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池田晶子『暮らしの哲学』/『人生は愉快だ』

☆mediopos3270  2023.10.31

池田晶子は1960年に生まれ
2007年2月に亡くなっているが
今回とりあげた2冊は
亡くなった年と翌年に刊行されている

『暮らしの哲学』は
2006年4月から2007年3月まで連載されていたもの
『人生は愉快だ』は未発表原稿を中心としたもの
どちらも著者の最晩年
一年ほどのあいだに書かれている

池田晶子の基本的な考え方は
最初から変わってはいないだろうが
最晩年になって
「イデア」の捉え方が
かつては「普遍」へのみ向かっていたのが
「個別の現象」へも向かうようになり
その両者が結ばれ始めていたように見える

プラトンはイデアを「もの」から独立して
存在する実体としてとらえたのに対し
アリストテレスは
そのものの持つ性質を与える形相(エイドス)を
その素材である質料(ヒュレー)と分離不可能で
内在的なものであると考えたといわれているが

池田晶子の上記の視点は
プラトン的な視点とアリストテレス的な視点を
弁証法的なプロセスとしてとらえているともいえそうだ

そのことを
「「同じ」ということは「違う」ということとは、
まぎれもなく違うことだけれども、やっぱり同じ」であり
「「同じ」は「違う」の中にこそ存在している」
と表現している

そのように捉えることで
現在という存在そしてさらには人生を
「普遍と個別とが織り成すこの世の弁証法」
と考えるようになり

人が年齢を重ねていくことを
「現在という瞬間に時間が層をなしている」
その「層がだんだん厚みを増してい」くこと
つまり「変化」というより
「深化」としてとらえるようになっている

それ故「暮らし」が哲学に
「人生」が「愉快」になっているのだろう
当初の池田晶子にはあまり見られなかった表現だ

さて池田晶子の著書を
当初来ずっと読み続けてきたなかで
大きな変化は2つあったように思える

一度目は
「魂」について考え始めたとき
そして二度目は
この最晩年において
「個別の現象」へと目が向くようになったときである

これからさらにどのように「深化」していくか
と期待していたところで亡くなったが
この現象世界での「深化」は
とりあえずそこで終わったものの
「魂」はいまも「深化」を続けていて
その「考える精神」は
「誰のものでもなく、不滅」のはず

せっかくこの現象世界に遺してくれた
たくさんの言葉たちなので
それらをアクセスキーとしながら
私たちも「普遍と個別とが織り成すこの世の弁証法」
としての生のなかで
さらに「深化」していけますように

■池田晶子『暮らしの哲学』(毎日新聞社 2007/6)
■池田晶子『人生は愉快だ』(毎日新聞社 2008/11)

(池田晶子『暮らしの哲学』〜「世の中イデアだらけ」より)

「年齢を重ねると、本当にいろんなことが変わってくるものです。
 私は自分のものの感じ方や考え方が、ある種特殊であることを自覚しているのですが、それすらも年齢により微妙に変わってきます。(・・・)
「変化」というよりは「深化」です。いちばん根っこのところでは全く同じ。すなわち「哲学的で」「形而上学的な」それなのですが、それがそれなりに時間と共に動いて深まるんですよ。深まるのは当然、考え続けているからですが、その考え続けているということは、また当然ながら生きているからであって、生きている限り考えざるを得ない性向である私には、当然そのぶんの時間、時間の厚みが加味されてくることになる。(・・・)
 私がこのところ気がついている以前と比べて顕著な変化は、いきなり抽象的に言うと、「同じ」と「違う」の違いについての感覚です。「同じ」ということは「違う」ということとは、まぎれもなく違うことだけれども、やっぱり同じだということ。このことには以前から気がついてはいましたが、そのことがいよいよ明らかに、「実感として」感じられるようになってきたのであります。」

「ははあ、プラトンはこれを指して「イデア」と言ったのだな。かつてそのこよに気づいた時、私は「ユーレカ!」、叫んだものです。見つけたぞ、一切の違うものに共通する一つの同じもの。
 そう気がついてみれば。この世の中イデアだらけ、あそこにイデア、ここにもイデア、世の中、永遠に変わらないイデアだらけです。私はこのことがたまらなく面白かった。そりゃそうでしょう、「考えれば」、永遠はここに見つかるのだから、同じもの、普遍のもの探しに夢中になるのは当然でしょう。
 だから私はかつては、個別の現象を観察するより、普遍概念を発見することの方が面白くて、この世の現象を軽く見る傾向があった。永遠的存在がここにあるというのに、なんで今さら現象なの。こういう感じでしたね。
 ところが。少しずつ時を重ね、思索を重ね、そして生きているので、いろんな体験や経験をする。いろんな人、個別の人々に会う。これはこれでまた面白いものだなあと気がついたのです。同じ人間なのに、みんな違う。どうして違うのだろう。こう感じるようになってきたんですね。以前は「同じ」の発見が面白かったのに、この頃は「違う」の発見が面白いんですよ。」

「いずれにせよ、「同じ」は「違う」の中にこそ存在している。イデアは超越的存在だからプラトンは何か夢でも見ていたのだというのは、とんでもない誤解であって、「超越」という言い方をあえて使うとするなら、イデアは諸現象のうちに超越的に内在すると言うべきでしょう。だからこそ、普遍と個別とが織り成すこの世の弁証法、この現在という存在が可能になるわけで、私みたいな道を行くなら、人生そのものが弁証法であるという感じだ。
 なんと人間はみんな同じだと驚いて、次になんと人間はみんな違うと驚いているのだから、次には当然、世界すなわち異即同もしくは一即多と、瞬間瞬間そういう感じになってきますね。むろんこれとて終点の結論ではなくて、弁証法は弁証法なのだから、こうして認識を繰り返しつつ、どこまでも未知の中を進みます。現象を観察しつつ永遠を感受する、もしくはその逆、この行程は無限であり、人は「みんな」旅人なのであります。」

(池田晶子『人生は愉快だ』〜「エピグラフ」より)

「考える精神は、誰のものでもなく、不滅です。
                  ————池田晶子」

(池田晶子『人生は愉快だ』〜「プロローグ————考える人生」より)

「昨今はアンチエイジングブームで、それら加齢に伴う現象を否定的に捉える向きがあるようですが、しかしこれはもったいないことのように思います。なぜなら、老いるという経験は、誰も初めてのことであるはずで、せっかくの未知なる体験を、否定してないものにしてしまうのは惜しい。死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから人は苦しむことになるのでしょう。やはり、当たり前を当たり前として捉え、なおそれを楽しむという構えが、ひょっとしたら人生の極意なのかもしれません。
 まあこの人生、何のために生きるのかとは、生きている限り避けられない問いではありましょう。それは人間にとって最も根源的な問いであって、だからこそこんな問い、人に問うて答えが得られるものではない。根源的な問いほど、自ら問い自ら答える以外はあり得ないのです。もし本当に答えを得たいのであれば、生きている限り一度は必ず自らに問うてみるべきでしょう。
「私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか」
 さて、本当に楽しい人生は、どっちだと思いますか。」

(池田晶子『人生は愉快だ』〜「エピローグ————無から始まる思索」より)

「人はよく「死に方」と「死」を一緒にしてしまっている。死に方とは、ギリギリのところまで生の側にあります。どんな死に方をしても、死ぬまでは生きているわけですから。「死に方」は選べても、「死」は選べない。死は向こうから来るものです。」

「死は人生のどこにもない。そう認識すれば。現在しかない、すべてが現在だということに気がつくはずです。
 人があると思って生きているから、生まれてから死に向かって時間は流れていると思っています。社会もその前提で動いています。このことを、とりあえず前提としてそういうふうにやっていると自覚していればいいのです。真実はそうではない。
 死がないとわかった時、時間は流れなくなるのです。そうすると、現在しかなくなってしまう。そうなれば、過去もこの現在にあるということに気がつく。それが、年齢を重ねることの面白さでもあるのです。現在という瞬間に時間が層をなしている。年をとると、その層がだんだん厚みを増していきますから、反芻することが非常に面白くなっていきます。現在を味わうこと、現在において過去を味わうことが年をとることの醍醐味になる。」

「自分の過去だけでなく人類の歴史や宇宙の存在にまで視野が広がっていく。そういうものへの味わいが深くなっていく。年をとることは、ある意味で個人を捨てていくことと思う。それができると、年をとることが非常に面白いことになっていくと思うのです。
 近代以降の人間は個人というものを信じ込んでいますが、個人なんて、本当はないのです。自分がこの肉体でこの某でと思ってしまったから、人はどんどん小さくなっていった。そう思ってしまったから、自分が死んでしまうのが恐いとか、これだけが人生だという話になってしまったのです。
 しかしそうではない。「自分」とは、そんな個人に限定されるものではなく、人類や精神、宇宙とは何かとう思索のなかで存在する不思議なものなのです。そういう自分を感じることを現代人はすっかり忘れている。それは非常にもったいないことだと思う。
 これを理解するには、今の思い込みをすべてひっくり返さなければならない。みんな「自分は誰それだ」と思い込んでいるから、まずそれを外すことからしていかなければいけない。
「人生一回切りだ」と言いながら、墓を作る。それは、一回切りなんて思っていないんじゃないの、ということでしょう。そこにはなんとなく続いてゆくという気持ちがある。そういう漠然としたイメージを捨て、一度きっちり考えてみればいいのです。きっちり考えれば、生き死にというこのおかしな現象、それが成り立つこの宇宙というものが、なんて奇妙な存在であるかに必ず気がつくはずです。その時、思索が個人を超えていくのです。
 少なくとも、死が恐かったり、今の人生にしがみついている自分がなさけなかったりするなら、そう考えればいい。人間はまだ、死をおしまいと考えていますが、ひょっとしたら、死は始まりかもしれないのです。」

(池田晶子『人生は愉快だ』〜「エピローグ」より)

「さて死んだのは誰なのか」

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