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荘子「坐忘についての問答」/シュタイナー「忘れる」「心のいとなみの隠れた深み」

☆mediopos3445  2024.4.23

『荘子』の内篇にある
「大宗師」七章に
「坐忘についての問答
 身体と感覚を棄てて道と一体になる」がある

孔子と弟子の顔回の会話である

顔回が孔子に
「私、一歩進みました。」といい
「仁義の徳を忘れること」ができるようになったという
それに対して孔子は
「それは結構。しかし、まだまだだね。」という

さらに「礼楽の掟を忘れること」が
できるようになったというときも
孔子は「まだまだ」だという

しかし「坐忘(座ったままで一切を忘れること)」が
できるようになったといったとき
「これからは、私も君に学ばせてもらいたいものだ。」と

坐忘とは
道元の只管打坐における身心脱落のように
「大通(あらゆる物に自由に疏通する道)と
一体となること」である

「忘れる」ということがなぜ重要なのか
ここでは「忘れること」の重要な働きについて
シュタイナーの講義から
「忘れる」と「心のいとなみの隠れた深み」を
ガイドにしながら確認しておきたい

私たちはなにか体験してもすぐに忘れてしまうが
忘れたことつまり
記憶から消え去った表象は意識化できないとしても
それは私たちのなかに存在し
「精神的有機体全体のなかにとどまっている」

その「忘れられた表象」が
意識下でなにをしているのかというと
「エーテル体の自由な部分に働きかけはじめ」
「エーテル体の自由な部分を
人間が使用できるように」するのだという

むしろ「受け取った印象を耐えず意識に保」ち
忘れられないままだと内的な健康にとって有害ともなる

「エーテル体が発達できるのは、忘れるから」であり
「記憶力を増進して、印象すべてを記憶に保っていると、
エーテル体は担うものが増えて内容豊かに」はなるものの
「同時に枯れ果てて」いくのだという

エーテル体を発達させるということは
「人間の身体という道具全体に働きかけ」
「新たな能力を発展させ」るために重要である

つまり体験したことをいったん忘れて
エーテル体が使用できる状態にすることで
さまざまな能力を身につけることができる
ということである
忘れないとその能力を身につけることができない

たとえば私たちが言葉を覚え
読み書きができるようになるのも
その覚えたプロセスをいちど忘れる必要がある
そしてそのプロセスを意識下で
能力としていわば身体化していく

自転車に乗れるようになるときなども
そのための練習のプロセスが忘れられ
意識下で身体化されることで
とくに意識しないでも乗ることができるようになる

上記の「坐忘についての問答」だが
「仁義の徳」にせよ「礼楽の掟」にせよ
それらは忘れられることで身につけられていなければならない

そしてさらに坐忘できるようになったとき
「大通(あらゆる物に自由に疏通する道)と一体となる」

○○について知っている
だけではただの知識にすぎない
検索してでてくるようなただの文字面である

坐忘となることはともかく
なにかを身につけるためには
知識そのものがいちど忘れられ
意識下で身体化され
じぶんのなかから生まれてくるまでになってはじめて
知恵となることができるといえる

そのためにも
学んでは忘れ
学んでは忘れを繰り返し
エーテル体に刻み込んでいくことで
それらを新たな能力として
発展させていかなければならないのである

■荘子「坐忘についての問答」
 『荘子 全現代語訳(上)』(池田知久訳・解説 講談社学術文庫 2017/5)
■シュタイナー「忘れる」「心のいとなみの隠れた深み」
 ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)『こころの不思議』(風濤社 2004/8)

**(「荘子 内篇 大宗師 第六第七章 坐忘についての問答————」より)

*「弟子の顔回が、ある日、仲尼(孔子の字)に向かって言った。「私、一歩進みました。」
 仲尼、「どういうことだね。」
 「仁義の徳を忘れることができるようになりました。」
 「それは結構。しかし、まだまだだね。」
  後日、お目にかかって、「私、さらに一歩進みました。」
 「どういうことだね。」
 「礼楽の掟を忘れることができるようになりました。」
 「それは結構。だが、まだまだだね。」
  後日、またお目にかかって、「私、さらに一歩進みました。」
 「どういうことだね。」
 「坐忘(座ったままで一切を忘れること)ができるようになりました。」
  仲尼ははっと顔を引き締めて、「坐忘とはどういうことかな。」
  顔回、「はい、手足や身体の働きを退け、耳目の感覚作用を除き、己の身体を離れ心知を捨て去ることによって、大通(あらゆる物に自由に疏通する道)と一体となること、坐忘とはこういうことです。
  仲尼、「なるほど、道と一体になれば、一つの物への偏愛はなくなるだろうし、道に溶けこんでしまえば、一つの事への拘泥は生まれないだろう。君はさすがに優れているね。これからは、私も君に学ばせてもらいたいものだ。」

**(シュタイナー「忘れる」(GA107『精神科学的人間学』1908/10〜1909/6 講義)より)

*「人間は忘れます。みなさんは幼児期に体験した無数のことがらを忘れるだけではありません。去年体験したことの多くも忘れます。きのう体験したことのいくつかも忘れているはずです。

 記憶から消え去った表象、みなさんが「忘れた」ものは、みなさんの精神的有機体全体から消え去ったのではありません。きのうバラを見たということは忘れても、バラのイメージはみなさんのなかに存在しています。みなさんが受け取った他の印象も、意識は忘れても、みなさんのなかに存在しています。

 記憶に保たれる表象と、記憶から消え去った表象とのあいだには、大きな違いがあります。外的な印象から形成した表象が意識のなかに生きていることに、私たちは注目します。その表象はしだいに消え去って、忘れられます。しかし、その表象は精神的有機体全体のなかにとどまっているのです。

 忘れられた表象は、何に従事しているのでしょう。意味深い仕事があるのです。エーテル体の自由な部分に働きかけはじめるのです。表象は忘れられると、エーテル体の自由な部分を人間が使用できるようにします。その表象は消化されます。人間が表象を、何かを知るために用いているあいだ、表象はエーテル体の自由な部分に内的に働きかけることができません。表象は忘却のなかへと沈む瞬間、働きはじめます。「エーテル体の自由な部分のなかで、絶えざる働き、絶えざる創造が行われている」と言うことができます。」

*「受け取った印象を耐えず意識に保つ人の場合、忘れられた表象によって養われるべき部分が麻痺したような状態になって、進化を妨げます。人間が夜、横になっても心配ごとに悩んでいるために、意識かた印象を追い出せないといかに有害かが、ここから分かります。その印象を忘れることができたら、その印象はエーテル体に恵みをもたらします。忘却の恵みが明らかになります。無理をして表象を保たずに、忘れることを学ぶ必要があります。忘れられないのは、人間の内的な健康にとって非常に有害です。

 最も日常的なことがらについて語りうることは、倫理的・道徳的なことがらにも適用できます。執念深くない性格が恵みをもたらすのは、ここに基づきます。執念深いと、健康が消耗されます。

(・・・)

 記憶力を増進して、印象すべてを記憶に保っていると、エーテル体は担うものが増えて内容豊かにはなりますが、同時に枯れ果てていきます。エーテル体が発達できるのは、忘れるからです。」

**(シュタイナー「心のいとなみの隠れた深み」(GA61『精神探求の光に照らした人間の歴史』1911/11/23 公開講義)より)

*「私たちの記憶のすべてがエーテル体に固着しています。記憶の担い手になるのは、アストラル体ではなく。エーテル体です。エーテル体は私たちの心魂のいとなみに近いものではなく、物質的身体と結合しています。」

*「人間存在のなかに、超感覚的な存在の核が生きており、それは絶えず内的な力の変化と、外的な人相の変化に働きかけています。そのような超感覚的存在の核が人間に存在し、人間の基盤になっているということを考慮すると、「全生涯にわたって、この中心的な存在の核が、人間の身体という道具全体に働きかける。人間は新たな能力を発展させようとするとき、外的な器用さを必要とするかただ」と、言わねばならないでしょう。

 この中心的な存在の核がしたい組織を変容させて、人間はますます器用になり、理解能力を持つようになります。

 人間の中心的な存在の核が、身体のなかに働きかけます。この内的な存在の核は、身体に働きかけているあいだ、意識のなかにあらわれることができません。その力のすべてが身体組織改造のために注ぎ込まれ、能力として現れます。(・・・)中心的な存在の核が意識のなかに現れる瞬間、人間は初めて、自分のなかで何が起こっているか、心魂のいとなみの隠れた深みのなかで何が作用しているかを知ることができます。

(・・・)

 最初、その能力は明かいんは意識に現れません。その能力は、夢の半意識のなかに注ぎこきます。夢をとおして、隠れた心魂のいとなみは、心魂の意識的な部分に入ってきます。ですから、夢のあと、いつも能力の前進が見られました。その能力は夢のなかで象徴的に表現されます。」

*「人間の中心的な存在の核は、感覚的・超感覚的な身体組織の基盤のなかで働くことができるということを私たちは知りました。人間がある段階までその働きを意識に高め、内的な存在の核の仕事が完成すると、それが夢のなかで表現されます。そして、この活動は力へと変化して、意識的な生活のなかに現れます。下方にあるものと、上方の意識的な生活のなかで生じることとが照応します。なぜ多くのことが意識的な生活のなかに現れることができないのかも、私たちは知ります。人間がまだ器官形成のために必要とするものは、意識のなかに入ってくることはできないからです。人間は能力を改造して、その能力を意識的ないとなみのための道具にしなければなりません。

 人間の中心的な存在の核が、いかに人体に働きかけるかを、全生涯をとおして観察できる、と私たちは言うことができます。人間が幼年期に内から外へと成長するとき、個我意識が入ってくるまで、つまり人間がのちに思いだすことのできる時点まで、この内的な存在の核が人間に働きかけます。その存在の核が、のちにも人間に働きかけます。人間の存在全体が変化します。人間が心魂のいとなみのなかで体験することは、意識の上がらずとも、人間のなかで創造的に活動しています。また。あるときは、心魂のいとなみが創造的に活動して、意識的な活動へと高まっていきます。私たちが意識の上部領域に属するものと、意識下、つまり心魂のいとなみの隠れた深みにやすらうものとのあいだに関連があります。

 人間は上部意識で夢見ているものとはまったく異なった言語を、心魂のいとなみの隠れた深みは語り、まったく異なった叡智を展開します。人間の意識は、意識に映る「事物の悟性」に符合するものとは考えられません。ここから、人間におけるのとは同じ意味で理性的に解明できないところにも、理性が活動・支配しているのが見て取れます。」

*「心魂のいとなみの隠れた深みに下っていくことによって、私たちはファンタジーの領域に突き進み、さらに明視の領域と、存在の秘密の領域に入っていきます。自らの心魂のいとなみの隠れた深みを通過していくことによってのみ、私たちが霊的・超感覚的な存在の深みに到ります。」

*「本当に世界は謎に満ちている、と私たちは言うことができます。人間の意識のなかに入ってくるものは、心魂のいとなみの表面にすぎない、と私たちは言うことができます。しかし、正しい方法を用いれば、人間は生活の表面をとおして心魂の核にまで突き進めます。人間は心魂の深みに突き進むと、同時に、宇宙のいとなみを展望できます。

(・・・)

 ただ人間は、隠れた内部を自分で見出さねばなりません。精神科学は、心魂のいとなみの隠れた深みを示唆することによって、単なる外的な科学とはまったく別の感受を人間のなかに呼び起こすことができます。

(・・・)

 正しい方法で外的な生活と内面生活を比べると、私たち自身の内的な心魂のいとなみのなかに隠れた力が下方で活動しているのを感じます。その力は通常の意識の狭い輪のなかには突き進みません。しかし、地震のときに力が表面に突き出るように、地下の心魂の力が意識のなかに現れでます。

(・・・)

 自分自身を謎として把握する勇気を持ち、心魂を知覚の道具へと高めようと努めると、宇宙の霊性のなかでも大きな謎が解かれ、満足と人生の確かさに到るという希望と確信を持つことができます。」

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