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ジョルジョ・アガンベン『私たちはどこにいるのか?/政治としてのエピデミック』

☆mediopos-3089  2023.5.3

エピデミック(過感染)は「発明」された

それは世界の統治の仕方を
変えようとするゆえのものであり
「主権力をもつ国家(の統治者たち)」によって行われ
「それと手を結ぶのが
科学(ないし医学)、そして経済」である

コロナ及びワクチンに関する
疫学的な視点はとりあえず別としても
(それらの情報はいまだ日本では
意図的に報道等が極めて抑制(検閲・歪曲)されているが
情報ソースを少し広げるだけで
ある程度の視点は比較的容易に得ることができる)

本書をある程度概観するだけでも
コロナウイルスをめぐって
ここ数年来世界で何が起こっているのかを理解することができる

イタリアの哲学者アガンベンによって書かれ
本書にまとめられているのは
すでに二〇二〇年二月から七月までのものだが
すでにその時点で
コロナ時代の背景にあるものは
概略示唆されていることがわかる
(このmedioposでもその一部が雑誌で紹介されているのを
ほぼリアルタイム的にとりあげたことがある)

本書の本文にはないものの
「翻訳者あとがき」のなかで
別のところで紹介されている
アガンベンの「愛が廃止された」という詩の引用があるが
リアルタイムで格闘しつづけていた
アガンベンの熱がシンプルにそこから伝わってくる
(引用部分を参照)

そこからはは
「健康」の名において「健康」が廃止され
「医学」の名において「医学」が廃止され
「理性」の名において「理性」が廃止され
「生命」の名において「生命」が廃止されるだろうが
「真理」の廃止された「情報」は廃止されず
「憲法」の廃止された「緊急事態」は廃止されないだろう
という警鐘の叫びが聞こえてくる

コロナワクチンの問題だけではなく
それとつながっていま日本で起こっている
マイナンバーカードの推進や食に関するさまざまな施策
そして憲法改正などなど
その背景には
「例外状態」としての「統治装置」を
エピデミックという「恐怖」を通じて
「バイオセキュリティ」を中軸におきながら
推進しようとする「政治」が露骨なまでに現れている

アガンベンが前書きで書いているように
「世界を統治している諸権力は、
人間と事物を対象とする自分たちの統治パラダイムを
徹頭徹尾変容させるためにパンデミックを
口実に使おうと決めた」ということなのだろう

ここ数年こうしたアガンベンの視点に近い視点で
この日本で起こっていることを見るようにしてきたが
露骨なまでに行われている諸々の政策等に
政治家達はいうまでもなく
医療関係者や知識人たちまでもが
かつての第二次世界大戦中の人たちのように
しかもみずから大衆を啓蒙しさえするようなあり方には
目を蔽うばかりだった

しかもコロナをめぐる検査やワクチンについて
可能な範囲でその危険性について示唆することは
とくに宝くじに当たったようにワクチンを喜ぶ人の前では
(実際には多くの割合で副作用が起こっていたようだが)
ほとんどの場合意味をもたないままだった

本書のタイトルにあるように
「私たちはどこにいるのか?」と問い続けるばかりだが
さらに「私たちはどこに行こうとしているのか?」
とあらためて問わなければならないだろう

そして本書のなかでも示されているが
「敵は外にいるのではなく、私たちの中にいる」
ということをあらためて確認する必要がある
その「敵」のひとつは見えない「恐怖」だろう

それを克服する視点も
「自分を思い出し、私たち自身の世界内存在を思い出すこと」
とアガンベンは示唆しているが
その難しい問いをみずからに問い続けることなくして
その「恐怖」を超えることはできないかもしれない

私たちの多くはその「恐怖」ゆえに
教えられたことを教えられたままに行い
みずから自由を捨て去っていくことになる・・・

■ジョルジョ・アガンベン(高桑和巳訳)
 『私たちはどこにいるのか?/政治としてのエピデミック』(青土社 2021/2)

(「翻訳者あとがき」より)

「本書では狭義の(疫学的な意味での)エピデミックについては語られていないと言ってもいい。論じられているのはもっぱらエピデミックと政治・社会との関わり、平たく言えば政治がらみのコロナ騒動についてである。それは、本書副題の「政治としてのエピデミック」によって表されている当のものである。」

「本書には収められなかった「愛が廃止された」と題されたテクスト(出版社クォドリベットのサイトに(二〇二〇年)十一月六付で公開)を紹介して、結びの代わりとする。

   愛が廃止された

  健康の名において
  愛が廃止された
  次いで健康が廃止されるだろう

  医学の名において
  自由が廃止された
  次いで医学は廃止されるだろう

  理性の名において
  神が廃止された
  次いで理性が廃止されるだろう

  生命の名において
  人間が廃止された
  次いで生命が廃止されるだろう

  情報の名において
  真理が廃止された
  だが情報は廃止されることがないだろう

  緊急事態の名において
  憲法が廃止された
  だが緊急事態は廃止されることがないだろう」

(「前書き」より/二〇二〇年二月二十六日)

「世界を統治している諸権力は、人間と事物を対象とする自分たちの統治パラダイムを徹頭徹尾変容させるためにパンデミックを口実に使おうと決めたが————この点においては、当のパンデミックが真であるか紛いものであるかは重要ではない————、このことが意味するのは、彼らの目には旧来の統治モデルが徐々に容赦なく衰退へと向かうもの、新たな要請の数々にはもはや適さぬものと映っているということである。」

「彼らが課そうとしている大変容を定義づけるのは、その変容を形式上可能にした道具にあたるものが新たな法典ではなく、例外状態だということである。例外状態とはつまり、憲法上の保証の数々を単純に宙吊りにするということである。この変容は一九三三年にドイツで起こったことといくつかの接点を有している。そのとき、新首相アドルフ・ヒトラーはヴァイマール憲法を形式上は廃止することなく例外状態を宣明したが、その例外状態は十二年にわたって続いた。」

「新宗教である健康教と、例外状態を用いる国家権力との接合から帰結する統治装置を、私たちは「バイオセキュリティ」と呼ぶことができる。おそらくこれは西洋史上、最も効果的な統治装置である。じつのところ、経験によって示されたのは、ひとたび健康への脅威が問題になれば、人間たちは自由の制限を受け容れる用意があるらしいということである。」

「ここ数十年というもの、制度的諸権力の正当性は徐々に失われている。制度的諸権力はこの正当性の喪失を、ただ永続的な緊急事態の生産によってのみ、またそれによって産出されるセキュリティへの欲求によってのみ堰き止めることができた。今回の例外状態はいつまで、どのような様態で延長されうるのだろうか? たしかなのは、新たな抵抗形式の数々が必要となるだろうということである。ブルジョワ民主主義という廃れた形式も取らず、またそれに取って代わりつつありテクノロジー的−保健衛生的な専制という形式も取らない来るべき政治を考えることを放棄しない者たちは、その新たな抵抗形式に徹底的に専念しなければならないだろう。」

(「1 エピデミックの発明」より/二〇二〇年三月十一日)

「コロナウイルス由来のエピデミックろ仮定されたものに対する緊急措置は、熱に浮かされた、非合理的な、まったくいわれのないものである。」

「メディアや当局が全国で激しい移動制限をおこない、生活や労働のありかたが通常に機能することを宙吊りにして正真正銘の例外状態を引き起こし、パニックの雰囲気を広めようと手を尽くしているのはなぜか?」

「毎年繰り返されるインフルエンザとそれほど違わない通常のインフルエンザであるとイタリア学術会議が言っているものに対するこの措置の不均衡は、火を見るより明らかである。例外化措置の原因としたのテロは枯渇してしまったが、その代わりにエピデミックの発明が、あらゆる限界を超えて例外化措置を拡大する理想的口実を提供できる、というわけである。
 もう一つの要因のほうも、これより不安を生まないわけではない。その要因とは、この数年、明らかに人々の意識の中に流布されてきたセキュリティ不全・恐怖のことである。これは集団パニック状態への正真正銘の欲求として表現されるが、これに対してもやはり、エピデミックが理想的口実を提供してくれる。」

(「3 説明」より/二〇二〇年三月一七日)

「恐怖というのは悪い助言者ではあるが、人が見ないふりをしていた多くのものを出現させてくれる。この国を麻痺させたパニックの波がはっきり示している第一のことは、私たちの社会はもはや剥き出しの生以外の何も信じていないということである。少なくともいまのところ、病気になる危険は統計的に言ってそこまで深刻ではないが、この危険を前にしたイタリア人に、ほとんどすべてのものを犠牲にする用意はあるというのは明らかである。」

「エピデミックはこの第一のことをはっきり出現させているが、これより不安を生まないわけではないことがもう一つある。それは、諸政府が以前から私たちを慣れさせてきた例外状態が、本当に通常のありかたになったということである。
(・・・)永続する緊急状態において生きる社会は、自由な社会ではありえない。私たちが生きているのは事実上、「セキュリティ上の理由」と言われているもののために自由を犠牲にした社会、それゆえ、永続する恐怖状態・セキュリティ不全状態において生きるよう自らを断罪した社会である。」

「心配なのは現在のことではない。もっと心配なのはこの後のことである。これまでの戦争は有刺鉄線から原子力発電所に至る一連の不吉なテクノロジーを、平和に対して遺産として遺してきた。それと同じように、保健衛生上の非常事態が終わった後にもしかじかの実験が続けられるというのはありそうなことである。」

(「12 宗教としての医学」より/二〇二〇年五月二日)

「科学が現代の宗教になった、すなわち人間たちが信じていると信じている当のものになったということは、以前から明白になっている。近代西洋には三大信仰システムが同居してきたし、ある程度まではいまも依然として同居している。その三大信仰システムとはキリスト教、資本主義、科学のことである。」

「新たな宗教戦争の主人公が、ドグマ論がそれほど厳密でなく、より実践的側面が強い、科学のあの部分であるというのは驚くことではない。その部分とは、人間の生きた身体を直接的対象とする医学のことである。私たちはこの先ますます、この価値歩行や信と決着をつけなければならなくなっていく。」

「歴史上幾度も起こったように、哲学者たちは宗教との争いに新たに入りこまなければならなくなるだろう。だが、その宗教はもはやキリスト教ではなく、科学、もしくは宗教という形式を引き受けた科学の一部分である。」

(「16 汚らわしい二つの用語」より/二〇二〇年七月十日)

「保健衛生上の緊急事態のあいだに繰り広げられた論争において、汚らわしい用語が二つ現れた。「否定論者」と「陰謀論」という二つの用語には、明らかにただ一つの目標があった。人々の頭を麻痺させた恐怖を前にしてなおも執拗に考えている者たちの信用を失墜させる、というのがその目標である。
 前者については贅言を費やすにも及ばない。(・・・)
 それに対して、後者は足を留めるに値する。この第二の用語は歴史に対する無知を証し立てているが、この無知は本当に驚くべきものである。歴史家たちの研究に馴染みのある者にはよくわかっていることだが、歴史家たちによって復元され物語られる経緯は必然的にしかじかの計画・行動の結実となる。そのような計画・行動が、あらゆる手段を用いて自分の目標を追求する諸個人、グループ、派閥によって示し合わされたものだというのは非常によくあることである。」

「歴史の常だが、このばあいもまた、自分の目標を合法・不法を問わず追求する人間たちがあり、もろもその組織がある。彼らはあらゆる手段を用いてその目標を実現しようとする。重要なのは、起こっていることを理解したいと欲している者はそのような者たちの目標を知っており、それを考慮に入れているということである。したがって、陰謀を云々することは、諸事実からなる現実に何も付け加えはしない。だが、歴史的な経緯をあるがままに認識しようとする者たちを陰謀論者と定義づけることは、単に汚らわしいおこないである。」

(「19 恐怖とは何か?」より/二〇二〇年七月十三日)

「人々は今日、自分の倫理的・宗教的な信念を忘れてしまうほどの恐怖に陥っているように思われるが、恐怖とは何か? たしかに、それは馴染みのある何かではある————だが、それは定義しようとすると執拗に理解を免れるように思われる。」

「人間が構成上つねに身を投じようちょしていると思われるこの根本的な気分に片をつけるにはどうすればよいのか? 恐怖は認識や省察に先立ち、先回りする。そうである以上、怖じ気づいた者を証拠や合理的議論で説得しようとするのは無駄である。恐怖とは何よりもまず、他ならぬ恐怖によって示唆されたのではない理屈に達することができないという不可能性のことである。ハイデガーが書いているように、恐怖は「混乱させ、「頭を真っ白に」してしまう」。かくして、エピデミックを前にして見られたのは次のような光景である。すなわち、権威ある情報源に由来するたしかなデータや意見が発表されても、それは軒並み無視され、黙過さらた。その無視や黙過は、科学的に信頼されるものだろうと努めさえしない他のデータや意見の名のもとになされていた。
 恐怖が根源的性格をもつ以上、それと同じだけ根源的な次元に達することができてはじめて恐怖に片をつけることができるだろう。そのような次元は存在する。それは他ならぬ、世界への開かれのことである。その開かれにおいてのみ事物は出現し、私たちに脅威をもたらすことができる。事物が人を脅かすものとなるのは、事物を超越するとともに事物を現前させている世界に事物がともに属しているということを私たちが忘れているからである。「事物」を分離不可能と思える恐怖あら断ち切る唯一の可能性となるのは、事物がつねにすでに露呈され啓かれている当の啓かれを思い出すというものである。理屈ではなく記憶が————自分を思い出し、私たち自身の世界内存在を思い出すことが————、恐怖を離れた自由な事物性への到達を私たちへと回復させてくれることができる。」

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