見出し画像

松浦寿輝×沼野充義×田中純「徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術 最終回「〈世界文学〉のために」(『群像 2023年 05 月号』)/山内志朗「辺境から見た世界哲学」(I 世界哲学の過去・現在・未来-2)

☆mediopos-3068  2023.4.12

中心に対する「辺境」といえば
山口昌男の『文化と両義性』における
「中心と周縁」を思い出すが

「世界文学」においても
そして同様に「世界哲学」においても
今や「中心」だけで語ることはできない

かつて日本だけに特有なものとして
「世界文学全集」というのが刊行されていた

「全集」というのはじっさいにはありないものの
それが「世界文学」を概観するための
価値観の大系としてそれなりの意味をもっていたが
それらが刊行されなくなってすでに三〇年以上経つ

最近では池澤夏樹の個人編集によるものが
河出書房新社から刊行され話題にもなったが
これはかつてのような基準をもった全集ではすでにない

現代の世界文学は圧倒的な膨大さと多様さをもち
世界の拡張・多様化に伴うことによる流動性も増し
かつての文学全集がとっていた国別の分類も難しくなっている

またポストコロニアルな状況下において
第三世界の作家たちも世界文学に参入するようになり
さらに世界のグローバル化に伴い
文学作品が「精神的な価値を伝達するものとして」
「ローカルな世界観の大系を超えて
流通するケースが増えてきた」ということが背景にある

しかしそのような世界文学の多様性によって
かつてのような価値の「中心」としての「世界文学」(全集)
ということが成立しえなくなってきている反面

「国を越えて相互の理解が可能」となり
「遠くの国の遠い文学を読んで楽しむことさえできる」のは
文学に「ユニバーサルという意味の
普遍性もあるからこそではないか」(沼野充義)ともいう

そんな議論のなかで田中純による
「世界文学」に関連させた
「世界哲学」における「辺境」の話が示唆的である

これはちくま新書の『世界哲学史』の別巻に収められた
山内志朗「辺境から見た世界哲学」からの視点だが

「世界の「中心」から思想が伝播していって、
「辺境」はそれの終着点であるように見えるけれども、
むしろそこで逆転が生じ、
「辺境」こそが新しい思想の中心点になる。
そういう運動があるんじゃないかという話」

おそらく現代そしてこれからの「世界文学」も同様に
「辺境」が新たな文学の中心点になり得るのだろう

ところでここ数年来
かつて刊行されていた「文学全集」や
「世界の名著」「日本の名著」を読み直す
(というよりは読めていなかったものを読む)
そんな機会をもつようになっている

そこでとりあげられているものは
いまやそれそのものが「辺境」となっているようでもある
(いまではほとんど手に入れることさえできないものも多い)

ある意味でいまやすべてが「辺境」化しているのかもしれない
(そんななかでいまだにある種の「権威」や「中心」に固執し
「門」を「扉」を閉ざそうとする者たちも相変わらずなのだが)

■松浦寿輝×沼野充義×田中純
 「徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術 最終回「〈世界文学〉のために」 
 (『群像 2023年 05 月号』講談社 2023/4 所収)
■山内志朗「辺境から見た世界哲学」(I 世界哲学の過去・現在・未来-2)
(『世界哲学史 別巻 ――未来をひらく』ちくま新書 2020/12 所収)

(「徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術 最終回「〈世界文学〉のために」より)

「沼野/
 膨大な世界文学に向き合うために、日本では世界文学全集というものが伝統的につくられてきました。これは日本特有の慣習といっていいと思いますが、日本で世界文学全集と銘打って大衆的に非常にアピールしてたくさん売れたのは、新潮社の円本、昭和初期に出た『世界文学全集』を嚆矢とします。その後、「世界文学全集」という多巻物の全集は繰り返し刊行されていて、しかも、商業的にもかなりの好成績をおさめてきました。
 「全集」という言葉は、もともとある意味ではインチキなわけです。たとえば「夏目漱石全集」とか「ドストエフスキー全集」という作家個人の全集だったらありうるわけですけれども、世界の文学のすべてを集めた全集なんてありえない。しかし、嘘は嘘でも、ある種の安心感がそこにはあったと思います。つまり、そこには読むべきもののすべてがるという錯覚を与えてくれるわけですね。そういう揺るぎない価値観の大系がある。

(・・・)

 今、現代世界文学の多様性を強調しましたけれども、多様性だけでは混乱する一方です。文学としての普遍性/不変性はどうなのかということも、もちろんあわせて考えていかなければなりません。
(・・・)
 詩とか小説といったジャンル概念は、今日の世界では圧倒的な多様性を見せていますけれども、それにもかかわらず国を越えて相互の理解が可能となっている。理解だけにとどまらず、遠くの国の遠い文学を読んで楽しむことさえできるというのには、文学に不変性、つまり構造上、変化しないものがあるということじゃなくて、ユニバーサルという意味の普遍性もあるからこそではないかと思います。」

「沼野/
 世界文学論が出てきた背景には、もちろん二〇世紀末から現代にかけての現代世界の新たな現実があると思います。従来のアカデミックなディシプリン(英文、国文、仏文といった言語・国別の縦割り)とか、比較文学でさえももはや対処できないような現実が出てきている。その現実を私なりに四つの点に整理して考えてみました。
 まず第一に、世界文学の圧倒的な膨大さと多様さがある。
(・・・)
 現代の状況の特徴の第二点は、こういった世界の拡張・多様化に伴い、流動性も増して、従来のような文学の国別の分類が難しくなっているということです。
(・・・)
 第三点として、ポストコロニアルな状況下で、アジア・アフリカなどのいわゆる第三世界の作家たちも、世界文学に参入するようになってきているということがあります。
(・・・)
 第四点は、世界のグローバル化に伴い、文学作品も、ときにそれは非常によく売れる商品として、あるいは、ときにそれは経済的な利潤をさほど生み出さずとも精神的な価値を伝達するものとして、グローバルに、つまり、ローカルな世界観の大系を超えて流通するケースが増えてきたということ。」

「松浦/
 「未知の地」が、消滅したというか無効化したのがグローバル化以降の世界です。二〇世紀の中盤からは、人工衛星からの視線で地表が照らし出されるようにもなり、地球上のすべてが情報化され、知識化されて、まだ名前のない絶海の孤島といったたぐいの「未知の地」がなくなってしまった。(・・・)
 「未知の地」だけではなくて、一般に未知なるものそれじたいが消滅してしまったんだと思います。というよりむしろ、未知なるものが消滅したかのごときファンタスムが、広く共有されるに至ったというべきかもしれません。つまり、情報量の途方もない肥大によって、世界が既知なるもので隅々まで充実してしまったということです。もはや空白がない。隙間もない。
 こういう状況が芸術や思想においてどういう影響力を持つかはまだはっきりとわかっていないけれど、少なくとも人間の物語的想像力にとっては、あまり幸福には働かない事態なんじゃないかと思います。すべてが地図に記載された世界というのは、言い換えると、迷うことができなくなって世界ということでしょう。

(・・・)

田中/
 まさに物語の原型が未知の土地の旅だったりすると、そういう旅ができなくなっている。ただ、その地図が未知なものがない「かのように」つくり上げられちゃっているということが問題じゃないかと思うんです。
 これは、全開の「インターネットの出現」で「外」がないという話が出ましたが、そのこととも通じていて、じつは「外」はたぶんあるけれど、インターネットはあたかも「外」がないかのように見せている。(・・・)インターネット的な、外のない情報空間の内部に囲繞されて、もはや未知なるものがないかのように思わされているというのが、現状なのかもしれません。

 そこで「世界哲学」について考えてみたい。ちくま新書で『世界哲学史』(全八巻+別巻、二〇二〇)という、中島隆博さんその他が中心になって編纂された論集が出ていますけれども、あの『世界哲学史』じたいは、いわゆる従来型の世界史的な哲学史だと思うんです。それはそれで重要だと思うんですよ。たとえばアフリカ哲学というものが正面切って論じられるなんてことは、今までなかったわけですから。
 その「別巻」に山内志朗さんが「辺境から見た世界哲学」という文章を寄稿していて、これは面白かった。山内さんによれば、「辺境」からこそ新しい特異な思想が生まれてくるという現象は如実にある。彼の専門から時代がちょっと古いものばかりになっちゃうんですけど、アイルランドのエリウゲナとか、スコットランドのドゥンス・スコトゥスとか、ケーニヒスベルクのカントとか、日本であれば大分の三浦梅園とか、あるいは古代ローマの辺境のパレスチナにキリスト教が生まれたとか、そういうことまで含めて、「辺境」という概念を思想の生性の場所として見直すという観点から書かれたエッセイなのです。
 つまり、世界の「中心」から思想が伝播していって、「辺境」はそれの終着点であるように見えるけれども、むしろそこで逆転が生じ、「辺境」こそが新しい思想の中心点になる。そういう運動があるんじゃないかという話なんです。
 (・・・)
 そういうダイナミズムで考えることは、異なる「世界」を生成させる行為としての「世界哲学」と言うべきじゃないか。」

(「山内志朗「辺境から見た世界哲学」より)

「世界哲学が理念であるとすれば、世界哲学史もまた過去の事実の集積としての歴史にとどまることなく、未来を向いて存在する課題追求の営為と考えることができる。古い事績に目を遣るだけでなく、新たなものを措定してこそ、課題追求という営みは成立する。辺境が中心から離れた周辺部としてだけでなく、外部と接する新たなものが移入する領域と捉えるとき、辺境という概念は世界哲学と関わりをもつことができる。」

「辺境とは内部と外部の交錯する領域である。ジンメル(一八五八〜一九一八)は橋と扉に、外部と内部をめぐる分離と結合の図式を発見した。壁は無言だが扉は語るという表現にその一端は示される。類比的な言い方をしてみれば、辺境とは無言の領域なのではない。」

「哲学とは、辺境にとどまろうとする意志から発せられる知の形態である。知の中心に安住する哲学がすべからく衰退してきたことは歴史が伝える贈り物としての教訓なのである。
 辺境とは地域的文化的なものに限られるわけではない。精神の辺境とは、現実化していないもの、現実性の限界を超えて行こうとする精神の勢いである。アフリカも南アメリカも辺境であるとして、そして世界哲学が辺境を目指し、世界哲学史が時間においての辺境を目指す試みであるとすれば、時間的にも空間的にも世界を蓋う哲学こそ世界哲学史と言えるかもしれない。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?