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松岡正剛『うたかたの国』・武満徹「私たちの耳は聞こえているか」 ・『ディキンソン詩集』

☆mediopos-2327  2021.3.31

久しぶりに一昨日のmediopos-2325で
武満徹の言葉と音楽にふれることになったが
ちょうど今日読み終えた
松岡正剛『うたかたの国』のいちばん最後に
武満徹のことがふれられていたので
今日もまた武満徹をとりあげてみることにした
昨日のmediopos-2326の「うた」のこととも関係している

『うたかたの国』は日本の詩歌についての
松岡正剛の著作から「リミックス」されたもので
それを担当したのは米山拓也という編集者であり歌人だ
この「リミックス」は驚くほどよく出来ていて
最近松岡正剛に少し食傷気味だったにもかかわらず
ずいぶん気持ちよくその「組曲」を楽しむことができる

ここでとりあげてみたいのは「耳」であり
「耳」をひらくために必要な「聴く」こと
そしてそこに響いている音と言葉のことである

「私たちの耳は聞こえているか」で
武満徹も示唆しているように
現代人は「世界に遍在している」「うた」を
「聴くこと」から遠ざかり
人工的で機械的な音・音楽や言葉しか
受け容れない「耳」へと傾斜している

「私たちの耳は聞こえ」なくなっているのだ
「聞こえ」なくなった耳が聞くのは
人工的につくれらた喧しく機械的な音・言葉であり
そこには耳をひらけばきこえてくる「うた」はない

武満徹はエッセイで引用している
エミリー・ディキンソンの詩から引かれた言葉を題名にして
《それが風であることを知った》という作品を書いている

エミリー・ディキンソンは
「隠棲にも似た孤独な生活のなかで、
あの豊かな詩的イメージを言葉にした」が
今日の私たちは人工的な情報環境のなかで
想像力を羽ばたかせることのできないままに
眼や耳を機能させることができなくなってきているという

昨今のコロナ禍において
ソーシャル・ディスタンスを保ち
密を避ける「べき」生活は
二つの両極へと人を導くのかもしれない

群れることに飢え
ネットを使ってでも群れようとする者と
「隠棲にも似た孤独な生活のなかで」
むしろ耳を眼をひらき想像力の翼を持とうとする者

「世界に遍在している」「うた」を聴ける者は
いうまでもなく後者の翼を持つ者だろう

■松岡正剛『うたかたの国/日本は歌でできている』(工作舎 2021.1)
■武満徹「私たちの耳は聞こえているか」
 (『武満徹著作集3』新潮社 2000.5 〜 『時間の園丁』所収)
■都倉俊一 訳編『ディキンソン詩集』(思潮社 1993.6)

(松岡正剛『うたかたの国/日本は歌でできている』より)

「音が聴こえてこない文字は無力だ。文字というもの、もともと音から生まれてきたからである。」

「そもそも日本における「うた」とは何なのか。すべての日本的構想の起源なのではあるまいか。」

「一冊の書物から音楽が聴こえてくるなどということは、めったにない。まだしも音楽家ならリルケやヘルダーリンの行間や、あるいは李白や寂室元光の漢詩から音楽を聴くかもしれないが、少なくともぼくにはそういう芸当は不可能だ。
 ところが、武満徹の『音、沈黙と測りあえるほどに』はそういう稀な一冊だった。それも現代音楽かの文章である。なぜこの一冊に音が鳴っているかということは、うまく説明できるような答えがない。けれどもひとつだけ言えそうなことがある。それは武満徹自身が音を作ろうとしているのではなく、つねに何かを聴こうとして耳を澄ましている人だということである。
 それで思うのは、この人はきっと「耳の言葉」で書いているのだろうということだ。いま手元にないので正確ではないのだが。亡くなる数年前に「私たちの耳は聞こえているか」といったエッセイを書いていた。ジョゼフ・コーネルとエミーリー・ディキンソンにふれた文章で、テレビやラジオやウォークマンをつけっぱなしにの日本人がこのままでは耳を使わなくなるのではないかというような危惧をもらしていた。」
「いまのわれわれのカラダは、耳を封印してスタートを切ってしまった近代のカラダであり近代の知じゃないですか。だからその奥にある声の響きを取り出せたときには、近代を一気に超えられる可能性があるんじゃないか。だって、その声はどの時代からやってきたものかなんて誰にもわからないですから。」

(武満徹「私たちの耳は聞こえているか」より)

「ジョゼフ・コーネルは、その六十九年の生涯を、殆ど、ニューヨーク州から外に出ることなく過ごした。住居がある、ロングアイランドのユートピア・パークウェイと、マンハッタンの間の、きわめて限定された空間の中からあの豊穣なイメージが生み出されたことには、たんなる驚き以上のものを感じる。芸術家のヴィジョンや想像力というものは、かならずしも、蓄積された知識等とは関係ないものなのかもしれない。
 そういえば、コーネルが愛した詩人、エミーリー・ディキンソンも、生涯、彼女の住居から出ることなく、隠棲にも似た孤独な生活のなかで、あの豊かな詩的イメージを言葉にした。
 それに較べて、今日の私たちの生活は、無制限に送られてくる人工的な情報を受け容れることに多忙で、それを咀嚼することでさえ倦んでいる。私たちは、今、個々の想像力が自発的に活動することが出来難いような生活環境の中に置かれている。眼や耳は、生き生きと機能せず、この儘、退化へ向かってしまうのではないか。という危惧すら感じる。」
「この世界は、未だに、発見されることを期待しているのだ。」
「遠い記憶が遺伝子に刷り込まれているように、既に、あらゆる歌はうたわれ、私たち(ひとりひとり)が待ち期む美も、世界に遍在している。それらは、実は、私たちの身近な生活環境の中にさえ見いだせるはずのものだろう。」
「私は、作曲という仕事を、無から有を形づくるというよりは、むしろ、既に世界に遍在する歌や、声にならない嘯(つぶや)きを聴き出す行為なのではないか、と考えている。」
「映画も概ねそうであるが、それにしても、テレヴィの音の扱いの無神経さは、日本の場合、酷過ぎるように思う。ニュース報道の背後にまで全く関連性がない音楽や音響が流されて、徒らに視聴者の気分を煽ろうとする。また、私たちもいつかすっかりそれに馴らされてしまっている。こんな状態が永く続くようなら、私たち(日本人)の耳の感受性は、手の施しようが無いまでに衰えてゆくだろう。
 その時は、耳は、もはやなにものをも聴き出すことはない。」
(「毎日新聞」夕刊 一九九四年三月十日)

◎武満徹「そしてそれが風であることを知った」

(エミリー・ディキンソン「それが風であることを知った」)

武満徹《それが風であることを知った》(1992)という題名は、エミリー・ディキンソンの詩からとられている。

雨のように、曲がるまでそれは鳴っていた
そして、それが風であることを知った----
波のように濡れた歩みで
しかし乾いた砂のように掃いた----
それが自分自身を何処か遠くの
高原へ押し去ってしまったとき
大勢の足音が近づくのを聞いた
それはまさしく雨であった----
それは井戸を満たし、小池を喜ばせた
それは路上で震えて歌った----
それは丘の蛇口を引っぱりだして
洪水を未知の国へ旅立たせた----
それは土地をゆるめ、海を持ち上げ
そしてあらゆる中心をかき回した
つむじ風と雲の車輪に乗って
去っていったエリヤのように。

And then I knew 'twas Wind Emily Dickinson

  Like Rain it sounded till it curved
  And then I knew 'twas Wind -
  It walked as wet as any Wave
  But swept as dry as sand -
  When it had pushed itself away
  To some remotest Plain
  A coming as of Hosts was heard
  That was indeed the Rain -
  It filled the Wells, it pleased the Pools
  it warbled in the Road -
  It pulled the spigot from the Hills
  And let the Floods abroad -
  It loosened acres, lifted seas
  The sites of Centres stirred
  Then like Elijah rode away
  Upon a Wheel of Cloud.

「箱のアーティスト」ジョゼフ・コーネル

「箱のアーティスト」ジョゼフ・コーネルの作品から


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