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立岩 真也『良い死/唯の生』・立岩 真也『人命の特別を言わず/言う』

☆mediopos2960  2022.12.25

死と殺生に関する
立岩真也の新刊・二冊
(文庫は以前の著書からの文庫化)

『良い死/唯の生』(文庫)では
安楽死・尊厳死を「良い死」とし
病気や老衰などで
生きる価値がないとさえ思わせてしまう
そんな社会の価値観を批判的に検討し

「良い死」を追い求めるのはやめて
「唯の生」でよいのではないかと訴えている

著者の基本的な考えは
「病で死ぬとしてもその時までしたいことをし、
楽をするのがよい」のであり
「生きたいなら生きられる」社会を
つくることが必要だということである

いうまでもなくこれは真っ当過ぎる考え方なのだが
世の中の価値観はおそらく
「役に立つか立たないか」という価値観が支配的で
役に立たないものはなんらかの偽善的で
キレイゴトでしかない理由をつけられ
排除(死に追いやる)してしまうことにもなる

もう一冊の『人命の特別を言わず/言う』では
命ある存在を殺生することについてのもの

人間が動物食べるというとき
人間とそれ以外の生物を区別するための基準を設け
それに基づいて殺していい動物とそうでない動物を分ける

人間中心主義である

あるいは「動物を食べるべきでない、殺すべきでない」
という主張もなされる

脱人間中心主義である

ここからは本書の内容にはない話になるが
そこでもさまざまなレベルで基準が設けられる
植物もまた命ある存在なのだが
それについてはあえて声高には言われない
あの宮沢賢治も植物を栽培して食べるということについて
批判的な考えをもっていたわけではない
あの厳格なジャイナ教とにしても同様である

さらにいえば殺人に関しても
さまざまな基準が世の中には設けられている
死刑を肯定するか否定するかという問題もあり
戦争において敵を殺すことについての問題もある

さらにさらにいえば
地球環境を守るという問題を含む将来的な視点のもとに
おそらく意図されているであろうような
大規模レベルでの人口削減計画のようなものも
現在着々と進行中のようで
(果たしてどんな展開になっていくのか・・・・・)

それはひょっとしたら
別の意味での脱人間中心主義でもあるかもしれず
そこでは「生と死」をめぐる諸問題が
さまざまな矛盾を孕みながら展開されることになる

さてそうした「死」をめぐるテーマについて
考えていくばあい必要なのは
やはり「死とはなにか」を
さまざまなレベルで考えていくことだろう

そしてこれは著者と同じ考えなのだが
とりあえず人間のこととして考えるときには
「生きたいなら生きられる」ような
「唯の生」が無理なく肯定されるような
そんな社会であればと切に願うところである

■立岩 真也『良い死/唯の生』
 (ちくま学芸文庫 筑摩書房 2022/12)
■立岩 真也『人命の特別を言わず/言う』
 (筑摩書房 2022/12)

(立岩 真也『良い死/唯の生』〜「序」より)

「『良い死』では、自分で決める、自然な(そして/あるいは美しい)、そして利他的な死として肯定される死について考える。同時に、たしかにあまりぱっとしない死を否定しないほうがよいと述べる。

『唯の生』では、ここ数年に周囲に起こったことを記し、ここ三〇年ほどの歴史をどう見るか、むしろ、その歴史を見るべきことを喚起する。そして幾つかの論点について考えた文章を収録する。」

(立岩 真也『良い死/唯の生』〜大谷いづみ「解説 それぞれの「良い死/唯の生」」より)

「本書は、筑摩書房から出版された『良い死』(二〇〇八)に『唯の生』(二〇〇九)第五章〜第七章を加えて一書としたものである。その骨子は、「「良い死」を追い求めるのはよそう、「唯の生」でいいことにしよう」という、ごくシンプルなことだ。」

「立岩が本書で述べている骨子を、わたしなりに箇条書きでまとめると次のようになる。

:生存できる人を死なせるための法律(尊厳死法)は不要であること
・自分にとっての「良い死」を自己選択しているだけだというが、そこには周囲への気兼ねがあること
・「本人のためと称される介入は、しばしば周囲や社会の都合であること
・「自分」に限定されているというその選択は、病者・障害者であることを、いきるに値しないとする強い否定であり、他者(とりわけ病者・障害者)を害していること
:「自然な死」という曖昧な概念によって、病者・障害者の存在を否定してはならないこと
・社会をまわしていくために誰かの犠牲は必要なく、財の分配(あるいは再配分)で足りること
・生存できる人が生存できる制度をつくること」

(立岩 真也『人命の特別を言わず/言う』〜「序」より)

「ある基準線を作って、その線よりも上にいる存在は殺さない、下にいる存在は殺してよいことにする(A)。すると、いくらかの、あるいはかなり広い範囲の動物は殺してならないことになる(B)。他方、線の下にいる人の生命の維持は不要であるということになる(C)。

 むろんその線の場所、その場所の辺りは問題になる。「上」から見た時、その上側に属するかが「ぎりぎり」あるいはその下の人・ヒトはどうなるのだろうと問題にされる。生命倫理学・動物倫理学の業界では、「限界事例(marginal case)」、「AMC」(=「限界事例の主張(the argument from marginal case)」という言葉もあるらしい。

 動物を食べるべきでない、殺すべきでないという主張がまずまずの指示を得ている。それが、基準を満たしているから生かす(A→B)という主張であるなら、満たしていない人は死んでよい、あるいは殺す(A→C)ことも支持されることになるのだろうか。

 このことに関わって書かれたものはまずまずの数あるのだが、ひとつ一つに、A→Cは、とくに動物を大切にという話のなかでは、あまり、あるいはまったく意識されない。そして、この構図の全体をいちおう知る人は、三つに分かれる。一つは難しい問題だと言って、話を先延ばしにし、終える。一つは、この図式をすなおに肯定する。最後が、いやそういうことではなかろうと言う、言おうとする。

 本書は、そして私は、この最後のものを支持する。支持者はたくさんいると思うのだが、その理屈を通すとなると、そう簡単ではないように見える。その理由の一つに、肯定する話にももっともなところがあることもあるだろう。

 そのこともふまえながら、本書は人名の特別を言わず、言う。それが題になっているが、基本的には「言う」。その話の一つひとつの話は、みな、私が思うには、とても当たり前のものだと思う。しかし、以外に言われない部分があり、また本書での話の組み合わせを見かけることもないように思う、その意味では、たぶん、誰もがわかっているのに、書かれたことのないことが本書では書かれる。」

◎立岩 真也(たていわ・しんや):
1960年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。社会学専攻。著書に『私的所有論 第2版』(生活書院)、『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』『造反有理――精神医療現代史へ』『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(以上、青土社)、『介助の仕事――街で暮らす/を支える』(筑摩書房)、『自由の平等』(岩波書店)、『自閉症連続体の時代』(みすず書房)、『人間の条件――そんなものない』(新曜社)など。共著に『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』『税を直す』『差異と平等――障害とケア/有償と無償』『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(以上、青土社)、『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(生活書院)ほか多数。

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