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松浦寿輝「遊歩遊心 連載第54回「吉岡実のために」」(文學界2024年3月号)

☆mediopos3372  2024.2.10

「いまこそ語りたい『絶版本』はなんですか?」
という問いかけにたいするエッセイをあつめた
『絶版本』(柏書房 2022/9)のなかから
個人的に気になっていた数冊をとりあげたことがあった
(mediopos-3026/2023.3.1)

そのなかの一冊が古田徹也による
『吉岡実詩集』(現代詩文庫)で

「彼の詩をはじめとする良質な現代詩の多くが
書店から消えてしまっているという事実は、
もしかしたら、私たちの言葉について、
言葉に対する私たちの現在のかかわり方について、
何かしら重要なことがらを物語っているとすら思える。」
と述べていたのが印象に残っている

松浦寿輝もまた
「文學界」の連載「遊歩遊心」において

「詩に興味がある人がぶらりと本屋に行き、
棚を見回るうちに吉岡の詩に
偶然出会うという恩寵が生じる可能性は、
ほぼ断たれているという状況なのだ。」

「いつかそのうち『吉岡実論』という一冊の書物を
著してみたいというのが若い頃からの夢だった」
と語っているが

ぼくがはじめて吉岡実の詩にふれたのも
『吉岡実詩集』(現代詩文庫)で
それ以来『サフラン摘み』(1976年)以降
最後の詩集『ムーンドロップ』(1988年)まで
現在進行形の「昭和の大詩人」の紡ぐ言葉から
どれほど影響を受けてきたか知れない

知る限りでは比較的最近
吉岡実の詩がとりあげられているのは
河出書房新社の日本文学全集29『近現代詩歌』(2016年)に
収められている「僧侶」くらいである

かつて刊行されていたいわゆる「文学全集」には
「現代詩」がまるごと一巻分あてられていて
主要な詩人の代表的な詩集が収録されていたりしたが
現在はそういう出版状況ではおそらくなくなっている

手元にある文学全集をひらいてみると
日本文学全集67『現代詩集』(筑摩書房/昭和四五年)にも
全集・現代文学の発見・第十三巻
『言語空間の探検』(学藝書林/昭和五一年)にも
吉岡実『静物』(昭和三十年)が収録されている

それらに収録されている詩人とその詩集は
得がたい詩的言語の経験となってきたのだが
それら多くの詩人/詩集は
吉岡実とおなじく図書館等であえて探さなければ
見つけられないような絶版本と化している

重要な詩人にしても
限られた詩人を除けばその死に際し
たとえば『現代詩手帖』で特集されたりした後は
多くはその後忘却されていく

それはそれで時代の流れではあるのだが
松浦氏の語るごとく
「世の中がどう変わろうと
わたしはもうどうでもいいのだが、
吉岡実の存在の、現代日本の文学空間での
希薄化というこの状況に対しては、
いささかの困惑、不満、憤懣がある。」

松浦氏は吉岡実の詩は
たとえば高校の教科書に載せるような詩ではない
としながらも
「いや、高校生が読んでも本当はちっとも構わないはずだ。
「教科書」とか「学校」といった硬直した制度を
自分のなかで相対化するために、
十代の若者にはそれが必要だとさえ思う。」という

その「相対化」というのは重要である
最初から答えあるいは方向性の
用意されている知識や経験からは
「相対化」の可能性が閉ざされてしまうからである
つまりその「外」をじぶんでひらけなくなってしまう

ある意味で詩の言葉は
日常という閉じた世界の「外」をひらく
想像力を培う鍵ともなり得るが故に
それに寄与し得るような詩にふれる機会が
なくなってしまわないよう願ってやまない

■松浦寿輝「遊歩遊心 連載第54回「吉岡実のために」」
 (文學界2024年3月号)

「吉岡実の詩は今どう読まれているのかということがふと気になり、アマゾンで検索してみると、新刊書で入手できる吉岡の詩集が一冊もないことを知って驚いた。なるほど思潮社のサイトの「在庫一覧」によれば、現代詩文庫の『吉岡実詩集』は「品切重版検討中」、『続・吉岡実詩集』も「残部僅少・美本なし」となっている。詩に興味がある人がぶらりと本屋に行き、棚を見回るうちに吉岡の詩に偶然出会うという恩寵が生じる可能性は、ほぼ断たれているという状況なのだ。

 他方、一九九六年に筑摩書房から出た大部の『吉岡実全詩集』も今では図書館の棚で埃をかぶっているだろう。定価一万二千円だったこの本も現在の古書価格は二万五千円から三万円ほどになっており、これを今さら入手しようとするのはよほどの物好きしかいまい。

 以前のこの欄でわたしは吉岡を「昭和の大詩人」と形容したが、そうした認識はいつの間にか広く共有されるものではなくなってしまったらしい。その理由の一端は、吉岡の詩が「政治的に正し」くもなく、家族愛とも郷土愛とも無縁で、人を勇気づけたり微笑ませたりもしてくれない詩だからだろう。

 たとえば萩原朔太郎にも相当ヤバい詩があり、そっちのほうがじつは彼の本領なのだが、他方、「ますぐなるもの地面に生え・・・・・・」とか「しづかにきしれ四輪馬車・・・・・・」といった比較的穏健な詩想を謳う名品もあって、それで救われてきた部分もある。さあこれで日本語の美しさに目を開かれてくさだいと若者に差し出しても、何の差し障りもないからだ。しかし、「四人の僧侶/庭園をそぞろ歩き/ときに黒い布を巻きあげる/棒の形/憎しみもなしに/若い女を叩く」(「僧侶」冒頭)といった詩を、高校の現代国語の教科書に掲載するわけにはまさか行くまい。

 いや、高校生が読んでも本当はちっとも構わないはずだ。「教科書」とか「学校」といった硬直した制度を自分のなかで相対化するために、十代の若者にはそれが必要だとさえ思う。実際、わたしだって高校生のとき「僧侶」や「死児」を深夜の自室で耽読し、密かに慄いていたのである。しかしそれもこれも、本屋に行けば吉岡の詩集がふつう買えるという基本条件があってこそのことだった。

 世の中がどう変わろうとわたしはもうどうでもいいのだが、吉岡実の存在の、現代日本の文学空間での希薄化というこの状況に対しては、いささかの困惑、不満、憤懣がある。というのも、いつかそのうち『吉岡実論』という一冊の書物を著してみたいというのが若い頃からの夢だったからだ。小説論や詩論をまとめて文学論集をわたしは何冊も出してきたが、吉岡について書いた大小の文章群だけはそのどれにも収録せずに取ってある。いずれ余裕が出来たあかつきには、彼の全文業を端から端まで改めて精読し、魔法によって成ったようなその神品の数々の、意味と構造を徹底的に分析し、畏れ多い言いぐさだがたとえばリシャールの『マラルメの想像的宇宙』に伍するような大著を書いてみたい————そんな思いをずっと温めてきたのである。

 そして、もういい加減取りかからなければ日が暮れてしまうと考え、とりあえずアマゾンで検索したところ、冒頭に書いたような事情を知ったというわけだ。そう言えば、画期的な吉岡実論が出るとか雑誌で吉岡実特集が組まれるといったことも、ここ二十数年、絶えてなくなった。わたしが浩瀚な吉岡実論を書き上げ、さあどうだと鼻息荒く世に問うたところで、その世の中のほうでは吉岡の詩を知っている人がもうほとんどいないという状況になっているとしたら、わたしの意気込みもドン・キホーテの突進のように空回りするほかない。そういうわけで、まずは『吉岡実名詩選』のようなアンソロジーを編み、啓蒙に努めるところから始めようと考えている。」

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