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丸山俊一 「ハザマの思考 5 多様性と協調性のハザマで」(『群像 2024年2月号』)/丸山真男『日本の思想』

☆mediopos3357  2024.1.26

丸山俊一の連載「ハザマの思考」の第五回目
「多様性と協調性のハザマで」(群像 2024年2月号)では

丸山真男『日本の思想』をガイドに
私たち日本人が
「西欧的近代」と「日本的近代」
といった構図のハザマを生きるための
まさに「ハザマの思考」が示唆されている

「ハザマ」にあるということは
ある意味でダブルバインド的な
矛盾する「思考」や「態度」が求められる
ということでもあるのだが

ここでは「多様性」と「協調性」が
いわば表裏一体となっている日本社会が描かれている

多様性とは
個的差異や独自性である「私」であり
協調性とは連帯や結束とも繋がる
「共」であり「公」である

近年日本において欧米的な理念のもとに
子どもたちの教育に
デジタルな世界へのリテラシーを身につける際の行動規範
「デジタル・シティズンシップ」が推進されているそうだが
その核にあるのが「責任のリング」で
「自らの責任をしっかり自覚しようという教え」だという

そこでは社会のありようが
「公」「共」「私」の同心円で
三つの位相に分けられて描かれているのだが
それぞれの位相で表された理念を
自覚することが求められる

しかし日本においてはその理念を徹底させようとすれば
「二番目の輪の「共同体」という「バリケード」の弱さ」により
「タコツボに陥りかねない逆接の力学が働」いている

その「タコツボ化」とは
丸山真男によれば以下のような傾向のことである

「明治以降、近代化が進むにつれて、
封建時代の伝統的なギルド、講、寄合といったものに代わって、
近代的な機能集団が発達しますが、
そういう組織体は会社であれ、官庁であれ、教育機関であれ、
産業組合であれ、程度の差はありますが、
それぞれ一個の閉鎖的なタコツボになってしまう傾向がある」

そして「こういう組織なり集団なりのタコツボ化」は
「いわば前近代的なものが、
純粋にそれ自体として発現しているというより、
実は近代社会における組織的な機能分化が
同時にタコツボ化として現れるという
近代と前近代との逆説的な結合」である

その「近代と前近代との逆説的な結合」によって

「「共」同体が、時に悪しき意味でのムラ社会のような
抑圧を生むように機能する場合」もあり
「「公」という領域も、
市民社会の理念が浸透することが不十分で、
空気が支配する世間という相互監視的な関係性を
醸し出してしまっていることもあり得る」

それは日本的な組織の上意下達的な空気的力学であり
それによって極めて抑圧的な相互監視体制がつくりあげられ
近代的な管理社会的な在りようが
前近代的な在りようと逆説的に結合してしまうのである

そんななかで私たちはどのように生きればよいのかだが
「ハザマの思考」の丸山氏は
丸山真男の『日本の思想』の「あとがき」で示されている
「「西欧的近代」と「日本的近代」といった構図にあって、
そのハザマに悩みつつ楽しむセンス」から
次のような生き方を禅の公案的に(楽観的に?)示唆している

「多様性も協調性も「ない」と同時に既に「ある」。
そんな感覚でそのハザマを生きていくことが、
この国の「逆接」に足を掬われない術だ」
というのである

多様性か協調性かではなく
多様性も協調性もありながら
同時に多様性も協調性もない
そんななかで「逆接」を生きること

さてその公案に
どのように対峙するかが
日本人に求められ試されているということだろう

たとえばそれは
西欧的か日本的かではなく
西欧的でも日本的でもありながら
同時に西欧的でも日本的でもない
そんな思考と態度をもつということでもある

はてさて
「ハザマ」ゆえの困難と希望がある
そんな日本社会の未来や如何に

■丸山俊一 連載「ハザマの思考 5 多様性と協調性のハザマで」
 (『群像 2024年2月号』)
■丸山真男『日本の思想』(岩波新書 1961/11)

(丸山俊一「ハザマの思考 5 多様性と協調性のハザマで」
 〜「多様性が発揮されたら協調性は失われる?」より)

「「協調性」という言葉で個人的に思い出すのは、就活生だった頃、とあるマスコミの面接試験でのやりとりだ。自らの自己分析を求められた時のことだった。どんな状況でも比較的冷静で、人とは異なる自らの視点、考え方を持てるタイプだといった内容をアピールしていた時だったのではないかと思う。突然一人の面接官が僕の言葉を遮るように割って入った。
「君、それで協調性は大丈夫なの?」
 僕は「もちろんです。僕がお話したのは独自の考えを持って状況に対処できるという意味合いで、チームプレーができないということではありません」と、あわてて付け加えた。「ああ、そう、それならいいんだけど、僕はまた、気に入らないことがあると灰皿でも投げる人なんじゃないかと思ったんでね」面接官はニヤッと笑い、僕の目を見た。この言葉に、残る二人の面接官もどっと笑って、場は次の話題へとなごやかに映っていった。
 個性的であることをこの場でアピールしても、あまりいいことはないよ・・・・・・・あの時の目は、そんなシグナルのように見えた。今にして思えば、僕に問いかけた面接官は、助け舟のつもりでこんな質問をし、仲間内での笑いを誘ってオチをつけてくれたのだろう。
 あれから時代は四〇年近く移ろい、多様性の時代だと言われる。いろいろなことが少しずつ変わった。だがともすれば、「昭和的な協調性」を求める声は根強く。いつもどこか亡霊のように響いてくる気がする。そもそも、「多様性」の対義語は、「協調性」などではないはずなのだが、何かがそこですれ違っていると感じる。「多様性」も「協調性」も、どちらの言葉も、日本社会にあっては、使う人から勝手なニュアンスを投影されて、複雑に乱反射する記号となっているように思える。」

*****

(丸山俊一「ハザマの思考 5 多様性と協調性のハザマで」
 〜「多様性、協調性、連帯、結束・・・・・・日本の集団内で唱えられる概念の深層は?」より)

「様々な組織のあり方のねじれ、そしてそこでの権利闘争をめぐる問題は、嫌でも日本社会のあり方をめぐる議論へと行き着く。そして、そうなれば、やはり王道へ。(・・・)丸山眞男による、日本社会を語る時外すわけにはいかない、もはや古典と化した一冊を紐解いてみる。

(・・・)

 明治、大正、昭和と、開国の時も戦後の復興も、急激な「近代化」を成し遂げたと語られる日本の変化のスピード感。それは、「国家権力にたいする社会的なバリケード」の「脆弱さ」から生まれたと丸山は言う。乱暴に要約するなら、経済的な論理に抗するような、文化的な集団の連帯や結束が少なかったことで、一気に社会が変わった、というわけだ。」

「戦後民主主義の中で、温存された、「前近代性」。いわゆる都市部の中間層は、ひとまず。経済の論理優先で動き激しい変化も厭わないが、政治の中枢や地方村落などは、封建制の名残りのような慣習、文化が支配し続ける。社会のあり方の「特殊性」は、すなわち、日本近代化の歴史の「特殊性」にあるという、実に古くて新しい問題そのものになる。戦後日本社会に、戦争へと走らせた「超国家主義」から脱却して、民主主義を根付かせる為に展開された丸山の分析をあらためて噛みしめる。」
 
*****

(丸山俊一「ハザマの思考 5 多様性と協調性のハザマで」
 〜「近代化」を進めることが前近代化を招く逆接?」より)

「   明治以降、近代化が進むにつれて、封建時代の伝統的なギルド、講、寄合といったものに代わって、近代的な機能集団が発達しますが、そういう組織体は会社であれ、官庁であれ、教育機関であれ、産業組合であれ、程度の差はありますが、それぞれ一個の閉鎖的なタコツボになってしまう傾向がある。巨大な組織体が昔の藩のように割拠するということになるわけであります。丸山真男『日本の思想』)

 仕事や学校などとは別の次元で、人と人をつなぐクラブ、サロン的なるものの不在。肩書きにも、背負う背景にも縛られない、個としての風通しの良い交流の空間。意見は意見として受けとめられ、人格の評価と安易に結び付けられない場、というのは言い過ぎだろうか。そうした自由闊達な対話の空間をイメージしながら語る丸山の表現は、ここではアカデミシャンである以上に、ジャーナリスティックなセンスに満ちていて面白い。(・・・)
「タコツボ」を否定し、伸びやかな対話の広がりを求める丸山の分析は次の件でひとまずのクライマックスとなる。

   われわれの国におけるこういう組織なり集団なりのタコツボ化は、封建制とかまた家族主義というような言葉でいわれますけれども、単なる家族主義とか封建主義とかいった、いわば前近代的なものが、純粋にそれ自体として発現しているというより、実は近代社会における組織的な機能分化が同時にタコツボ化として現れるという近代と前近代との逆説的な結合としてとらえなければいけないんじゃないか。(丸山真男『日本の思想』)

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(丸山俊一「ハザマの思考 5 多様性と協調性のハザマで」
 〜「「公」と「共」の間もあいまいな日本の「私」より)

「近年「デジタル・シティズンシップ」という概念が推進されていることをご存じだろうか? 小学校教育からタブレットやパソコンが導入され、子どもたちにもデジタルな世界へのリテラシーが必要となる時代、その時に身につけるべき考え方や行動規範を指すのだが、その教えの中の核になる概念の一つに「責任のリング」なるものがある。同心円で三つの輪が描かれ、一番外側が「公」、二番目の輪が「共」、中心となる三番目の輪の中に「私」がいる、という図に基づく考え方で、たとえばネットでの発信の際も、「私」は、「共」の領域、「公」の領域、どこまで影響が及ぶか、自らの責任をしっかり自覚しようという教えだ。もともと欧米で確立した際には、ぞれぞれWORLD、COMMUNITY、SELFと表記されており、「公」共、「共」同体、「私」という語が与えられたようだ。人が生きる、この社会のありようを三つの位相に分けようというこの分類にひとまずは異論がない。(・・・)

 だが、がっちり理念化を進めようとするとタコツボに陥りかねない逆接の力学が働くこの国にあっては。どうも複雑な気分になってしまうのだ。二番目の輪の「共同体」という「バリケード」の弱さは、丸山眞男の指摘から今も変わっていないとしたら?
「私」は「共」に含まれ、さらに「公」に含まれているのだろう、確かに欧米的な理念の上に立って、それぞれの領域があるべき世界を作り出していれば。だがこの国では、「共」同体が、時に悪しき意味でのムラ社会のような抑圧を生むように機能する場合もある。「公」という領域も、市民社会の理念が浸透することが不十分で、空気が支配する世間という相互監視的な関係性を醸し出してしまっていることもあり得る。理念は素晴らしくとも、その解釈を柔軟にし、その本質の伝え方において注意深くあらねば、「近代と前近代との逆説的な結合」がまたも生まれてしまう。」

*****

(丸山俊一「ハザマの思考 5 多様性と協調性のハザマで」
 〜「「ない」と「ある」が同時に存在する国の可能性」より)

「丸山は、日本人の集団の基底にあるものの見方考え方を掬い取り分析し評論するという実に検証が難しい探求に踏み込み、それを『日本の思想』という大風呂敷と批判されることを覚悟の書名で世に出した思いを、「あとがき」で率直に語っている。そして、その試みの果ての自らが実感した成果を、飾らない言葉でこう記すのだ。

   けれども、私は「日本の思想」でともかくも試みたことは、日本にいろいろな個別的思想の座標系の役割を果たすような思想的伝統が形成され〔なかった〕という問題と、およそ千年をへだてる昔から現代にいたるまで世界の重要な思想的産物は、ほとんど日本思想史のなかにストックとして〔ある〕という事実とを、〔同じ〕過程としてとらえ、そこから出て来るさまざまの思想史的問題の構造連関をできるだけ明らかにしょうとするにあった。これがどんなに身の程知らずの企図であるにせよ、〔私自身として〕、こうして現在からして日本の思想的過去の構造化を試みたことで、〔はじめて〕従来より「身軽」になり、これまでいわば背中にズルズルとひきずっていた「伝統」を前に引き据えて、招来に向かっての可能性をそのなかかから「自由」に探っていける地点に立ったように思われた。(丸山真男『日本の思想』)

 丸山自身が施した傍点(引用者註:ここでは〔〕内)が。実にしっくりきた。「なかった」と「ある」とを「同じ」過程として捉える・・・・・・。もはや、禅の公案の如き世界、色即是空、空即是色ではないか。般若心経まで飛ぶのは行き過ぎでも、少なくとも、そこに一枚岩の「戦後民主主主義の信奉者」「西欧的近代主義の推進者」の姿はなく、柔らかで伸びやかな、思考の弾力性を感じとる。「西欧的近代」と「日本的近代」といった構図にあって、そのハザマに悩みつつ楽しむセンスが、そこにある。(・・・)
 多様性も協調性も「ない」と同時に既に「ある」。そんな感覚でそのハザマを生きていくことが、この国の「逆接」に足を掬われない術だというのは、楽観に過ぎるだろうか。」

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