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西井開「「あいつはフツウと違うから」切り離しのマジョリティ論」 連載第1回「そういう男性っていますよね」?(「生きのびるブックス」)

☆mediopos-3006  2023.2.9

「切り離し」という言葉はこの記事で初めて知った

「誰かと自分の間に線を引いて、
「フツウじゃない」と相手を格下げし、
逆に自分を「正常」の位置に置く」ことをいうらしい
「「私は彼らとは違う」という焦りのような感覚が排除を生み出す」
そんな構図でもあるようだ

著者は「〈男らしさ〉にまつわる問題について
男性同士で語り合うグループ」をひらくなどして
なんと「ほぼ毎日「男性」のことを考える奇妙な日常を送」り
「男性問題」について取り組んでいるという

モテないことに悩むという男性たちの語り合いグループである
「ぼくらの非モテ研究会」の発起人でもあり
著書に『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社新書)もある

「切り離し」が「男性問題」だというのは
よくわからないところがあるが
この問題についてみていくことで

なぜ人は群れるのか
なぜ群れることで「類」としてひとを類型化し
みずからをいわゆる「マジョリティ」に置き
あるいは「マイノリティ」に置き
みずから(というよりじぶんをふくむ群れ)を正当化し
その類型に当てはまらない人間を
じぶんから「切り離」して
そのことにとくに疑問をもたずにいるのか

そうしたことを観察する
あるいはじぶんもそうしていないかどうかを問いなおす
そんなきっかけにすることはできそうだ

じぶんを「フツウ」という安全な場所に置くこと
その地点からだれかにたいして
「フツウじゃない」として「レッテル」をはる
しかもじぶんひとりで思っているだけではなく
わざわざ群れてコミュニケーションして確かめ会ったりする

さらにあえてつっこんでいえば
じぶんを「フツウじゃない」とし
その地点から差別されかねない場所に置き
しかもそれを個人的な問題ではなく
個ではなく「マイノリティ」という「群れ」のなかで発想する
(もちろんそれが実際的な差別や被害の対象になる場合は
それを問題化しそれに対する行動を起こすことは必要なのだが)

この連載第1回めのタイトルではないけれど
「そういう男性(ひと)っていますよね」といいたくもなる

おそらくある程度はだれでも
ひととの違いに目を向けて
じぶんを正当化することはあるだろうと思うのだが

おそらくそこで問題になるのは
それを「群れ」(マジョリティ/マイノリティ)において
そこに自覚症状のないまま日常的な「群れ」のなかで
それに関わる属性によって「排除」的になる
あるいはみずからへの社会的な承認を求める

どちらにせよそれは
「承認欲求」とも関わってくることだといえる

その「承認」において
「フツウ」か「フツウでない」かと「切り離し」が行われ
そのことでみずからが「フツウ」の「群れ」のなかにいることで
みずからに「承認」を与えている
あるいは「フツウじゃない」「群れ」のなかにみずからを置き
「承認」を求めようとする

しかしあらためて思うのは
ひとはどうしてもどんなかたちだとしても
そこに「承認」を求めてしまうということだ
(もちろん権利を得るために承認が必要があるときもあるが)

このところ「承認論」という
ひとは対人的にまた社会的な制度等のなかで
「承認」をもとめることからその生を始める
という研究をひろいよみしているところだが
人間という存在が社会的存在であるという以上
「承認」から自由になることが難しいということでもある

「非モテ」というねじれた「愛」の欠損問題の根っこも
そのあたりにあるのかもしれない

■西井開「「あいつはフツウと違うから」切り離しのマジョリティ論」
 連載 第1回 2022.9.30 「そういう男性っていますよね」?
(「明日をほんの少し明るく照らすウェブマガジン「生きのびるブックス」より)

「「そういう男性っていますよね(笑)」。学生の課外活動をパネル展示するという大学主催のイベントに、発表者として参加した時のことだ。2016年のことだったと思う。当時大学院生だった私は、〈男らしさ〉にまつわる問題について男性同士で語り合うグループを開いていて、イベントではその活動について紹介した。〈男らしさ〉は男性に様々な影響をもたらし、深い悩みを抱える人が来ることもある…。そのように話すと、パネルを見に来たひとりの男子学生からこの言葉を投げかけられた。(…)
 そういう、、、、男性。冷静に考えると興味深い言い回しだなと思う。自分が苦悩を抱えている、もしくは今後抱える可能性が消し去られ、遠い世界の存在のようになっている。男性が別の男性のことを完全に他人事にしてしまう、こうしたふるまいを〈切り離し〉と呼んで関心を持ってきた。
 男性の語り合いグループを開くという活動はその頃からずっと継続していて、今は主にふたつの実践に関わっている。ひとつは非モテ(=モテない悩み)をテーマに掲げた市民活動グループ「ぼくらの非モテ研究会」で、大学院生の頃、このグループをフィールドにして博士論文を書き上げた。現在も月1回の例会に数名の男性が集って、自分たちの経験や考えを語り合っている。もうひとつはドメスティック・バイオレンス(DV)をしてしまった男性のカウンセリンググループで、こちらは心理臨床家として関わり、脱暴力やパートナーとの関係修復のサポートを行っている。
 ほぼ毎日「男性」のことを考える奇妙な日常を送っているが、こうした男性問題に取り組みだしてから、切り離しを経験することが何度かあった。例えば、DVをしてしまった男性の心理的なサポートをしていると話すと、必ずといっていいほど「どんな人たちなんですか?」という質問を投げかけられる。それ以外にも、「どんな仕事の人が多い?」「性格的な特徴は?」など、彼らの傾向を尋ねられる。まるで、なんとか特殊な「性質」を見つけだそうとするかのようだ。
 しかし実際に関わっていると、加害をした男性たちに決まった「性質」のようなものはなく、背景も人それぞれで、「こんな人たち」と一言では語り尽くせない。それに彼らの話を聞いていると、自分も他人事ではないな、と思う。似たようなことを考えたことがあるし、また自分もしてしまったことがあるからだ。様々な要因の組み合わせによって、誰もが暴力をふるう側になってしまうのだと痛感する。にもかかわらず、自分とは全く関係のない異端者として、加害者はイメージされることが多い。だから、意図せずした行為が周りから「加害だ」と指摘されたときに、激しく動揺する人が多いのかもしれない。自分が加害者になるとは微塵も思っていないからだ。
 メディアの記者はもっと露骨だ。「非モテ」と男性性を主題にした単著を出版してから、新聞やテレビ、週刊誌などから取材依頼が数多く舞い込んだ。キャッチーなテーマだったのだろう。ただ、取材方針に首をかしげたくなるようなこともあって、中でもひどかったのは「非モテに悩む男性が抱える心の闇…」というタイトルの企画書を送ってきた雑誌だ。唖然として話を聞く前に断った。
 国際男性デーに合わせて取材したいという問い合わせも少なからずある。男性が抱える問題は日常的にあるので、わざわざ年1回思い出したかのように喧伝するのは妙だなと思って毎回断っているが、ある新聞社の男性記者から、「男性の生きづらさの特集を組みたいので生きづらい男性を紹介してください」という奇妙な依頼がきたことがあった。そんな馬鹿な…。「わざわざ私に言わなくとも、あなたの周りにもいるのでは」と返信したら、「それはそうなんですが…」と煮えきらない返事がきた。なんとか「生きづらい男性」というカテゴリーを作り出して、客体化したかったんだろうなと思った。
 少し意地悪に書いてきたけれど、こうしたことが本当にたくさんあって、しかも切り離しを行ってくるのは多くの場合男性だった。切り離しは、他の男性の身に起きたことを他人事にしてしまうだけでなく、「正常な男性」と、そこから「逸脱した男性」という二項対立を生み出し、切り離しを行った者を「正常な男性」というポジションに置く効果を持っている。つまり、切り離しをすることによって、自分は男性として生きづらさを抱えることも、モテないことで苦悩することも、暴力をふるうこともない人間であると演出することができる。」

「グループに参加する男性たちは、当然違いもあるけれど、私を含めて、モテないことで悩んできた、そして何より男性として生きてきた経験において、部分的にだけれど共通する部分をもっている。
 こうした差異と類似性を同時に抱えるというのはグループに参加する個人に限った話ではないだろう。現代社会を生きる誰しもが、多かれ少なかれ他者と部分的に共通するものを持つし、自分には関係ないと思っていたことを思いがけず経験することもある。
 自分と相手の間に、明確な境界線は実はないのかもしれない。にもかかわらず、「自分たち」とは違う異端な人々がいるという価値観が広く共有されていて、当然のように切り離しが行われる現状がある。
 しかし、ここまで見てきたように切り離しは恣意的なものであり、その営みによって、正しいものと正しくないものが分けられ、序列がつけられている。集団の中でより中心に陣取る者と、周縁に追いやられていく者が生み出されていく。そして中心近くにいる男性ほど、切り離されないようにうまく自分をコントロールし、同時に他の男性を切り離すことが多い。それは時に暴力や差別を呼び込むこともある。あいつはフツウと違うから、軽視してもかまわない。あいつはフツウと違うから、周りよりも不遇な目にあっていても仕方ない。といったように。
 こうした現象は男性にだけ起こることではないかもしれない。「私は彼らとは違う」という焦りのような感覚が排除を生み出す場面はよく見かけるし、それはシスジェンダーやヘテロセクシュアル、日本人、健常者、富裕層、高学歴、都市圏出身者というマジョリティとしての属性を持つ人によって日常的になされている。」

◎西井開(にしい・かい)
1989年大阪府生まれ。立命館大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。現在千葉大学社会科学研究院特別研究員。臨床心理士。公認心理師。専攻は臨床社会学、男性・マジョリティ研究。立命館大学人間科学研究所男性問題相談室(DV加害者更生カウンセリング)所属。モテないことに悩む男性たちの語り合いグループ「ぼくらの非モテ研究会」発起人。著書に『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社新書)がある。


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