のうちに「無限の」「場所」の共存を認めるような、聖なる空間の構造そのものによって説明づけられる。この「多様性」の「力学や「実現」についていえば、それは祖型のくりかえしによって可能となるのである。祖型が、どんな平面でも、どんな「粗雑な」形態をとってでも、意のままにくりかえされることは、すでに検証したことである(たとえば聖木、聖水、など)。だがわれわれにとって有意味と思われるのは、祖型が粗雑に模倣(くりかえし)されるといいう事実ではなく、人間は、その「直接的な」宗教経験のもっとも低い水準においてさえ、この祖型に「近づき」それを「実現」しようとする事実である。もしこのことが、人間の宇宙における位置について啓示してくれるとすれば、それはたとえば、生命の木が何らかの呪術的療法的俗信にまで格下げされる可能性でもなければ、中心のシンボリズムが、暖炉のような「簡便な代理物」に下落する可能性でも断じてない。それはむしろ、人間の直接的存在のもっとも卑属で、もっとも「汚れた」レベルにいたるまでも、祖型を実現したいと、絶えず感じている人間の欲求なのである。それは超越的な形態(この場合、聖なる空間)へのこのようなノスタルジーなのである。」

(白川静『常用字解』より)

「会意。耳と口と𡈼(てい)とを組み合わせた形。𡈼はつま先で立つ人を横から見た形。口はᄇで、祝詞を入れる器の形。𡈼の上に大きな耳をかいて、聞くという耳の働きを強調した形である。祝詞を唱え、つま先立って神に祈り、神の啓示を聞くことができる人を聖といい、聖職者の意味である」

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