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春日武彦『奇想版 精神医学事典』

☆mediopos-2528  2021.10.18

精神科医の春日武彦による
『奇想版 精神医学事典』は
連想で見出し語が続いていく事典で
解説を書いている歌人・穂村弘いわく
「びっくり箱」だ

「小説の一節、映画の一場面、俳句、新聞記事、
患者の発言や作品、春日先生の体験や考察」など
「目を疑うような言葉が次々に飛び出してくる」

そして「身につけたはずの常識や先入観が
無効化されて、世界が新しく更新される」という

世界観が変わるほどに
内容が「常識」から外れているとは思えないけれど
ひょっとしたらあまりそう感じないのは
(むしろかなり説得力のあることが論じられたりもする)
ぼく自身が半ば「常識」外れだからなのかもしれない

とはいえさすが精神科医だけあって
「びっくり箱」からは
日常的な感覚からはずいぶん離れたものが
さまざまにでてくる

そしてそれによってそれまで
ある程度「あたりまえ」のように感じていたことが
別の視点でとらえることができるようにもなる

穂村弘の挙げている例でいえば
子どもの頃から「肉じゃが」を
「すきやき」だと信じていた人が挙げられている
これを笑い話だと思うこともできるけれど
はてじぶんの理解している「言葉」が
ひょっとしたらまったく別の意味かもしれない
と思い始めるとただ笑うことはできなくなる

言葉の意味というのは
同じ言語を使っている人のあいだでは
おおむね同じ意味で使っていると思われているが
はたしてそれはそんなに確かなものではない
その考えを進めていくとかなり怖くなってくる

事典のなかからは
続いておさめられている
[種の多様性]と[統合失調症]の項目を引用してみた

種の存続のためには多様な個体があることで
環境の変化にも種として対応できる可能性が広がるが
統合失調症もまたその意味では必要な存在なのだという

統合失調症で失われる「統合」はなにかといえば
「連想における「適切な距離」」だという
そして通常考えられる範囲の連想からすれば
妄想としか思えないような連想がそこには働いている

その連想が間違っているとかいうよりも
社会生活上許容される常識の範囲を超えているため
生活上にさまざまな支障が起こってしまうことになる

イメージ連想の飛躍は
結果的に秩序だってなされるときには
病的だとは見なされず創造的にもなり得るが
妄想的な仕方のままで秩序を失うと
やはりどこかで破綻しがちになる

常識的な連想というのは
コミュニケーション上において
「適切な距離」をつくるためには必要なのだろうが
それがあまりに「適切」すぎる連想ばかりだと
「多様な個体」が存在しなくなるともいえる

最近は統合失調症そのものは
精神科の主役ではなくなってきているようだが
ひょっとすると人類はいま
ある種の多様性を失おうとしているのかもしれない

昨日「透明性」について少しふれてみたが
それによって「管理社会」への道が進んでいるのも
そういうことなのかもしれない
「適切な」個体だけが存在を許される社会・・・

■春日武彦『奇想版 精神医学事典』
(河出文庫 河出書房新社 2021/8)

(穂村弘「解説 言葉のびっくり箱」より)

「春日先生の『奇想版 精神医学事典』は不思議な本だ。本書には、読者の数だけ読み方があるだろう。でも、言葉マニアの自分にとっては、何よりもまず言葉の宝箱、いや、びっくり箱なのだ。小説の一節、映画の一場面、俳句、新聞記事、患者の発言が作品、春日先生の体験や考察・・・・・・、出典はさまざまなれど、頁を開くだけで目を疑うような言葉が次々に飛び出してくる。そのたびに、身につけたはずの常識や先入観が無効化されて、世界が新しく更新される。自分はこんなに凄い場所で生きているのか、という気持ちになる。
 幾つか例を挙げてみよう。

  子どもの頃から「すきやき」と信じていた料理が実は「肉じゃが」であったという人物を知っている([近親相姦])

 思わず笑ってしまったけど、同時に不安な気持ちになる。「肉じゃが」を「すきやき」だと信じていたのは、子どもの頃からそう教えられてきたせいだろう。春日先生がお書きのように。これ自体は「笑い話の範疇」でも、同じパターンでもっと怖ろしいことが、いくらでも起こり得るんじゃないか。現に、このエピソードは「近親相姦」という項目の中で紹介されているのだ。「すきやき」の話では、致命的なことは起こっていない。でも、その予兆だけが示されているところが逆に怖ろしい。
 そういえば以前、「日本の地図」だと信じていたものが実は「四国の地図」だった、という話を知人から聞いたことがある。怖かった。そんなことがあるのだろうか。勝手に思い込んだのか、それとも、誰かにそう教えられたのか、聞き忘れたけれど。」

(『奇想版 精神医学事典』〜「序」より)

「冒頭の項目「神」から以降、すべて連想の連続によって見出し語が並べられている。だが、ある言葉から何を連想するのかは人それぞれであり、知識や経験の量に左右され、精神状態や関心のありようによっていくらでも変化する。ましてやそれが奇矯な人物によってもたらされたものならば、次の項目がどのようなものになるかは予想がきわめて困難となる。
 人間を自然界の動物から隔てる特徴には種々様々なものがあるが、そのひとつに連想の豊かさがあるのではないか。野生動物においては、ダイレクトで即物的な連想、いやむしろ反対に近い連想に(あえて)思考が限定されなければ自分の生命を守ったり餌を捕獲することが難しくなるだろう。ぐずぐずと余計な想像力を働かせていては、過酷な自然を生き抜けない。
 だが人間は違う。余分なこと、無駄なことを考えられるからこそ、縦横無尽に知恵や工夫を生み出せるようになった。突飛なアイデア(・・・)、奇妙で意外な思い付き(・・・)、あまりにも馬鹿げた発想(・・・)は、人間の連想力の自在さと多様性に根ざしている筈だ。そして連想のありような癖が、まぎれもないその人らしさ(個性)を形作る。
 この辞典は筆者の連想を次々につなげ、それぞれの項目について解説ないしコラムに近い文章を付すことで成り立っている。なべて辞書の類いには検索の用途のみならず、数多くの項目を寄せ集めてひとつの世界観ないし宇宙を提示するといった使命をも嘱望されているに違いない。医学的記述もガラクタめいた知識も新聞の三文記事も一緒に並べられている本書は、おそらくキッチュな小宇宙と映るのではないか。でも人の頭の中は、そのように猥雑でいかがわしいものなのではなかっただろうか。」

(『奇想版 精神医学事典』〜[種の多様性][統合失調症]より)

「[種の多様性]
 生きものたちは、それぞれの種において可能な限り広いバラエティーの個体を揃えようとする。そうすれば環境の変化や点滴の新たな攻撃に適応し得るような個体を用意出来るからである。つまり種の存続を担保するためには、変わり者や規格外(?)も必要という話になる。
 では人間の場合はどうか。たとえば統合失調症を患うことは、現代社会において明らかに不利である。しかも遺伝的な影響が少なからず関与している。にもかかわらずそれが淘汰されてしまわない理由については、15頁[漂着者]および212頁[疼痛]の項で既に記した。統合失調症は、対極的に見れば人類にとって必要な存在なのだ。
 境界性パーソナリティー障害も、種を活性化させ反映に導くという意味ではやはり必要な存在なのだろう。人類が量産型の「ありふれた」人間だけで構成されると、種としてはきわめて脆弱になってしまうわけである。」

「[統合失調症]
 かつては精神分裂病と呼ばれていた。つまり精神の何かが分裂したり統合を失う病気ということになる。ではその「何か」とは?
 連想における「適切な距離」である。それが離れ過ぎたり、ばらばらになってしまう。すると思考が突飛になったり異常になる。
 例を挙げよう。わたしたちは「氷」という言葉から何を連想するだろうか。ある人は、「オンザロック」とか「フローズンダイキリ」「カクテルシェーカー」といったものをイメージする。別な人は「氷山」「ペンギン」「白熊」を思い浮かべる。さらに別な人は「スケート」「ワカサギ釣り」「カーリング」などが脳裏に浮かぶ。「樹氷」「ダイヤモンドダスト」「氷柱」と思いが進む人もいる。いずれにせよ納得がいくし、自然な連想だろう。
 だが、「氷」から直ちに連想するものが「原子力発電所」であると言われると、我々は困惑してしまうだろう。その人によれば、氷は溶ける。いっぽう原子力発電所にある原子炉内では、炉心融解(メルトダウン)という現象が起きることがあり、それは燃料集合体が溶けることに他ならず、どちらも溶けることで共通するかた連想が働いても奇異ではない、と。まあ一種の考えオチであり。100頁で述べた「フォン・ドマールスの原理」に合致する。
 現実生活において「氷」からダイレクトに「原子力発電所」を連想するようだったら、日常生活はかなり営むのが困難になるだろう。コミュニケーションが円滑に図れないだろうし、突飛な発想の連続では誤解や戸惑いばかりが周囲との間に生じる筈だ。イメージは暴走するばかりだろうし「まとまり=統合」を失い、明らかに思考に障害が起きている(・・・)。そのような自体が生じがちなことから、精神分裂病や統合失調症といった名称が生まれて来た。
 原因は脳神経のシナプス接合にある神経伝達物質に異常があるからだといわれているが(だから神経伝達物質のバランスを調整する薬剤で病状は軽快する。しかし完治はしない)、単純にそれだけでなくもっと別な(たぶん複数の)メカニズムも関与しているらしい。だが現在のところそこはよく分かっていない。」

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