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大森 荘蔵『流れとよどみ―哲学断章』

☆mediopos2603  2022.1.1

私たちの世界観は
教えられたことに呪縛されている

物「と」心
体「と」心
主体「と」客体
科学「と」社会
人間「と」自然

近代以降の私たちは
それらの「と」によって
世界を二つに分ける世界観である
「二元論的構図」の魔法によって
呪縛されているのである

大森荘蔵の哲学的営為の中心には
そうした「二元論的構図」の呪縛を
どのようにして解くかということがあったようだ

おそらくその呪縛は近代よりもずっと前
とくに言語が使われるようになってから
私とあなたのあいだにある「と」のように
世界がさまざまなものに分けられはじめてから
次第に私たちの世界観になってきていたはずだ

世界を「分かる」ために
私たちは世界を「分けて」きた
そして渾沌は穴をあけられて死ぬ・・・

言語はその源でもあっただろうが
その道具によって
分けられないものまでも分けてしまい
言語を世界に当てはめることで
そこに当てはめられないものは
存在しないものにさえされてしまうことになった

二〇世紀に入る前後から
フロイトが意識下の問題に注目したのも
デカルトが方法的懐疑によって
「私」だけは疑いえないとしたことで
「主−客」の源泉にもなったような「区別」に
方法的懐疑を当てはめようとしたものでもあるだろう

疑いえないはずの私という意識に
意識下から働きかけているものがある
そのことをフロイトは探求し
その探求をラカンは継承していくことになる
(そのことについてはあらためてご紹介する予定)

さて本書『流れとよどみ―哲学断章』は
大森荘蔵の代表的著作とされている
一九七六の『物と心』の刊行後
同様の問題を「日常生活の場に戻し」ながら
書かれた「―哲学断章」であり
生命誌の中村桂子も深く影響を受けた一冊でもある

今回の引用は全二一章の最初
「1 夢まぼろし」から少し引いてみたが
今後おりにふれてご紹介しながら
いかに「と」を超えていくかということを
問い直してみたいと思っている

ちなみに生誕一〇〇年を記念した
現代思想 2021年12月号 特集=大森荘蔵については
mediopos2597(2021.12.26)でもとりあげています

■大森 荘蔵『流れとよどみ―哲学断章』
 (産業図書 1981/5)
■中村桂子「大森荘蔵先生がいらっしゃらなければ」
 (現代思想 2021年12月号 特集=大森荘蔵 生誕一〇〇年 2021/11 所収)

(大森 荘蔵『流れとよどみ』〜「はじめに」より)

「私が試みたのは、いくつかの哲学的問題、あるいは哲学的困惑とでもいうべきものを、それが生まれてきた元の場所である日常生活の場に戻してみることであった。およそ哲学の気(け)などない明るい茶の間や台所の床板一枚下にはそれらの問題や困惑がよどんでいることを示したかったのである。(・・・)
 だがその視角が「身心」または「物と心」の問題に偏したのは、私の関心がそれらに偏していた、そして今でも偏してきるからである。(・・・)

 私の目指したのは、世界と意識、世界と私、という基本構図をとりこわすことである。その構図は古くから哲学を呪縛してきただけではなく、われわれの日常生活の隅々にまで浸透している。そしてその日常の知識を発祥の地とする科学もまたその構図の中で成長してきたものであり、したがって現代の科学者はそれを殆ど自明のこととしてこの構図の中で思考し、実験し、生きているのである。
 それにもかかわらず、この構図、世界と意識とをまず剥がしそしてダブらせるというこの構図は、錯覚であり誤解であると私には思われる。それはかつての天動説に似て、長年の風雪をこえて生活の地(ぢ)になった由緒あるものであるが、しかしやはり一種の幻惑であったと思うのである。人々は自分の思い込みとは違って、実はこの構造の中で暮らしてはいないのである。意識のスクリーン越しに世界を眺めているように思い込むが実は世界の中にじかに生きているのである。世界のエアポケットのような「心の中」で喜んだり悩んだりしているのだと思いこんでいるが、そのとき世界そのものが喜ばしくあるいは悩ましいのである。世界には喜びや悩みの種だけがあるのではなく、喜ばしさ悩ましさそのものが世界なのである。それなのに人は別様に思いこんできたのである。
 しかしこの堅固な積年の幻惑をはらぬのは、自分自身でからでさえ容易ではない。それはこの構図の中で鋳こまれた言語、その言語による思考の習慣や感慨の表白、非難や賞賛、といったものから身をはがすことだからである。だがさらにそれに加えてこの試みが乗り越えなければならない難関がある。それは現代脳生理学がこの二元論的構図をその膨大なデータで裏打ちしているようにみえることである。われわれは自分の脳を通してみた世界の中に生きている、と。しかしこの考えは、この世界が幻ではないかというデカルトの感慨を許容する。私はこの弱点を手掛かりにして、それが科学のそもそもの前提と矛盾するということを示そうとした。そこで、生理学の成果は別の構図の下で眺め直されなければならない。
 しかしここ十数年来主として米国で論議されてきた「同一説」(Identify Theory.意識と脳の同一説)は問題外であると私には思われる。その「同一」の意味が甚だ心もとなく、記憶と過去世界の問題がその視野の外にあるのが致命的であると思うからである。だが、私が前著「物と心」と本書で提出しようとした一元論的構図もまた満足のゆくものでないことは私自身よく承知している。しかし少なくともそれが正しい路線上にあることを読者に納得して頂けるのではないか、という希望をもっている。」

(大森 荘蔵『流れとよどみ』〜「1 夢まぼろし」より)

「われわれは何を「現実」だと呼んでいるのだろうか。それは何よりもまず自分自身の命にかかわることであろう。そしてそれとともにまた、自分の生きている状態とでもいえるもの、例えば苦痛や快楽、気分や感情とかである。否応なく自分の命と生にかかわるもの、それがわれわれの現実の核である。
 だから痛みには幻はありえないのである。激痛におそわれている人に向かって、君は今、痛みの幻覚におそわれているのであって本当は痛みなんてないんだよ、と言うことこそもっとも非現実的であろう。それと同様、悲しみや喜びや怒りにも幻はありえない。幻の賞金で喜ぶことはあっても、その喜び自体は幻ではありえない。ある妄想のため怒ることはあっても、その怒りは怒りの幻覚ではない。このように人間の生きることそものもである苦痛や感情に幻がありえないのと同様に、同じく生きることの核心である「さわる」ことにも幻はありえない。手で摑んで触れ、口で触れ、胃腸で触れるものが幻だということはありえない。そういうものこそわれわれが「現実」と呼んでいるものだからである。
 それに対して幽霊が幻だとされるのは、この人間の命の「現実」に疎遠だというがために過ぎない。この世に存在せぬ虚妄のものだからというのではない。幽霊はその傍らの柳の木と同様に存在したのである。「見えるが触れえぬもの」として存在したのである。それを幻と呼ぶのは、われわれが存在を二つに分類して「見えて触れうるもの」と「見えるが触れないもの」とに区分したからである。だから幻は不可触な存在ではあるが、虚妄の非在ではない。存在のこの区分は存在と非在との区分ではなく、われわれの生き死ににかかわるものと、かかわらぬものとへの分類なのである(もっとも幽霊に驚いて心臓マヒを起こすこともありうるが)。それによって現実と幻が区分けされ、真と偽とが区別される。だからこられの区別はきわめて人工的な区別、というよりもむしろ動物的な区別なのである。

 区別は区別された両方のものが存在していなくてはその働きを失ってしまう。すべての人間が正気であり善人であれば、狂気と正気、善人と悪人の区別は無用となるように。だが時に人はこのことを忘れる。(・・・)
 人生すべてこれ夢なり、ということも額面通りにとるならばこれと同じである。夢ということが意味をもつのは、覚醒がある限りにおいてだから。
 いやそれにとどまらない。夢について語れるのはただ覚めている間だけではあるまいか。死について語れるのはただ生きている間だけであり、過去や未来を語れるのはただ現在只今だけであるように。つまり、そこに居ない間だけ語れるような「そこ」があるのである。(・・・)夢は過去形で語るほかはない。夢から覚めて初めて夢を見たのである。」

「夢と覚めた世界との対比は、現実と幻の対比と同様に、存在するものと非在のものとの対比ではない。それは人間の動物的条件に根ざした存在の分類なのである。この、夢まぼろしと現実との対比の基準そのものが動物的現実なのである。夢まぼろしはありもせぬものではない。ただ現在只今食べられないものなのである。そして人は時に、食べられないものをありもせぬものだと言うのである。」

(中村桂子「大森荘蔵先生がいらっしゃらなければ」より)

「この本(『流れとよどみ―哲学断章』)は、こんな言葉で始まります。「私が試みたのは、いくつかの哲学的問題、あるいは哲学的困惑とでもいうべきものを、それが生まれてきた元の場所である日常生活の場に戻してみることであった。明るい茶の間や台所の床下にそれがあるとおっしゃるのですから、先生ありがとうございますと叫びたくなりました。私が求めていたものです。続いて「私の目指したのは、世界と意識、世界と私、という基本構図をとりこわすことである」ともあります。私は当時「科学と社会」とか「人間と自然」という言葉に悩まされていました。なぜここに「と」が来るのだろう。科学は社会の中にあり、人間は自然の中にあるのにと思って。意識のスクリーン越しに世界を眺めているように思い込むが実は世界の中にじかに生きているのである」
 どの言葉も素直に読めばあたりまえのことです。すばらしい哲学者に、あたりまえなどと言うのは失礼この上なしと言われそうですが、日常でよいのだということをこれほど明快に語って下さるのは先生の他ありません。
 「と」で最も興味深いのが心と体、つまり心身問題です。この本にはこの問題への一答案が示されており、そこで示される「重ね描き」は、私にとって「魔法の杖」になりました。身心の問題は、「二元論的構図での客観的世界とその主観的世界像は、一言語論的構図の中では日常的描写と科学的描写の「重ね描き」として表現される」という形で示されます。そこでは「原因−結果」という物心関係は捨てられ、「重ね描き」による「即ち」の関係になるという答えは、「身心問題。その一答案」として書かれているものですが、「と」という言葉にどうしてもなじめずにきた私には、納得のいく答えとして受け容れられるものでした。」

「心ある自然、心的自然がさまざまに〈感情的、過去的、未来的、意志的等々〉立ち現れる」それが「私がここに生きていることそのことにほかならない」。だから「私と自然との間に何の境界もない」とあります。そしてこれがわれわれの祖先がもっていた感性に近く、これこど近代科学の進展に連れそうべきものであると先生はおっしゃるのです。今はガリレイ、デカルトの水先案内で迷路に入っているが、ここから抜け出して感性をとり戻すことは可能であり、これが「近代科学の路線の本来あるべき道であることを示す」のが本書(『知の構築とその呪縛』)で試みたころだと結ばれています。」

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