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千葉 雅也『現代思想入門』

☆mediopos2685  2022.3.24

私たちはモダン(近代)の後の
ポスト・モダンの
さらに後の
ポスト・ポスト・モダンの時代を
生きているともいえるが

差異を肯定し求めていたはずの
ポスト・モダンの後に
きわめて大衆化したかたちで訪れたのは
検索すれば答えがでてくる自動販売機のような
インターネット的知識の時代のようだ

そこで求められるのは
だれにでもわかる「答え」であって
そこに「差異」は必要とされない

関数を表す数式があり
xに代入すれば
解が自動的にでてくるような機械的知性であり
その数式がどんなことを表しているのか
そのプロセスが問われることはない

たとえその数式が
極めてシンプルなものだったとしても
そのシンプルさが生み出される
複雑なプロセスなど理解しようとはしない

インターネットはもともと
軍事的な技術から生まれたものだが
インターネットを使うことで
世界の軍事技術や地政学そして歴史などを
問いかけたりはしないように

検察してでてくる
わかりやすい答えだけを見ようとする
まさに戦争が起こったときも
ここ数年来の感染症がらみの事象に対しても
多くは与えられた検察ワードと
自動的に(操作されて)出てくる答えだけを享受し
きわめて画一的な反応をするばかりだ

そこにあるのは
ポスト・モダンが問題視した二項対立を
脱構築するといった方向ではもはやなく
二項対立そのものであるような発想である

現代は科学主義と技術だけが
ポストになるだけで
まるでポスト・モダンへの反動のように
秩序を求める管理化の方向へ進んでいる

本書は「今なぜ現代思想か」という問いに対し
「現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、
秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。
それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです」と
まさに現代のきわめて危うい状況への警鐘ともなっている

著者の千葉雅也氏は
「現代思想を学ぶと、
複雑なことを単純化しないで考えられるようになり」
「単純化できない現実の難しさを、
以前より「高い解像度」で捉えられるようになるというが
はたして現代人がそうした「現代思想」を
求めているかどうかは疑問である

求めているのはわかりやすい答えと先進の技術
そして管理された安心・安全だけなのかもしれない
そうでなければここ数年で起こっている状況は
生まれていないだろうから
それともこうした(洗脳されたような)危機的状況がなければ
それを求めるきっかけがないということなのだろうか

■千葉 雅也『現代思想入門』
  (講談社現代新書 講談社 2022/3)

「ここで言う「現代思想」とは、一九六〇年代から九〇年代を中心に、主にフランスで展開された「
ポスト構造主義」の哲学を指しています。(・・・)
 本書では、その代表者として三人を挙げたいと思います。
 ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーです。
(・・・)
 では、今なぜ現代思想を学ぶのか。
 どんなメリットがあるのか?
 現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。

(・・・)

 大きく言って、現代では「きちんとする」方向へといろんな改革が進んでいます。これは僕の意見ですが、それによって生活がより窮屈になっていると感じます。
 きちんとする、ちゃんとしなければならない。すなわち、秩序化です。
 秩序から外れるもの、だらしないもの、逸脱を取り締まって、ルール通りにキレイに社会が動くようにしたい。企業では「コンプライアンス」を意識するようになりました。のみならず、我々は個人の生活においても、広い意味でのコンプライアンス的な意識を持つようになったというか、何かと文句を言われないようにビクビクする生き方になってきていないでしょうか。今よりも「雑」だった時代の習慣を切り捨てることが必要な面もあるでしょう。しかし改革の刃は、自分たちを傷つけることにもなっていないでしょうか。
(・・・)
 現代は、いっそうの秩序化、クリーン化に向かっていて、そのときに、必ずしもルールに収まらないケース、ルールの境界線が問題となるような難しいケースが無視されることがしばしばである、と僕は考えています。何か問題が起きたときに再発防止策を立てるような場合、その問題の例外性や複雑さは無視され、一律に規制を増やす方向に行くのが常です。それが単純化なのです。世界の細かな凸凹が、ブルドーザーで均されてしまうのです。
 物事をちゃんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないでしょうか。
 そこで現代思想なのです。
 現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序かたズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。
 人間は歴史的に、社会および自分自身を秩序化し、ノイズを排除して、純粋で正しいものを目ざしていくという道を歩んできました。そのなかで、二〇世紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことです。」

「僕は一九七八年生まれで、九〇年代から二〇〇〇年代にかけて精神形成をした人間なので、二〇世紀的なものをずっと背負っているのですが、デジタル・ネイティブの世代からすると、逸脱をポジティブに考えるというのは違和感があるかもしれません。
(・・・)
 今日では、秩序維持、安心・安全の確保が主な関心になっていて、以前のように「外」に向かっていく運動がそう単純には言祝がれなくなっています。
 そういう状況に対して僕は、さまざまな管理を強化していくことで、誰も傷つかず、安心・安全に暮らせるというのが本当にユートピアなのかという疑いを持ってもらいたいと思っています。というのも、それは戦時中のファシズムに似ているからです。
(・・・)
 秩序をつくる思想はそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたいのです。」

「それにして「現代」思想とは言いますが、もう古くなってしまったことは否めません。それは二〇世紀後半の思想であり、現代世界はその頃からだいぶ変わっています。それに、インターネットが登場する以前に思想なわけです。
 今、現代思想の本を読むのはかなり難しいと思います。
 デリダを読もうと思ったら、その前段階である「構造主義」の理解が少しは必要だし、ラカンの精神分析の知識が前提になっていたり、暗黙の前提が多いのです。」

「「ポスト構造主義」という言い方ですが、これはデリダやドゥルーズらをひと括りにして言うときに使われるものです。「ポスト」とは「後」という意味で、「構造主義の後に続く思想」ということになります。(・・・)
 ポストモダンとは「近代の後」です。そもそもの「近代」とは、今日我々が生きる社会の基本ができた時代で、一七から一九世紀あたりを指します。近代とは、市民社会や進歩主義、科学主義などが組み合わさったものです。
 大まかに言って、近代は、民主化が進み、機械化が進み、古い習慣が捨てられてより自由に生きられるようになり、「人間は進歩していくんだ」と皆が信じている時代です。皆が同じように未来を向いている。
 その後、世界経済が、つまり資本主義が発展していくなかで、価値観が多様化し、共通の理想が失われたのではないか、というのがポストモダンの段階です。このことを、「大きな物語」が失われた、と表現します。
 そうした状況は、九〇年代後半からのインターネットの普及によってさらにはっきりしました。今、SNSを眺めてみれば、細かに異なる無数の主義主張が言われているわけですが、そういう多様性によって世界がより幸福なものになったかというと、むしろ、いざこざの可能性が増えて世界はよりストレスフルになってしまったと思います。(・・・)
 ポストモダンの状態を良しとするポストモダン思想、ポストモダニズムは、「目ざすべき正しいものなんてない」、「すべては相対的だ」という「相対主義」だとよく言われます。そして、デリダやドゥルーズらがその首領なのだと言われたりする。
 相対主義批判=ポストモダン批判=現代思想批判、というわけです。
(・・・)
 確かに現代思想は相対主義的な面があります。(・・・)二項対立を脱構築することがそうなのですが、それはきちんと理解するならば、「どんな主義主張でも好きに選んでOK]なのではありません。そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。(・・・)いったん徹底的に規制の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。」

「現代思想の代表的な三人、デリダ、ドゥルーズ、フーコーをどう扱うか。
 三者には共通の問題があったと捉えることにします。(・・・)
 とくにデリダのテーマなのですが、三人に共通することとして言えるのは「二項対立の脱構築」だと思います。(・・・)
 脱構築とは(・・・)物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん保留することです。
 とにかく我々は物事を対立で捉えざるをえません。善と悪、安心と不安、健康と不健康、本質的なものと非本質的なもの・・・・・などなど。私たちが何かを決めるときは、何か二項対立を当てはめ、その「良い」方を選ぼうとするものです。
(・・・)
 そもそも二項対立のどちらがプラスなのかは、絶対的には決定できないからなのです。
(・・・)
 二項対立は、ある価値観を背景にすることで、一方がプラスで他方が−になる。
(・・・)
 本書では、デリダは「概念の脱構築」、ドゥルーズは「存在の脱構築」、フーコーは「社会の脱構築」という分担で説明します。」

「今日の大学では、ドゥルーズやデリダといった、かつてはアカデミズムからはみ出して、「これは学問なのか」と人を当惑させるような最前線を切り開いていた人たちがすっかり古典化されてしまいました。デリダやドゥルーズをいかに「正しく」読むかという再アカデミズム化が大いに進行し、彼らを主題にした博士論文がごく真面目に書かれるようになっています。それがはたして現代思想の受け止め方、引き継ぎ方としてよいのかどうかは疑問なしとはしません。

 さて、二一世紀にはひとつ大きなムーブメントが起きました。それは「思弁的実在論(Speculative Realism)」というものです。その火つけ役がメイヤスーの『有限性の後で』で、フランスでの出版が二〇〇六年(デリダの死後ですね)、英訳が二〇〇八年に出ています。英語圏で爆発的に読まれたことが大きかった。(・・・)
 思弁的実在論というものは大きく言えば、人間による意味づけとは関係なく、ただ端的にそれ自体として存在している事物の方へ向かう、という方向づけです。意味よりも、それ自体としてあるものを問題にする新種の実在論が登場した。」

「身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。
 世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。
 底なし沼のような奥行きではない別の深さがある。それは世俗性の新たな深さであり、今ここに内在することの深さです。そのとき世界は、近代的有限性から見たときとは異なる、別種の謎を獲得するのです。我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです。」

[本書の内容]

はじめに 今なぜ現代思想か
第一章 デリダーー概念の脱構築
第二章 ドゥルーズーー存在の脱構築
第三章 フーコーーー社会の脱構築
ここまでのまとめ
第四章 現代思想の源流ーーニーチェ、フロイト、マルクス
第五章 精神分析と現代思想ーーラカン、ルジャンドル
第六章 現代思想のつくり方
第七章 ポスト・ポスト構造主義
付録 現代思想の読み方
おわりに 秩序と逸脱

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