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石井ゆかり「星占い的思考㊶うそかまことか」/穂村弘「現代短歌ノート二冊目 #034 誤読の話」(「群像 2023年 08 月号」)

☆mediopos-3165  2023.7.18

嘘をつく
というとき
それはふつう意図的な嘘のことだが

事実だと思って言ったことが
嘘となっていることもあり
逆に嘘をついたつもりが
それが事実だったということもある

嘘になる基準は
それが正しいか間違っているか
ということだとしても

正しいとされていることは
往々にして変わったりもするため
うそとまことを
絶対化してとらえることはむずかしい

文学作品内の仮構的世界のように
うそとまことが視点によって
変転したりもする世界とは異なるものの

事実は小説よりも奇なりで
可能なのは現時点でのじぶんの視点から
事実かそうでないかを判断するしかないことが多分にある

多くのばあいわたしたちにとって重要なのは
その嘘による影響であって
嘘によって著しくネガティブな影響が及ぶとき
その嘘および嘘をついた者に対して
どのような態度をとるかが鍵となる

意図的についた嘘は
それがバレなければいいという考えもあるだろうが
バレたときにそれにたいして
嘘をついた本人がどのような態度をとるか
あるいはじぶんのなかの嘘をどう扱うか

また意図的ではないとしても
結果的に間違っていたとき
その間違いに対して
本人がどのような態度をとるかということは
人間観察としても興味深いところがある

嘘や間違いにたいして
開き直ったり
それがなかったかのような態度をとるか
そうではなく
嘘を認め謝罪しその責任をとるか
間違いを認めて謙虚に訂正するか
そこで魂は岐路に立たされることになる

穂村弘の紹介している短歌の「誤読」の話は興味深い
村木道彦の短歌の読み違いに対して
本田和宏はその読み違いを認めたうえで
あえてその読み違いを変えないでいたという

間違いを隠すことなくそれを見据えたうえで
間違いそのものがなぜ起こったのかを明らかにし
さらに理解を深めていく態度は示唆的である

政治の世界ではそうしたことはほとんど行われないし
研究者のあいだでもあえて行うひとはまれだろうが
そうする意志を持ちえたとき
魂は大きな飛躍を遂げるのではないか

さて石井ゆかりの連載「星占い的思考」だが
この7月は
「魚座の土星と乙女座の火星が180度を組む」という

火星は闘いの星
土星は厳格な学究の星であり
その火星と土星の組み合わせは
「厳格さや裁定、断罪といったテーマを指し示す」

また乙女座——魚座は対極にあり
ポラリティ(極性)を形成しているが
乙女座は具体と現実つまり事実の星座であるとともに
治療の星座でもあり
魚座は夢と現実つまり(原義的な)嘘の星座であるとともに
救済の星座でもある

「真実と現実は、時に重なり合わない」が
その対極のなかで「治療」と「救済」が
どのように起こるのだろうか

うそとまことのさまざまな現れのなかで
どのようなことが起こり得るのか
注意深く見ておきたいと思っている

■石井ゆかり「星占い的思考㊶うそかまことか」
■穂村弘「現代短歌ノート二冊目 #034 誤読の話」
 (「群像 2023年 08 月号」講談社)

(石井ゆかり「星占い的思考㊶うそかまことか」より)

「(佐々木孝浩「虚像としての編集————「大島本源氏物語」をめぐって」/納富信留・明星聖子編『フェイク・スペクトラム 文学における〈嘘〉の諸相』勉誠出版)
  〝さらに嗤うべきは、誤りが訂正された後も、真実と向き合おうとした研究者は僅かで、殆どが無反応であったばかりではなく、誤った認識の延命を図る者まで現れたことである。認識を改めるだけでなく自分の業績を自ら否定しなければならない辛さは想像に難くない。しかし真実から目を背けて正しい研究を行うことは不可能である。源氏物語研究の現況を見ていると、文学研究も科学であると主張する気にはとてもなれないのである。〟

 来年の大河ドラマで扱われるという「源氏物語」は世界最古の小説とも言われる。誰知らぬ者とてない歴史的名作である。この作品の現状最も信頼されるテクストが「大島本」であり、小学館『新編 日本古典文学全集』収録のものや岩波文庫版もこれに依拠しているという。しかし、国文学者池田亀鑑が示したその信頼性の前提となるべき事実が、実は誤認だらけである(!)というのが、引用元の主張である。「はじめに」に記されたこの一文の、語気のはげしさに驚かされた。独語考え込んだのは、本のタイトルにある「嘘」のことである。一般に「嘘」の特徴として「(1)事実でないことを言う。(2)発話者自身が事実ではないと思っていることをいう。(3)聞き手を騙す意図がある」(西村義樹・野矢茂樹著『言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学』中公新書)があげられる。本書によれば、3条件のうち「これは嘘かどうか」を判断する上で一番軽視されるのは(1)だという。「嘘」を辞書で引けば、「事実でないことを言う」が第一の定義として出てくる。人に「嘘とは何か?」と聞いても、そう返される。しかし私たちが現実に「これは嘘だ」と認識する上では、「その話が事実かどうか」はけっこうどうでもいいらしのだ。たとえば「自分は胃がんだと信じている人が、周りを心配させないように胃潰瘍だと嘘をつく。でも、その人は本当に胃潰瘍だった」(同書)という例でが、この人の語ったことは「嘘」なのだ。冒頭の引用元では、池田亀鑑がなぜ源氏物語の「大島本」を権威づけるに至ったか、その動機について「今更の訂正ができない状況に追い込まれているのではないだろうか」との想像が示されている。気づいていたのであれば、「嘘」になる。しかし、人間は自分で自分を騙すことができる生物である。」

「この7月、魚座の土星と乙女座の火星が180度を組む。火星は闘いの星であり、土星は制限、宿命、規律の星、厳格な学究の星でもある。土星と火星の組み合わせは、厳格さや裁定、断罪といったテーマを指し示す。乙女座——魚座は対岸の星座で、ポラリティ(極性)という意味の繋がりをもっている。乙女座は治療、魚座は救済の星座であり、またある意味において、魚座は夢と現実、乙女座は具体と現実の星座で、つまり魚座は(原義的な)嘘、乙女座は事実の星座と言えなくもない。ただ、真実と現実は、時に重なり合わない。まど・みちおは「うそつきはまあ正直者だ」(「もう すんだとすれば」)とうたった。両者は、靴下の裏表なのだ。人間はだれでもミスをする。そのミスが他者を傷つける場合もあればそうでない場合もあるが、ほかならぬミスした当人は、間違いなく深く傷つくのだ。この容赦ない傷の痛みに、人間はどのように立ち向かいうるだろう。土星は固く冷たい石や骨、火星は刃物や鉄を象徴する。この時期の「治療・救済」はある意味、外科的に実現するものなのかもしれない。」

(穂村弘「現代短歌ノート二冊目 #034 誤読の話」より)

「短歌の読みに正解はないとは、よく云われることだ。作者が自歌自註を試みたとしても、それがすなわち正解ということにはならない。あくまでも作歌の意図を語っているに過ぎないのだ。作者の手を離れた後の短歌に正解というものを仮に想定するとしたら、一首をもっとも輝かせる読み方ということになるだろうか。だとしたら、時代とともに正解も常に更新されていくことになる。万葉集以来の古歌には、まさにそのように読まれてきた歴史がある。

 ただ、短歌の読みに正解はないとはいえ、誤読のほうはやはりありそうだ。面白いことに、自分自身の体験からも他の歌人の場合を見ても、一首の歌に一目惚れした時に限って、解釈の誤りがするりと入り込んでくることがあるようだ。その歌への思い入れというか、そうであって欲しい、そうに違いない、という感覚の強さが客観的な蓋然性を超えた誤読を誘うのだろう。

 以下は、本田和宏の「超弩級の読み違い」という文章からの引用である。

するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら
 ————村木道彦『天啓』

 私はこの一連をパンフレット誌「ジュルナール律」第三号、「緋の椅子」十首で読んでいる。もう五十年近く前になるのだろうか。その時、作者村木がどこかの時点で「ぼく」を捨て、それをいま、誰かにその顛末を話してあげようかと言っている歌ととったのである。十首全体から感じられるアンニュイな雰囲気が、自分をとっくの昔に捨ててしまった青年が別にどうでもいいやという風に友達に話をしている、そんな場面を想像させたのである。それ以来、ずっとそう思ってきた。
 ところが吉川さん曰く、これは恋人が作者を捨てたのではないでしょうか。えーッと、まさに大げさでなく、声をあげてしまったのだった。まさにその通り、それ以外ないじゃないか。
 作者を捨てた恋人は、そのうちきっと誰かに作者を捨てた顛末を平気で(マシュマロを頬張りながら)、話すのだろう。
 そうなのだと思う。なんでまたよりによってヘンにむずかしい解釈をしてしまったのだろう。村木道彦が恋人に振られるなんていう場面が、ちょっと思い浮かばなかったのかもしれない。
 これは確かに吉川解が正解なのだろうと思う。『新版 作歌のヒント』はいま三冊刷りだが、それでは次の増刷りのときに、ここを訂正するか。どうすべきか。
 結局、直さないことにしようと思う。こんな風な限りなく〈正解〉の近い解釈があるがと、注解を加えてもいいが、私の解釈も残しておきたい気がするのだ。
(「超弩級の読み違い」「塔」二〇一五年九月号)」

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