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戸谷洋志『友情を哲学する~七人の哲学者たちの友情観』

☆mediopos-3022  2023.2.25

友情とはなにか

友情と友愛は似ていて
現在では区別しにくくなっているが
その成り立ちはまったく異なっていて

「友情 friendship」が
古代ギリシャ語のphilaに端を発し
特別な関係性ということから
排他性をその本質としているのに対し

それに対し「友愛 fraternity」は
すべての人を愛そうとするいわば「兄弟愛」であり
包摂性を本質としていたものの

近代以降に世俗化し「自分たちの仲間への愛、
共同体の成員への愛へと変容」することで
その包摂生を失うことで
「友情」とは区別しにくくなってきているというが

基本として
友情はある種の特別な関係性を前提とし
友愛は博愛的な精神のもとにあるといえそうである

その特別な関係性である「友情」について
本書では七人の哲学者と
それぞれの友情観に対応した
漫画のシーンが以下のように紹介されている

アリストテレスと『キングダム』
カントと『HUNTER×HUNTER』
ニーチェと『NARUTO-ナルト-』
ヴェイユと『3月のライオン』
ボーヴォワールと『君に届け』
フーコーと『青のフラッグ』
マッキンタイアと『タコピーの原罪』

以下の引用で各哲学者の友情観のポイント部分を
紹介している(漫画はとりあえず外している)が

それぞれの友情観によって
友情の成立する関係性はずいぶん異なっている

アリストテレスは友情を
「私」と「もう一人の自分」との関係として
他者ともそれを前提とした
愛によって結びつくととらえていたのに対し

カントは尊敬も必要であると考えたので
相手との不安定な関係性を配慮する必要があるとした

ニーチェは友達同士の同質性を前提にせず
ライバルの関係としてとらえ
友達と切磋琢磨することによって
自分の理想に近づくのだとした

シモーヌ・ヴェイユの理想は「何の見返りも求めず、
何にも期待することのない、友達への愛」であり
友達との「隔たり」を受け入れる必要があるとした

またボーヴォワールは女性の友情のあり方について
社会に根ざす性差別を改善することで
現在の女性的な友情のあり方も変容し
男性と女性の友情も妨げられなくなるとしたが

フーコーは友情と恋愛を交わらせることは困難で
そのためには「いまだに形を持たぬ関係を、
AからZまで発明しなければな」らないとした

そしてマッキンタイアは
自律的な人間による関係性としてとらえられがちな友情を
友達にも依存し得る関係性としてとらえなおしている
いわば自力の友情から他力の友情ともいえるだろうか

このように友情をどうとらえるかはさまざまだが
友情関係は上下の関係性ではなく
対等な関係性のもとでの他者との関係性であり
博愛的なありように比べより個別的で
創造的な関係性の姿であるということができそうだ

そしてそれぞれがどのような友情観をもっているかにより
その創造的な生のありようも異なってくる

■戸谷洋志『友情を哲学する~七人の哲学者たちの友情観』
 (光文社新書 1243 光文社 2023/2)

(「プロローグ」より)

「さしあたり友情は、互いの感情だけをつながりとする関係性である、と定義することができるだろう。そしてここから友情に備わる次のような性質が導き出せる。

 第一に、友情とは、契約に基づかない関係である。

(・・・)

 また、第二には、友情とは誰からも管理されない関係である。

(・・・)

 そして第三に、友情とは、常に解消可能な関係である。

(・・・)

 私たちが誰かと友達になったとしても、その関係を「私」の代わりに保証してくれるものは、何もない。友情は常に存続の危機に立たされている。友情を継続するためには、友達との関係を配慮し続け、友達に対して働きかけなければならない。」

「哲学の議論において、しばしば、友情は「友愛」という概念と混同されてきた。しかし、両者はその成り立ちからしてまったく別の概念である。(・・・)

 「友愛 fraternity」は、ラテン語で兄弟関係を意味するfraternitasに端を発する概念であり。キリスト教の伝統のもとで、教会や修道会を指す言葉として用いられた歴史がある。この言葉を原義に忠実に訳すなら、「兄弟愛」となる。

(・・・)

 それに対して、「友情 friendship」は、古代ギリシャ語のphilaに端を発する概念であり、当時は賞賛に値する男同士の関係性を指していた。それは、キリスト教的な文脈のなかですべての人を愛そうとする友愛とは異なり、愛されるに値する者と関わることである。ある人と友情を交わすのは、その人の何かを「私」が愛するからであり、その人が誰でもいいわけではない。私たちは、その人が他の誰でもないその人だから、その人と友達になるのだ。この意味において、包摂性を本質とする友愛に対し、友情は排他性をその本質としている。

 ただし、友愛という概念は近代以降に世俗化し、フランス革命では民主的統合の象徴として位置づけられるようになったことでも知られている。一八四八年のフランス第二共和政の憲法では、「自由」と「平等」と並ぶ第三の理念として掲げられた。その過程で、「友愛」はむしろ自分たちの仲間への愛、共同体の成員への愛へと変容し、この概念がもともと有していた包摂政を失い、排他的な側面を持つことになる。そしてそれが、友情と友愛を区別することを困難にしているのだ。」

「私たちは弱く、傷つきやすい。
 友達から嫌われたくないと思ってしまう。友達から認められたいと思ってしまう。どんなときでも自律的でいることなどできない。どんなときでも笑顔でいることなどできない。
 そうした、不完全で、欠落を抱えた、一人では生きていくことのできない私たちが、それでも他者とよい友情を交わすことは可能なのだろうか。」

(「第一章 友情とは何か――アリストテレス」より)

「————たとえほかの善をすべてもっていたところで、
 友人がいなければだれも生きてゆこうと思えないものである。
 (アリストテレス)」

「アリストテレスの友情論の最大の特徴は、友情を「私」と「もう一人の自分」との関係として捉え直した点にある。私たちは、他者と友達になるのだとしても、結局のところ他者を介して自分自身と関わっているのであり。それが他者に依存していることにはならない。」

(「第二章 友達のための嘘は許されるのか――カント」より)

「————友情とは、二つの人格が
 相互に等しい愛と尊敬とによって結合することである。
 (イマヌエル・カント)」

「アリストテレスと対比する形で、その要点を整理してみよう。両者が鋭く対立する点は、大きくわけて二つある。
 第一に、アリストテレスが友情を愛によって結びつく関係として捉えたのに対して、カントは尊敬も必要であると考えた。
(・・・)
 第二に、そうした愛と尊敬によって成立する関係は、不安定である。(・・・)だからこそ私たちは友達との関係に気を配り、常に相手との関係性を配慮する努力をしなければならない、ということでもある。」

(「第三章 友達とわかり合うことができるか――ニーチェ」より)

「————たとえわれわれが地上では互いに敵とならざるを得ない場合にも、
 なお星の友情を信じることにしよう。
 (フリードリヒ・ニーチェ)」

「ニーチェの友情論は伝統的な友情観といくつかの点で対立する。(・・・)

 伝統的な友情観は友達同士の同質性を前提にしていた。「私」は自分と似た他者とも友達になるのであり。だからこそ、互いをわかり合うことができる。しかし、ニーチェの理想とする友情は、ライバルの関係であり、友達との同質性はそもそも問題にならない。「私」には、友達のことなどわからないし、それどころか自分のことさえわからない。他者が自分に似ているという判断さえ、不確かなものに過ぎない。むしろ、私たちが気にかけるべきなのは、その友達と切磋琢磨することで、どれだけ自分の理想に近づけるのか、ということだ。」

(「第四章 見返りのない友情は可能か――ヴェイユ」より)

「————もしいつか、真の愛情が与えられる日がくるとしたら、
 そのときには、内なる孤独と友情とのあいだに
 対立はなくなっているだろう。
 (シモーヌ・ヴェイユ)」

「何の見返りも求めず、何にも期待することのない、友達への愛。それがヴェイユの理想とする友情である。そうした彼女の発想の根底にあるのは、友達が決して「私」の思いどおりにならない存在であり、その意味において「私」と隔たった存在である、ということである。「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」。その隔たりを受け入れることが、友情には求められる。

(「第五章 女性の友情とは何か――ボーヴォワール」より)

「————女たちは意見を競わない。
 打ち明け話や太初の仕方を交換する。
 女たちは結束して、男の価値に優る価値を備えた一種の反・世界を作り出す。
 (シモーヌ・ド・ボーヴォワール)」

「ボーヴォワールの友情論の大きな特徴は、女性に特有な友情のあり方を、生物学的な性別に由来する特徴として説明するのではなく、社会による女性への抑圧の産物として説明する点にある。(・・・)
 彼女は社会が女性を抑圧することを止めると同時に、女性自身もまた、そうした女性らしさに囚われることなく。自分自身を眺められるようになるべきだと指摘する。そのようにして、社会に根ざす性差別が改善されていけば、それに伴って現在の女性的な友情のあり方も変容するだろう。(・・・)
 それによって、男性と女性の友情を妨げるものは何もなくなる。そしてそれは、「性愛」の関係においてさえ。相手を友達として認めることができる、ということを意味する。」

(「第六章 友情と恋愛の違いは何か――フーコー」より)

「————彼らは、いまだに形を持たぬ関係を、AからZまで
 発明しなければなりません。そしてその関係とは友情なのです。
 (ミシェル・フーコー)」

「友情と恋愛の違いは何か。(・・・)しかしこの問いは、友情と恋愛が交わることのない関係であることを前提としている。そしてその前提は、生殖を中心とした異性愛を「当たり前」とする、生権力において形成される規範である。この規範を自明視する限り、私たちは権力からの支配に無自覚であり、自由を奪われた状態であり続ける。それに対してフーコーは、時代ギリシャにおける禁欲を手がかりにしながら、自分の生き方を自ら形成していく道として、生存の美学という発想を提示する。」

(「第七章 友達に依存するのは悪いことか――マッキンタイア」より)

「————友人となることの中で、私たちは〔他者の〕代理人の役割を
 いかに果たすべきかを学んでいることだろう。
 (アレスデア・マッキンタイア)」

「マッキンタイアの友情論は、伝統的な友情観において前提とされてきたような。他者を必要としない自律的な人間による関係から、友情を解放しようとする。むしろ、人間が自律的であるために、自分自身の善を開花させるために、私たちは他者からの手助けを必要とする。そうしたケアに依存することは、むしろ自律の条件なのだ。だからこそ友達に依存することは何も間違ったことではない。彼はそう考える。」

(「エピローグ」より)

「友情は自律的な個人の間で交わされる、しかし私たちは友達を必要とする————そこには、伝統的な友情観がその内部に抱える、根本的な矛盾がある。」

「私たちは一人では生きていけない。私たちは弱く、傷つきやすい。しかし、だからといって、他者から支配され、他者に保護され、他者の言いなりにならざるをえないわけではない。私たちは不完全で、無力で、失敗を繰り返す。それでも、他者から対等な存在として認められ、誰かの————友達の————力になることもできる。
 そうした可能性は誰にでもあるのだ。」

◎著者プロフィール
戸谷洋志(とやひろし)

1988年、東京都生まれ。関西外国語大学准教授。法政大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。主な著書に、『スマートな悪――技術と暴力について』(講談社)、『原子力の哲学』(集英社新書)、『ハンス・ヨナスの哲学』(角川ソフィア文庫)、『Jポップで考える哲学――自分を問い直すための15曲』(講談社文庫)がある。共著に、『僕らの哲学的対話――棋士と哲学者』(イースト・プレス)、『漂泊のアーレント 戦場のヨナス――ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』(慶應義塾大学出版会)。近刊に、『未来倫理』(集英社新書)がある。

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