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渡仲幸利「存在の手ごたえ」

☆mediopos2811  2022.7.29

自然科学は観測できるものを通じ
さまざまなことを教えてくれるのだが
そこからは生きている実感が抜け落ちてしまう

今回とりあげたのは
Web春秋(春秋社)に連載されていた
渡仲幸利氏の「存在の手ごたえ」という
10回にわたるエッセイである

渡仲幸利氏には
『観の目――ベルクソン『物質と記憶』をめぐるエッセイ』
『グレン・グールドといっしょにシェーンベルクを聴こう』
『新しいデカルト』
といった著書があるが
この「存在の手ごたえ」はそれらの著書と通底している

このエッセイを読みながら思い出したのは
小林秀雄が生前刊行を禁じていた
『感想』(ベルクソン論)の最初にある
終戦の翌年に死んだ母親について書いたこんな話である
(その後全集に特別収録されている)

「母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。(中略)
仏に上げる蠟燭(ろうそく)を切らしたのに気附き、買いに出かけた。
私の家は、扇ヶ谷(おうぎがやつ)の奥にあって、
家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。
門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。
この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、
その年は初めて見る蛍だった。
今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。
おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。
蛍の飛ぶ後を歩きながら、
私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。」

その「おっかさんという蛍」は
自然科学的にはなんら検証し得るものではない
実験室で実験できるようなものでももちろんない
けれど小林秀雄にとって「おっかさんという蛍」が
「存在」していたのは疑うべきもなことだったのだ

ベルクソンは「分析ではない能力が僕達にはある」といっているが
小林秀雄の「おっかさんという蛍」のようなことは
あらわれかたは違えだれもが経験していることにほかならない

連載最後の10回目にこんな例が引かれている
とても重要なことだ

「お皿を一枚、二枚、と数えるときと、
例えば全国にあるお皿の枚数を考えるときとでは、
数の捉え方は全く異なるのではないか。そんな問い掛けがあった。
 家のお皿が一枚なくなったとする。
きのう僕のカレー皿が割れてしまったから。
あぁ、あのお皿がなくなってしまった、と溜め息をつく。
 これに対して、全国のお皿の数の増減は、
それを考えるのに実はお皿が要らない。」

「お皿抜きで、お皿の数が捉えられるようになることは大切なことである。
これが出来なければ、僕達は他の生き物
とさして違わないままだったと考えられる。
僕が今こうして文章を書いているということも、あり得なかったろう。
 最早お皿を見ないこの能力は捨てられないし、捨てようもない。
存在抜きで存在を見ているのが、僕達の日常である。」

「けれども、存在が無意味な脱け殻であって良いわけはない。
 存在しているということには必ず意味がある。
 日常生活で僕達がそこに読むことをやめた遺言が、
存在のそこかしこに書き込まれているはずなのである。」

対象のない抽象的な思考ができるというのは重要な能力だが
対象がある思考と対象のない思考という違いを超えて
実感としてとらえられる「存在」の「手ごたえ」は
現代のような科学信仰の時代には等閑にされがちである
「科学的にはありえない」という紋切り型の言葉で
「存在しない」ということにされてしまうからだ
そのくせ「科学信仰」こそが「幻影」を信じ込ませもする

私たちが生きている実感を得るためには
「存在の手ごたえ」が不可欠である
(「クオリア」というのもそれをなんとか
科学に取り込もうとする試みのひとつだろう)
そうでなければわたしたちはただの
観測と計算だけでできたAIもどきになってしまう

■渡仲幸利「存在の手ごたえ」
(春秋社 Web春秋 所収)

(「1 古代の哲学」2020.12.25 より)

「自然科学というのは、客観的に存在を分析することを本分としているかのように見えて、加工という人為的な操作をモデルとした方法なのである。そんなはずがない、と言うのが尋常な反応であるのはわかっている。
けれども、詰まるところ、僕には、観測から抜け落ちる存在のほうが大切である。万人共有の知が発達すればするだけ、押し込められ、軽んじられるようになるある実感、つまり存在しているということについての直接な意識のほうが、僕には重要なのである。
存在していることの意味を問うべきは、空間にではない。そこには、かけがえのないものを知る手掛かりが悉く欠如しているから。
ならば、どこに問うべきか。
問うべき手応えを辿る旅の針路を、現在という空間を越えて取ろう。」

(「4 『物質と記憶』の人気」2021.03.31 より)

「分析ではない能力が僕達にはあるとベルクソンは言う。
 精神の努力とベルクソンはそれを呼ぶのだが、どう呼んでもいい。その能力によって僕達が引き戻されるところ、そこを真に芸術的な意味で、表現することに、彼の動機はあった。
 言葉も、論理も、彼が作品を制作するための鑿あるいは木材だったのである。彼はただ言葉を超えて知り、肉眼を超えて見る努力を、弛まず行なった。
 なるほど、知性がなかったら、僕達は存在に飲み込まれたまま、前も後ろもわからない。気を失った状態がその際たるものである。
 はっきりとした知覚は、既に知性の現われであり、つまり、知性が現在を作っている。
 しかし、そのとき存在の手ごたえは、現在という有効性で置き換えられている。
 存在から存在を取り除いて、利用しやすい状態にされたものが、現在なのである。その結果、過去は専ら存在を担わされる。存在は過去と現在とに分離することで進む。
 存在が過去と有効性とに分離され、過去はただ存在し、現在に覆われる。頭だけでは受け継げないものがある。
 ベルクソンが言う「純粋記憶」と、柳田が言う「理を以って説き伏せることの出来ない信仰」とを、同じ物とするつもりはない。
 純粋記憶は、いかなる型で掬おうとも抜け落ちる。型に嵌ったとき、それはもう現在である。
 一方、過去からの生活の持続を支えてきた信仰は、言葉や慣習といった生活の形を通じてのみ、伝わろうとする
 けれどもこのことから、現在が、過去を守っていることがわかる。過去が現在を支えているだけでなく、現在が過去を支えている、と考えてよさそうである。
 だとしたら、存在を救い出すのは現在の使命だと言える。現在の役割は、存在を保証することにある。ここに、二人の仕事の仕方の通奏低音が聴き取れる。
 現在の役割は、効率化の傾向の中そのままでは本質を壊されてしまう存在を入れて保持するための形を作ることと、その形を未来へ手渡すことである。
 要するに、現在を効率性の内に閉ざさず、単なる存在たる過去へ向かって開くことで、現在は、存在する必然性を得、未来を支える基盤となり得るのだろう。」

(「5 音楽の話」2021.04.30 より)

「音楽について話そうとすると、音とは反対の言葉、沈黙という語を用いたくなる。
 例えばアントン・ウェーベルンの音楽を聴けば、沈黙を構成しているかのようだと感想を洩らすといった具合である。
 もっと広く例を採ってみようか。
 雑踏にも沈黙を聴こうとすれば聴ける、と言えば、音楽と沈黙の結び付きを暗示するのに、なお、ふさわしいかもしれない。
 沈黙が聞こえて来たら、雑踏さえも音楽となる。
 音が、音楽としてあるためには、沈黙が聞こえて来る必要がある、とまで言って構わない。」

(「9 霊魂」2021.08.31 より)

「霊魂は存在するのか。
 この問いに真っ正面から答えている言葉が、今から百二十年以上も前に書かれた、アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』の中にある。
 「精神はどうしても、物質とは独立の実在である」
 そしてこうも言っている。
 「記憶そのものは、脳から完全に独立している」」

「どんなに科学が発達して、合理的な生き方が僕の意識を浸蝕しようとも、意識の最深部に逃げ込んだ存在は、僕にも思い出せない記憶となって、脳の機能を超えて溢れ出ていることだろう。
 存在は、常に知性の影に潜んでいる。僕達はどのくらいかわからぬ大昔から、これを魂と呼んで来た。そして今夜も、僕達は怪しい気分にさせられ、昼間のまともなシステムがすべてではないことに戸惑う。それは、抑圧した霊の存在が信じられているからである。」

(「10 存在の手ごたえ」2021.09.30 より)

「次の話は、怪談ではないが、医学者、山中康裕が紹介しているものである。
 治療法のない重病を患う十四歳の少女が、七年間の闘病の末、最後は耳が聞こえるだけの寝たきりの状態となって、息を引き取った。
 ちょうどそのときに、離れて暮らす者から不思議な知らせがあった。
 少女には嫁いで行った姉がいた。その姉から電話があり、次のような夢を見たと言うのだった。
 気付くと妹が枕元に三つ指をついていたという。妹は巫女さんの姿をしており、お別れの挨拶をすると、すっと浮いて、だんだん小さくなって、神棚の扉を開け、中に吸い込まれて行った。
 直ぐ後でわかったことだが、同じ夢を、少女をかわいがっていた伯母も見ていた。
 少女の両親は、これはきっと遺言に違いない、と少女に巫女の装束をさせて柩に寝かせた。
 さて、こういう話を前にして、日常的な思考は必ず、偶然に過ぎない、と考えている。
 先ず、少女が重病であることは姉も伯母も承知していたであろうから、少女の死の時刻にちょうど少女を夢に見ることは、あり得る。
 その際、巫女の姿の少女を夢に見ることも、全く可能性がない話ではない。
 ただし、二人とも、巫女姿の少女を夢に見たというのは不思議な話だが、非常に小さな確率とはいえ、起こり得ないことではない。
 確かに、こんな偶然が起こり得るなんて、不思議なことである。
 けれども、偶然は偶然であって、自然の必然的な因果関係が巧みに絡み合えば、こんな偶然も実現させられる。
 これが不思議で意味ありげに思えるのは、極めて確率の低いことが実現したからだが、決して、実現不可能なことが実現したわけではない。
 日常的な僕達の目には、そんなふうにこの出来事が見えている
 一方、少女の家族達には、この出来事のどこにも偶然などなかった。そう言っていいと、僕は想像する。
 説明をつけることなど全く出来ない出来事だったろう。だからこそ、そのすべてが意味を帯びていた。
 両親はこれを遺言と見た。
 遺言とでも呼ぶ以外にない豊かな意味を見た。
 少女の短い人生が、説明などで置き換えられないもの、かけがえのないもの、意味あるものであると、心から信じられた。両親が遺言という言葉で嚙み締めたのは、そういう思いであろう。
 日常的思考の目と、少女の家族達の目とでは、同じ出来事がいかに異なった像となって見えていたか。
 日常的思考の目は、この出来事が可能かどうかにばかり気を取られている。何が起きたかではなく、そういう種類のことが可能かどうかに。そうやって僕達は、何不自由なくこの世を見ているつもりでいる。
 恐らくこれは、気付いても、気付き足りない人類の宿命であろう。」

「数学者の志賀浩二は全十巻から成る「数学30講」という数学入門書のシリーズを書いている。
 僕は若い頃、夢中になって読んだものだが、その中の一巻『集合への30講』に、こんなことが書いてあった。
 お皿を一枚、二枚、と数えるときと、例えば全国にあるお皿の枚数を考えるときとでは、数の捉え方は全く異なるのではないか。そんな問い掛けがあった。
 家のお皿が一枚なくなったとする。きのう僕のカレー皿が割れてしまったから。あぁ、あのお皿がなくなってしまった、と溜め息をつく。
 これに対して、全国のお皿の数の増減は、それを考えるのに実はお皿が要らない。要らないどころか、あってはならない。数学が展開される基礎を成している数が、ここに誕生しているのである。
 お皿抜きで、お皿の数が捉えられるようになることは大切なことである。これが出来なければ、僕達は他の生き物とさして違わないままだったと考えられる。僕が今こうして文章を書いているということも、あり得なかったろう。
 最早お皿を見ないこの能力は捨てられないし、捨てようもない。存在抜きで存在を見ているのが、僕達の日常である。
 けれども、存在が無意味な脱け殻であって良いわけはない。
 存在しているということには必ず意味がある。
 日常生活で僕達がそこに読むことをやめた遺言が、存在のそこかしこに書き込まれているはずなのである。
 僕はただ僕に出来る範囲でそれらを読み取り、それらを書き残してみたのだった。」

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