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永井玲衣「どうしてこういうことが気になるのですか?」 (『水中の哲学者たち』)

☆mediopos3425  2024.4.3

「哲学者に聞くことができることがあったら
 何を聞きたいですか?」

というアンケートで得た質問に
「哲学人」として回答する(答えは展示される)
「対話する哲学人による人生相談」
という駒場祭での企画で

永井玲衣は
東大の哲学教授である
梶谷真司による解答を見つける

その答えは
「どうしてこういうことが気になるのですか?」

「人生相談」に20文字で質問返し

回答が展示されるだけの「一方向的空間」に
「双方向的コミュニケーションを持ち込」んでいる

そして永井玲衣は
「哲学とはこういうことなのだ、と痛感させられ」る

「早急に答えを出そうとするのではなく、
問い自体もまた問いに付され、問い返されていく。」

「そうすることで、わたしたちは自分がもっていた
確固たる「前提」が切り崩されていくことを感じる。
自明だと思っていたことが、どんどんやわらかく崩れていく。」

これはおそらく
「双方向的コミュニケーション」
というのでもなく
自己内対話への誘導だろう

なぜじぶんにはそれが気になるのか
その「なぜ」を問いなおされないかぎり
じぶんが無意識に「前提」としていることは疑われないままに
「答え」を得ようとすることになる

はじめから答えのある学校のテストのような問いは
問う必要さえない問いである
そこには問いが問いである「前提」が
問われることがないからである

さきの質問返しの問いは
「偉いとはどういうことか?」

その問いには
「偉い」ということが気になっている
というじぶんの「前提」が問われてはいない

世の中の「常識」とされていることも
「そうなっている」「そういうものだ」
ということが「前提」になっている

そこで問われる必要があるのは
なぜ「そういうものだ」と思っているのか
さらには「そういうもの」とはどういうことなのか
なぜ「そういうもの」とされているのか・・・
問いを「掘りつづけ」ていくことである

とくにだれでもが少なからずもっている
さまざまな「好き嫌い」「こだわり」も
その「前提」を「掘りつづけ」ていけば
ときにはその「底」に
「カツンという確かな感触」が得られるかもしれない

■永井玲衣「どうしてこういうことが気になるのですか?」
 (永井玲衣『水中の哲学者たち』晶文社 2021/9)

*「砂場が好きだ。
 砂場は、大都会に突如出現する小さな砂漠だ。」

「いまでも砂場に魅了されているが、幼稚園生の頃もわたしは毎日砂場にいた。砂場という存在の神秘性にすっかり虜になっていたのである。だが、泥団子とか、お城をつくるとかは未だに一切興味をかきたてられない。わたしの目的はただ一つ、砂場を掘りつづけることである。なぜなら、砂場に底があるのか知りたかったからだ。」

*「哲学研究者になったおかげで、昨年大学のお祭りである駒場祭で「対話する哲学人による人生相談」という企画に呼んでいただいた。

 一般の方に「哲学者に聞くことができることがあったら何を聞きたいですか?」という企画にアンケートで得た質問に「哲学人」として回答する、という企画。駒場祭当日にその答えは展示されるとのこと。

 わたしがいただいた質問は2問。

 ・自分の不得意な面にばかり目が行き、得意な面がわからない。どうしたらいいか。
 ・周りに影響されて自分が見えなくなって、がんばりすぎて疲れちゃうんですけど、どうしたらいいですか?

 800字から1000字くらいで、と言われたので、書きすぎてしまうわたしは、適度にふざけながらもA4一枚に収めるように書いた。」

*「そんな中、東大の哲学教授である梶谷真司先生の解答を見つけた。

  質問:「偉いとはどういうことか?」
  回答:「どうしてこういうことが気になるのですか?」

 え?
「人生相談」に質問返し。てか20文字。

 あれ? いま研究室で直接話してるんだっけ、という錯覚に陥る。

 「回答が展示される」という一方向的空間に、「なんで?」と双方向的コミュニケーションを持ち込むそのパンクさにくらくらする。よく見ると、他の梶谷先生の回答もほとんどが質問返しだった。

 だが同時に、哲学とはこういうことなのだ、と痛感させられた。だって「問うこと」はまさに哲学そのものじゃないか。

*「早急に答えを出そうとするのではなく、問い自体もまた問いに付され、問い返されていく。考えることによって、どんどんわからなさが増えていく。そしてそのわからなさをまた問うていく。そうすることで、わたしたちは自分がもっていた確固たる「前提」が切り崩されていくことを感じる。自明だと思っていたことが、どんどんやわらかく崩れていく。

 そんなことを言うと、えっじゃあ哲学は永遠に答えにたどり着かないじゃないですか、と嫌がられる。わからないことがどんどん増えるだけじゃないですか。

(・・・)

 でも決して「前提を問う」ことは停滞ではない。

 むしろ、考える対象を明確にするために進んでいるのだ。それが前か後ろか上か下かはわからないけれど。」

*「いつものようにひとり幼稚園で砂を掘り進めていたある日。自分もなかば沈みながら、スコップで40センチメートルほど掘ったときのことだった。わたしがスコップをざしゅ、と砂に埋めると、何か硬い感触が腕に伝わった。

 永遠かろ思えた砂場の終わりだった。

 やっぱり底はあったんだな。

 思考の行き着く先があるのか不安になったとき、わたしはあのときのカツンという確かな感触を思い出して、少しだけ勇気づけられるのだった。」

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