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酒井泰斗+吉川浩満「読むためのトゥルーイズム――非哲学者による非哲学者のための〈哲学入門〉読書会」(新連載第1回 『文學界2024年2月号』)

☆mediopos3356  2024.1.25

酒井泰斗と吉川浩満の
「読むためのトゥルーイズム
 ――非哲学者による非哲学者のための〈哲学入門〉読書会」
という連載がはじまっている(『文學界2024年2月号』)

トゥルーイズムとは
「有り難い」ことや「新奇なこと」「意義深いこと」に対して
「わかりきった」「自明の理」「陳腐なセリフ」といった意味

そのトゥルーイズムにもとづいて
「文書をどう読んだらよいのか」という課題について
議論をしていく連載である

それがなぜ「哲学入門」になるのかだが
両者とも哲学者というわけではない
しかし哲学者ではないからこそ
哲学に関する専門的な知識を離れて語ることができる

本(文書)を読めるようになるためには
読めること(出来ること)と
読めないこと(出来ないこと)について考える必要があり
読めるようになる(出来るようになる)ということは
「<すでに出来ること〉から出発して
〈まだ出来ないこと〉への道筋をたどる」ことである

その課題に取り組むにあたっては
「読めるとは何が出来ることなのか」と問うだけではなく
「いま、少なくとも何は出来ているのか」という
じぶんの「スタート地点」を知る必要がある

そして「既に出来ていること」を検討するための道筋には
 a.出来てしまっていること
 b.出来てよいはずなのにやっていないこと
 c.出来なければならないこと
という三つのステップがあり

そのうえで「自明の理」そのものを
検討するということが不可欠となる

そこで重視されるのは
「新たな知識や技法・技能を獲得する」ことではなく
「既知の事柄を反省する」ということにほかならない

ふつう読書といえば
「未知の新たな知識や技法・技能の獲得」
とみなされることが多いが
「読むためのトゥルーイズム」は
「それとは正反対に見える」

「知識を吸収し、積み重ねていくと読めるようになる」
ということは実際たしかにあるのだが
「読めるようになる」ことは
そういう「知識の積み上げ」だけでは可能にはならない

「知っているのに読めない、
見えているはずなのに見ていない」という問題である

「「知らないからわからない」ことであれば
調べれば済むけれど、
そうでないのにわからないことは、調べたってわからない」

「「本が読めない」というのは、
他人の表現の把握が出来ないことの特殊なタイプ」で
「難しい本」だから読めないのではない
「簡単な本」であれば読めているわけではない

昨今は知識を得るために「検索」し
「知識」を得てそれを「答え」としたり
学校では受験に必要な知識の習得によって
「読める」とされたりもしているが

そこにある「当たり前」そのものを問う
つまりいま自分が「既に出来ていること」を
「反省する」ことからはじめることで
「既に出来ている」と思っていることの多くが
実はそうではないことがわかる

そのことはAIの問題とも関わってくることだろう
知識が編集されそれなりに表現されたとしても
それは「既に出来ている」ということにはならない

そのことをとらえなおすためにも
じぶんが「当たり前」だと思っていることを
スルーするのではなく
そこからはじめることが重要になる

■酒井泰斗+吉川浩満「読むためのトゥルーイズム
 ――非哲学者による非哲学者のための〈哲学入門〉読書会」
 (新連載第1回 『文學界2024年2月号』)

(「1.トゥルーイズム————「当たり前」を活用する」より)

「吉川/「トゥルーイズム(truism)」というのは、多くの人には馴染みのない言葉かもしれません。

(・・・)

 吉川/「わかりきった」とか、「自明の理」とか、そういう意味でしょうか。「千里の道も一歩から」「犬が西向きゃ尾は東」みたいな。

 酒井/そうですね。当たり前すぎてそれ自体ではとくに新しいアイデアや情報を提供するものではないような言葉です。ですから、「陳腐なセリフ」といった意味も持ちます。

 吉川/「彼が死んでいなければ、いまも生きていただろう」

 酒井/正しい。

 吉川/これはフランス帰属ジャック・ド・ラ・パリスの墓碑に刻まれた「彼が死んでいなければ、今も羨ましがられていただろう」が誤読されて生まれたトゥルーイズムなのだそうです。フランス語の「羨望」(envie)が「生」(en vie)とよく似ているから、それでフランスでは、トゥルーイズムのことを「ラ・パリスが言うことには〜」とか「ラパリサード」と呼ぶようになったとか。

 酒井/知りませんでした。正しいけど陳腐であり。それを言って何になるという感じがするところと、でもあえてそれを口にすればちょっと滑稽な感じが醸し出されるところがあって、これからお見せしていきたいトゥルーイズムの例として適切であるように思います。本連載ではトゥルーイズムをフックがガイドとして活用していく予定ですが、その際に、一方では「このように言えば誰もが当たり前のこととして認めてくれるだろう」と当てにしながら、他方では「当たり前すぎてぇ読者には陳腐にしか思えないだろう」ということも知りながらそうすることになるでしょう。

吉川/ひょっとすると、非常に風変わりなことをやろうとしているように思われるかもしれません。いま「当たり前」「陳腐」という言葉が出ましたが、ふつう人が欲するのはまさにそれとは正反対の事柄————当たり前のことではなく「有り難い」こと、陳腐なことではなく新奇なことや意義深いこと————でしょうから。」

(「2.社会学的自己反省————読む時に何がおきているのか」より)

「酒井/私たちがこれから取り組むのは「文書をどう読んだらよいのか」という課題です。しかしながら、ひとっ飛びで「これが答えだ」式の奥義を授けるのではありません。先に述べたように、そんな奥義などありませんからね。その問いの手前に、「我々は実際には文書をどう読んでいるか」という問いを置いて、両者を区別したうえで組み合わせながら進んでいこうと思います。

 吉川/なるほど。我々は「どう読んだらよいのか」と途方に暮れたり、「よい読み方を知りたい」と欲したりするわけですが、他方で、日々すでに文書を実際に読んでしまっているわけですからね。この読書会では、そのときに我々がどのような手立てをつかっているのかについての考察も組み合わせて進んでいくということですね。そうることで、普段はあまり意識しないかもしれない、我々の「読む」という活動を支えている種々の事柄が浮かび上がってきて、それを読解のガイドとすることができるんだよと。

 酒井/その通りです。「出来るようになる」という表現は〈出来ること/出来ないこと〉という区別を前提していますから、まずこの区別に注目してみましょう。我々が「本が読めるようになりたい」という願望を抱くのは、何らかのことについて「出来ていない」という自覚や「できていないのではないか」という不安を持ったときでしょう。そこで我々はふつう、「出来るようになるためには何が必要なのか」に答えを与えてくれそうな指南を求めがちです。この発想を支えているのは「目下自分には何かが欠けていて、それを埋めなければならない」という前提です。もちろんこれはおかしなことではないのですが、しかしその手前で考えてよいことがある。〈自分にはできないこと〉とか〈自分には欠けているもの〉とかだけでなく、むしろ〈出来ること/出来ないこと〉という区別の方に注目するならすぐに、「出来るようになる」とは〈すでに出来ること〉から出発して〈まだ出来ないこと〉への道筋をたどることである、と指摘できます————当たり前ですね。

(・・・)

 酒井/このトゥルーイズムから、少なくとも二つのことが言えます。
 一つ目。道筋をたどるという課題は、「読めるとは何が出来ることなのか」という問いへの答え(=ゴール)を知るだけでは果たせません。「いま、少なくとも何は出来ているのか」ということの方も知る必要があります。そうしなければスタート地点が確保できないからです。これが、先に「当たり前のこと」と呼ぼうとしていたものの最初の一つです。
 二つ目。「既に出来ていること」も重要な検討主題であることに気づけば、道筋は少なくとも、
 a.出来てしまっていること
 b.出来てよいはずなのにやっていないこと
 c.出来なければならないこと
という三つのステップが区別できることに気づきます。一つ目に指摘したaに加えて、bもまた「当たり前のもと」と呼んでよいものでしょう。そして、間にbというステップを挟み、それも検討主題に設定すれば、〈出来ない/出来る〉の間をつなぐ道筋は、中間目標を得てよりなだらかなものになるはずです。aやbの検討は、知らないことを知ろうとするタイプの活動(〜探索や学習)ではなく、自らを振り返るタイプの活動(〜自己反省)です。この連載でこれから登場してくるトゥルーイズムも、主としてaやbを振り返るなかで、「読む」という活動を支える事柄————可能性条件————として浮上してくるものです。我々の社会生活は魔術によって支えられているわけではないので、当然ながら、そうした可能性条件も、一つ一つをそれとして取り出せば魔術ならざる陳腐なもの————当たり前にすぎるもの————であるでしょう。トゥルーイズムという語をタイトルに入れたのは、この連載のターゲットの、そうした性格を明示したかったからなのでした。しかしもう一つ理由がある。

 吉川/はい。なんでしょう。

 酒井/我々の社会生活には、「お互いが知っていることは省略せよ」という強力な経済原理が働いています。「みんなが知っている」を的確に踏まえつつもそれに触れずにふるまえば「スマート」なふるまいに見えますし、話せば「円滑」なやりとりになります。他方、誰でも知っているはずのことをわざわざ述べたり触れたりすれば、それとは逆の————「あまり賢くないのだな」とか「ぎこちないな」とかいった————評価を受けることになるわけです。私たち筆者がそう評価されることはよいとして、しかし、そのような印象を受けたからこの連載を読むのをやめようと判断する人が出てきてしまうと、それは困ります。タイトルにトゥルーイズムという言葉を入れたのは、私たちが今後テーゼのような仕方でのべるそれら自体は私たちの結論ではない、ということにあらかじめ注意を引いていきたかったからです。トゥルーイズムは、「文書をどう読んだらよいのか」という問いに対する答えの重要なパーツをなすものではありますが、それら自体が答えであるわけではありません。」

「吉川/この連載で重視するのは、いかにして新たな知識や技法・技能を獲得するかではなく、いかにして既知の事柄を反省するかなのだと。世間では、読書の目的は未知の新たな知識や技法・技能の獲得とみなされることが多いですよね。それとは正反対に見えるので、確認しておきたいです。」

「吉川/つねに「知っていること」からはじめるということですね。では次に、「反省」という言葉について。本の読み方が論じられるとき、ふつうこの言葉が用いられることはないですよね。用いられるのはたとえば「解釈」でしょう。また、反省という言葉に接したときに我々が真っ先にイメージするのは、もっぱら自己について————多くの場合、自分が犯した罪や過失について————の考察です。でも先の方針では、本連載で行うのは、自分自身を主要な題材とし・主要には自分自身にフォーカスした反省ではなく、自分が語ったり書いたりしたわけではないもの————これは他人が書いた本、まあ本にかぎらないでしょうから文書とでも読んでおきましょうか————を介して行う特殊なタイプの自己反省と言われている。

 酒井/「自己反省」という言葉で指しているのは、さしあたっては、「読むときに我々には何がおきているのか」とか「読むという活動は如何にして可能になっているのか」といった問いに答えを与えようとする活動のことです。私がこのタイプの自己反省について明確な仕方で学んだのは、社会学の一流儀であるエスノメソドロジー研究からです。

 (・・・)

 文書を読むという活動は膨大な社会的聯関に支えられています。〈誰かが何かを読む〉という活動を、この社会的連関の方から捕らえようとするとき。それを捕らえようとする私もまた、その「誰か」の一人です。したがって、その連関の記述の中には私自身も部分的な主題=対象として登場してくることになります。」

(「3.深刻な問題————知っているのに読めない」より)

「酒井/「知識を吸収し、積み重ねていくと読めるようになる」ということは実際にあります。典型的には、歴史、思想史、哲学史の分野では、そのような対処の仕方を非常によく見かけます。しかしその場合の「読める」とはなんなのか。本当に「読める」理由が「知識の積み上げ」だけによるのだとしたら、その場合の読みは「パターン処理」と呼ぶできものに近いはずです。パターン処理だって「読む」の一つの形ではあるでしょうが、それを「読解」とは呼びにくいでしょう。つまり、それが「読む」のすべてであるはずがない。(・・・)
 「読めない」は複数の水準で様々な理由で生じることです。にもかかわらず「知識がないから」ということにしておけば、考えるべきことは極端に減って、人は安心できる。勉強が嫌いな人は「ならいいや・しかたないや」と思えて安心するし。勉強が好きな人は「勉強すてればいつかわかるのだろう」と思って安心する。「読めていないのではないぁ」という不安の裏側には、そうした自足が控えているわけです。しかしこのような不安の持ち方はヌルいと言わざるをえない。〈他人の表現の把握〉という課題には、もっと重大な問題が控えているからです。

 吉川/重大な問題・・・・・・。

 酒井/知っているのに読めない、見えているはずなのに見ていない、そういう問題です。こちらのほうがずっと深刻でしょう。なにが深刻かといって、「知らないからわからない」ことであれば調べれば済むけれど、そうでないのにわからないことは、調べたってわからないのです。恐ろしいことではないですか。しかもこれは、社会生活を送る際に普通に誰もが使っている能力。普通に使えるけれどもいつも十全に使えているとはかぎらないような、そういう能力に関わる話題なわけです。

(・・・)

 酒井/「他人が書いたものを読む」というのは、他人の表現を把握するという社会的活動の一種です。言い換えると、「本が読めない」というのは、他人の表現の把握が出来ないことの特殊なタイプです。なので、「本が読めない」と言われたら、続けて「他人の話は聞けていますか? 他人の振る舞いは把握できていますか?」ということは問われたっておかしくはないそしてまた。「難しい本が読めない」と言われたら、「じゃあ簡単な本は読めているんですか?」と問いたくもなるい。「難しい本が読めない」というのは、実は「難しい本を読むときになら、自分が本を読めていないことに気づける(が、いつもは気づけていない)」ということだけのことかもしれないのです。

 吉川/もし、知っているのに読めない。見えているはずなのに見えていないのであれば、実は簡単な本さえ読めていないということになる。しかもそれだけじゃない。これは、本を読めないどころの騒ぎではなく、人生の心配をしなければならないレベルの深刻な問題だと。つらい話になってきました。

 酒井/本が読めないことに気づいたなら他人の話を聞けていないことについても心配したほうがよいはずです。

 吉川/自明の理ですね。

 酒井/これはきわめて深刻な問題なのに、みんな素通りしている。あまり考えたくないのかもしれません。でも、「知らないから読めない」よりも「知らないわけではないのに読めない」のほうがずっとおおごとです。万人の社会生活に関係し、しかも「専門家じゃないからわかりません」みたいな言い訳もきかない。そして、こちらの話題でよければ————つまり「知識の提供」以外の仕方でリクエストに応えてよいなら————、私や吉川さんにも言えることがある。」

◎酒井泰斗、吉川浩満「非哲学者による非哲学者のための(非)哲学の講義」


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