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成田正人「遊びのメタフィジックス~子どもは二度バケツに砂を入れる~」 第二回 遊びの理由・遊びのメタフィジックス・第三回 遊びでしかない遊び

☆mediopos3349  2024.1.18

朝日出版社ウェブマガジン
「あさひてらす」で連載されている
成田正人「遊びのメタフィジックス」の
第一回「子どもの遊び」(2023.11.29)については
mediopos3302(2023.12.2)でとりあげているが
今回はその続き

前回は遊びには理由や原因がないのかもしれず
遊びを自由な行為であるとするとすれば
遊びの原因を求めるべきではないかもしれない
ということが示唆されているのをうけて

大人になってからでも
原因を求めることなく遊び続けることが
自由な人間であり続けるための
必要条件だともいえるかもしれない
そうとらえてみた

今回はその第二回目
「遊びの理由・遊びのメタフィジックス」と
第三回目「遊びでしかない遊び」から

第二回目「遊びの理由(第一回を受けた後半)」では
「目的があって遊ぶ」ときにも
それが「自由な行為」でありうるかどうかが論じられ
目的を達成する手段は遊び以外にもありうることから
「遊びはなお自由な行為でありうる」としている

「仮に目的があって遊ぶとしても、
遊びはなお自由な行為でありうる。
遊びはしなくてもよい」からである

続いて論じられる「遊びのメタフィジックス」では

遊びとは「それ自身のためにのみ行われる」もので
「遊びは、遊び以外の何かのために為されるのでなく、
まさに遊ぶこと自体のために為される」ということから
遊ぶこと以外に別の目的がない遊びを
成田氏は「本当の遊び」と呼ぶ

そうした「自己目的的な遊び」は
「形而上学的(メタフィジカル)に
探求されねばならない」という
「自然科学的(フィジカル)な世界は
どうしても原因と結果の関係に巻き込まれる」からである

「本当の遊びは、因果的な枠組みを逃れ、
それゆえに自然科学(フィジックス)を超える」

続いて第三回「遊びでしかない遊び」では

「私たちがここで探求したいのは、
他の何かで(も)ありうる遊びでなく、
遊びでしかない遊びである」とし

「遊びでしかない遊びでなくても、遊ぶことはできる」が
「遊びでしかない遊びを遊ぶことは、大人にはできない」

「子どもは遊び自体を目的にそれだけを遊べる」
「遊びでしかない遊びを遊べるのが子ども」なのだという
「遊びでしかない遊びが遊べなければ、
子どもに見えても、実はもう子どもではない。」

ここでいわれている子ども/大人は実際のそれではなく
「遊びでしかない遊びを遊べる」か否かの違いである

では「遊びでしかない遊び」とはどのような遊びなのか
「遊ぶことだけを目的に遊ばれる、遊びでしかない遊び」・・・

今回はここまでが論じられているが

「マルコ福音書」にあるように
それは「(金持ちが神の国に入るよりも)
らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」のだろうか

大人が「遊ぶ」とき
そこには遊びそのものではない
さまざまな理由があって遊ぶ

「知る」というときにも
知ることそのものではなく
さまざまな理由があって知ろうとするように
そして「愛する」というときにも
愛することそのものではなく
さまざまな理由があって愛するように・・・

しかし視点を少しばかり変えてみれば
遊ぶことも知ることも愛することも
ほかのさまざまな理由がある「にもかかわらず」
それでもそれらの理由をすべて度外視して
遊び知り愛するということができ得るならば

それこそが「大人」を超えた「大人」としての
「自由な人間」であり得るのではないか
と思うのだがどうだろうか

■成田正人「遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~」
 第二回 遊びの理由・遊びのメタフィジックス(2023.12.12)
 第三回 遊びでしかない遊び(2024.01.11)
 (朝日出版社ウェブマガジンあさひてらす)

(「第二回 遊びの理由・遊びのメタフィジックス」〜「遊びの理由(後半)」より)

「では、「なぜ遊べるのか?」の問いに、遊びの目的をもって答えたら、どうだろうか。

 たとえば、子猫が遊びながら狩りの練習をするように、いずれ大人になって社会で生きるために、子どもは遊んでいるのかもしれない。明らかに(人間の)子どもは大人をまねて遊ぶことがある。おままごとは家庭をまねているし、お店屋さんごっこは商売をまねている。また、キッザニア(KidZania)のように、まさに子どもが遊びながら大人の社会を体験できる施設もある。

 あるいは、美的仮象を創造したり享受したりするために、私たちは遊ぶのかもしれない。たしかに、絵を描いたり見たりして、あるいは、歌を歌ったり聞いたりして、私たちは遊ぶことがある。また、もしかしたら、ホイジンガの言うように、そもそも「遊びには美しくなろうとする傾向がある」のかもしれない。すると、おままごとでお母さんになる子どもと、舞台でハムレットを演じる俳優が、本質的に同じことをしていることになるように、遊びと美しさは互いに分かちがたく結ばれることになる。子どもの遊びからも美は生まれ、芸術家も美のために遊ぶからである。だとすれば、遊びとはそもそも美的な行為であるのかもしれない。

 なるほど、何か目的があって遊ぶのなら、遊びはなお自由な行為でありうる。というのも、遊びに目的があるとしても、それを達成する手段は遊び以外にもありうるからである。たとえば、大人として社会で生きる術は、むしろ学校教育の中で学んで身に付けるべきかもしれない。また、美しい芸術に触れること自体が、そもそも必要ない人もいるかもしれない。だとすれば、美の手段である遊びもまたその人には必要のないことになる。以上から、遊びが何かの手段であるなら、遊びはやはり自由な行為であることになる。そのときには遊ばなくてもよいからである。

 とはいえ、行為の目的は、行為の結果として、定められなければならない。――さもなければ、いかにしてそれを狙えるのか。――なぜなら、遊びの目的は、それが遊びの結果として生じるときに、果たされるからである。すると、遊んだ結果それが起こるのなら、それの原因として遊んでいなければならない。しかし、もちろん、遊びの目的は、遊んでいるときに、すでに果たされているわけではない。(もしそうであれば、そのために遊ぶ必要はなくなる。)遊ぶときには、遊びの結果はまだ出ていない。だから、それは、遊んでいるときには、遊びの結果でなく、遊びの目的であるにすぎない。そして、遊びもまた、それの原因でなく、それの手段であるにすぎない。

 手段と目的の関係は、(原因と結果の関係と違って、)必然的であるとはかぎらない。そもそも、すでに達成していることは、目的になりえない。だから、手段が講じられているときには、むしろ目的は果たされていてはならない。目的があって遊ぶとき、それは、果たされていてはならないし、それゆえに果たされるとはかぎらない。手段は目的を達成しないかもしれない。遊んでも何にもならないかもしれない。それにもかかわらず、私たちは遊ぶことができるのである。だとすれば、仮に目的があって遊ぶとしても、遊びはなお自由な行為でありうる。遊びはしなくてもよいのである。」

*****

(「第二回 遊びの理由・遊びのメタフィジックス」〜「遊びのメタフィジックス」より)

「ところが、遊びの目的については、従来の遊び論に共通する有力な見解がある。すなわち、遊びとは「それ自身のためにのみ行われる」ものである。こうした遊びの自己目的性はもちろんホイジンガにも共有されている。彼によれば、「遊びはそれだけで完結している行為であり、その行為そのもののなかで満足を得ようとして行われる」。遊びは、遊び以外の何かのために為されるのでなく、まさに遊ぶこと自体のために為されるのである。

 これは明らかに直前の論旨に反する。つまり、私たちは、遊ぶこと以外の別の目的のために、遊ぶことができるのではなかったか。それとも、本当の遊びには、遊ぶこと以外に別の目的があってはならないのか。

 ここで私は後者の遊びをあえて「本当の遊び」と呼びたい。なぜなら、それ自体が目的である遊びは、遊びでしかないからである。もちろん前者の遊びも遊びではあるだろう。しかし、それは、遊びでもありうるが、他の何かでもありうる。たとえば、ライオンの子は、狩りをして、遊んでもいるが、学んでもいるだろう。また、美しい絵を描く人は、遊んでいるのかもしれないが、働いているのかもしれない。

 でも、どうして学習や仕事でさえ遊びになるのだろうか。それはおそらく、どんなことであれ、(それが自由な行為であるなら、)それ自体を自己目的的に楽しむことが(なぜか)できるからである。だから、ここで私たちが探求すべきは、自己目的的な遊びなのである。私たちは遊びでしかない遊びを探究すべきである。

 もちろん、自己目的的な遊びを遊ぶことは(少なくとも私には)至難の業である。というのも、私たちは――おそらく人間の自然本性レベルで――あらゆることを因果的に捉えてしまうからである。たしかに、どんな遊びであれ、それ自体としては自己目的的であるだろう。しかし、私たちが、それを手段とし、別の目的に結び付けてしまうとき、それはすでに原因と結果の関係に巻き込まれてしまっている。遊びの目的は、遊びの結果として生じるときに、果たされるからである。また、(さらに悪いことに)遊びの原因が求められることもある。だが、そのときには、それは、もはや自由な行為ではなく、したがって遊びでもなくなるのである。ようするに、「遊びは、遊びが行われる文脈や遊びが招く結果、あるいは遊びをするために作り出された物や場所から、簡単に引き離せる活動ではない」 。どんなことであれ、原因と結果の関係に巻き込まれうるからである。

 それでも、自己目的的な遊びが探求されなければならない。というのも、手段より目的が求められるなら、自らを目的とする遊びは、他の何の手段でもなく、それゆえにもっとも求められるはずだからである。アリストテレスによれば、幸福(エウダイモニア)はそれ自体のために求められる即自的な活動であるが、遊びもまた、それ以外の何かのためでなく、それ自体のために求められる即自的な活動である。(とはいえ、結局アリストテレスはすぐに遊びを労働のための休息と見直してしまうのだが。)だとすれば、自己目的的な遊びもまた(幸福のように)それ自体で最高に求められるはずである。だから、自らを目的とする遊びが探求されねばならないのである。

 では、自己目的的な遊びはどのように探求されるのか。それはもちろん形而上学的(メタフィジカル)に探求されねばならない。というのも、もしそれが自然科学的(フィジカル)に探求されるなら、それは因果的に探求されることになるからである。西村清和は『遊びの現象学』で次のように書いている。

  (…)科学的精神は、観察された所与事実の根拠としての因果性を究明する。いまや、ひとはあらためて、遊び行動という、生物学的、心理・生理学的事実のかくされた根拠を、したがって、「ひとは、なぜ遊ぶか」という原因を、また「ひとは、なんのために遊ぶか」という目的因を問う。

 ようするに、遊びを必然的に引き起こす原因も、遊びの結果として果たされる目的も、自然科学的(フィジカル)に探求される。しかし、それ自体が目的である遊びには、それ以外の原因はもちろん、それ以外の目的さえあってはならない。本当の遊びは、因果を逃れ、即自的にのみ為されるのである。

 したがって、私たちはここで新たな遊びの理由を考えたいわけではない。というのも、「なぜ遊ぶ(ことができる)のか?」の問いには、遊びの原因か遊びの目的をもって答えることになってしまうからだ。でも、遊びの原因をもってそれに答えるなら、遊びはしなくてもよい自由な行為ではなくなってしまう。また、遊びの目的をもってそれに答えるなら、遊びは自らのための即自的な活動ではなくなってしまう。だから、自由かつ即自的な遊びには、原因も目的も(すなわち理由も結果も)ありえない。しかし、私たちはそれを探究したいのである。

 それゆえに、私たちは、自然科学(フィジックス)を超えて、すなわち形而上学的(メタフィジカル)に、遊びを探究すべきである。なぜなら、為されない自由があるのに、即自的に為される遊びを、私たちは探求したいからである。自然科学的(フィジカル)な世界はどうしても原因と結果の関係に巻き込まれる。しかし、子どもは本当の遊びを、遊ばなくてもよいのに、遊ぶためにのみ遊ぶことができる。そして、本当の遊びは、因果的な枠組みを逃れ、それゆえに自然科学(フィジックス)を超える。だから、本当の遊びは形而上学的(メタフィジカル)に探求される。むろんそこでは「なぜ本当に遊べるのか?」と問うことはできない。そこに因果はないからである。そうではなくて、そこで問われるべきは、「本当の遊びとは何なのか?」である。これを形而上学的(メタフィジカル)に探求することが本連載の目標である(が、ここでこそむしろ本当に遊んでみたいものである)。」

*****

(「第三回 遊びでしかない遊び」より)

 子どもは事実よく遊ぶが、実は大人だって遊ぶことはできる。なぜなら、私たちの自由な行為は、何であれ(なぜか)遊びになりうるからである。だが、大人は遊びでしかない遊びを遊ぶわけではない。たしかに、どんなことあれ、それ自体が目的であるのなら、それは他の何の役にも立たないという意味で遊びでしかない、といえる。――とはいえ、それが本当に遊びであるためには、それ自体が目的であるだけでなく、そこに何らかの〈おかしさ〉もなければならない。すなわち、つまらない遊びは本当の遊びではない。だが、遊びの〈おかしさ〉が何なのかは、いずれ本連載のどこかで論じるつもりなので、ここでは棚に上げておく。――しかし、何の役にも立たないことを大人は本当にできるだろうか。理由なき行為を大人はできるだろうか。

 むろん大人の中にもよく遊ぶ人はいる。たとえば、暇があるとスマホでゲームに興じる大人も珍しくはないし、夜な夜なeスポーツのトレーニングに励む大人もいるだろう。また、もちろん、ビデオゲームなんてなくても、恋人と遊園地に行ったり、一人でキャンプをしたりして、遊ぶこともできるし、さらには、ジムで汗を流すことも、推しのグッズを買うことも、遊びでありうる。あるいは、友人との会食も、家族での旅行も、遊びであるかもしれないし、お酒を飲み過ぎて終電を逃してしまったり、ギャンブルにお金を使い過ぎてしまったりするかもしれない。このように大人だってたくさん遊ぶことはできる。

 けれども、こうした大人の遊びには、往々にして遊び自体とは別の目的が伴われる。たとえば、大人がゲームをする目的は、気晴らしであるかもしれない。また、大人が走るのは、健康のためであるかもしれない。推し活や家族旅行は、推しや家族を喜ばせるために、しているのかもしれないし、お酒をつい飲み過ぎてしまうのは、何か嬉しいことや嫌なことがあったからかもしれない。かくして、大人は遊びでしかない遊びを遊ぶことができない。大人の遊びは、遊びでもあるが、それとは別の目的をもつ。というのも、大人は自らの行為の結果を見据えてしまうからである。大人の目には物事は互いに因果的につながって見えてしまうのである。

 すると、大人の遊びとは、そもそも複合的なものであるのかもしれない。たとえば、友人とカフェでおしゃべりをするとき、私たちは何をして遊びたいのだろうか。つまり、友人とのおしゃべりこそがその遊びの目的であって、カフェでの飲食はそれを盛り上げるための手段なのだろうか。あるいは、そのカフェに行ってみたかったから、友人に付き合ってもらったのだろうか。それとも、実は、相手も場所もさして重要でなく、たんにおしゃべりをして遊びたいだけなのか。いや、どれか一つが目的であるわけではない、と言いたくなるかもしれない。だが、そう言いたくなるのは、大人だからなのである。大人はつい物事を(因果的に)つなげてしまう。大人にとっては、何が遊び自体であるのか、そもそも明らかでない。

 それゆえに、遊びでしかない遊びを遊ぶことは、大人にはできない。つまり、何であれ、何かをして遊ぶときに、それ自体のみを目的として遊ぶことが、大人にはできない。なぜなら、大人は、それを手段とする他の目的をもってしまったり、それ以外のこともつい一緒にしてしまったりするからである。

 だが、子どもは遊び自体を目的にそれだけを遊べる。すなわち、遊びでしかない遊びを遊べるのが子どもなのである。だから、大人に見える人が、遊びでしかない遊びを遊んでいたら、実はそれは――大人に見えても――子どもなのである。遊びでしかない遊びは子どもにしか遊べないからである。

 もちろん同じことは子どもについても言える。遊びでしかない遊びが遊べなければ、子どもに見えても、実はもう子どもではない。たとえば子どもはボールを蹴るだけで遊べる。これは遊びでしかない遊びである。しかし、それがサッカーであるのなら、それは、スポーツでもあるのだから、遊びでしかないわけではない。むろん私たちはサッカーをして遊ぶことはできる。しかし、それはただボールを蹴って遊んでいるわけではない。そこでは、ボールを蹴ること以外に、勝つことが目指されなければならない。というのは、そもそも、勝つことが目的でなければ、(競技)スポーツでもなく、それゆえにサッカーでもなくなってしまうからである。サッカーをして遊ぶ子どもは、遊びでしかない遊びを遊んでいるわけではない。サッカーをして遊ぶことは、大人にもできるし、むしろ大人の遊びなのである。

 だから、遊びでしかない遊びでなくても、遊ぶことはできる。私たちはビデオゲームで競うことも遊ぶこともできる。サッカーは、スポーツでもあるが、遊びでもある。また、私たちは、絵を描いても遊べるし、歌を歌っても遊べる。お酒を飲むことも遊びになるし、友人とのおしゃべりも遊びになる。あるいは、勉強だって、仕事だって、遊べる人はいるかもしれない。すると、どんなことでも遊びに(も)なるのはなぜか、と問いたくなるかもしれない。だが、すべてを遊びに変える遊びの条件なんて本当にあるのだろうか。もしかしたら遊び(Spiele)は「ひとつの家族をつくっている」だけなのかもしれない。つまり、すべての遊びに共通する遊びの本質なんて本当はなくて、大小さまざまな類似性が、遊びとされることの間で、「重なりあい交差しあいながら、複雑なネットワークをつくっている」だけなのかもしれない。だから、(ビデオ)ゲームで遊ぶときには、スポーツのような勝ち負けがあるかもしれない。また、ギャンブルにも勝ち負けはあるが、ギャンブルが(適度な)スポーツのように健康によいわけではない。しかし、ギャンブルも(ビデオ)ゲームも楽しいかもしれないし、ただボールを蹴るだけでも楽しいかもしれない。そして、ボールを蹴ることは明らかにサッカー(というスポーツ)に似ている。

 さて、さまざまな遊びが家族的に類似するのなら、すべてを遊びにする遊びの条件も、すべての遊びがもつ遊びの本質も、本当は(探求すべきで)ないのかもしれない。だが、私たちがここで探求したいのは、他の何かで(も)ありうる遊びでなく、遊びでしかない遊びである。(したがって、私たちはここで遊びとされるすべてに目を通す必要はない。)たしかにあらゆることが遊びに(も)なりうる。しかし、あらゆることが常に遊びで(も)あるわけではない。健康のために歩くことは、運動であって、遊びではない。スポーツは、勝敗にこだわると、遊びでなく、競争になる。誰かのために歌を歌うことは、遊びではなく、お祝いや弔いであるかもしれない。勉強や仕事はそもそも遊びではない。

 だが、世界には遊びでしかないことがある。なぜなら、それ自体が目的であるような(自由な)遊びがありうるからである。むろん何であれ遊びにはなりうるが、他に目的がある大人の遊びは、競争や勉強といった他の何かでもありうる。しかし、遊びの中には遊びでしかない遊びがある。それ自体が目的である子どもの遊びである。

 では、遊びでしかない遊びとは、一体どのような遊びなのだろうか。もちろん、それを哲学的ないし形而上学的(メタフィジカル)に描き出すことが、私たちの目標である。とはいえ、すでに見てきた遊びの例の中に遊びでしかなさそうなものがある。たとえば、ブロッコリーの上にブルーベリーを転がすことは、まさに遊びでしかないのではないか。というのは、もしそれが遊びでなければ、それが何なのか、まったくわからないからである。もちろんそこにはそうしなければならない(必然的な)原因はない。また、(それで誰かを笑わせようとか意図していなければ、)そこには何か別の目的があるわけでもない。(もちろん、もしそれで誰かを笑わそうとするなら、それは遊びでしかない遊びではない。)すると、それは、まさにそうして遊ぶことだけを目的に遊ばれる、遊びでしかない遊びなのではないだろうか。あるいは、真っ直ぐにしか歩けなくなることは、どうだろうか。なぜ子どもは突然そんなことになるのだろうか。もしそれがわからないなら、それもまた遊びでしかない遊びであるのかもしれない。

 もう少し具体的に遊びでしかない遊びの例を見ておこう。これは私が二歳の子どもと初めて二人きりで公園に遊びに行ったときの話である。

 彼は、公園に着くと、すぐに滑り台に向かったが、それを滑らずに下から登り始めた。もちろん、それでは上から滑ってくる子の邪魔になるので、私は彼を階段の方に誘導し上に登る列に並ばせたが、彼はすぐに列を外れて砂場の方に歩いて行った。結局その日は滑り台を一度も滑らなかった。

 彼は、砂場の真ん中に座り込んで、穴を掘り始めた。もっと穴を掘れるように私は彼のお気に入りの砂場セットを広げた。しかし、彼はなぜか何の道具も使わず素手で穴を掘り続けた。

 私も一緒に遊ぼうと穴を掘り始めた。私は、彼を驚かせようと、おもちゃのスコップを使って深い穴を掘った。しかし、彼はもう穴を掘らなかった。彼は乾いた白い砂を両手に握って湿った黒い砂の上に振りかけている。風に吹かれた砂が私の目に入るが、もちろん私は彼を怒れない。

 私は何とか彼の気を引こうとバケツに水を汲んできた。穴に水を入れれば、砂場に池ができる。狙い通り彼は水に興奮した。だが、彼はなぜかバケツに砂を入れた。砂場の穴はそのままで、バケツの水が黒く濁った。「そっち!?」と驚く私をしり目に、彼は新たにきれいな水を要求した。私は、バケツの泥をきれいにし、また水道から水を汲んできた。すると、彼はまたバケツに砂を入れた。もちろんバケツの中はまた泥水になった。きっと彼はもう穴のことを忘れている。

 私は、どうしても池を作りたくなって、さらに水を汲んできた。今度は砂場にバケツを置かず、直接穴に水を注ぎ入れる。やっとできた池に彼はタンポポの花や葉を浮かべた。また、数本の枝も突き刺した。そうして賑やかになった池に彼はまた砂を入れた。彼は砂を入れ続け、池は泥で埋め立てられた。

 私は、泥だらけの砂場を見て、いささか途方に暮れたが、いっそのこと彼に泥遊びをさせてしまおうと、彼の靴と靴下を脱がし、ズボンの裾をまくり上げた。だが、そのとき町の防災無線から「夕焼け小焼け」が聞こえてきた。彼はそれを怖がって家に帰りたがった。私たちは泥遊びを諦め家路に就いた。

 こうして私は子どもと遊ぶのに失敗した。もちろん彼は明らかに遊んでいた。しかし、私は彼と遊べなかった。それはおそらく私が大人になっていたからだ。つまり、私は、子どもではなかったので、遊びでしかない遊びを遊べなかった。だが、彼はそのとき遊んでしかいなかった。彼の遊びにはそのとき遊ぶこと以外に何の目的もなかった。まさに彼の遊びは遊びでしかなかった。これが私の遊びでしかない遊びの原体験である。

 もしかしたら、私自身もまた、子どものときには、遊びでしかない遊びを遊べていたのかもしれない。とはいえ、仮にそうだったとしても、そうだったと考えられるのは、今の私が遊びでしかない遊びを知っているからである。自分が子どものときはもちろん、公園で二歳の息子の遊びに圧倒されたときでさえ、それがどのような遊びなのか、私にはまったくわからなかった。(だから、私は彼の遊びに圧倒されたのである。)ようするに、こうして遊びについて哲学し始める前には、――そもそも、遊びとは何なのか、考えてもいなかったし、――そのような遊びがあるなんて、思ってもいなかった。」

○成田正人
成田正人(なりた・まさと)
1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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