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飯間浩明・川添 愛・山本貴光「鼎談 現代語という不可解なもの――語彙と文法の波間に」(「ユリイカ 2022年8月号)

☆mediopos2810  2022.7.28

言葉が変化するのは
使われているからだ
使われていると
使いやすいように変化してゆく

その変化を「現代語」というかたちで
とりだし「国語辞典」をつくるというのは
その編纂者にとっては悩ましいところのようだ

俗語や新語は常に流行り廃りながら
生き残りまた淘汰されて使われなくなり
「現代語」のそうした部分は変化しやすいが

「文法」ということになると
動詞の終止形と連体形が同じかたちになったことや
係り結びがなくなったのことにしても
何百年もかけて少しずつ変化してきたものであり
現在でいえば「ら抜き」言葉への変化も
明治時代以降からいまだ進行中のもので
昭和から平成・令和というような比較的短いスパンで
大きく変化することはないようだ

しかし言葉は使う人によって
また使われる状況によって
そしてその時代背景を反映しながら
さまざまな色合いを帯びている

鼎談の最後のあたりで
辞書編纂者の飯間浩明氏が
「いつかやってみたいこと」についてのこんな話があった

「最近のものらしいが、
年代がよくわからない文書があるとします。
内容も時事的なことに触れていなくて、
文法や語彙の特徴から年代を特定するしかない。
自分の知識を総動員して「これは一九八三年ごろの文章です」
などと鑑定する仕事ができないかと」

こうした「利き文法」的なものは
ある時代を描こうとする小説家にとっては
その言語に関する知識と感覚を
総動員しながら表現する必要があることだろうと思うが

個人的にいえばそういう時代考証的なことよりも
その言葉そのものから
その人の霊性もふくめた人物像を
読みとることができればとかねてより思っている

じっさい何気ない文章からでも
その人の思考と感情と感覚の全体像は
それなりにイメージされる
SNSなどの言葉もその点で
そうした「利き言語」的なものの訓練となる

ある意味「言葉は嘘はつけない」ということでもある
嘘をついているかどうかというのではもちろんなく
言葉はその人のほんらいの姿を表しているということである
ある人の言葉はほとんど「沈黙」に近くても
誠実な香りがするけれど
ある人の饒舌な言葉は
どんなに賢く振る舞っても
虚飾の香りがするというようなそんな姿である

■飯間浩明・川添 愛・山本貴光
 「鼎談 現代語という不可解なもの――語彙と文法の波間に」
 (「ユリイカ 2022年8月号
  特集=現代語の世界 ―若者言葉から語用論まで」所収 2022/7)

「飯間/日本語研究では「現代語」の定義はまちまちです。驚くのは大修館書店の『講座国語史』(一九七一- 一九八二)で、平安時代以前が「古代」、院政時代からはもういきなり「近代Ⅰ」、江戸時代は「近代Ⅱ」になります。明治時代から「現代」なんです。(…)
 漱石も鴎外も現代作家。明治の言葉も戦後の言葉も文法的にそれほど違わない、というわけです。では、われわれが議論するべき「現代」とはどこからなのか。明治時代からと考えていいのか。それがわからないので、「現代語」もわからない。これが第一の悩みです。
 もうひとつは、この特集もそうですが、なぜわれわれは「現代語について考えよう」などと言い出すのか、昔の人はそんなことは考えなかったんです。」

「飯間/宣長は漢語を徹底して嫌っていましたね。現代で言えば「カタカナ語を濫用するな」と批判する人に似ています。私は宣長とは対極の方向に行っているかもしれません。カタカナ語も俗語も大好きです。(…)自我が肥大して「自分がかわいい、自分の使う言葉が一番大事」で、他人からとやかく言われたくないんですね。世間には日本語警察という人々がいて、「その言葉は間違いです」などと取り締まるのですが、そういう人の文章こそどうなんだ、片っ端から添削してやろうかと思います(笑)。
 川添/面白い(笑)。
 飯間/私に限らず、自我を持ち、自分の言葉に愛着を持っている人は、自分で選んだ言葉を見ず知らずの人から簡単に否定されたくないはずです。「日本語警察」はネットの発達によって誕生した存在ですね。昔は、たとえば高橋義孝さんや池田弥三郎さんのような有識者が「この言葉は間違いだ」と言えば、みんなが「そうなんだ」と従っていた時代がありました。でも、いまはそういう上から目線の発言は炎上するんじゃないかな。」

「川添/「辞書にこう書いてある」というのはすごく安心しますよね。
 飯間/ところが、実はわれわれ辞書を作る人間は言葉を定義している気持ちはさらさらないんです。よく「定義」と言われますが、辞書の説明が定義でないことは、『三省堂国語辞典』を引くとわかります。たとえば、「いちご」は百科事典では「バラ科の多年草」と植物学的に書かれますが、われわれは非科学的にいこうと考えたんです。〈赤い、小形のくだもの。やわらかくて、表面にぶつぶつがある。すっぱくてあまく、ミルクの味と合う〉。
 川添/おおー(笑)。」

「山本/川添さんにうかがいたいことがあります。先ほど、はじめは個人的な用法だった言葉遣いや表現が、やがて人々のあいだにも広がっていくという現象についてのお話がありました。たとえば、あるとき辞書に記載された言葉や表現を見た人が「こんな言葉遣いがあるんだ」と思って自分でも使ってみるとか、家族や友人と喋っているうちに知らない表現に出会って「いいな」と思って真似にするようになったりしますね。また、最近ならインターネット、SNSやチャットなどを通じて同様のことが起きているかと思います。こうした言語の側面はどういうふうに捉えられるものでしょうか。
 川添/まず、既存の言葉の用法や機能が変化していくことと、まったく新しい言葉が出てくることは、区別したほうがいいかなと思います。既存の言葉の変化には、ある程度法則性があることが知られています。たとえば、具体的なことを表す言葉が、時間が経つにつれて抽象的な意味も担うようになるという傾向があります。(…)
 それに対し、「タピる」とか、一発ギャグみたいな新しい言葉が流行るかどうかについては。話者がどういうコミュニティに属しているかという所属意識がけっこう効いているんじゃないかと思います。たとえばタピオカを飲むことを「タピる」という人は、そういうシチュエーションを特別なイベントだと思っている人たちだと思うんですよね。「タピる」という言葉を使うことで、自分がそういうコミュニティに属していることを表明しているのだと思います。お笑い芸人の一発ギャグを口にするのも、「自分はそのギャグを知っていて、なおかつ面白いと思っている側の人間ですよ」ということを示す行為だと思うんです。こういうコミュニティの規模が広ければ広いほど言葉は流行るし、コミュニティの勢いがすっと引くと一気に流行らなくなる。」

「山本/ところで、語彙が生まれてくるのと同様に、語彙が消えていくということがあるわけです。飯間さんが先日Twitterで話題にされていた、辞書から語彙を外すということについてうかがいたいと思います。一方には、人々による言葉の使い方が生まれてきて、それが広がったら辞書にも反映させましょうという側面がある。他方では、一度登録された言葉が、場合によっては辞書から消えることもある。これはどういうことでしょうか。
 飯間/『三省堂国語辞典』が今年(二〇二二)の初めに八年ぶりの改訂版(第八版)を刊行しました。それに先だって、古い言葉を大量に削除したというプレスリリースを流したんです。たとえばMDという記録媒体がありますね。
 山本/懐かしい! ミニディスクですね。
 飯間/ええ、旧版には「MD」の項目があったんですが、いまは誰も使わないだろうと削りました。あるいは、「コギャル」「パソコン通信」、さらには旧ソ連の末期に行われた「ペレストロイカ」(改革)なんかもご退場願った。全部で約一一〇〇語を削除しました。
 すると、メディアで識者に批判されました。「言葉は時代の足跡、レガシーだ。辞書から消してはいけないと思う」と。たしかに、古今のあらゆる日本語を網羅した辞書は必要だと思います。一方、われわれの作りたいのは、現時点の日本語の地図なんです。(…)
 ただ、ここに挙げた言葉が日本語から消えたとは考えません。一般に使われなくなって一〇〇年経ったから「もう使わない言葉です」と言えるかというと、古本をよく読む人にとってはその言葉は消えていないでしょう。「言葉が消える」という表現は比喩的なものでしかない。辞書に加える言葉は増加する一方で、今回も約三五〇〇語を追加したんですが、削除するほうはえらい苦労します。「MD」は削ったけれど、「こたびのいくさ」などと使う「こたび」はどうか。明らかに古いんだけど、時代劇に出てきますよね。
 山本/ということは、『三省堂国語辞典』はある意味で現代語というか、いま広く使われている言葉かどうかを判断しているとも言えるわけですね。
 飯間/『三省堂国語辞典』流の現代語を描き出そうとはしていますね。最初に述べたように、「どこからどこまでが現代語か」は本当にわからないんですが、」

「飯間/「この時代に文法が決定的に変化しました!」ということはなかなかないでしょうね。日本語の歴史上、文法的に大きな変化と言えば、たとえば、係り結びがなくなったとか、動詞の終止形と連体形が同じかたちになったとかいう現象が挙げられます。ただ、係り結びにしても、動詞終止形にしても、何百年という長い時間をかけて、少しずつ変化してきたものです。
 昭和・平成時代の文法的変化の代表といえば、さしずめ、先ほどの「ら抜き」現象の進行でしょうか。でも、「ら抜き」にしても、戦後に急に進んだとか、平成時代に一気に加速したとかいうことはなくて、明治時代あたりから徐々に進行してきたものです。そして、その「ら抜き」はなおも進行中の現象です。そう考えると、昭和の文法、平成の文法に固有の特徴は、そんなにないということになります。
 (…)
 私がいつかやってみたいことがあります。ここに、最近のものらしいが、年代がよくわからない文書があるとします。内容も時事的なことに触れていなくて、文法や語彙の特徴から年代を特定するしかない。自分の知識を総動員して「これは一九八三年ごろの文章です」などと鑑定する仕事ができないかと。
 川添/利き文法みたいな(笑)。
 飯間/あるいは、言葉の時代考証を厳密に行ったドラマも作ってみたいです。一九八三年だったら「ナウい」がこれくらい流行っていたので、登場人物一〇人のうち何人ぐらいに言わせてみようとか。
 川添/ナウいは廃れたのに、ダサいはいまだに言うというのも面白いですね。」

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