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稲垣諭「連載「くぐり抜け」の哲学13マイクロ・カインドネスを信じる」(群像 2023年10月号)

☆mediopos3230  2023.9.21

稲垣諭の「群像」での連載
「「くぐり抜け」の哲学」が
今回の第13回で最終回を迎える

第1回と第9回は
mediopos2998(2023.2.1)と
mediopos3106(2023.5.20)で取り上げた

「弱さ」とはなんだろう
そしてその「弱さ」を「くぐり抜け」るためには
なにが必要なのだろう

「弱さ」を受容することができないとき
「弱さ」はともすれば他者への攻撃へと転じる

戦争の起こる原因が
侵略あるいは被害を受けるかもしれない
という被害妄想から起こりやすいことと
似ているかもしれない
(攻撃は最大の防御であるというように)

ひとは他者からの「承認」や「評価」が
じぶんの望んだかたちで得られないとき
じぶんは「弱者」だと感じ

ともすればその「不幸」は
じぶんだけが被っているものだと思い込み
その「物語」から抜け出せなくなる

その「物語」は「承認」や「評価」のそれだから
承認し評価する存在は
自分よりも「上」に位置している必要がある

自分が「承認」も「評価」もしていない人から
そうされてもそれは意味をもち得ない

したがって「承認」「評価」は
基本的に「上と下」「強者と弱者」といった
価値の階層とでもいったことが前提となっている

そして「承認」や「評価」を与えてくれるはずの存在が
そうしてくれないとき
そしてそれらの存在への直接的な攻撃ができないとき
その攻撃の対象はじぶんより「弱い」存在へと向かう

連載からの引用で
「無差別に不特定の他者を巻き込む犯行に及んだ
男性たちの」発言を挙げておいたが
それらの「犯行」は「女性や子どもといった
明らかに自分より弱いものを狙った
犯行であることが多い」ように

そうしたじぶんを「弱者」だとし
それが攻撃性へと転化してしまう人たちは
「害を被る他者に対する
「共感性が乏しい」ともいわれる」が
そうではないのではないかと稲垣諭は示唆している

「彼らは逆に、他者が発する情報にあまりに
同調しすぎていてからではないか。
社会にとっての理想や規範に強く共感してしまうからこそ、
社会的身分が安定しない、友人がいない、パートナーがいない、
そうしたことへの社会的圧力を真に受けてしまう。
そして、そうなれない自分が逆照射され、絶望する。
彼らほど共感的な人間はいないとさえ、私には思える。
ただしその共感があまりにもエゴイスティックなだけである
(共感はそもそもエゴイスティックである)」

ここで示唆される「共感」は
「承認」「評価」に関する「共感」ということだろう
その「共感」から自由になることができないでいる

その「物語」に住んでそこから出られないような
そんな「弱さ」を抱えた私たちを支えてくれるのは
ほんのささいな「親切行為」である
「マイクロ・カインドネス」ではないかと
稲垣氏は示唆している

しかし逆にいえば
そうした「マイクロ・カインドネス」が
次第になくなってきているからこそ
じぶんの「弱さ」を受容できなくなっているのだともいえる

世に蔓延する「配慮」は
ともすれば「空気」の強要ともなりがちだからである

■稲垣諭「連載「くぐり抜け」の哲学 13マイクロ・カインドネスを信じる」
 (群像 2023年10月号)

「本連載は「くらげ」をめぐる思考から始まった。そしてこのくらげには「弱虫」や「へたれ」、「優柔不断」という意味が込められていた。まさに「くらげ」こそ、共感から取り残され、からかいの中にとらわれていた他者だったともいえる。そのくらげから始まり、他者を傷つけると同時に傷ついてしまう「取り残されていく人々」の経験をくぐり抜けて、たどり着いた場所は、とりわけ男性というセクシュアリティに顕著な強さの理想や体面の裏側にぴったりと貼り付いた弱さの経験である。私たちがこの弱さと向き合い、それを受け入れるかどうかが、「男性性の終わり」、「至高性のない世界」という仮説の未来を占うことになる。

 苦しいときに自分よりも弱いものを見定め、蔑み、からかうことができれば、その場かぎりでは自分の強さに酔いしれることができるかもしれない。しかしその弱さが呼び寄せた見せかけの強さは、めぐりめぐって他者を巻き込み、残酷な苦しみを蓄積させるからかいのプレイを増殖させるだけである。その鬱屈は、社会に対する攻撃性として発露の機械を窺う感情にしかつながらないだろう。

 それに対して、弱さの経験を強さで塗りつぶすことなく、苦しいのだと声をあげ、声をあげた人に手を差し伸べる。そうしたマイクロ・カインドネスが満ちた世界、私たちはそれこそを「人間のふるさと」として理解すべきではないだろうか。」

「物を取ってあげたりしたとき、私たちは自分の善行に少し気分がよくなるはずだが、そのとき相手がどう感じているかについてはあまり深く考えない。相手も突然の親切に驚いたりしていて、そこまで丁寧な謝意が伝えられるわけでもない。そのようにして私たちはマイクロ・カインドネスのインパクトを見過ごしてしまう。

 しかしどうやら、このほんのささいな親切行為は、見知らぬ相手の幸福度を持続的に高めるだけではなく、その後、親切を享受した人がその後より寛大になるよう促してもいる。その場かぎりで突然起こる、直接の見返りもない善行が、めぐりめぐって世界のやさしさの総量を増大させている。そのことを私たちは強く新じていい。

(・・・)

 たった一つの行為で世界は何も変わらないだろう。しかしこの小さな手助けの相互性が、世界の根底で人間のつながりを保証していると夢想することができる。しかもあなたのその行為、声かけ、挨拶が、他者を介して世界の無数の場所で繰り広げられていくとすれば、こんなに素晴らしいことはない。私たちの社会が抱えている傷を癒やすのが、そして「弱さ」を抱えた私たちを支えてくれるのは、ほんのささいなマイクロ・カインドネスなのかもしれない。

「  みんなが、ぼくを醜男だと言って、ぼくが弱虫でいじけていると言って、笑い物にする・クッソッタレめが、今み見ていろ。こっちからやりかえしてやる。

   自分の唯一の居場所がなくなって自分の存在が殺されたと感じ、「みんな死んでしまえ」と思うようになった。

   医者になれないなら自殺しよう、人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと考えた。

   自分のことをぼっち(独りぼっち)とバカにしていると思った。

   僕だけ不幸だなと。僕だけ割食っている。自分だけ貧乏くじを引いた。それが歪んで世の中への憎しみに変わっていったと思う。

   周りは大人になって、どんどん自分のことを決めていっている。成功すると思っていた人たちは、みんmな大卒で家族もできて、働いて幸せそう。僕以外はみんな幸せそうだり、僕だけが大失敗した。自分の中に『頼むから世界が終わってくれないだろうか』、心のどこかで『もう終わってほしいな』と。

 これらは、無差別に不特定の他者を巻き込む犯行に及んだ男性たちの思考ならびに発言である。無差別とはいっても、このような事件は女性や子どもといった明らかに自分より弱いものを狙った犯行であることが多い。彼らがおこなったことは、絶対的に社会が許容できるものではなく、その責任を負うべき犯罪行為である。被害者となり、亡くなった人々は戻ってくることは決してなく。遺された人々、社会に消えることのない傷を負わせたことが償いようもない。

 そのことをはっきりと認めたうえで、こうした犯行が今後起きない社会を願い、予防の思考や対策をおこなっていく必要がある。しかし、そのためにはどうすれなよいのか。彼らの共感しなくてもいい、それでも彼らがどのような生を生きていたのか「くぐり抜ける」ことはできるはずである。彼らの攻撃性に向き合うためにも、彼らの発言の奥にある経験に触れる手を作ってみる必要がある。

 私は連載の第一回で「克服されるべきものとは異なる「弱さの経験」とはどのようなものなのか」、「弱さの肯定について。どこまでそれをくぐり抜け、それと向き合い、受け入れる準備ができているのか」と問うていた。冒頭に挙げた男性たちは弱かったといえるのだろうか。絶望の果てで、攻撃性へと転化せざるをえない強さを希求してしまうこと、そこに「弱さ」という経験の確信があるように私には思える。

 社会からの拒絶や孤立を感じて、どうしようもなくいたたまれない気持ちをもつことは誰にでも起こりうる。しかし、こうした感情を鬱屈させたとしても、ほとんどの人は犯行には至らない。

 強い恨みを抱いた特定の人ではなく、無関係な他者を巻き込みたいという思考や行動は男性の犯行に極めて多い。(・・・)どこまで追い詰められれば。あるいは、その人の過去にどんなことが起きれば、そうした思考や行動に至るのか。

 彼らは害を被る他者に対する「共感性が乏しい」ともいわれる。しかしこれは、私は違うのではないかと感じている。そもそも他者に対する共感が乏しければ、個として自活し、なるべく他者に関わらず、迷惑をかけられないように生きていく道を探すこともできたはずである。

 しかしそうしなかったのは、むしろ彼らは逆に、他者が発する情報にあまりに同調しすぎていてからではないか。社会にとっての理想や規範に強く共感してしまうからこそ、社会的身分が安定しない、友人がいない、パートナーがいない、そうしたことへの社会的圧力を真に受けてしまう。そして、そうなれない自分が逆照射され、絶望する。彼らほど共感的な人間はいないとさえ、私には思える。ただしその共感があまりにもエゴイスティックなだけである(共感はそもそもエゴイスティックである)。

 この社会には、まちがいなく数々の競争が仕掛けられている。大学受験に失敗することも、希望していた企業に就職できないことも、意中の人から好意を向けられないことも、少なくない人々に起こることだ、あるいは、生まれ育つ家庭の経済状況において「親ガチャ」と呼ばれてもおかしくない不平等も確実に存在している。このような場面で、身近な人が落胆し、「弱さ」を経験しているとき、私たちはどんな声をかけるのがよいだろうか。あるいは、自分がそのような状況におかれたとき、どうやってこの「弱さ」に向き合うことができるだろうか。これは実はとても難しい問題である。ゲームのように規則がわるわけでもない。むしろ、マニュアル的な対応ほど人を傷潰えてしまうこともある。

 身近な人が自分の弱さに苛まれ、絶望しているとき、「大丈夫だよ」、「次がまたあるから」。「失敗は糧にできる」等々の声かけをすることもあれば、何も話さずにただそばにいつづけることもあるだろう。どれが正解であるのかは決定できないにせよ、いずれも明らかに間違っているわけではない。それに対して、その苦しみの渦中にある人の想いを逆なでするような「からかい」だけは絶対にやるべきではない、と私は想う。冒頭の男性たちの言葉には「からかい」による傷つきが多分に感じ取れるものがある。」

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