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稲垣諭「「くぐり抜け」の哲学/1 くらげの現象学」/「5 至高性のない世界へ(1)」(群像)

☆mediopos2998  2023.2.1

今回とりあげてみた稲垣諭の連載
「「くぐり抜け」の哲学」は

これまで「強さと置き換えられるべきもの」
「克服されるべきもの」としての「弱さ」とは異なり
男性・強さ/女性・弱さといった
ステレオタイプ的な二項対立図式でもない
「弱さの経験」について

「現代における弱さと自らのセクシュアリティを、
人間社会の周縁に存在し、かつ、痛覚も確認されていないため
動物福祉の対象として顧みられることもない「くらげ」の方から」
その「記憶と経験を思考の導きの糸」として考えてみたい
というところから始まっている
(なぜ「くらげ」なのかよくわからないところがあるが面白い)

それは「思考を粘り強く行うこと、
しかも自分だけではない他者の経験をも
くぐり抜けようとしながら弱さについて問うこと」が求められる
(そこにも「うっすらと強さの要請がある」というのだが)

たしかに「弱さ」とはなにかが問われるとき
そこには対比的に「強さ」が問われてしまうが
そうでない「弱さ」について問うことで
なにかが見えてきそうだ

さて「知は力である」といったのは
フランシス・ベーコンだが
その力としての知は「強さ」であり
知らないということはそれに対して「弱さ」となる

しかしヴァレリーには「「知」ろうとするあまり」
「自分のあるがままのものでなくな」り
生きることに没頭できない
人間のあり方に対する不安」があったという

「物事の理解を深めることが、
当初あったその物事との自然な関係性を変えてしまう」のだ

それゆえにヴァレリーは
「こうした人間世界の倦怠を根底から炸裂させ、
まったく別の世界への没入を
可能にするもののひとつ」としてアートを求めた

自然に還れと言うのはたやすいが
実際にそうすることは難しく
わたしたちはすでに自然から離れ
「意味づけや説明といった言語理解や、
有用性や効率性といった社会的なもの」を身につけすぎている

自然に還るということは
そうした日常の思考や動作からなる世界から
離脱するということでもあるからだ

それゆえに
自然から離れた「世界から離脱する」奇跡的な瞬間
バタイユが「至高性」と呼ぶ、「思考と身体を揺さぶり
主体を丸ごと変容させてしまう「強い体験」」を求めるのだが
果たしてそうした体験が必要かどうかがここでは問われている

それは強さとしての知を得ることによって
「生」から離れてしまうがゆえに
そこから自由になるべく
自然へと帰還しようとする「強い体験」を求めるのだが
それはある意味で逆説的に
また別の克服されるべきものとしての「強さ」へと
帰還してしまうことにもなる

それははたして「くぐり抜け」になり得るだろうか
「弱さ」を肯定することになる得るだろうか

さらにいえば「強さ」や「強度」をもとめることなく
そうした「弱さ」を受け入れ
そしてその「生」にふれ
それをともに「生きる」ことができるだろうか

■稲垣諭「「くぐり抜け」の哲学/1 くらげの現象学」
 (「群像 2022年 10月号」講談社 所収)
■稲垣諭「「くぐり抜け」の哲学/5 至高性のない世界へ(1)」
 (「群像 2023年 01月号」講談社 所収)

(「1 くらげの現象学」より)

「現代は、弱さが称揚されている珍しい時代である。これまで弱さは、身体的にであれ、精神的にであれ、克服され、強さと置き換えられるべきものとして価値づけられてきた。ステレオタイプ的な男性の強さと女性の弱さが対置されてもきた。ではしかし、この克服されるべきものとは異なる「弱さの経験」とはどのようなものなのか。現代社会を生きる私たちは、この弱さの肯定について、どこまでそれをくぐり抜け、それと向き合い、受け入れる準備ができているのか、しかもその先に何が待ち受けているのか、本連載では、そんなことを考えてみたいと思っている。

 思考を粘り強く行うこと、しかも自分だけではない他者の経験をもくぐり抜けようとしながら弱さについて問うこと、ここにもうっすらと強さの要請がある。くぐり抜けられる強さと、粘り強さである。だとすれば、弱さに向き合うことなど本当は不可能なのかもしれない。向き合う、受け入れる、肯う、理解する、これら一切を無効にする弱さもあるはずだからだ。

 しかしまだ、急ぎすぎてはいけない。焦りはいつも身体に不必要な力を込めてしまう。もっとゆっくり進んでみる。「弱さ」と「くぐり抜け」という二つのタームを手がかりに、目的が失われてしまわない程度の、それでも壮大な迂回をしながら、思考と方法の舞台を作ることから始めてみたい。まずは、唐突ではあるが、くらげの記憶と経験を思考の導きの糸とする。」

(「5 至高性のない世界へ(1)」より)

「ヴァレリーは巨大くらげに出会う以前から、ダンスについての思考を練り上げていた。研ぎ澄まされたダンスの思考と、当時の最先端の映像技術とが出会うなかで、ヴァレリーが受けた衝撃、それがクラゲの正体である。そのとき彼は、有意味性や有用性に拘束された日常の思考や動作からなる世界から離脱する奇跡的な瞬間を経験する。

 先に挙げた舞踏家の三上賀代が「土方がキリストであることを直感し、「許されて、在る」という思いに慟哭した」、そうした体験でもある。哲学者のバタイユであれ「至高性」と呼ぶ、思考と身体を揺さぶり主体を丸ごと変容させてしまう「強い体験」のことである。

 ダンスであれ、詩であれ、制作行為の鍛練は長い時間が必要となる。ダンスのひとつの動作は、緻密な手順の機械的な反復練習を飽くことなく継続した結果としてしか生まれない。その鍛練の果てに、人間の意図や努力の痕跡を一切帳消しにするような自然さが生まれる。ヴァレリーはそれを調教された馬の運動の軽快さにも比し、「第二の自然」と呼んでいる。

 正直にいえば、私もアート体験というものに、ヴァレリーと近いものを求めてしまう。意味づけや説明といった言語理解や、有用性や効率性といった社会的なものに回収されえない体験や経験を追求したいと思う。そのような新しい世界の可能性を開いてくれるパフォーマンスや作品に出会えたとき、至上の喜びと解放を感じる。この感覚が現在、どれほど人に共有されるものなのかは、確かめてみたいことのひとつである。

 しかし逆からいえば、どうして私たち(これは誰なのだろう?)は、そのようなアートをきっかけとする「強い体験」を求めようとするのか。ヴァレリーによれば、それは私たちが疲労によるのでも、つかの間のでもない「あの完璧な倦怠、あの純粋な倦怠」、すなわち「生きることへの倦怠」にとらわれているからだということになる。この倦怠は、自分自身を知ろうとする反省意識が高じて生じる。ヴァレリーを研究する伊藤亜紗も述べるように、ヴァレリーには「「知」ろうとするあまり生きることに没頭できない人間のあり方に対する不安」がある。

  何のために、死すべき人間は存在するのか?————人間の仕事は知ることです。〔・・・・・・〕それは、まぎれもなく、自分のあるがままのものでなくなるということです。

 物事の理解を深めることが、当初あったその物事との自然な関係性を変えてしまう。物心がつくというあの幼少期、振り返って初めて気づかされるようなことでもあるが、あるいは現代風にいえば、リテラシーが私たちを生から切り離す感覚、もっといえばリテラシーの向上とともに生の苦しみが増えていくようなこの感覚は、私もよく分かる。これは「知らぬが仏」のリテラシー版であり、「知は力なり」という格言への疑念を高めていく。例えばそれは、人権リテラシーが高まるほど世界にあふれる差別的な惨状をより敏感にキャッチできるアンテナが整備され、もう元の世界には戻れなくなるような現象である。SNSアカウントをある日突然消す人の中にもこの感覚はあるだろうし、ここで激しい怒りに転換できればまだ救われている。怒りは苦しみを麻痺させるからである。
(・・・)

 ヴァレリーのいう倦怠が、知によってみずからの生に没入できないことなのだとすれば、こうした人間世界の献体を根底から炸裂させ、まったく別の世界への没入を可能にするもののひとつが、彼にとってのアートである。このアートを求める欲望は、男声のものだけとはいえない、知識を有した人間たちの苦悩とも読める。フロイトであれば人間による「文化への不満」と呼ぶだろう。
 しかしここでは、

 1)自然から分化した人間(主に男性)
 2)自然により近い人間(主に女性)
 3)自然と一体に生きる動物(クラゲ)

 という、すでに扱ってきた三分類へとあえて一般化することで、1)の自然から分化した人間が、2)の舞踏家となって「第二の自然」に没入する人間を通じて、3)のクラゲ=自然と一体になりたい憧憬、もしくは生の倦怠から脱出する方法として理解することが可能になる。この構図から、本連載の最初から論じる対象として3)のクラゲを選択していたことには、隠された動機があったともいえてしまう。クラゲそのものになりたいのだと。これは、一部の男性に固有な逃避にすぎないのだろうか。

 そもそもバタイユが定義する至高性とは、死やエロスを「禁止」することを通して動物性を克服した人間が。再度その禁止を「侵犯」し、動物性へと倒錯的に回帰する瞬間にあたる。芸術体験も含めた不可能で暴力的な「非−知」の体験である。この禁止と審判のなかで生きることが、人間の尊厳を保証する、というのがバタイユの見立てであった。これは、鳥になりたい、貝になりたい、とため息交じりにつぶやくあの日常的な夢想と混同してもいけない。そのほとんどは安定した世界を侵犯するほどの志向な「強い体験」を求めるものではないからだ。

 フランス現代思想から固有に生命論を組み立てる檜垣立哉は、哲学者ドゥルーズの解説書のなかで、同一性(アイデンティティ)を重視する人間基準の知性を捨てて、「狂人になれ!(Be foolish!)」と、それを第一標語としながら、さらに革命的力をもつマイノリティ的主体うぃ生成するために「クラゲになれ!(Be jellyfish!)」と呼びかけているが、これも生の倦怠からくる絶望的な願いであるのかもしれない。

 クラゲの利用はここに至って最高調に達している、と私は思う。憧憬の対象についてほとんど知らないまま、その視覚的形象に自分の願望と解放の欲望を重ねているからである。

 ここまでで、本連載一回目の「くらげの現象学」に戻っていただき、再読してもらえれば、いかにクラゲたちが生きている世界と、人間が利用してきたくらげの形象との間にズレがあるかが分かるようになっている。「観察する側の欲望の投影」がどれほど根深いものであるのかが、他者としてのクラゲをくぐり抜けるには、例えば「クラゲの生」と「くらげの形象」との隙間を埋めるために粘り強くそばにいつづけることが必要である。

 このくぐり抜けの「粘り強さ」に対して、弱さを称揚する現代の社会動向は、それを付嘱させてしまうリスクと表裏一体である。実際それは、とてもしんどいことだからだ。」

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