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竹村牧男 『唯識・華厳・空海・西田/東洋哲学の精華を読み解く』

☆mediopos-2482  2021.9.2

今回は
個が個でありながら
個を超える「東洋哲学」の話

南方熊楠や井筒俊彦などが
注目されるようになってから
華厳経がクローズアップされるようになっているが

本書には仏教の唯識から華厳
華厳の世界観をベースに密教を展開させた空海
そして西田幾多郎と鈴木大拙へと至る
いわば「東洋哲学」の系譜が辿られている

唯識思想は唯心論的にとらえられがちだが
大乗仏教全体の世界観の基礎をなしている
「たとえば、色が見えている事実、
音が聞こえている事実等を理論化したもの」であり
実際はいわば事的世界観であるととらえることができる

さらに華厳思想では
その唯識思想が踏まえられながら
「事」が「重重無尽の関係性を織りなしていること」が説かれる

本書で主に論じられている視点からいえば
法蔵に十重唯識説があるように
唯識思想と華厳思想とは深く関係し合っていて
唯識思想では他者が論じられることは少ないが
華厳思想では自と他の関係が詳細に論じられている

華厳思想では澄観の「四法界」がよく知られている

事法界(事象の世界/世界を差別(区別)して見る世界)
理法界(真理の世界/差別(区別)がない世界)
理事無礙法界(事法界と理法界が結びつく世界)
事事無礙法界(事物と事物が互いに礙げ合わない世界)
の四つの法界である

とくに重要なのは事事無礙法界である
そこでは事と事は区別され互いに対立しながら
互いに含み含まれ理を介しながら互いに融入する
そんな関係性が説かれる
ゆえに自と他の関係が重要になる

そんな華厳思想の影響を強く受けながら
空海は「重重帝網のごとくなるを即身と名づく」
そんな「即身」を自己の曼荼羅としてとらえ
事事無礙法界を「人(にん)」において捉え直す
まさに「人人無礙の曼荼羅」が説かれる

さらにその空海の曼荼羅は
西田幾多郎の「個物の哲学」と
共鳴しあっていると著者は論じている
(西田幾多郎は空海については論じていないが)

仏教においては
「歴史的現実の世界において
他者と協働しつつ新たな世界を形成する自己」
といった側面が説かれることは稀だったが
西田幾多郎の「個物」は
「自己を限定し、自他の関係を限定する主体」として
「自己も含めて歴史的に形成され来たった既成の関係を、
実に裁ち直す主体」としてとらえられている

「自己」と「他者」はそれぞれ「個物」であり
事と事のように区別され互いに対立しあっている

けれども「個」としての「自己」は
「自己」のみで成立してはいない
「他者」があってはじめて「自己」は成立する

それを事事無礙法界としてとらえ
「自己に他者を見、他者に自己を見」
個と個がそれぞれ自己を超えるものに生きることで
個と個は矛盾的自己同一として関係する

西田幾多郎が論じようとしたそんな世界観を
その死後さらに鈴木大拙が受け継いで語ろうとした

おそらく西田/大拙のその先に
井筒俊彦の「東洋哲学」の構想があり
やっと最近になってその視点が
多方面から注目されるようになってきてはいる

しかし「歴史的現実」はそんな「東洋哲学」に
目を向けようとしているだろうか
環境問題しかり
インターネットをはじめとした技術の問題しかり
「自己に他者を見、他者に自己を見」
「個と個は矛盾的自己同一として関係」
しようとしているだろうか

けれどもだからこそ
「唯識・華厳・空海・西田」という
「東洋哲学の精華」に少しなりとも
目をむける必要があるのだろう
そこに貴重な「種」はあり
「種」は育てられなければならないのだから

■竹村牧男
 『唯識・華厳・空海・西田/東洋哲学の精華を読み解く』
 (青土社 2021/4)

「唯識思想は、大乗のアビダルマ(世界の構成要素の分析)の一面もあり、大乗仏教全体の世界観の基礎をなすものである。大乗仏教の思想の特質を理解するには、まずは唯識思想を学ばなければならない。」
「なお、一般に唯識思想は、唯心論の一つの流れかと思われやすい。しかし私はそう思っていない。唯識の識とは、外の物を映し出す透明な鏡のような主観なのではない。それ自身の中に対象面を有していてそれを見ているようなものなのであり、一つの識の中に対象面と主観面との双方が具わっているものが、識なのである。唯識の術語を用いて言えば、相分と見分とがどの識にも存在しているのである。それはたとえば、色が見えている事実、音が聞こえている事実等を理論化したものというべきで、ゆえに識とは事そのもののことである。したがって唯識とは唯事ということなのであり、そのように唯識思想は事的世界観と見るべきものである。
 華厳思想では、事事無礙法界を説くのであった。この事については、唯識思想をふまえたとき、その内容がより十全なものとして理解されることになろう。しかもそのおのおのの事が、重重無尽の関係性を織りなしていることを説くところに、華厳思想の独自の特質がある。唯識思想では比較的、他者の問題を論じることは少ないが、華厳仏教に至って自他の関係性のことについても細密に説かれることになり、自己をめぐる議論は飛躍的に拡充されることになる。その中でも、もちろん唯識思想と華厳思想とが連絡していることは、法蔵に十重唯識説があることによって例証されよう。
 密教は他の仏教を顕教と呼んで、自らの思想はどの顕教よりもはるかに優れていると主張する。しかし特に華厳思想の影響を強く受けていることは否定できないことであろう。(…)「重重帝網のごとくなるを即身と名づく」とあるのは、まさに華厳思想に拠ったものである。その「即身」すなわち自己は曼荼羅そのものと言えるが、曼荼羅は華厳の重重無尽の縁起をなす事事無礙法界の事を、人(にん)において捉え直したものと言うことができると考える。事とは、刹那刹那の識とも言えて、それは主客相関のただなかであり、ゆえに人でもある。華厳の事事無礙法界は、密教において人人無礙の曼荼羅に立体化されたと見ることは十分、可能であろう。こうして、華厳と密教とは、かなり同質の見方を共有している。空海の思想は、その曼荼羅世界に極まるであろう。
 西田は純粋経験の哲学から出発したが、やがて対象論理を超える「場所の論理」を開拓していく。その中で、自己とは何かのことも深く掘り下げられていく。西田には、自ら自らを限定するものであってこそ、真の個物(自己)であるとの考えがあった。その自己について、自己を超えるものにおいて自己を有つと、いわば「超個の個」を自覚している。一方、個物はかけがえのない独自の存在のはずであるが、しかし唯一であっては個の意味も出ないことになる。個の唯一性はむしろ他個との関係に入る時に生まれるのであり、そこに一種、矛盾した事態がある。ここに「個は個に対して個」であることを、西田は明らかにしている。このことは、事事無礙、人人無礙と軌を一にするものである。案外、曼荼羅世界は西田哲学と通底しているのではなかろうか。
 こうして唯識の事的世界観から華厳の事事無礙法界へ、そこから空海の人人無礙の曼荼羅へ、さらにそこから西田の「超個の個」にして「個は個に対して個」であるという「個物の哲学」へと、これらの思想は関連し合い、つながり合っていることを見ることができる。あるいは日本中世の英邁な仏教者・空海と、近代日本の強靱な哲学者・西田幾多郎とは、実はひそかに巨人同士、共鳴しあっていると思われる。」

「加えて、西田の個物は、自己を限定し、自他の関係を限定する主体である。自己も含めて歴史的に形成され来たった既成の関係を、実に裁ち直す主体のことである。この側面は、残念ながら仏教ではよく発揮されなかったのが実情であろう。大乗仏教、密教には、主体性を発揮するという、そういう思想・立場がないわけではないと思う。菩薩の菩提心、そして善巧方便等は、現在実社会の改革を担う主体を生み出す基盤であってよい。むしろそうあるべきである。しかしこれまでの仏教は、必ずしもその方面をよく展開しては来なかった。」
「こうして華厳思想や曼荼羅思想をも受け継ぎつつ、我々は西田にならって歴史的現実の世界において他者と協働しつつ新たな世界を形成する自己を見出すべきであろう。このとき、宗教あるいは哲学と現実社会が結ばれ、そこに通路が見いだされることになる。」

「西田は、第二次世界大戦のまっただなか、その戦争が終わる直前に亡くなったのであった。戦争に無謀に突っ走る日本の行方を深く憂えていた西田は、宗教論の後、「私の論理について」を書き始めるが、それもかなわず倒れてしまったのであった。西田の無二の親友、鈴木大拙は、おそらくは西田の日本に対する遺志をも受け継いで、戦後日本の再興策を、華厳思想を基にしつつ構想し、当時そのことをさかんに語った。借り物ではない、我々自身の伝統の中から、我々の社会のあるべきあり方を訴えたのである。それは華厳思想や西田哲学を現実社会の基盤にすえて、国家至上主義を精算する新たな民主社会を構築しようとする挑戦であった。」

「自他を超えるものの中に包まれていて初めて自他であるという。そのことが認識されたとき、自己は自己のみで成立していたという考えは否定され、すなわち自己が否定されることになる。この否定を経て自己を超えるものに生きるとき、そこにおいて成立している他をも自己と見ることになろう。あるいは、自己に他者を見、他者に自己を見ることになる。これは事事無礙法界の論理であり、その事事無礙ということを人人に見た場合のことに他なるまい。相互に人格を尊重し合う世界は、こうして仏教の華厳的世界観から説明されるのである。
 大拙はここで、「平等即差別、差別即平等の理」と言っていたが、それは実は理事無礙法界のことであろう。しかしここはもはや明らかに事事無礙法界のことの説明にほかならない。実際、大拙はこのあと、

  これをまた他の言葉で現すと、事事無礙法界である。……差別即平等・平等即差別というよりも、事事無礙法界と言う方がよい。前者は理事無礙法界に相当するが、それだけでは法界の実相に徹しきらないきらいがある。理事無礙法界では汎神論と取り違えられないでもない。否、実際そのようにう解しているものもある。それでは華厳思想の真髄を知悉しえないであろう。事事無礙に突入することによりて、東洋思想の絶嶺に攀じ登ったと言える。

と語っている。このように大拙は、どこまでも華厳思想を尊重するのであった。
 実はこの大拙の説明は、西田の難解な宗教哲学のきわめてわかりやすい解説になっていると思われる。西田は、「故に我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものに於いて自己を有つ、自己否定において自己自身を肯定するのである」と説いている。もちろん、他者の自己も、その自己を超えたものに於いて成立しているであろう。なぜそうなのかといえば、結論のみ示すことになるが、「我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。絶対的一者の自己否定的に、すなわち個物的多として、我々の自己が成立するのである」、「絶対はどこまでも自己否定に於いて自己を有つ。どこまでも相対的に、自己自身を翻すところに、真の絶対があるのである。真の全体的一は真の個物的多において自今自身を有つのである。神はどこまでも自己否定的にこの世界に於いてあるのである」からである。自ら自己を絶対に否定する絶対者において、自他の人人が成立しているというのである。
 しかも西田は、「個は個に対することによって個である。それは矛盾である。しかしかかる矛盾的対立によってのみ、個と個が互いに個であるのである。しかしてそれは矛盾的自己同一によってと言わざるを得ない。何となれば、それは絶対的否定を媒介として相対するということである。個と個が、各自に自己新を維持するかぎり、相対するとはいわない。従ってそれは個ではない。単なる個は何物でもない。絶対否定を通して相関係する所に、絶対否定即肯定として、矛盾的同一的なる、矛盾的自己同一が根底とならなければならない。それは絶対無の自己限定と言ってもよい。……」(「予定調和を手引きとして宗教哲学へ)と説いているのであるが、大拙の今の句んぼ中の「自の否定によりて自はそのより大なるおのに生きる。そしてかねてそこにおいて他と対して立つのである」等の句は、まさにそのことを述べたものと考えられる。実に西田と大拙は同じ人間存在の真実を見ていたのであった。」

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