見出し画像

別役実『もののけづくし』/柴田宵曲『完本 妖異博物館』

☆mediopos3534(2024.7.21)

夏はお化け・怪談の季節でもあるが
この類の話は季節を問わず面白い

しかも役に立つ話ではないのがいい
なまじ役に立つ話はどこか教育的で
けっきょくのところ消費される類の話になりがちだが
今回とりあげる「もののけ」や「妖異」の話は
想像力に働きかけてくれるだけに
むしろ魂のどこかに滋養として残ったりもする

別役実『もののけづくし』は
『虫づくし』『道具づくし』を含む三部作の一冊だが

本書において別役実は
「「近代科学」はこれまで一貫して、
「妖怪変化」のたぐいを無視してきた」が
「その結果、近代科学は、かつて妖怪変化がはそうであったのと
同様の「いかがわしさ」をその身近に匂わせるに至った」とし

「近代科学と妖怪変化を、「二つの一つ」ではなく、
「二つながら」同時に、良識の側に組み入れることが」
できないだろうかという

そして「情報化社会というのは、
「もののけ」と「お化け」の時代によく似ている。
してみれば本書も、教養書としてよりも生活技術書として、
いくらかお役に立てるかもしれない。
つまり、「お化けとおつきあいをする方法」というわけだ。」
としている

「もの」は物質でもあり霊でもある
ならばそれぞれの「け」と「あつきあい」することは
「生活技術」にもなり得るともいえるのだろう

『もののけづくし』は
別役実ならではのほとんど創作された話だが
古今東西・日本各地に伝わる奇談・怪談満載の
柴田宵曲の『完本 妖異博物館』
(『妖異博物館』『続 妖異博物館』)が
二年程前文庫化されているので
必携の愛蔵版としてあわせてご紹介しておきたい

落語にたとえれば
ある意味で『妖異博物館』は古典落語
『もののけづくし』は現代的な語りによる
創作落語とでもいえるだろうか

さて『もののけづくし』だが
そのなかから
「さとり」「ふんべつ」「てもちぶさた」
「もったい」「りしょく」「とりとめ」を
本文からの引用で以下に紹介してみたが

これらは気づかないところでわたしたちに働きかけている
「もののけ」らしからぬ「もののけ」である

たとえば「ふんべつ」

これは「付喪神(つくもがみ)」の一種で
「我々が歳をとり、体力のおとろえを感じはじめるころ、
その気にゆるみにつけこんで、憑依するもの」だが
「予防注射としてのふんべつを身につけ、
その上でそれを捨てた経験を持つ者は、
中年になってあらためてふんべつに憑依されたとき、
それを異物とし、人間になじまないものと見なすことができる。
しかし、一度もそれを捨てたことのない者には、
その種の感受性がない。」のだという

「りしょく」は「お金にたかる妖怪」で
「蝶が「毛虫」「さなぎ」「蝶」と変わるように、
珍しく変態をする妖怪と言われ、
「りんしょく」「りしょく」「はさん」と変化する。」

また「とりとめ」は「おおむね「ない」」という
多くのものの存在は、「ある」ことによって知られるのだが、
とりとめは、「ない」時にないことによって知られる」

このように
あらためて考えてみると
何気なく使っている言葉のなかにも
ずいぶんこうした「もののけ」が存在し
気づかないままそれらに憑かれていることもありそうだ

■別役実『もののけづくし』(ハヤカワ文庫 1999.4)
■柴田宵曲『完本 妖異博物館』(角川ソフィア文庫 2022/7)

**(別役実『もののけづくし』〜「序 歩み寄る近代科学」より)

*「「近代科学」はこれまで一貫して、「妖怪変化」のたぐいを無視してきた。もちろんこのことは近代科学にはじまったことでではない。孔子の『論語』の中に、「君子は怪力乱心を語らず」とあり、すでにそのころから「良識」そのものが妖怪変化のたぐいを無視しようとしていたことが知られている。むしろ近代科学は、良識の促すそうした遠く太古よりの圧力に、やむなく屈したのだとも言えよう。

 良識は当初、錬金術であり魔術であり占星術でありその他の術であった諸科学をも、「いかがわしい」ものとして無視してきたのだが、それらが「近代科学」と装いをあらためることにより、一転してこれを認めることにしたという歴史がある。そして近代科学が、錬金術であり魔術であり占星術でありその他の術であった時代には、明らかに妖怪変化のたぐいに親近感を抱きながら、良識の側にくみすることになって逆に、それらを無視し、攻撃する急先鋒となったいきさつも、これと無縁ではない。」

*「もちろんこの時点での近代科学のとった態度を、一概に非難することはできない。それによって妖怪変化のたぐいが、以降の長く暗い苦難の時代を耐えなければならなかったとしても、そうすることで、近代科学がこの世界において一定の役割を果たすことになったのは否定できないことだからである。むしろ問題は、近代科学が妖怪変化のたぐいを単に「裏切った」ことではなく、にもかかわらずまだ「裏切りきっていない」と感じとっている点であり、さらに「裏切り続けなければならない」と考えていることであろう。つまり近代科学は、いまだにそうした「暗い過去」を引きずり、その意味で逆にそれらに呪縛されているのである。」

*「今日に至り、あらためて振り返ってみると、かつて妖怪変化のたぐいがそうであった「いかがわしさ」と全く正反対に位置しながらも、同様のいかがわしさをほかならぬ近代科学が、そこはかとなく匂わせはじめていることに、我々は気づくのである。しかも、「試験管ベビー」や「遺伝子の組換え」や「臓器移植」や、そのほかこの種の匂いに接する機会が、ここへきて急激に増加しつつある。もし今日孔子が生きていたら、その『論語』に「君子は近代科学を語らず」と書くことになったであろう。つまり良識そのものが、いったんは自らの陣営に引き入れた近代科学に、眉をひそめはじめているのであり、もてあまりはじめているのである。」

*「問題は、妖怪変化と近代科学が常に「二つに一つ」であるという、その考え方そのものの中にある、何故、「妖怪変化か近代科学か」ではなく、「妖怪変化も近代科学も」であることができないのであろうか。恐らくそれは、近代科学と妖怪変化が別れるにあたって、それぞれがそれぞれの傾向を過剰に洗練させすぎたせいであろう。近代科学は、反妖怪変化的であろうと過剰に意識しすぎたのであり、一方、妖怪変化は、反近代科学的であろうと、これまた過剰に意識しすぎたのである。

 しかし、その結果、近代科学は、かつて妖怪変化がそうであったのと同様の「いかがわしさ」をその身近に匂わせるに至ったのであり、だとすれば今日、その「いかがわしさ」を通じて再び妖怪変化と融和するための、絶好の機会が訪れたと言えないであろうか。そうすることで我々は、近代科学と妖怪変化を、「二つの一つ」ではなく、「二つながら」同時に、良識の側に組み入れることが可能になるのであり、ひいては「良識」と「いかがわしさ」がほとんど同じものであるという、かつては思いもよらなかった立場を、我々のものとすることができるのである。」

**(別役実『もののけづくし』〜「三 高度な戦略/さとり」より)

*「さとりというのは読心術にたけた妖怪にほかなたない。人の心を読むのであり、言ってみればただそれだけのものなのだが、当然ながらその種のものがかたわらにいて、こちらの思うことをことごとく読まれてしまうのは、かなりやりきれないことである。ある高名な哲学者が言ったように、「思うが故に我あり」なのだとすれば、その人間は恐らく自分が自分でないような気になるに違いない。現に、さとりにつきまとわれた多くの人間が、いわゆる「ふぬけ」になり、なすこともなくぼんやりしてしまうのである。」

*「我々は、さとりにつきまとわれて、こちらの思うことをことごとく読みとられても「ふぬけ」になるし、かと言って逆に、さとりを追い払うべく思いがけない存在になろうとしても、同様に「ふぬけ」となる。いずれにせよ現在、さとりは我々に対して、圧勝しつつあると言えるであろう。ではどうすればいいか。方法は一つしかない。あえて「ふぬけ」になろうと努力するのである。そうすることのみが、さとりにとって「思いがけないこと」であろうからである。」

**(別役実『もののけづくし』〜「四 利己的行動/ふんべつ」より)

*「「ふんべつ」というのは、いわゆる「付喪神(つくもがみ)」の一種であり、我々が歳をとり、体力のおとろえを感じはじめるころ、その気にゆるみにつけこんで、憑依するものとされている。「男の四十はふんべつ盛り」と言われているから、そのころが危ないということであろう。」

*「「免疫療法」というのがある。元来は医学用語で、悪性のウイルスに感染される前に、毒性を薄めた同種のウイルスを体内に注入して「抗体」を作り、それによって本来のそれにたかられた場合の症状を軽くしようとするものであるが、妖怪学においてもこの先述は、医学がそれを思いつく以前に、すでに採用されていた。親が子に。くり返し「怖いお話」を聞かせたり、夏になると「お化け屋敷」なる見世物ができたのは、そのせいと言えるであろう。」

*「予防注射としてのふんべつを身につけ、その上でそれを捨てた経験を持つ者は、中年になってあらためてふんべつに憑依されたとき、それを異物とし、人間になじまないものと見なすことができる。しかし、一度もそれを捨てたことのない者には、その種の感受性がない。」

**(別役実『もののけづくし』〜「六 てもちぶさた」より)

*「てもちぶさたという妖怪は、いつもそのあたりにいて、とりたてて実害はないものの、時に我々の手を見つめるという奇妙な習癖を持っている。従って、我々の方からそいつを見ることはめったにないが、そいつに見られていることに気づくことが、たびたびある。」

*「人類が直立歩行を開始し、前肢が手となり、特定の役割分担から解放され、従って定型を失い、その不安定さにつけこむべくてもちぶさたが出現したであろうことは、想像に難くない。妖怪というものは往々にして、こうした変化にともなう「心のすき」に住みつくものだからである。つまりてもちぶさたは、我々が前肢を手としながら、未だに手を手として扱いかねているのをいち早く見てとり、それを問うことに、そして問い続けることに存在理由を見出したのだ。」

**(別役実『もののけづくし』〜「九 経済変動で成長/もったい」より)

*「妖怪の中に「もののけ」という種類があって、これは「もの」につく。一般には、「ものの毛」と書いて、これは「もの」に生える「毛」のことであろうと考えられているようであるが、そうではない。「ものの気」と書いて、これは「もの」が漂わせている「気配」のことである。

 つまりこれは、「もの」についてそれが「もの」であることを、次第に歪曲、もしくは変質させてゆくわけであり、それが我々には、どことなく得体の知れない「気配」を漂わせているように見えるのであるが、ここで言う「もったい」も、そうした「もののけ」の亜種にほかならない。そしてそれがつくと、我々はその「もの」を、むしょうに捨てたくなる。

 従って逆に、それのついていないものを見ると。むしょうに拾いたくなる。つまり。「もったいない」のである。」

**(別役実『もののけづくし』〜「九 経済変動で成長/りしょく」より)

*「お金にたかる妖怪である。これは、蝶が「毛虫」「さなぎ」「蝶」と変わるように、珍しく変態をする妖怪と言われ、「りんしょく」「りしょく」「はさん」と変化する。ただし「毛虫」の場合は、その状態で踏みつぶされたり、鳥に喰われたりしない限り、「さなぎ」になり、羽化して「蝶」になる過程を、必然的に辿らざるを得ないが、「りんしょく」の場合は、そう言われてたじろがないだけのずぶとさがあれば、そのままその状態を続けることも出来る。

 ただし、それが「りしょく」になってしまった以上は、「はさん」への過程をとどめることは出来ない。羽がはえて飛んでいってしまうのであり、この時「は、は。は」と三度笑うというのと、この名がついたとされている。」

**(別役実『もののけづくし』〜「十 天然記念物怪/とりとめ」より)

*「「とりとめ」は、おおむね「ない」のである。当然、「ある」場合もあるはずなのであるが、「ある」時にあることは、ほとんど気づかれない。そしてこれが、妖怪とりとめの特色と言えよう。つまり、多くのものの存在は、「ある」ことによって知られるのだが、とりとめは、「ない」時にないことによって知られるのである。」

**(別役実『もののけづくし』〜「文庫本のためのあとがき」より)

*「今日の情報化社会というのは、かつていわゆる「魑魅魍魎」が横行していた世界と、一脈通ずるものがあるのかもしれない。」

「パソコンを通じてアクセス出来ることになっている無数のホームページと称するものの中にも、いくつかそれらしいものがあっておかしくない。少なくとも、一室にこもってパソコンに熱中する若ものたちの姿は、かつて「魑魅」であり「魍魎」であるものと交渉を持った、それらの専門家の姿を彷彿させるのである。

 恐らくそうなのだ。情報化社会というのは、「もののけ」と「お化け」の時代によく似ている。してみれば本書も、教養書としてよりも生活技術書として、いくらかお役に立てるかもしれない。つまり、「お化けとおつきあいをする方法」というわけだ。」

**(□柴田宵曲『完本 妖異博物館』〜常光徹「解説」より)

*「民俗学、とくに民間説話(伝説・昔話・世間話)に関心をもつ者にとっては、『妖異博物館』正続は常に手許に置いておきた一書である。いつ頃だったか思い出せないが、古書店で手に入れて初めて読んだ。小躍りしたくなるような事例に出合うたびに、頁を繰る手を止めて傍線を引いた記憶がある。驚いたのは、今も各地に伝承されている民間説話と共通する話題の多いことだった。「猫と鼠」「河童の薬」「轆轤首」「舟幽霊」「人の溶ける薬」等々、挙げれば切りが無いほどだ。一般に、口頭で伝えられてきた説話は、話の歴史をたどるのが困難なケースが多い。従来、この種の話は、書き留められる機会が稀で文献が乏しいことに因る。その意味で、宵曲が博捜した近世の基壇や中国の志怪小説に、民間説話との繋がりを示す話柄が頻出するのは刮目に値する。話が帯びる伝承の時間軸を明らかにし、変遷を跡付ける上で、本書が担った役割は間違いなく大きい。まして、初版は世に出た昭和三十八年当時を思えば、その先見性は一際抜きん出ている。それにしても、奇談を掬い取る宵曲のまなざしが、民俗学の関心と底流で通い合っていることに、ふしぎな懐かしさを覚える。」

□別役実『もののけづくし』【目次】

序 歩み寄る近代科学
一 妖怪ウォッチングの心得
  ろくろっくび/ざしきわらし/ゆめかみは
二 進化の徒花
  あずきわらい/ねこまた/かげろう
三 高度な戦略
  のっぺらぼう/ひとつめこぞう/さとり
四 利己的行動
  ふんべつ/これくらい/かいせん
五 擬態を装う
  どろたぼう/じんめんじゅ/いちもくれん/うたかた
六 自我の喪失
  なみはぎ/てもちぶさた/こだまのあとだま
七 人間関係に寄生
  すなかけばば/どうも/あまんじゃく
八 情報化社会に対応
  あさぼらけ/まくらがえし/ありじごく
九 経済変動で成長
  もったい/りしょく/ぎゃおす
十 天然記念物怪
  くだん/けうけげん/とりとめ

あとがく
文庫本のためのあとがき
解説 池内紀

●別役実:
1937年、旧満州生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。東京土建一般労組書記を経て、1967年、劇作家になる。岸田國士戯曲賞、紀伊國屋演劇賞、鶴屋南北戯曲賞、朝日賞など受賞多数。2020年3月3日逝去。

□柴田宵曲『完本 妖異博物館』【目次】

「妖異博物館」

化物振舞/大入道/一つ目小僧/轆轤首/舟幽霊/人身御供/人魂/異形の顔/深夜の訪問/ものいう人形/ものいう猫/怪火/狸の火
大猫/化け猫/狐の嫁入り/狸囃子/猿の刀・狸の刀/鼠妖/大鳥/白鴉/河童の執念/海の河童/百足と蛇/古蝦蟇/蜘蛛の網/大鯰/妖花/茸の毒
果心居士/飯綱の法/山中の異女/人の溶ける薬/煙草の効用/天狗になった人/天狗の夜宴/
生霊/小さな妖精/執念の転化/気の病/形なき妖/大山伏/消える灯/夜光珠/化物の寄る笛/持ち去られた鐘/銭降る/猫の小判/雁の財布/古兜/斬られた石/魚石/提馬風/風穴 など

「続妖異博物館」

月の話/大なる幻術/雷公/雨乞い/鎌鼬/空を飛ぶ話/地中の声
宿命/火災の前兆/家屋倒壊/卒堵婆の血/経帷子/井の底の鏡/五色筆/難病治癒/診療綺譚/髑髏譚/眼玉/首なし/ノッペラポウ
竜宮類話/羅生門類話/妖魅の会合/雨夜の怪/死者の影/離魂病/樹怪/くさびら
仏と魔/金銀の精/名剣/不思議な車/樽と甕/埋もれた鐘/巌窟の宝/打出の小槌/金の亀
竜に乗る/竜の変り種/虎の皮/馬にされる話/牛になった人/猿の妖/狐の化け損ね/獺/鶴になった人/化鳥退治/大魚/鰻/胡蝶怪/蜂/銭と蛇 など

解説
索引

●柴田 宵曲:
1897年、東京生まれ。ホトトギス社で句集の編集に携わり、俳人・寒川鼠骨に師事した。江戸学の祖・三田村鳶魚にまつわる編集作業でも知られ、『子規全集』全15巻、『三田村鳶魚・江戸ばなし集成』全20巻などに携わる。怪異・妖怪にも深い関心を持っていた。著書に『古句を観る』『評伝 正岡子規』(岩波文庫)、『柴田宵曲文集』全8巻(小沢書店)、『明治の話題』『明治風物誌』(ちくま学芸文庫)、編書に『奇談異聞辞典』(ちくま学芸文庫)、『幕末武家の回想録』(角川ソフィア文庫)など。1966年没。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?