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河合俊雄『夢とこころの古層』/ミルチャ・エリアーデ『生と再生─イニシェーションの宗教的意義』

☆mediopos-3108  2023.5.22

かつての社会(伝承社会/前近代社会)においては
子どもから大人への移行や
秘儀集団などへの加入
神秘的な召命に際して
通過儀礼(イニシエーション」が存在していたが
近代以降それらは実質的に消滅してしまっている

それぞれの共同体においては
現在においてもなんらかの儀式は存在しているが
エリアーデも『生と再生』において示唆しているように
それらの儀式はかつての意義を持っているとはいえない

ラディカルなユング派のギーゲリッヒは
「現代において社会的機構としての
イニシエーションはもはや存在せず、
現代文化は根本的にイニシエーションに対して
敵対的であろうとする」とさえ言っている

「われわれはイニシエーションを教育によって置き換え、
それはさらにメディア、「情報」、
プロパガンダによって取って代わられている」のだと

しかしかつてのような「イニシエーション」が
失われてしまったとしても
それを必要としていた「こころの古層」においては
それに代わるものが求められているともいえる

河合俊雄はそうした視点から
「現代においてどのようなイニシエーションが可能なのか、
そもそも可能なのか」を心理学的課題として問いかけている

その示唆のなかで興味深いのは
「境界を超える」ということである

エリアーデの著書のタイトルでいえば
『生と再生』であり
それは「(象徴的な意味での)死と再生」
といってもいいかもしれない

「イニシエーション」とは
「境界を超える」ための通過儀礼であり
現代を生きる私たちにとって
超えなければならない「境界」とはなにかが問題となる

ギーゲリッヒの言うように
それが教育・メディア・情報・プロパガンダであるとしたら
わたしたちはほとんど洗脳状態へと移行するしかなくなる

逆説的にいえば
それれこそはいってみれば「悪の秘儀」として
私たちに「死」をもたらすものであり
それらから解放されあらたな認識態度を持ちうることこそが
「通過儀礼」であるということもできるかもしれない

ある意味でその「通過儀礼」は
もっとも困難な道であるともいえるが
いままさに「自由」への創造的な覚醒として
その道を歩んでいく必要があるといえる

■河合俊雄『夢とこころの古層』
 ( 創元社 2023/4)
■ミルチャ・エリアーデ『生と再生─イニシェーションの宗教的意義』
 (東京大学出版会 1995/3)

(河合俊雄『夢とこころの古層』〜「第5章 こころの古層とイニシエーション」より)

「「近代世界の特色の一つは、深い意義を持つイニシエーション儀礼が消滅し去ったことだとよくいわれる。伝承社会では第一義的な重要性を持つこの儀礼も、近代の西欧社会ではめぼしいものは実際上存在していない」。このようにエリアーデは、『生と再生』の冒頭において述べている。近代西欧社会、さらにはグローバル化された現代の世界の特徴はイニシエーションの否定と消滅なのである。」

「エリアーデは西洋社会におけるイニシエーションの喪失を指摘していた。ユングは、期待していたにもかかわらず、自らの聖餐式での失望を通じて、イニシエーションが儀式として失われてしまっているのを痛感した。しかしユングはそれを共同体で共有される儀式としてではなくて、個人がイメージとして象徴的に体験するものに、その復活の可能性があると信じていた。
 しかしユング派分析家でラディカルに西洋近代の意味を追求しているギーゲリッヒは、これに対して否定的である。ギーゲリッヒは、現代において社会的機構としてのイニシエーションはもはや存在せず、現代文化は根本的にイニシエーションに対して敵対的であろうとする。そしてわれわれはイニシエーションを教育によって置き換え、それはさらにメディア、「情報」、プロパガンダによって取って代わられているとする。だからたとえイニシエーションを思い起こさせるようなモチーフの夢があっても、今日の夢におけるイニシエーションのモチーフと伝統的社会で実際に行われていたイニシエーションとを区別する必要があるとする。」

「現代の心理療法において、イニシエーションのイメージは生じてこないのでろうか。あるいはたとえ生じたとしても、それは全人格に対する実存的変容をもはやもたらさないものなのであろうか。
 しかしこころの古層においてイニシエーションのイメージや意味が生きていると思われるので、現代の心理療法においても、イニシエーションのイメージが生じてくることがある。」

「イニシエーションにおいて、境界を超え、死を後にするということが決定的な意味を持つ。しかし近代意識というのは、そのようなイニシエーションを否定することによって成立している。」

「イニシエーションにおいて、境界を超えることは決定的な意味を持つ。しかし境界を超えないこと、否定によるイニシエーションというのがあることを見てきた。さらには、二〇〇〇年以降に増えているASD(Austin Spectrum Disorder:自閉症スペクトラム障害)傾向や発達障害のことを検討してみると、境界の喪失ということが生じてきているようである。笠原嘉は、統合失調症の発病の特徴として、「出立の病」ということを指摘した。つまり思春期に好発する統合失調症においては、海外に行ったり、修学旅行に行ったり、就職したり、恋愛をしたりなどをきっかけとして発症することがしばしばある。これは、現実での変化が、全然レベルの異なるものへと境界を超していくこととして受けとめられることによって発症に到ると考えられる。
 田中康裕は、妄想型統合失調症のクライエントが語った異常体験を紹介している。二〇代後半の男性は、「あちら側の世界の異変を確かめるために佐渡島へ渡り」、その後本州に戻ったものの、「別の世界に来てしまったように感じていた」。そのために何度も佐渡島に渡って本州に戻ることを試みたが、「二度と元の世界には戻れなかった」という。ここには、境界を超えることの絶対性が示されている。
 しかしそれに対して、発達障害と思われるクライエントにおいては、グルグルと循環してしまって、境界や超えることの不可逆性がない。田中康裕が挙げている発達障害のクライエントの例では「異世界・異次元に行ってしまう恐怖」があるが、晩酌している父親の周りを単にぐるぐる廻ってしまったりする。発達障害の人の夢として、「橋を渡って向こう側に行き、もう一度別の橋を渡り、さらにもう一度別の橋を渡ると、元の場所に戻っていた」というのを同僚から聞いたことがある。つまり橋は三角形のように架かっていて、元に戻り、向こう側がない。このように境界がないと、否定としてのイニシエーションもなくなってしまっているのである。現代においてどのようなイニシエーションが可能なのか、そもそも可能なのかは、重要な心理学的課題であると思われる。」

(ミルチャ・エリアーデ『生と再生─イニシェーションの宗教的意義』より)

「伝承社会人は、じつにイニシエーション儀礼を通してのみこの人間像を知り、それをみずからのものとなり得る。もちろん、いろいろと違った社会構造と文化水準に応じて、多数のイニシエーションの型と無限の変化型があるが、重要なことは、すべての前近代社会(すなわち西欧では中世末に終焉し、そのほかの世界では第一世界大戦をもって終焉した)は。イニシエーションの理論と技術に第一義的な重要性を与えているという事実である。」

「近代人はもはや伝統的な型のいかなる加入例も持っていない。何ほどかの加入礼的テーマはキリスト教にも残っているが、いろいろのキリスト教派はもはやこれを加入礼的価値を持つものとは認めていない。古代後期の密儀宗教から借用した儀礼や影像や術語は、その加入礼的雰囲気を失ってしまっている。」

「たしかに、こんにちも多数の秘儀派、秘密結社、擬制的加入礼集団、錬金術的、すなわち、新心霊主義運動といったものがある。米国の神知協会(The Theosophical Society)、知人学(Anthroposophy)、新ヴェーダ教(Neo-Vedantism)、新仏教(Neo-Buddhism)の運動などは、西欧社会のほぼどこにも見られる文化現象のほんの二、三のよく知られた例にすぎない。これも新しい現象ではなく、秘密教への関心は、多少とも秘密結社的な形をともなって、ヨーロッパでは一六世紀にあらわれ、一八世紀には頂点に達した。ある種のイデオロギー的一貫性を持ち、すでに歴史を持ち、社会的政治的特権を享受している唯一の秘密運動はフリーメーソンリー(Freemasonry)である。それ以外の自称加入礼的組織は、その大部分は最近の、しかも混淆的即興物である。これらの関心は主に社会学的、心理学的なものであり、現代社会の一部の認識混乱と宗教信仰の代償物を発見しようとっする欲求をあらわしている。これらはまた、秘儀、秘教、来世への不屈の精神的偏向性をしめしている、————そしてこの偏向とは人間の不可欠の部分であり、あらゆる文化段階のあらゆる時代、とくに危機の時期に見出されるものである。」

「さて、ずっと前にふれた問題に立ちもどろう。それは、加入礼のテーマが主として近代人の無意識のなかに生き残っているとの問題である。この点はいくつかの芸術創作————詩、小説、造形美術、映画————の加入礼的シンボリズムだけでなく。これらが大衆にうけいれられている点からも確認される。こうした大衆の、自然の受容こそは、近代人がその存在の最深部において、いぜんとして加入礼的筋書きとか福音に影響されうるものだということを証拠立てているように思われる。」

「加入礼は正しく人生の核に横たわっている。そして二つの理由から、この見方は正しい。第一は正しい人生とは深刻な危機、責苦、苦悩、自我の喪失と再確立、「死と復活」を含意するからである。第二の理由は、ある程度仕事を成就したにしても、ある時点では万人がその人生を失敗と見るという点である。この幻想はその人の過去に対してなされる倫理的判断からではなくて、その召命(天職)をとりにがしたとの漠然たる感情からおこるのである。つまり、その人はみずからのうちにある最善なるものを裏切ったという感情である。こうした全面的な危機の時点で、ただひとつの希望、人生をこう一度始めからやり直すという希望だけが、ある成果をもたらすように思われる。要するに、このことは、こうした危機に見舞われている人は、新しい、再生された生活を充分に意義あるものにしようとの夢を持つことなのである。それは宇宙が更新されるように、万人の魂が季節的にみずから更新されるといった漠然たる希求以外のもの、それをはるかに越えたものである。こうした八方塞がりの危機に際する希求や夢は決定的で、全体的なレノヴァティオ(renovatio)=生命の変革できる更新を獲得することである。
 しかし、真の決定的回心は近代社会では比較的稀れである。非宗教的人間もどきとして、その存在の最深部にこの種の精神的変革への希求を感じるという事実こそ、もっとも重要なものと考えられるのだ。これは、ほかの文化圏ではまさしく加入礼の目的とするところなのである。(・・・)加入礼が人間存在の特殊次元を形づくっているといい得るとすれば、それは何よりも「死」に積極的意義を与えたからである。「死」は「時間」の破壊的行為に従わない存在様式にいたる、新しい純粋に礼的な誕生を用意するものなのであり。」

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